くるりくるり、くるくるくるり。
まわるまわるよ、せかいがまわる。
せめて私は踊っていよう。ぼんやりとしていたところで、どうせ流されてしまうのならば。この水面に生まれる小さな渦に合わせて私は踊ろう。いずれ沈み行く、その前に。
『良い考えだと思わない?』
気付けばそう、考えていたのだっけ。
『ねえ皆、どう思う?』
小さいながらに、私は声を出したのだ。それが水面を僅かに揺らして、小さな小さな渦を作っていたのを、私は見た。けれど、届かなかったのだろうか。誰も誰も、私に返事をしてくれるものは居なかったから。
ゆらりゆらり、ただ流される。
ぷかりぷかり、浮かんでいたのは、何時の間にやら私だけ。
たったひとり、わたしだけ。
なんだか寂しいから、唄うことにした。
それでまた、流れは微かに渦を巻いた。
くるりくるり、くるくるくるり。
まわるまわるよ、せかいがまわる……
* *
ひとは目覚める前に幾つか泡沫が弾けるが如く夢を見て、その最後のひとつだけを覚えているという、神もその範疇に入るのだろうか?
それが、本日の私が行った第一番の思考だった。凡そものを考える存在ならば、言葉を持たない獣の類も夢を見るという。私は獣ではないけれど、同じくしてものは考える。我が意志を以て考える。そんなとりとめもない思考を胸の裡に落とし込みながら、私は寝床から離れることにする。足をついた先の床が、きしりと音を立てる。
今日という日はそれなりに爽やかで、どこか透き通っている。私の周りには相も変わらずこれでもかという程の厄がぐるぐるぐるぐる集まっているのだけれど、それでもなんとなく天気が良いだとか、山の樹々が風に揺られてさわめく音だとか、それと共に運ばれてくる香りだとか、そういうのはわかる。こんな朝は、「おはよう」と誰かに声をかけられればよい。私ではない誰かが、そうしていたのを見ていたから知っている。目覚めたならばおはよう、眠るときにはおやすみ。とても典型的なのだろうが、大事なことだ。
決まりきった言葉は、決まりきった存在になってしまう状況に至るための、某かの理由を孕んでいる。それはゆめゆめ無視できないものな筈で、割かし大事だったからこそ残ったのだと考えたい。だから、意味があるのだと。
意味がある、か。
まあ、近くに言葉をかけられる誰かが居ればのお話。
でも、こうやって考えた事に意味は無い、と考えるのも何やら物悲しいのでやめておいた。
私の周りに陰の気が渦巻くならば、その中心に居る私はせめて陽気であるべき。
川に流された頃を情景として垣間見るのは珍しいことではないし、実際今日が初めてのことであらあら吃驚、という類でもない。だからこそ私の本日第一番の思考は、特に深い感慨を以て行われたものに成り得なかった。ちょっと寂しいかな、位には、後付けで思う。理由を考えるのは簡単だった、だって私の周りを流れていた仲間たちは、あの時誰も居なくなったのだ。それはかなしい、少し。少しと言うのは、結局のところ、私は他の仲間たちと声を交わすこともなかったから。声を出していたのは、私だけだったから。意志の疎通が図れなければ、深い思いを抱くまでには至れない。
雪解けの水が冷たいと、あの日私が考えていたかどうか。
そうか、そろそろ春がやってくるか。日々の小さな繰り返し、刻み刻みて季節は巡る、くるくると。私がこうして暮らすようになってから、何度目の春を数えることになるのだろう。忘れた……忘れてしまった? その表現も何処か曖昧。曖昧なものなれば、いずれ夢に見ることがあるかもしれない。
夢とは、やわらかく、傷をつければ直ぐに破ける、そんなもの。それ故、元より曖昧なものしか映さない。良き夢も悪き夢も、そんなものしか映さない。私はそれを知っている。私以外の誰かが見た夢を覗いたわけでもないというのに、知っている。夢は、私も見るものだから。
「不思議なものね」
それが、本日の私が発した第一番の声だった。
* *
山の木陰、樹々の狭間。枝に乗っていた残り雪を適当に振り払う。手先を刺してくるような冷たさにむーむー心中叫びながらやり、その後枝に腰を下ろす。雪上にそのまま座ってしまうと驚くほど冷たいし、とけた水が染み込んできて下着まで濡れる、それは大変宜しくない。おしりしもやけ痒い痛いなどと、当人にとっては笑えないのだ。一応のこと、私は神様。そんな立ち位置なれば、雪を払う手の冷たさも我慢出来るというもの。
厄はやっぱりぐるぐると渦巻いているので、気をつけないと普通に誰かに気付かれる。なので、絶妙なポイントにひっそりと佇む私。そうして厄を集めては、それを溜め込む。それを続けることが、私の意味のひとつ。ふたつめを付け加えると、溜め込んだ厄が私を離れていかないように見張る。
でも、最近はごくごく平和。新しく集まってくる厄も、とんと少なくなったもの。どんよりとした空気は重苦しい感じに圧し掛かってくるけれど、それほど大したことない。私にとっては、だが。なんと言えば良いか。肩がちょっと凝る感じ、今なら。過去の姿の己ならば、肩関節に埃など詰まった感じ。そんな程度だと思う。私は自身の力で以て厄を浄化させることは出来ないから、自然に任せてみるしかない。誰かが気付いた時にほぐしてくれたり、手入れしてくれたりしたらいいのになあ。そうすればきっと大したこと無い筈なのに。厄って、そういうものだもの。私は厄祓いされてふよふよ浮いてる厄を意識的に集めるが、放っておいたら当人の与り知らない処にてまた溜まる。望む望まぬは関係ない。気付けば、下手すると取り返しがつかなくなってしまう、そんなもの。それが小さい内に、ちょっとずつ発散させれば良いのだろうに。出来れば。あくまで、出来ればのお話。
丁度球体のような感じで、周りには厄がかたち作られる。その球体の半径に限界値があることを、最近知った。その皮膜、表面のうすいうすい部分。空気と厄の境界が蒸発するように消えていく。『これ以上は留まれないんで限界です』等と厄は喋ることも無いわけだけれど、そんな言葉を聞くまでもなく私は感じ取った。ああもう無理か、そうね限界なのね、と。
気付いたときは少しだけ焦ったが、膜から離れ行く厄は、他のものへと向かうこともなく。小さな渦を巻きながら、空へと立ち昇る様相。お線香の煙、に似ていると思った。はじめはゆっくり、真っ直ぐに。そして見えない壁に圧されたようにそれはつぶれ、ゆるやかな曲線を描きながら、昇っていくのだ。
「常時成仏する感じ、ってやつかしら?」
そんな塩梅で中空へと放たれた、私の本日第二番目の声。
思えば、声というものも随分頼りない。誰かが聴いていたならば、その心に溜まることもあろう。
そんな存在は現在別段至近にて見当たらないので、多分今私が発した声は、厄と一緒に空へと昇って消えていった。昇るまでも無く、一瞬で掻き消えただろうか? わからないけど。
私の声は、私の胸の裡に溜めておけば良いではないか。その思考自体は、ある。何処までも曖昧に、ぼんやりとした状態で、ある。
なら、夢で見ることもあるんじゃない。
考えるだけで、それは第三の声にはならなかった。
それこそ平和。平和であるなら、事も無し。
立ち上がろうとすると、座っていた枝が、みしりと音を立てる。
* *
普通に暮らし、普通に生きる。そもそもの処、「生きる」という表現が私に合っているものかどうかはわからない。でもまあ、こうして彼岸の向こうでない場所にて過ごしているならば、そう言って差し支えないことの様にも考える。神様だって、この世ならば生きている。
ただ強いて挙げるとするならば、やっぱり普通に生きるものと比べて違うのは、特に飲み食いする必要がないということかもしれない。もう何度この思考を繰り返したのかは、わからない。繰り返すのは、大事だと思うことだからだろうか? ……やっぱりわからない。
朝、昼、晩。その区切りは、大概は太陽の動きでわかる。だから、食事という行為で分け目を作る必要がない。それでも声を吐き出せる口はこうしてあるわけだから、そこから食べ物を摂ることだってある。食べたり飲んだりした分はどこかに消えてしまうようだけれど。厄と一緒に蒸発しているのだろうか? それとも神様の身体は永久機関? どうだろう。知らない。
そんなわけで、特にさしたる大きな理由も無しに、私は食事を摂ることにした。至極ごくごく、簡単なもの。
チーズ、チーズだチーズがよろしい。この場に在るそれは、人里に足を運んで買い付けたものではない。
酒、酒だ酒がよろしい。何故か日本酒しかない、銘柄はラベルが無かったのでわからない。
そのどちらも、私の大切な友人が、私に分けてくれたものだ。
とりもあえず用意はする。小さなテーブルにグラスを用意、お皿にはおつまみを盛り付け。日本酒にチーズはそれなりに合うことを私は知っている。これだけ聞くと神様って一体何だと言われそうなものだけれど、伝えることもないので、私の胸の裡にひっそりと留まった。本当になんなのかしらね?
お酒を用意したとて、たったひとりでは寂しい。
でもこんな日なら、今日いう日なら、来てくれるかもしれない。
「おおい、雛。居るー?」
ほらやっぱり。
「居る居る。いらっしゃい」
本日第三の声を、とっておいて良かった。ベスト3に入るって、なんとなく響きが良いでしょう?
開かれる木扉が、ぎしりと音を立てる。
「やあやあ、呑もうじゃないの」
からからと笑うのは、私と同じく神様と呼ばれる輩。
「ほんと物好きね。家人はほっといていいわけ?」
「山に棲むもの、皆家族さ。神も天狗も妖も」
「こんな厄をぐるぐるぐるぐる渦巻かせてるんだから。あんまり近付かない方がいいってば」
ああ。こんな会話を、幾度繰り返したことだろう。
だから私は、それに返される言葉も容易に予想出来るのだ。
「私が厄如きに屈するか。ずばっと切るわよ、ずばっとね」
その言葉は、何処までいっても清々しい。
「まあ、今日辺り来るかなって思ってたけど」
「んん」
ちょっと小首を傾げるようにした後、彼女は平素と変わらない風に言った。
「そういうのは気にしない。や、家に居るとつまみが和風に偏っちゃうからねえ。正直、鮭とばなんて喰い飽きた」
その何でも無いような素振りに、思わず吹き出しそうになる。
ああそうか、そんな理由ね。というか、鮭とばとか美味しいのに贅沢なこと言う。
あの噛んでも噛んでも噛み切れない塩梅の食感が絶妙なのに。
「雛は歯が丈夫そうだしねえ」
神様は歯がいのちー、という言葉は流石に言わなかった。神様じゃなくても歯は大事。多分。
「はいはい。とりあえず乾杯か。おつまみに飽きてこっちに来たところで、帰りが遅くなったら心配されるでしょうに」
「大丈夫大丈夫。家のやつらは、お寝んねするの早いのよ。随分年もくったってのに、まだまだお子様」
「今の言葉、あとで伝言しとこうか?」
「後生。ご勘弁をば」
からかうのも、この辺にて。
「乾杯乾杯」
「はい乾杯」
これより、この山を治める神。
八坂神奈子と供にする宴の、はじまりはじまり。
* *
「いや、酒とはまっこと旨きもの」
「いやいや、このチーズの食べ合わせが酒の旨さを引き立てる」
「いやいやいや、つまみなどただの飾り」
「いやいやいやいや、飾り合わさってこその酒の席なれば」
良い感じに酔っ払うと言葉がくどくなるのは仕方ない。
やたら同じ音の言葉を繰り返したくなるのも仕方ない。
文脈に関わらず否定語を重ねて返してやりとりしたくなるのも仕方ない。
集約するとお酒はそういう作用をもたらすから仕方ない。
そんな無い無いずくしなことを私は知っている。
主に神奈子のせいで。
「なんか失礼なこと考えた? いやはや、最初の頃とは変わったもんだねえ」
「さいしょってなんだっけ」
「ああん? なんだほら、あれ。雛は私にも丁寧な敬語を使ってたもんよね」
「神奈子がそれやめろっていったんでしょ。その最初の頃って時に」
「そうだっけ?」
「そうそう」
そうなのだ。
この妖怪の山にいきなり現れた神様を名乗るものたち。そいつらは始め、この山を治める存在を差し置いて、我が物顔で山の天辺に鎮座した。
「これはこれは厄神殿。これより山にて住まわせていただく、我が名は八坂神奈子」
仰々しい物言いで、空になった私の杯に一升瓶を傾けてくる。ああ、そんな言い方だったっけね。あの時もぐるんぐるん厄満載の私の家の扉を開くなり、何にも意に介さず語りかけてきたんだった。
*
『これはこれは八坂さま。私の存在を知っているならばお話は早いと言うもの。早々に立ち去ることをお薦めしたく思いますれば』
『このような厄如き、私が吹き飛ばしても良いのだが?』
『いけません』
『なにゆえ』
『その御柱ならば、成る程それも容易いでしょう。八坂さまの御身に降りかかる厄は粉微塵。ですがそれでは、私共々消え果てる。この身など惜しくはありません。神とていつかは死にましょう。きたるべき時には、私も次代に引き継ぐ所存ではありますが、それには些かまだ早い。今なる時より私なき後、誰が厄を引き受けられると言うのです』
『……』
『如何されました』
『浅慮であった。申し訳ない』
『いえ。ああ、申し遅れました。私は厄神、鍵山雛。これからどうぞ、宜しくお願いいたします』
*
「雛」
「うん?」
「ふむ、やっぱり良い名前なんだけどねえ、ほらあれだ。前言ったっけ? なんか格好が洋風だしさ、雛人形って感じでもないし」
「あー、別に元が雛人形じゃなくても、流されれば雛になるの」
「そんなもの?」
「そんなものね」
苗字は元の持ち主から拝借した。意志を持っていなかった筈のあの頃の情景を、まだ思い浮かべることが出来る。
そういえば、可愛がってもらったっけ。何でか知らないが、後ろ髪を前に持ってきてリボン付けて結んだり。どういう意匠なのか与り知ることは出来ずとも、今の私がそれなりに満足と思えるならばそれ以上のことは無い。
昔に起きた出来事は、今という時に思い出す為に存在するのではないかとたまに思う。
初めて神奈子と対峙したとき、気丈に振舞っていたものの、私は半ば身の滅びを予感していた。邪魔になるならば潰す、その剪定を彼女自らが行っていたのかもしれなかった。本人は違うと言っているが、正直あの圧力は半端では無かったし。
せめて一矢。
そういう態度で臨んだのが良かったのだと、後に神奈子の口から聴かされることになった。
実際の処、神奈子は私に渦巻く厄を掻き消すことは出来ても、取り祓うことは出来ない。厄を打ち消そうとすれば、私も一緒に無くなってしまう処も、本当。もうこれら禍々しい渦は、私とほぼ一体になっている。近付かれれば、駄々漏れた厄が相手の身に降りかかってさあ大変、というのが常のお話。しかし其処は流石の神様八坂さま、神奈子にとっては本当に何でも無いことの様であった。自分の身に降りかかろうとするものだけを、煙が如く消せば良い。
「だーから、こんな厄大したことないって」
「私も大したこと無いんだけど、私じゃない誰かがその台詞を言えるってさ、随分凄いことよ」
「威光溢れる御柱力ってやつ?」
「おんばしらぱわー……語呂悪いわね」
「なんだと! 私のネーミングセンスにけちをつけるの!」
「あああもうごめんごめんってば、あやまるから」
だからその杯を九十度に傾けて飲み干すのをやめて。
「ぷはぁ、おかわり」
「はいはい。どうしたの、随分ペース速いんじゃない?」
「何言ってるの、雛だって速いでしょ。ちょっとだんまりした隙にどんどん空いていく杯を私は見逃してないのよ」
「呑んでも呑んでも無くならなかったのはその所為か……おかしいと思った」
「ほらまたこんな会話の間にも。そら厄神殿、乾く暇などありませんな。どうぞ一献」
「これはこれは八坂さま、有難く頂戴いたしましょう」
勢いをつけて、流し込む。神奈子ほどの無茶はやらない、味がわからなくなるから。
「んっく……ぷはぁっ! 大変、大変美味しゅうございました。さあさあどうぞ、あなたも一献」
「やあやあ、有難く頂こう」
「ふふ」
「ふふふ」
ここな一杯空いたなら、直ぐ様次を注ぐが良し。
そこな一升空いたなら、直ぐ様次を持てば良し。
可笑しかった。
こんな夜が、どうしたって愉しくて、可笑しかった。
だから笑った。ふたりして声を挙げて、笑った。
手に収まるは、透明の器。杯が透明ならば、中身も透明。
だから、互いに杯をぶつけ合ったなら。響く音もまた、透き通る。
交じり合わない境界が、きぃんと音を立てる。
「それにしたって、ね」
「あん?」
「今日は何だか、昔のことをよく思い出す」
「酒呑んでりゃそういうこともあるわねえ」
「うん」
「昔のことって言えば、良いことも悪いことも色々あったもんだけど。雛はいつも笑っているねえ」
「周りが陰気だからね。私が暗くなってちゃあ、お話にならないの」
「そうか。全く以てその通り」
そう。その通り。唄って踊って、笑いながら時を過ごす。普段はひとりだから、それらをすれば随分滑稽な様だろう。でも今は、意味がついた。
「うん。まあ、満足かな」
「どしたの、雛」
「私、そろそろ駄目ね」
「何々、潰れるのはまだ早いって」
「神奈子」
そこはもう。茶化すところでも、誤魔化すところでも、無いの。
「神奈子。あなたもわかってて、来たでしょう。今日、今日という日に。もう暫く保つと思ったんだけどね」
「……雛」
「私の厄集めも、もう限界。これ以上集められないもの」
「それは、」
「仕方の無いことね。神奈子も気付いてるでしょ? 私と言う存在が、かれらにそれ程知られているとも思わないけど。ここ最近、平和も続いたしね。儚きひとの為の信仰が、これ以上私に向かうことも無い。次代を探さずとも、私は私の役目を終えた」
祓った厄が再び降りかかっていかないように、ひっそりと集め続けてきた。
そんな厄がとんと少なくなった折、私が集められる厄は飽和した。
ああ実に、私は神でありながら、その存在がおまけのようなもの。
だってそれは本来、しなくても良いことなのだもの。
小さく散り散りになった厄は、いつしか自然と消えていく。
たまにそれらは、悪い作用を及ぼすかもしれないが。
まめに手入れしていれば、溜まることなどないのだから。
私がやっていたのはとどのつまり、ただのお節介だった。
信仰が少なくなって、私の力は弱まり。
それによって厄が集め辛くなれば、ますます私への信仰は無くなっていく。
それはすなわち。
私が私として存在する意味が、無くなるということ。
厄がごうごうと、どんよりした渦を巻く。
「誰かの手に」
私は、手を。
「かかるならば、あなたが良いと思ってた」
その肩に、かけて。
「ねえ、神奈子」
埃の溜まったような身体が、ぴしりと音を立てる。
「消えてしまう前に。私を、消して」
* *
家を出て、ふたりで夜の山を飛んだ。
なんて月の綺麗な夜。満ちに満ちたひかりが、静かに夜を照らしている。
お互い、言葉は無かった。肩を並べて空を翔けているわけでもなくて、私は神奈子の後を追う様に飛んでいる。
『それが望みならば。然るべき場所にて』
それが何処なのかを、私は知らない。だからこうして、ついていく他無い。別にあの家で掻き消されても良かったのだけれど。
その思考が、何だか可笑しかった。初めて神奈子と出逢った日、私は己を消されることを、恐れては居なかったか? それが今は、全く逆のことを考えているなどと。
「あんまり、寒くないわね」
ぽつりと、零してみる。私の声は大きくなかったけれど、空気の震えは相手に届いたらしい。
「あー。暦の上では、もう春になったのよ。これからきっと、暖かくなるのよね」
それぎり、また声は聴こえなくなる。
そうか、春か。暦云々は疎いためよくわからない。でも、そろそろ春が来るという私の予感は正しかった。
煌々と輝くあの月に、今なら手が届くような気がした。気がした、だけ。
風を切る音に合わせるように、暗闇がざわざわとないている。
*
「此処?」
「ええ」
程なくして辿り着いたのは、大きな湖のほとりだった。これは神奈子が幻想郷にやってくる折、一緒に運ばれてきたもの。飛ぶのをやめてみれば、案外と風は穏やかだった。流石に夜であるから陽気は感じられない。それでも、肌に触れてくる空気は何処かやわらかく、ちょっとした温もりに似た何かを帯びている。
「雛」
「何?」
「神が神を葬る。それは昔から行われてきたことで、私だってそれを幾度と無く繰り返したこともあった」
「……」
「あなたが望むならば、直ぐにでも押し潰すことは出来る。跡形も無く。初めからなかったことのように」
そう、そうね。
「あなたの言った通りなの。何となく、わかってた。あなたが、滅びを望んでいること。もう、厄を集められそうにもないこと。でも」
でも、……どうしたの。
「でも。私は直接には、手をかけたくは無い」
「……どうして?」
じゃあ私は、このまま塵と消えれば良い?
「どうしてだろうねえ。雛と酒を呑むのは存外愉しくて、ならばこそ友であるとも思えた。同じ神同士。雛は私の手にかかるのを望むようだけれど、それはやっぱり駄目なんだよ」
「だから、どうして」
「流し雛」
「……え?」
「最期の時なれば。あなたはあなたの意味を持ちながらにして、消えるのを真とするべきではないの。私はせめて、それを見届けようと思う。それじゃ駄目なの、ねえ、雛」
雛。それは、私の名前。
あなたは最期の時まで、私の意味をくれたのね。
そうか。
神奈子がそう言うなら、しょうがないなあ。
「この湖に浮かび、流れゆけばいい。その御身と魂、周り渦巻く厄もまた、天へと昇っていく」
「私の厄、結構大きいんだけど。天も大変ね」
天。今は満天の星と、まんまるい月を抱いている空。結構いっぱいいっぱい。
何もしていなくったって、空には色んなものが昇り行く。だから、沢山のものを抱えすぎているのではないかと、なんとなく考えた。
「空(うつほ)の空は、抱えすぎれば落ちてくることもあるのかしらね?」
「それが落ちるときが来たならば。私が新しい天を創造しよう」
私は想像する。神奈子が、繰り返し繰り返し、天を造りあげるその様を。
「そっか。じゃあ安心ね」
「ええ。だから……何も、心配しないで」
「うん。ありがとう」
湖へと足を踏み入れる。ブーツの中に染み込んでくる水は、予想よりも冷たくない。
ぴしりぴしりと罅割れそうな身体がすっかり水の中におさまってから、私は仰向けになって浮かんだ。
ぷかりぷかりと浮かびながら、私は月を見ている。湖は川と違って、さしたる大きな流れはない。私はまだ、湖の岸から離れゆく様子が無かった。
だから、神奈子の声もまだ聴き取れる。
「雛」
「うん?」
「湖に、月が映ってる」
「ん……ああ、そうね。この湖、大きいから」
「月へ行きたい? 雛」
「ああ、出来るものなら」
「あすこへ雛を届かせる力は、私にはないよ。けれど、せめて」
びょう、と、風が吹いた。水面が揺れて、うねりを孕みはじめる。
「やくや、」
小さな渦が、私を巻き込みながら運んでいく。
「くるくる、まわりてかえらん」
私に届く声が、当たり前のように小さくなっていく。
小さな渦に身を任せながら、私は湖の中ほどにまで流される。
あまり寂しくはなかった。だって、この様を見てくれている存在が居ることを、私は知っていたから。
渦に巻かれるように、私も回る。視界もゆっくりと回る。
今の私が見ている世界は、星と月が輝く空。
私の周りを渦巻く厄も、煙のように昇っていく。
その軌跡は真っ直ぐではない、それも納得のゆくところ。
なんせこいつら捻くれてるから。
思えば、長いお付き合い。
愛着は……どうか。正直、そんなに沸いてない。
神奈子は。
私が魂と共に天に昇ると言ったけど。
この身体は、湖の底に沈むのだろうな、と思った。
いちばんはじめ、私が川に流されたとき、そう感じたのと同じ様に。
くるくる回る視界の向こうで、星が輝きの尾を引いてとても綺麗。
もう、力があまり入らない。
でもなんだか愉しくなったから、やっぱり私は唄うことにする。
くるりくるり、くるくるくるり。
まわるまわるよ、せかいがまわる。
やくやくるくる、まわりてかえらん……
一際、眩しい光に包まれた。
満月の明かりが、降り注ぐ。
岸がもう、ずいぶんとおい。
踊るように、はなれてしまったから。
ゆめをみているような、ここち。
ああ、いま。
わたしは、つきに、たどりついた。
……
* * *
「……」
目覚めれてみれば、薄暗さに混じる微かな光を感じた。
「……うっわ、頭いた」
本日第一の思考より先に声が出たのは、私にしては珍しいこと。本日、という表現が合っているのかどうかわからないが。
私は順当に、成仏出来たって感じかしら?
わからないが。なんとなく気だるい感じも、それなりに受け入れられるように思った。でも、頭痛まで残っているのは何やら頂けない。
「おはよう」
「……?」
なんで。
「神奈子も成仏しちゃった?」
本日の第二声は、非常に不躾で物騒なもの。
「成仏さすな。いい塩梅で厄がとれたところで拾ってきたの。随分荒療治だったけどね。何度も言ってるでしょ、あんな厄、大したことない。神様の力を舐めるんじゃないわよ。御柱力よ、御柱力」
……語呂悪いなあ。余程言い返そうかとも思ったが、出来なかった。
「天を新たに造ることと比べれば。あの厄全部とっぱらっちゃったら、また集められるでしょ? 大体ね、雛の次代も決まってないってのに、勝手に居なくなられちゃ、困るの」
肩のこる感じが、すっかり無くなっていた。なんというか、本当に久方ぶりの爽快感。
「厄もとれたところでね、今夜は宴会よ。雛はいっつも顔出すことないからねえ。今日くらいは良いんじゃない? ああ、ご飯はしっかと食べてきなさいな。今朝の朝食当番は早苗だからね、期待していいわよ。二日酔いの身体にもばっちりの食卓が用意されてること請合い」
考えが上手く纏まらない。
私は。
私はまだ、生きていても、いいのか。
「雛」
「……?」
「全く。起きたなら、いちばんはじめに言うことあるでしょ」
そうか。
私以外の誰かが、居てくれたなら。
「……おはよう……」
第三声は、挨拶を。本日ベスト3に入ったそれが、今までのどんな言葉よりも、輝きを放っている気がした。
「おはよう。あなたが消えるには、まだ早い。これからもよろしく、厄神殿」
思わず唄い出したくなるくらい愉しくて、可笑しかった。
あんなに昨日呑んだってのに、今日も今日とて宴会ですって。
性懲りも無く、よろしくですって。
あんまり可笑しすぎて、涙が流れた。
笑いながら泣いている私。
神奈子も、私とおんなじ風だった。
それがまた可笑しくて、笑った。
声を挙げて、私たちは笑い合った。
「これはこれは八坂さま。わたくし厄神、鍵山雛。これからもどうぞ、宜しくお願いいたします」
落ち着いた後、神奈子は部屋の障子を開け放った。
眩い光が、部屋へと差し込んでくる。
とてもやさしげな、春の陽光。
私の厄を受け入れて尚、空は高々と、お天道様を包み込んでいる。
いつの日か、私も其処へ還るだろう。
それがやってくるまで。
もう少しだけ私は、厄神としての仕事を、果たすことにする。
もう待ちきれない、と春は言って。
縁側に生える草のさわめきに紛れ。
静かに、静かに、その足音を立てる。
湖のシーンで軽く泣きかけて、神奈子様のカリスマに痺れた。
神奈子の格好良さに惚れた。
変に肩肘張らないハッピーエンドがホントにこういう場合は似合ってる。
とにかく素晴らしい作品でした
神を留める。
ともすればただのシステムとなりかねない神という存在を、願いを持つ人として描くことは人のエゴに他ならないのかもしれない。
でもまぁ、それを良しとする。したい。そうであって欲しい。
だって――神様も美味しいお酒が大好きなんだから。
良いお話でした。
読めたことに感謝を。
グッと来ました。
良き読後感を頂きました。