気がつけば、紙をめくる音は一つだけになっていた。
「……」
妹紅は視線を和綴の本から上げて、文机に向かっているはずの姿を探した。
「……す、ぅ」
柔らかな息遣い。慧音が眠っている。
どうやら本を読んでる途中で部屋の暖かさに当てられたらしい。
その気持ちは何となく分かる。妹紅とて障子近くの隙間風通る位置で背を預けていなければ容赦なくヒュプノスにかけられてしまう。つまりは部屋に置かれた炭の起きている火鉢が生む天然の催眠術だ。
「……ふむ」
近寄って、起こそうかどうかちょっとだけ考え込む。
と、白い肌が目に入った。
うなじと、そこから滑らかに連なる凹凸。絹糸のような美しさは彼女自身の造作と相まって神聖さすら感じさせる。実際、彼女は神獣の血を引くのでそれは不思議ではない。
思わず目が吸い寄せられて、離れなくなる。
離れない。離れない。……離したくない。
ふと、魔が差して、それに触れてみたくなった。
「……慧音」
吐息のように名前を呟くと、そっと壊れ物を扱う手つきで首筋に触れる。触れるか触れないかの境を渡る指先が、そっと慧音の肌を滑った。そのラインは上から下、うなじから背中との境目まで下ったかと思うと、そのままわき道へとそれ、肩から前へと凹凸をなぞっていく。
「……んっ……ん……」
かすかに慧音の息遣いが跳ねた。
―――夢の中でも、感覚はあるのか。
だが構わず、妹紅はゆっくりと指を往復させる。さながら振り子、その手つきはまるで職人のように、あくまで優しい指先で感触と滑らかさ、体温を楽しみ、味わう。それがどこか背徳的に背筋を痺れさせていくのを自覚しながら、妹紅は掌を下ろしていく。
「ん………は………ぁ……」
掌全体で触るのは少し刺激が強すぎたか、声が漏れる。ただそれは拒絶というよりは戸惑い。羽で鎖骨を撫でられている感覚らしい。あくまで主観での予測ではあるが。
止めるべきか―――と催眠術にかけられていた理性が問う。
これ以上は少々まずい。慧音が起きるかも知れないし、起きなくとも―――起きなくとも、自分で自分にブレーキをかけられなくなるかも知れない。獣みたいな欲望に身を任せていいのか。汝は人間なり。神に定められし運命に従わずして如何に生きる。
「……………慧音、ごめん」
だが、神に挑まずして何の人間か。
理性と知性を抱きし者が、目指す地平は万能無限。
子が親を慕い、その背を追う道理は決して間違いなどではない。
だから、触る。
より深く、より優しく。
しかし全身の神経をかき集めて。
指先の動きが少しだけ激しくなる。なぞるだけでは飽き足らず、揉むようにして指先を窪みへと引っ掛け、押す。柔らかい感触。例えるならつきたての餅、だろうか。
慧音はまだ起きない。相当深く眠っているのか。それとも起きるに起きられないのか。
悪戯心が湧いた。そっとうなじと鎖骨の境へと唇を近づけて、そっと息を掠めさせた。
「ひゃっ!?」
悲鳴とともに跳ね起きた。どうやら後者のようだった。
それを妹紅が抱きとめる形で、そっと腕を回す。
「…………妹紅?」
「…………慧音」
状況がつかめない様子で背後の友人へと問い掛ける。
ただ、妹紅は名前だけを呼んで、潤んだ目を向けた。
言葉は要らなかった。
「……今日は、誰も来ないからな」
囁くように、それだけを妹紅へと伝える。
里のかがり火も消える夜。
二人にとっては、永い夜になりそうだった。
最高の鎖骨だったぜ!
これこそ鎖骨が鎖骨であり、鎖骨として鎖国が鎖骨する所以ではなかろうか!?