三月最後の金曜日は、嘘のように晴れていた。
――偽物みたい。
縦横に交差する電線の向こうに見える空を見上げて、東風谷 早苗はそう思った。嘘のような、偽物のような晴れ空。雲ひとつなく、風すらなく、停滞しきった春の空だった。太陽が真上にあるせいで、空は青一色に染まっている。
天井をペンキでひたすらに青く塗りつぶせば、こんな空になるのだろうか――そう思い、そっと手を空へと伸ばして左右に動かす。指先は空に届くことはなく、青色をぬぐい取ることもできなかった。視線を遮るように往復した手が、一瞬、生ぬるい陽射しを遮っただけだった。
嘘のような、
偽物のような、
三月の空。
三月最後の金曜日――そして早苗にとっては、高校生活最後の空だ。
何気なく振りかえり、背後を見た。ついさっき通ったばかりの校門の向こうには、慣れ親しんだ木造の校舎がある。いつ取り壊されるのか噂が絶えない四階建ての校舎は、寿命を迎えて倒れ伏す恐竜のようだった。絶滅寸前の恐竜。田舎の村でたった一つきりの学校。この校舎が取り壊されれば、離れた町まで通わなければならなくなる最後の生命線。
校門の向こうでは、まだ写真撮影が行われていた。早々に帰宅しようとする生徒はまばらで、多くは写真を撮り、級友たちとの別れを惜しんでいる。手にした卒業証書の筒を、誇らしげに掲げながら笑っている男子生徒が、友人と集まって泣いている女子生徒が、その様を生暖かく見守っている教師と保護者が、その全てが『卒業式』という雰囲気を作り上げていた。
だから、思う。
――偽物みたい。
ニュース番組で、ブラウン管の向こう側で見るそれと何も変わらない。卒業式という定型があるという、ただそれだけなのだ。事実、何も変わりはしない。小さな田舎だ、卒業しても、四月から顔を合わせる面子は大して変わらない。卒業をするという、ただそれだけなのだ。
今日は三月最後の金曜日で、
明日は三月最後の土曜日。
ただそれだけのことだ。
何も変わりはしない。
何も終わりはしない。
何もかもが、連綿と続いていく。
だから――続かないことを知っている早苗にとって、それは遠い対岸の、偽物のような光景だった。
「――――――――」
息を吐いて、吸った。春の空気は生暖かく、桜の匂いがかすかに鼻についた。温かい、というよりも、蕩けるような気候。空気がゆるやかな粘質を帯びていて、そこにあるだけで圧迫を感じる。水の中を歩くような抵抗感を感じて、早苗は大きく伸びをした。
校門の向こうでは、変わることなく卒業式の名残を楽しむ光景がある。
それはすでに、向こう側の光景だ。
門を越えてしまったのだから。
卒業してしまったのだから。
戻ることはできない――その資格はない――そして戻ろうとすら思わない。
名残がないといえば、それこそ嘘になるけれど。
嘘を振り切るように、早苗は踵を返した。名残りの光景が見えなくなる。代わりに視界に映るのは、校門から続く下り坂と、その両脇に立ち並ぶ桜並木と、果てに見える緑の山。
そして、それ以外には、空しか見えなかった。
三月最後の金曜日の、嘘のように青い空。
――本物の空、見られるかな。
顔をあげて、早苗は歩き出す。振り返らない。振り返ろうともしない。戻ることなく、早苗は足を進める。見上げた視界には、空と、春を歌う桜たちしか見えない。薄紅色の桜の花が歌っている。
雨のように、
雪のように、
涙のように。
青を、紅が、染めてゆく。
いつのまにか風が吹いていた。遠く果て、彼方の山から吹く風が、桜たちを撫でていた。撫でられた桜は喜ぶように身体を震わせ、枝についた花びらが音もなく舞い上がる。空という空を、薄紅色の桜が染めていく。風は絶えることなく、花びらは途絶えることなく、次から次へと舞いあがり、舞い踊り、東風谷 早苗は飲まれていく。
春に。
桜に。
そうして――
風がやんだ後には、緑色の髪をした少女の姿はどこにもありはしなかった。あとには舞い残る花びらと、
三月最後の金曜日の、幻想のように紅い空。
(了)
――偽物みたい。
縦横に交差する電線の向こうに見える空を見上げて、東風谷 早苗はそう思った。嘘のような、偽物のような晴れ空。雲ひとつなく、風すらなく、停滞しきった春の空だった。太陽が真上にあるせいで、空は青一色に染まっている。
天井をペンキでひたすらに青く塗りつぶせば、こんな空になるのだろうか――そう思い、そっと手を空へと伸ばして左右に動かす。指先は空に届くことはなく、青色をぬぐい取ることもできなかった。視線を遮るように往復した手が、一瞬、生ぬるい陽射しを遮っただけだった。
嘘のような、
偽物のような、
三月の空。
三月最後の金曜日――そして早苗にとっては、高校生活最後の空だ。
何気なく振りかえり、背後を見た。ついさっき通ったばかりの校門の向こうには、慣れ親しんだ木造の校舎がある。いつ取り壊されるのか噂が絶えない四階建ての校舎は、寿命を迎えて倒れ伏す恐竜のようだった。絶滅寸前の恐竜。田舎の村でたった一つきりの学校。この校舎が取り壊されれば、離れた町まで通わなければならなくなる最後の生命線。
校門の向こうでは、まだ写真撮影が行われていた。早々に帰宅しようとする生徒はまばらで、多くは写真を撮り、級友たちとの別れを惜しんでいる。手にした卒業証書の筒を、誇らしげに掲げながら笑っている男子生徒が、友人と集まって泣いている女子生徒が、その様を生暖かく見守っている教師と保護者が、その全てが『卒業式』という雰囲気を作り上げていた。
だから、思う。
――偽物みたい。
ニュース番組で、ブラウン管の向こう側で見るそれと何も変わらない。卒業式という定型があるという、ただそれだけなのだ。事実、何も変わりはしない。小さな田舎だ、卒業しても、四月から顔を合わせる面子は大して変わらない。卒業をするという、ただそれだけなのだ。
今日は三月最後の金曜日で、
明日は三月最後の土曜日。
ただそれだけのことだ。
何も変わりはしない。
何も終わりはしない。
何もかもが、連綿と続いていく。
だから――続かないことを知っている早苗にとって、それは遠い対岸の、偽物のような光景だった。
「――――――――」
息を吐いて、吸った。春の空気は生暖かく、桜の匂いがかすかに鼻についた。温かい、というよりも、蕩けるような気候。空気がゆるやかな粘質を帯びていて、そこにあるだけで圧迫を感じる。水の中を歩くような抵抗感を感じて、早苗は大きく伸びをした。
校門の向こうでは、変わることなく卒業式の名残を楽しむ光景がある。
それはすでに、向こう側の光景だ。
門を越えてしまったのだから。
卒業してしまったのだから。
戻ることはできない――その資格はない――そして戻ろうとすら思わない。
名残がないといえば、それこそ嘘になるけれど。
嘘を振り切るように、早苗は踵を返した。名残りの光景が見えなくなる。代わりに視界に映るのは、校門から続く下り坂と、その両脇に立ち並ぶ桜並木と、果てに見える緑の山。
そして、それ以外には、空しか見えなかった。
三月最後の金曜日の、嘘のように青い空。
――本物の空、見られるかな。
顔をあげて、早苗は歩き出す。振り返らない。振り返ろうともしない。戻ることなく、早苗は足を進める。見上げた視界には、空と、春を歌う桜たちしか見えない。薄紅色の桜の花が歌っている。
雨のように、
雪のように、
涙のように。
青を、紅が、染めてゆく。
いつのまにか風が吹いていた。遠く果て、彼方の山から吹く風が、桜たちを撫でていた。撫でられた桜は喜ぶように身体を震わせ、枝についた花びらが音もなく舞い上がる。空という空を、薄紅色の桜が染めていく。風は絶えることなく、花びらは途絶えることなく、次から次へと舞いあがり、舞い踊り、東風谷 早苗は飲まれていく。
春に。
桜に。
そうして――
風がやんだ後には、緑色の髪をした少女の姿はどこにもありはしなかった。あとには舞い残る花びらと、
三月最後の金曜日の、幻想のように紅い空。
(了)
私の中にあった積年の疑問が氷解しました。つまり、「春の空気はどう表現すれば良いのか」。
貴方の語彙と表現には感服するばかりです。