いつからだろう。こんなに本を読むようになったのは。
気がつけば私は本を持っていた。
気がつけば私は本を読んでいた。
本が好き。
そう、私は本が好きだ。
ページを捲ると漂ってくるインクの香りはどこか懐かしい風景を思い出させる。
綴られた文字はどれ一つとして欠けてはならない大切なピース。
純白のステージで奏でられるのは円舞曲。
三拍子のリズムに乗せて語られるは幾億もの物語。
人の積み重ねてきた英知が、情熱が、憎悪が、欲望が、苦悩が、歓喜が、あらゆる言語、文章、言葉を用いて描かれている。
それは無限。
それは永遠。
ひとたびページを捲れば、いつだってそのどこまでも続く新たな世界に飛び込んでいける。
流れる文字に心は躍り、時に沈み、しかし目は一時たりともそこから離れる事はない。
全く別の次元。
全く別の世界。
広がる宇宙はどこまでも。
そう、私は本が好きだ。
大好きだ。
「パチュリー様、危な――!」
「え?」
元々薄暗い図書館の中、自分の名を叫ぶ声に顔を上げてみればそこには迫る影があった。
高く聳えるその影は一見すれば遥かなる天空を目指し築かれたバベルの塔。
神の怒りを買い、その裁きをもって崩されてしまった人の欲望の化身。
実際にはそんな事はなく、人間の尊大をこらしめようとした神によって言葉を乱され、人々はお互いに意志の疎通ができないようにされてしまったのだ。
そのために塔の建設は中止され、人間は以後各地に分散し、それぞれの地方の言葉を話すようになった──というのがバベルの塔に纏わる話らしいのだが、それは今は関係ない。
ようはパチュリーの周りに所狭しと高く高く積み上げられた本が遂に倒れたのである。
何故か全部パチュリーに向かって。
「――きゃああぁぁぁぁぁ!!??」
目一杯の叫びも、図書館の中にあるまじき騒音によって掻き消されていく。
どどどどど、というそれはさながら土砂崩れのように。いや、あれは正に土砂崩れそのものだろう。
積み上げられていたのはどれもが重さと大きさを兼ね備えた見事な一品ばかり。
その一つ一つに描かれた世界が我を読めとばかりにパチュリーに向かって倒れていったのだ。
あれではいくらパチュリーとはいえただでは済まない。
主に鎖骨とか。
「パチュリー様!」
だから小悪魔は駆けた。
己の主の身を案じ、小悪魔はただひたすらに駆けた。
「大丈夫ですか!」
主に鎖骨とか。
一方その頃。
「あの~」
「…………」
「幽々子さま~」
「…………」
「さっきから謝ってるじゃないですか~」
「…………」
「もう下ろしてくださいよぅ……」
西行寺家には西行妖という妖怪桜がある。
なんでも人の精気を吸い取るといういわく付きの大木である。
西行寺家現当主である幽々子が知る限り、この桜は今までに一度として花を付けた事がない。
以前、一度だけこの妖怪桜を満開にしてみようと春を集めた事があったが、結局失敗してしまった。
それ以降、どれだけ春が訪れてもこの桜に花が付いた事は無かった。
「幽々子さま~」
しかし、今年は違っていた。
この西行妖の中でも屈指の太さを誇る一本の枝。
そこに咲いた一輪の花。
縄でぐるぐる巻きにされた体をくねらせ、左右にゆれるその様はまるで蓑虫。
落ちる涙も逆さに吊られた今は頬を伝わず額を伝う。
「どこに昼寝中の主に襲い掛かる従者がいますか」
「だから謝ってるじゃないですか~」
それは遡る事40分。
「ゆ、幽々子さまの――!」
妖夢が覚えていたのはそこまでだった。
気がついたら縄でぐるぐる巻きにされて西行妖に吊り下げられていた。
足の先から首元までスキマ無く巻かれている縄がなぜか鎖骨の部分だけ開いているのは何故なのか。
妖夢の幼い体はまだいくらか骨ばっていて、おかげで鎖骨もしっかりとそのラインを主張している。
触れただけで折れてしまいそうなほどに儚いそ鎖骨。
逆さになった事で作られた窪みの影がより一層見るものの情欲を掻き立てる。
「貴方はもう暫くそうしてなさい」
「あ、幽々子さま待って! ってなんか霊たちが集まってうわやめてそこは――!」
「パチュリー様、大丈夫ですかー」
えんやこらと積みあがった本を退かせながら再度主の名を呼んでみる。
しかし退かせど退かせど一向にその姿は見えず、崩れた本の山は全くその量が減っていないようにも見えた。
魔法で全部吹き飛ばしたりしてしまえば楽なのだが、そんな事をしては本に傷がついてしまう。
本は何よりも大切な物。
それは小悪魔がここに来て以来、常々パチュリーに言われてきた事だった。
そうして本に触れていく中で、小悪魔もまたそう思うようになっていた。
本の中には世界がある。物語がある。
たとえその本がどれだけ世に受け入れられなかったとしても、そこには作者の創りだした確かな何かが存在している。
それを傷つけてしまうのは、許されない事だ。
きっとパチュリーもこの場に居ればそう言ったに違いない。
そして丁寧に、一冊ずつ退けていく事30分。小悪魔はようやくその下にパチュリーの姿を捉えることができた。
「パチュリー様!」
だが本のスキマに見えた細い体はぴくりとも動かない。
事は緊急を要している。
しかし、小悪魔の手はそこではたと止まってしまっていた。
崩れ落ちた際に本の角にでも引っ掛けてしまったのだろうか、肩口から破れた服の間に見える、その確かなライン。
小悪魔は持っていた本を思わず落としてしまった。
それがパチュリーの腹の上にクリーンヒット。
ぐえ、という蟇蛙のような呻き声が聞こえたが、そんな事もどこ吹く風か。
小刻みに肩を震わし、口は酸素を求める魚のようにパクパクと。
「パ、パチュリー様の――!」
そして歴史は繰り返す。
しかしもう少し落ちがあるといいと思う件