これは、私が暇つぶしに館を歩き回っていたことに端を発する。
厨房からかぐわしい香りが漂っていた。私は花に引き寄せられる蝶のように、ふらふらと入っていった。
厨房を見渡せば、オーブンに向かっているメイドの姿を見つけた。背中には光の透き通る羽。彼女は紅魔館で雇っているメイド妖精の一のようだった。
足音に気付いたのか、私よりも幾分か背が高い彼女は振り返り、私の姿を認めると、子供のような屈託の無い笑みを浮かべた。
「レミリアお嬢様、いかがなされましたか?」
「ちょっと良い香りがしたものだから」
良い香りの原因は、まさにそのオーブンようだ。
戸に設けられたガラスからは、暖かいオレンジの光が漏れていた。
「少々お待ちください」
そう断ってから、彼女は私に背中を見せた。フリルをあしらったミトンに手を収め、オーブンの戸を開き、鉄板を引き出す。香りが一層強くなった。
鉄板の上にはコイン大の、小麦色をしたものが等間隔に並んでいた。
それは。
「――クッキーね」
私の言葉に彼女は嬉しそうに頷いた。
その笑顔も手伝って、メイドとしての仕事を放棄していることを咎める気は失せていた。
「おひとついかがでしょう?」
「ええ、いただくわ」
私はクッキーをひとつ手に取る。それをまじまじと見つめている彼女の視線に気が付いたので、彼女も食べてみるよう促した。ミトンを外そうとしたので「とても熱いからそのままの方がいい」と注意した。
同時に、口に入れる。
まず、やっぱり熱かったのでもう少し待ったほうが良かったかと後悔した。けれど、ほのかな甘さが口いっぱいに広がり、独特の香ばしい香りが鼻腔を抜けていったことに、そんな後悔などどこかへ飛んでいってしまった。ケーキのような飾り付けられたものではなく、砂糖の素朴な味わいがそこにはあった。
思わず顔がほころぶ。それから彼女と目が合って、彼女も同じようにしていたので、少し気恥ずかしかった。一方彼女は、そのことを気にすることもなく、料理の成功に満面の笑みを浮かべていた。
「ふふっ……そうだ。お嬢様、お部屋でもお召し上がりになりますか? 袋に包みましょう」
私は、せっかくのメイドの楽しみを奪ったようで悪い気がした。けれど、先のクッキーの味が名残惜しくもあったので、断るのも勿体無い気がしていた。
「そうね。でも小食だから、少しでいいわ」
私の言葉に、彼女は頷く。鉄板の上に並んでいたクッキーは、リボンの付いた小さな袋と大きな袋に分けられた。
ミトンを外したそのしなやかな手から、小さな袋を手渡される。
部屋で食べる頃には、時間がたって味も落ちているだろう。それでも私は純朴な味覚に想いを馳せる。すると、やっぱり顔がほころんでしまった。長い時間取っておくわけにもいかない、すぐに食べてしまおう。そのような考えが、私の笑みをより強くしていた。
「ありがとう」
「いえいえ、どういたしまして」
すると、彼女の手が私の頭に置かれた。それから優しく手を左右に動かしているのがわかる。
私は頭を撫でられていたのだ。
メイドに頭を撫でられることがあまりにも不思議だったため、私は何もせず、彼女の嬉しそうな顔を見ていることしかできなかった。それから、彼女はすぐに自分のしていることに気付いて、手を引っ込めた。
「し、失礼しました!」
彼女は慌てて頭を下げると、クッキーを包んだ大きな袋をひったくって、厨房から足早に出て行った。
私は、何が起こったのか判らず、その様子を眺めていることしか出来なかった。
それから私は地下の図書館へと向かった。
私は先の出来事を疑問に思い始めている。それを話そうと、図書館の主であり友人のパチュリーを訪ねたのだ。
その疑問とは、こうだ。
「最近私、舐められてないかしら?」
そもそも、頭を撫でるという行為は目上の者から目下の者に行われるものだろう。
従者が主人の頭を撫でるなどもってのほかだ。しかし実際にそれが起こったのだ。悔しいことだが、これは従者が主人を見下している証左ではないのだろうか。
すると、パチュリーは「何をいまさら」とでもいわんばかりの様子で、面倒くさそうに答えた。
「レミィ、貴方の指摘は間違っているわ。具体的にはふたつほど」
「へぇ、それは何かしら?」
図書館では基本的に飲食禁止だ。私たちがいる卓はそれが限定的に認められている。私は厨房でメイドからもらったクッキーの袋を開き、代わりに紅茶を淹れてもらっていた。
パチュリーはそのクッキーのひとつを手に取り、かじってからいった。
「ひとつ、それは最近ではなくもうずっと前からだということ。もうひとつ、舐められているのではなく可愛がられているのよ」
何だそれは。
私はどうにも不服で、抗議しようかと考えた。
けれど、メイドからもらったクッキーを口に入れると、それもなんだか悪い気がした。
そりゃ自然に撫でたくもなりますもの
おかしいことではないよ
メッチャ和んだ