冬の眠りがもうそろそろ、覚める。
春の音が天狗の新聞で散らばり始めた。
――もう、桜のつぼみも膨らんだらしい。
八雲紫がゆっくりと体を起こすと、珍しくまだ外が明るくなった頃だった。
夜に起きれば良いと思っていたのだが、目が覚めてしまったようだ。
二度寝するのも良かったが、どうも体が目覚めてしまっている。布団の中で何度か寝返りをうつが、掛け布団が絡み付いてくることすら目蓋を押し上げた。
大きく伸びをする。暫く惰眠を貪ろうとするが、鳥の鳴声や隙間から差し込む光が気になり始めてしまえば、それも難しい。
しょうがなく布団の上をごろごろと転がり、枕の横の衣服を取ろうとした。
「……うー」
声がした。
伸ばした手が柔らかいものを押しつぶす感触。
紫は手がぶつかった方向に向けてごろりと転がる。
「……潰すな」
声がする。
だが気にしない。
そのまま手を伸ばし、衣服を取ろうとした。
しかしその手首が掴まれる。
「……無視するなー」
白くたおやかな手が、紫の手首に絡み付いて離れない。
しょうがなく視線を向けると、目を擦りながら霊夢が紫の体に蛇のように巻き付いてくる。
春の木漏れ日よりも暖かい体がしっとりと紫の元にたどり着いた。
紫は記憶を辿る。
てっきり自分の家で寝ている気がしたのに、この有様だ。
どこかで天狗が写真機を構えていたり、鬼が笑っていたりするかもしれない。それはそれで構わないが。
ぼんやりと天井を見上げていると、霊夢の声がした。
「紫、まだ酔っぱらってるの」
「霊夢にならいつも酔いどれ気分よ」
茶化しながら紫が言うと、霊夢は紫の手首から手を離し、目をくっと細めてくるりと転がった。そして背中を向けてしまう。
「酔っぱらいで、しかも寝惚けている奴に付き合う余裕は無いわ」
「つれないのねえ」
「あのねえ、私は忙しいのよ」
「寝転がってるのによく言うわ」
他愛の無い言葉を交わし合う。
自分の方を向いていないことを良い事に抱きすくめようとすると、霊夢が伸ばした腕のタイミングと同じ時に少し離れた。これも以心伝心と言うのだろうか。寂しくもあるが、猫のように気紛れな霊夢だからこそ興味があるのだろう。たぶん。
「逃げないでよー」
「逃げないときっとスキマに閉じ込められるでしょ」
「そんなことしないわよ」
これも、たぶん。
幻想郷の妖怪と、巫女はそんな関係ではなかった、はず。
紫がこうして戯れるのに時々霊夢が付き合っている。消極的で積極的な彼女にいつも紫は楽しみながら惑わされている。
様々な妖怪が人の手の上で踊らされるなんて、この博麗霊夢以外にはいない。
自分も例に漏れない。だが純粋に踊るのは性に合わないし、霊夢を不意打った時の表情は何にも増して面白い。
「そんなこと、しないわ。スキマは使うけど」
表情が見えないのは霊夢も紫も同じだ。
スキマを向こう側に出して、自分と霊夢の向こう側にするりと手を割り込ませる。
手と、目とが合う。
「使っても逃げる」
触手のように伸ばした手から、霊夢は後ろに転がった。
だがそこには紫がいる。自分から蜘蛛の巣に飛び込むように、霊夢は紫の胸の中にすっぽり収まった。
「逃げられてないじゃない、霊夢」
「あんな手だけオバケに掴まるなら、紫の方が良いわ」
「あれも私なんだけどなあ」
「頭を手で撫でられるのと、舌で舐められるとの違いみたいなもんよ」
「酷い言われようね」
紫がくすくすと笑う。霊夢は未だ仏頂面だ。
しょうがないのでぐるりと手を巻き付かせる。今度はさっきの反対だ。
絡み、絡まり、縺れ合う。
「……紫、私はまだ眠いの」
「あら、私は全然眠くないわ」
「早起きは三文の徳よ。とっとと外で風浴びでも体操でもしてくればいいわ。紫は寝てばっかりなんだから、今日は私が代わりにその分たっぷり寝る」
訳の分からない理論を披露しながら、霊夢は足下でぐしゃぐしゃになった布団を引き上げる。本格的に寝るつもりだ。
手を引きはがされ、布団に潜り込もうとした霊夢を見て、紫は僅かの間思考を巡らす。
「一緒に寝ようかしら」
「邪魔するなら弾幕るからね」
「そうしたら霊夢の目が覚めちゃうわねえ、それはそれで好都合よ」
少女の風貌から似つかない、謀るような笑みが紫の口元を彩っている。
何度目かの溜息が霊夢の唇から漏れた。
「……あんたはいつからスキマ妖怪から構って妖怪になったのよ」
「ふふ、常識に捉われるなってどこかの巫女が言ってましたわ」
「そんなの参考にするな!」
「世界の知識は自らの血となり肉となるのです。ね、霊夢」
むくれる霊夢の首から胸元に手を差し入れた。寝衣が乱れて、霊夢がまた距離を取るように転がる。
「私は寝るの」
「寝させないわ」
「昨日色々忙しかったのに、紫が来てゆっくり休めなかったのよ」
「良いじゃない。生きてりゃ休めない日も時々来るわ」
「仕様が無い時と今は全く違うでしょ」
紫の言葉が進むたびに、霊夢の衣服が乱れていく。
逃げ、惑い、躱し、囚われ、春の季節が素肌に触れる。
「勝手だわ」と、霊夢が布団を掴む。
「寝起きだもの」と、紫が笑みを浮かべる。
「寝かせて」と、霊夢は体を捻らす。
「寝ましょう」と、紫は首元に吸い付いた。
春を過ぎて夏を越し、信じられない熱さがやってくる。
霊夢は下唇をくっと噛みながら目を閉じようとして、
襖の隙間から覗く、幻想郷で一番おしゃべりな写真機と人影を見た。
あまりにもゆかれいむ
ああゆかれいむ
ゆかれいむ