――外で、何かが弾けるような軽い音が、聞こえた。
一通りの家事が終わり、茶でも飲もうかと考えていた女性――八雲藍は、不意に耳朶を打った音に目を向ける。
「……橙か?」
まだ病み上がりの、それでも元気に外へ飛び出していった自分の式の名を、藍は外に呼びかける。
返事は、無い。
訝しげに思った藍は、縁側へと続く障子を開け、音のしたと思われる辺りを見回した。
――またどうせ、橙が悪戯でもしようとしたのだろう。あの子はまだ幼いから、すぐ粗相を起こしてしまうのだ。困ったものである。
子供をしかる母親のような、優しさと厳しさの両方が浮かんだ顔で、藍は橙の姿を探した。
果たして、すぐに橙は見つかった。
その姿は普通の黒猫だったが、尻尾が二又に別れているのですぐに分かる。
そして黒猫姿の橙を見て、藍の顔が即座に驚きへと変化した。
何故なら、黒猫の体のあちこちに、傷が見受けられたのだ。
黒猫は藍の姿を見て安心したのか、一声か細く鳴くと、そのまま地面へと倒れ伏してしまった。
「ち、橙! 大丈夫か!?」
履き物を履くのも忘れて、藍は勢いよく黒猫へと駆け寄り、慎重に迅速に傷の具合を確かめた。
どうやら、傷自体はそれほど酷いものではないようだ。しかし、かなり衰弱しているのは一目で分かる。
「……橙、何があった?」
目の前の式の様子に動揺しながらも、極力落ち着きながら藍は問う。
それに対して黒猫は、苦しそうに顔をあげながら、にゃあ、とか細く鳴いただけだ。
「……人間に、やられたのか?」
それでも、目の前の主には通じたようである。藍の言葉に黒猫は再び、にゃあ、と一声だけ鳴いて答えた。
震える声を辛うじて自制させながら、藍はゆっくりと言葉を続ける。
「……分かった……もういいぞ」
出来るだけ優しく、黒猫の頭を撫でてやる。
にゃあ、と嬉しそうにか細く鳴くと、橙はゆっくりと目を閉じて、静かな寝息をたて始めた。
「……」
藍は、橙をやさしく腕に抱くと、起こさないよう極力足音を抑えながら、屋敷の中へと入っていった。
そして適当な布団を用意して、そこに寝かせる。優しくそっと、慎重に。
気付けばいつの間にか黒猫は、一人の少女へと姿を変えて、そこに眠っていた。
気持ちよさそうな寝顔の頬に、真新しい擦り傷がついているのを見て、藍の胸の奥にチクリと痛みが走る。
「……藍さま~」
突然、目の前で眠る少女が声をあげた。
起きてしまったかとも思ったが、そのまま寝続けている。
どうやら、寝言だったらしい。
寝言の中でもはっきりと聞こえた自分の名前に、藍は自然と笑みがこぼれた。
「ゆっくりと、お休みなさい」
優しく微笑みながら、優しく撫でると、橙は少しだけ嬉しそうに笑う。
どうやら、良い夢を見ているようだ。
それを見届けると藍は、障子を開けて外へ出る。
「後は、私に任せろ」
母親のように暖かい笑みと言葉と共に、音もたてずに障子を閉めながら。
「……」
障子の外で、藍は黙したままうつむいていた。
その顔から、能面のようにほとんど表情を表さず、しかし内包する憤怒を嫌というほど感じさせながら。
「……」
顔をあげると、今度は何処か遠くを睨みつける。
その瞳は、ゾッとするほどに冷たく、そして鋭い。
「……あそこ、か」
一言だけ、つぶやく藍。
次の瞬間、その姿は跡形もなく消えていた。
その体から滲み出る、圧倒的な圧迫感を、その場に置き去りにしながら。
飽きれるほどに長い階段。
そこを飛びながら昇っていくのは、並妖怪よりかなり強い三人の人間。
特に言葉を交わすことなく突き進んでいた三人だったが、不意に同時にその場に止まる。
三人は顔をあわせて軽く頷く。
確認は、それだけで充分だった。
三人は同時に感じ取っていた。
この場に物凄い勢いで近づく、とてつもない圧迫感と妖気を。
三人が黙って周囲を見渡す中、その元凶と思われる一人の女性が、圧迫感と妖気と共に姿を現す。
金色の髪の上に奇妙な帽子を被り、背後には金色の狐のような尾が九本。そして瞳の色も、金色。
そんな金色だらけが今、三人を射殺すかのようにじっと睨みつけている。
圧倒的な存在感によって、三人の精神をじわじわと蝕みながら。
「……橙をいじめたのは、お前達か?」
女性らしいハスキーボイスが、鉛のような重い響きと共に、金色の口からつむがれた。
三人は答えない。
――否、答えられなかった。
目の前の金色に、完全に呑まれていたからだ。
「……そうか、分かった」
対する金色は、どうやらそれを肯定ととったらしい。
睨み付けていた眼光の鋭さが、さらに増した気がした。
「あいつは、まだ精神的に未熟でな。色々と困ったところもある。だが、そこが可愛くてな……」
だが不意に、金色の口調が柔らかいものへと変化する。
尤も、そこから滲み出る威圧感は、相変わらずのものであったが。
少しだけ可笑しそうに綻んだ口元は、困った子供に手を焼きながらもそれでも愛しいと感じる、母親のものとよく似ていた。
「……だから、仇はとるべきだと思ってな」
しかしそれも束の間。
言葉と共に、金色を取り巻く感情は一片した。
怒り。
怒り。
怒り。
大切な者を傷つけられた者特有の、突き刺すような怒りが、そこには在った。
「お前達が、橙にした仕打ち……」
ぼっ。
狐を思わせる尾に、火が灯る。
ぼっ。ぼっ。ぼっ。
さらに、別の尾にも火が灯る。
ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。
そして、全ての尾に火が灯る。
「お前達が、橙に感じさせた痛み……」
ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。
尾から広がるように、金色のまわりに火が灯る。
ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。
一個が二個。二個が四個。四個が八個。八個が十六個。
ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。ぼっ。
やがて、金色のまわりには、千を下らないほどの火が灯る。
「何十倍にもして、返してやる」
轟音と、炎上。
千を下らない火は一瞬で、千を下らない炎へと姿を変えた。
焼き払う獲物を求めるかのように、ゆらゆらと揺れながら。
そして金色――八雲藍は、怒りに震える声で静かに命じる。
「受け取れ。橙の――私の大切な式の、仇達よ」
刹那、命じられた千を下らぬ藍の下僕は、三人の人間へと殺到した。
え、違う?