大気は針のようにシンと尖る。
それは二月の中ごろ、厳冬の鋭さだ。
乾燥し澄み切った大気は不純を知らぬがために鋭利。
妖夢は刀を抜く。
抜いた刀は楼観剣でも白楼剣でもない打ち刀である。
真冬の早朝の大気の如く、冷たく、鋭利で、美しい刀だ。
今日の仕事は蔵の奥に仕舞い込まれていた刀の手入れだった。
冬の冷たい空気の中で妖夢が抜き放ったそれは、先代魂魄の妖忌が古今東西から集めて回った内の一振りである。
主殺しの仇名を不吉の刀だ。
かつて妖忌が幽々子の前でそれを抜き放ち、その美しい乱れ波紋を見せたところ、しかし西行寺のご当主たる霊嬢は「ああそれは千子村雨の三代目ね」とこともなげに知ったかぶったものだ。
だが正しくは村正が正解で、彼女が知ったかぶった村雨というのは創作の中に登場する架空の刀剣なのであるが、妖忌は何故か彼女のその誤りを正さなかったらしい。
おかげで幽々子は今でも妖夢が蔵の中にある刀剣類の手入れをするとき、その村正の一刀を見ては「村雨村雨」と見当違いな言を零す。
それを知りつつ妖夢が幽々子の言を正さないのはここが幻想郷だから。
幻想郷になら架空の刀剣だって実在してもおかしくはない。
幽々子がそうだと言い続けている内に、村正が村雨に化けることだってあるかもしれない、妖夢はそう思うのだ。
そしてもし本当にそうなったらラッキーである。
取り立てて刀剣マニアの気はないつもりだが、何せ相手が架空の名刀だというなら、手にとって見てみたい気持ちは剣客ゆえに否定しがたい。
もしかしたら師匠もこういう気持ちだったのだろうか、と妖夢は単純にそう思い、そう信じることにした。
手入れを再開する。
抜き放った刀から目釘を抜き、柄を外し、ハバキも外して裸にする。
刀身を錆から守っていた古い油を拭い去り、打粉をする。
そして最後に新しい油を均等に塗布していくのだ。
作業としては単調で、しかし慎重さと愛情を伴うものである。
これで村正の手入れはおしまい。
柄などを付け直して手入れ前の姿に戻すと、ほっとひと心地ついたように吐息を漏らした。
その吐息は白く煙り、真冬の空へと消える。
吐息の行く先をわけもなく追った視線の先に、裸の幹を晒した白玉楼庭園の桜の枝があった。
まだ冬の真中だというのに、気の早い早咲きの桜の中にはつぼみを膨らませ始めているものもある。
尤もそれらが花開くのはまだ一月以上も先のことであろうが……。
ふと、トントンという軽い足音が背後で聞こえた。
妖夢が振り返ると背後の白玉楼の縁側に幽々子がお茶を運んでくるところだった。
「妖夢、お疲れ様」
「幽々子さま」
「お茶を淹れてあげたわよ」
「仰ってくだされば私が淹れて差し上げましたのに」
「たまには自分でやってもみたくなるものよ」
「いつもそうでいて下さるなら私ももっと楽が出来ていいんですけど」
「あら、私が自分でなんでも出来るようになってしまったら、妖夢のいる意味がなくなってしまうでしょう? 私はね、出来るけど、何もしないの。あなたのためよ?」
「それは大層なお心遣いで」
言って妖夢は村正を片手に縁側の幽々子のもとへ。
すとんと縁側に腰を下ろし、幽々子が手ずから淹れてくれたお茶を「ありがとうございます」と受け取り、一口啜る。
冬の寒気に晒された身体に染み入るような熱さ。
喉の奥からお腹に溜まって、一層白い息をつく。
幽々子もその隣で、自分で淹れた茶を啜った。
息をついて、白い吐息がもう一つ空へ昇る。
くるりと妖夢へ視線を向けた。
「ねぇ、それって妖忌の村雨?」
「ええ、そうですよ」
間違った知識を正さない。
「妖忌かぁ……今頃どうしてるでしょうね」
「どこの空の下でも師匠は変わりませんよ」
そうね、と幽々子はくすくす笑う。
ねぇ、と囁き、
「妖忌と私たち、どっちが先に本当の村雨を手に入れるかしらね?」
妖夢は少し驚いて幽々子を見やった。
この主は全て知っていたのだ。
この村正が村正であると知った上でああ言い続けてきたのだ。
不意におかしみがこみ上げる。
妖忌が所持していた多くの刀の中で村正の一刀を残していったのはそういう意味だったのかもしれない。
幽々子が村正を村雨と呼び続けたのはそういう意味だったのだろう。
そして自分もまた、誰に言われるでもなくそういうことなのだという理解を得ていた。
誰も何も言い合わず、誰もが同じ思いを抱いていたのだ。
くすくすと笑う。
そんな妖夢にきょとんとした顔をして幽々子は問うた。「どうしたの?」
いえ、と妖夢は笑みを堪え、
「きっと私たちのほうが早いと思います。だってここは、幻想郷ですから」
そこでおかしさを耐え兼ねたように、妖夢はまたもくすくすと笑い出した。
その言葉に幽々子も、「ええ、そうね」と、まだ遠い春の日差しのような朗らかな笑みをこぼした。
/
翌日、妖夢は蔵ではなく氷室に一晩放り込んでおいた村正を携え、囲炉裏部屋でぽりぽりと胡桃を食む幽々子の元を訪れた。
梁から吊るされたヤカンからはしゅんしゅんと湯気が上り、部屋の湿度もちょうどよい。
まぁまぁ妖夢、駆けつけ一杯、と差し出された空の湯のみに妖夢は無言で茶を注ぐ。
それを幽々子が飲み干し、一息つくのを待って言った。
「見てください幽々子さま」
「なぁに?」
きょとんとする幽々子の前で、目の前で、妖夢は腰だめに抜刀の姿勢を取る。
ぎょっとしたのが幽々子だ、反抗期かしら!?
幽々子が制止の声を上げる間もなく、妖夢は手にした刀を抜き放つ。
シャラ――ァ――ン
耳心地のいい抜刀の音。
囲炉裏の火を反射する銀の煌き。
しかしそれよりも目を引いたのは抜き放たれた剣の軌跡を追って、にわかの雨のごとく流れた飛沫の霧だ。
抜けば玉散る氷の刃――名刀村雨を語るに欠かせない名文句であるが、今の抜刀の有様はまさにそれである。
からくりを明かせば一晩氷室に押し込められ冷え切った刀身が、急に暖かい部屋に持ち込まれたせいで結露を帯びたというだけの話だ。
しかし今この瞬間、妖夢の中で村正は村雨へと至ったのである。
「どうです幽々子さま、確かに私たちの方が早く村雨を手に入れたでしょう?」
どこか誇らしげににっこりと笑う。
幽々子もまたにっこりと笑って、
「危ないじゃないの、このお馬鹿」
ごつんと無い胸を張る少女の頭に拳骨を落としたのであった。
目を白黒させる妖夢の前を飛沫の霧と同時に幾筋か、幽々子の前髪が舞っていた。
流石はスズキさんですね。妖夢と幽々子の関係がとても生きています。
流石はスズキさんです。妖夢と幽々子の関係がとても生きています。