少女は【夜雀】と呼ばれた。
客からも、同じ屋根の下に暮らす同僚達からも【夜雀】と呼ばれた。
あまりにそう呼ばれ続けた為、本当の名前など忘れてしまった。
――否、そもそも本当の名前など無かったのかもしれない。
何故なら、少女は望まれずして産み落とされたのだから。
そんな【いらないもの】にわざわざ名前をつけるなどと悠長な事ができるほど、この世界のこの時代は優しくなかった。
優しくないこの世界と、この時代だ。
少女が己の身ひとつで生きていく為にできることなど、ただひとつしかなかった。
夜伽。
そう呼ぶのも疑わしいような、負の掃き溜めへと自らを堕とすような行為でしか、少女は生きられなかった。
【夜雀】
この呼び名がついた由来は、至極簡単なものだった。
少女は歌声が綺麗だった。
少女は歌が上手かった。
雀が鳴くように可愛らしく、しかし何処か物寂しい歌声。
少女がもう少し世界に愛されていれば、その歌声は祝福されたであろう。
少女がもう少し時代に愛されていれば、その歌声は陽の光を浴びることができたであろう。
だが、少女の居場所はこの掃き溜めだけだ。
陽の光など、間違っても差し込むことのない掃き溜めだけだ。
闇の中で歌う雀。
だから【夜雀】
誰が言い始めた訳でもなく自然に広がっていった、祝福されないあだ名だった。
少女は歌うことは好きではなかった。
――否、歌うことは本当は好きだった。
ただ雀のように歌うことが、嫌いだったのだ。
小さな小さな声で、可愛らしく物寂しく、雀のように歌うのが嫌いだった。
本当は、もっと声を張り出して歌いたかった。
本当は、陽の光の下で馬鹿みたいに笑いながら歌いたかった。
本当は、自分の好きなように歌いたかった。
本当は――
本当は空を舞う雀のように、自由に――
少女の人生は、唐突に終わった。
見慣れない男に、いきなり刀で斬りつけられたのだ。
呆気なく、簡単に。
理由など分からない。
知ろうとも思わないし、知りたいとも思わない。
どうせ生きていても虚しいだけだ。
さらさらと広がる闇を、少女はただただ、見つめているだけだった。
闇。
人生の大半を闇で過ごしてきた少女にとって、広がる闇など何でもなかった。
親しみも、恐れも感じない。
本当に何でもなかった。
――はずだった。
ことりと、何かが落ちるように、少女の脳裏に浮かんだもの。
歌だ。
いつも、小さな小さな声で、可愛らしく物寂しく、雀のように歌っていた歌だ。
少女が嫌いな歌だ。
少女が本当は好きな歌だ。
やがて歌は涙となり、少女の瞼からこぼれた。
少女自身も気付かないほどに小さな――本当に小さな、一筋の涙だった。
やがて見慣れた闇が意識を塗りつぶす時、少女の口が言葉をつむいだ。
歌いたいな――と。
目が覚めると、まぶしいくらいに元気な太陽の光。
思わず、寝床にしている木から落ちそうになるも、何とかバランスを整える。
どうやら多少寝過ごしてしまったらしい。
慌てて木の影で時刻を確かめると、予定起床時間よりかなり進んでいた。
これはマズい。
今日は、これから博霊神社で宴会があるのだ。
歌うことが大好きな自分としては、これに行かないわけがない。
【宴会に乗じて、好き勝手に歌い踊る】
これなら誰にも迷惑がかからないし、目的も果たせて一石二鳥である。
それなのに寝過ごしてしまうとは……自分の欲望に負けた気がして、何だか悔しかった。
今から向かうとなると、すぐにでもここを飛び立たなければならない。
寝癖などが気にもなったが、向こうで直せば大丈夫だろう。
翼の調子を確かめて、と――うん、良い調子だ。寝起きとは思えないな。
そういえば、何やら変な夢でも見ていた気がする。
懐かしいような、それでいて凄く嫌な感じ……でも暖かい感じもあったかな。
……いけないけない。こんなところで時間を潰している暇はないのだ。
早速、出発と。
陽の光の下を、少女は馬鹿みたいに満面の笑みで飛び去っていった。
【夜雀】ミスティア・ローレライは、しかし彼女の呼び名には相応しくない景色の中を飛び去っていった。
――否、相応しくない、というのは間違いだろう。
【雀】に相応しく今の彼女は自由に、そして元気いっぱいに飛び去っていったのだから。
少女の想いは叶わなかった。
少女の想いは泡となった。
少女の想いは幻想となった。
だから――
少女の想いは、幻想郷に受け入れられた。
ラスト5行で震えが来た。
願わくば、全ての幻想にせめてもの安らぎの地が有らんことを。
たとえそれが悲しい思い出でも。
それはそれは、残酷な事だ。
この作品を読んで紫様(萃)の言葉を一番に思い出しました。