世界は凍りつき、全ての音が途絶え、世界のルールを上書きする。
故に彼女は凍った世界に独り取り残される、否、彼女は自ら望んでその世界に身を躍らせる。
ようは何て事の無い、いつもの掃除の風景である。
悪魔の住む館、紅魔館。そこに住むメイド達を束ねるメイド長、十六夜咲夜は時間を操り、掃除をこなす。
何せ時間を止めて掃除をすると埃が舞わない、その上時間短縮になるという一石二鳥なのだ。
だから、咲夜は自分が時間を止められている間になるべく多くの仕事をこなしてしまおうと時間を止めても忙しく働く。
はぁ、はぁ、と軽く息切れがしてくる。
実に一人で紅魔館の三分の一程の廊下をモップがけしたのだ、鬼のメイド長と恐れられる咲夜とて人の子、その体力は妖怪には足元にも及ばない。
――少し、飛ばしすぎたかしら。
いつもより少しだけ遅く起きてしまった分を取り戻す為にがんばったのだが、少しがんばり過ぎたようだ。
時間停止を止めて軽く息をつく。遅れた分は取り戻したが、その代わりに体力を随分消耗してしまっていた。
よろよろと近くの壁にもたれかかる、本当は自室に戻って紅茶を淹れて一休みしたい所だが、それすらもままならないのである。
咲夜がもたれかかった瞬間、後ろでガタンッと大きな音をがした。
「え?」
慌てて振り返った瞬間、咲夜の目の前には大きな壷が見えた。
発動から停止までのタイムラグは限りなくゼロに近い。
時間の停止した世界は色を失い、その生気はまったく感じられない。
「ふぅ、間に合ったわ……それにしても置いてある台の脚が折れるなんて……」
温度を感じさせない凍てついた世界で咲夜はゆっくりと壷を床に下ろす。
そして時間停止をした瞬間に咲夜の左目が痛烈な痛みを訴える。
壷を戻したまでは良かった、しかし壷の上に溜まった埃はそのままだったのだ。
動き出した埃が自分の左目に入ってしまった事を悟って咲夜は舌打ちをする。
「うぅ~」
しばらく左手で目を擦ってみたが効果は無いようだ、どこかで目を洗う必要がある。
なんだか視界がぼやけてきた、左目からはポロポロと涙が零れてくる。目の中の異物を取り除こうという自浄作用だ。
しかし左目につられてか、右目からもポロポロと涙が零れてきた。
――こんなトコロ、他の人たちに見られたら何と思われるか解ったものじゃないわ、早く洗い流さないと。
しかし左目は痛みを訴えて来るし、頼りの右目も涙でボヤけてしまっている。
咲夜は壁伝いにゆっくりと歩き始めた。
しかし、不幸とは重なるものである。世の中はそんなに甘くは無い、地獄の沙汰も金次第、これはちょっと違うか。
「咲夜さん? どうしたんですか……? ってええぇぇぇぇぇぇぇ!?」
門番である紅美鈴が丁度通りかかってしまったのだ。
いつもは完全で瀟洒な従者として、凛とした気高さを保っている咲夜が俯き、ボロボロと涙を雨のように流しながら歩いているのだ。驚かない方が不思議という物であろう。
「あの、その、誰かに苛められたんですか? もしそうなら言ってくださいね? 私が何とかしますからっ!」
状況を飲み込めず、オロオロとする美鈴はサッパリ要領を得ない事を言い出す。
対する咲夜はというと、左目が痛くて、声を上げたい位だが、痛くて泣き出す、という事が恥ずかしくて、ただ黙って泣くばかりである。
「どうしたんですか? 何処か痛いんですか?」
そう言って美鈴は咲夜の顔を下から覗き込んだ瞬間、ハッと息を呑む。
眉をしかめ、きつく閉じられた瞳からはボロボロと大粒の涙を流し、左手で目をゴシゴシと擦る。口はきつく閉じられ、一言も発しないようにしている様子が手に取るようにわかる。
その姿は、いつも大人びた彼女を、年相応の少女の姿として、美鈴の心をガッチリとキャッチした。
世界とか時代とか色々なモノが違えばズキュウゥゥゥゥゥゥン! とか音が鳴りそうなぐらい。
「さ、咲夜さん!」
そう言って固まってしまった美鈴に対して必死に首を横に振る咲夜。
――違うのよ! ちょっと目に埃が入っただけだから!
そんな咲夜の必死のジェスチャーも美鈴にとっては返って逆効果だ。
通じてないと判断した咲夜は何とかして声を出して美鈴に訴える。
しかしギャップ、保護欲、大人びた少女の年相応の姿とか、そういった要素に美鈴はプルプルと体を震わせ、いきなり叫び出した。
「さ、咲夜さん……萌えぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇ!!!!!!!」
「――に……った……から」
おかげでやっと絞り出した咲夜の声はすっかり掻き消されてしまった。
さらに突然の大声に驚いた咲夜は体をビクっとさせる。
そこがまた美鈴のイケナイ部分を刺激したらしく、美鈴は呼吸も荒く咲夜に話しかける。
「さぁ、美鈴お姉さんが看病してあげるから一緒に行きましょうね?」
咲夜の腰に手を回し、咲夜を歩かせる美鈴。
「だから――に……った……なのよ」
もう一度、かろうじて絞り出した声は美鈴にやっと届いた。
「え? 何ですって? お姉さんに言ってごらん?」
――今ならお姉さんがアノ手コノ手を尽くして咲夜さんの苦痛を取り払って、さらに気持ちよくまでさせてあげる(はぁと)
もちろん内心を隠して咲夜の顔に耳を近づける。もちろん第三者が見れば隠した内心までバレバレである事は言うまでもない。
「目にゴミが入っただけだって言ってるでしょうこの馬鹿門番!!!!」
近づいた美鈴に思いっきり大声で言ってやる。
「うわぁぁぁ!!」
突然の大声に驚いて耳を押さえて飛び上がる美鈴。
「ったくこの馬鹿門番は……」
左目の痛みを忘れて咲夜は溜息を吐いた。
ようやく左目の痛みが引いてきた咲夜から説明を受けて美鈴は初めて合点がいった。
「それで? 近くの水場まで連れて行って欲しい、と」
しかし咲夜の左目からゴミが取れたワケでもないので、まだ咲夜はポロポロと涙の雨を降らせていた。
「そういうわけで、その、お願い」
美鈴に対する怒りはあるものの、泣いてる姿を見られた咲夜は羞恥からあんまり強く出れない。
「わかりましたよー、とりあえず手を繋いで行きましょうね」
そう言って美鈴は右手を差し出した。
「うん……」
大人しくその右手を握り、咲夜と美鈴は歩き出す。
「美鈴、お願いだからこの事は他のメイドには黙っていてね?」
「はい、解ってますよ、だから、この手を、離さないで下さいね?」
「うん……」
自分の弱い所を見られたせいか、すっかり弱気になった咲夜の手を引いて美鈴はゆっくりと歩き出す。
表向きは見えない咲夜を気遣って。
――たまには、こんな役得もいいですよね?
内心は咲夜を可愛く思いながら。
――傍目にはまるで恋人の手を引くように――
余談だが、
その事をうっかり館主であるレミリアに喋ってしまった美鈴は簀巻きにされて、逆さ吊りにされた挙句、ナイフの的にされたとか何とか。
――――了――――
そして氏の咲夜さんが大好きだよ。