春の息吹に目覚め始めたばかりの世界は生きようという意志に溢れている。
庭のあちこちで背を伸ばし始めた草花がそうだ。
野花の蜜を追って飛び回る蝶々たちもそうだ。
そして風。
春の風が特にそうだ。
幻想郷を凍えさせたあの辛辣さがなりを潜め、瞬間を生きる生命たちを優しく撫でるように吹き付ける。
橙はその風の柔らかさをマヨヒガの縁側で感じていた。
煙管を燻らせる紫に膝枕をしてもらいながら風の息吹を感じていた。
「ねー、紫さまー?」
薄い瞼を下ろしたまま問いかける。
「なぁに?」
長い冬眠から目覚めたばかりの紫の口調は少し舌足らずだ。
まだ少し寝ぼけているのかもしれない、と思う。
だって甘えさせてくれるし。
主の主である紫の膝の上でごろごろと喉を鳴らしながら、問いかけを続けた。
「煙草って、美味しいの?」
「煙草?」
「たばこー」
「そうねぇ……」
気の無い相槌と分かる。
相槌を打って、紫が煙を吸い込み、そして吐き出したことさえも、目を閉じたまま気配で伝わった。
「美味しいとか美味しくないとか、そういうことじゃないんだと思うわ」
「んー?」
「煙草の葉を刻むでしょう? それを煙管に詰めるわ。火を点ける。咥える。吸い込んで、吐く。それだけのこと」
「んんんー?」
「風が吹けば散ってしまう。煙を吹かすのよ」
「わかんなーいぃ」
ごろんと寝返りを打って、紫のお腹にぐりぐりと額を擦り付けた。
すると紫の細い指が橙の髪にすっと通る。
優しく優しく、撫でた。
「きっとね、みんな分かっていないのだわ」
「なのに吸うの?」
「吸うの」
「煙いのに?」
「煙いのにね」
橙は顔を上げた。
閉じていた瞼を開く。
視界に入った紫はやっぱり半分寝ぼけたような、笑んでいるのか眠いだけなのか分からない、柔らかい目元で橙を見下ろしていた。
薄く紅を引いた唇が、また煙管を咥える。
煙を吸い、また吐いた。
ぷかぷかとした煙は円を作って空に上っていく。
煙の輪っかと同じくらいまん丸に瞳を見開いた橙の世界で、灰色のハイロゥは、しかし生命の息吹を呼ぶ柔らかさに崩れた。
「あーぁ」
「うん?」
「輪っか、つぶれちゃった」
「そうねぇ」
「また出せる?」
「出せるわよ――ほら」
「わぁー」
また紫が作り出した輪っかに手を伸ばす。
けれどそれは橙の手を逃れるように宙を昇り、そしてまた風に散らされた。
少しだけ残念そうな顔をする橙に、紫はまた寝ぼけた顔で煙の輪っかを作ってあげた。
そしてまた手を伸ばす。
けれどまた届かない。
そしてまた輪を作る。
だからまた手を伸ばした。
やはりまた届かない。
崩れて、潰れて、流されて、そっかー、と橙は思った。
「紫さまは、輪っかを作るために煙管を吸うんですねー」
ただ求められるままに煙管を吹かしていた紫は、一瞬だけ橙の無垢な言葉にきょとんとした。
それからにっこりと笑って小さな式神少女の髪に手を置くと、すぃと撫で、莞爾として笑んだ。
「もちろん、そんなわけないわよ」
えー、と今度こそ残念そうな声を上げる橙。
紫はまた煙の輪を作って空に上げた。
橙がまたそれに無邪気に手を伸ばして、風が輪を崩す。
そんなやり取りは台所の藍が「ご飯出来ましたよー」と二人を呼ぶまで続いた。
夕飯の席で、煙管の吸いすぎで少し舌が馬鹿になった紫は、少しだけ苦い顔で笑ったのだった。
紫さまも母性が感じられてとてもいいです。