紅い液体が一滴、手の甲にポツリと垂れ落ちた。
鈴仙は身を凍らせる。
生暖かい液体がつと滑って甲に不吉な線を描く。
そのやたらゆっくりとした動きが、目の裏まで焼きつくようで。
恐怖が増す。
この血はいったい誰の血で、いったいどこから降ってきたのだろうか?
答えるまでもない。ここは自室。つまり、天井からだ。
なにが、あるというのか。
なにが、いるというのだろう?
鈴仙は絶対に上を向きたくはなかった。
しかし、その決意に反して、抑えきれない好奇心が、彼女の顔を徐々に上へと
向かせていく。
恐怖と、興味。二つが混ざり合って。体が火照る。
視線は、ふすま、欄間、そして天井の隅へと、ゆっくりゆっくり、自分で自分をじらすように、移動していく。
いやだ、絶対に見たくない。
助けて、お師匠様!
彼女は完全に上を向いた。
誰も、いない。
簡単に言えば鼻血だった。自分で自分の鼻血に本気で恐怖していたわけだ。ああ馬鹿らしい。
それは別としてもこれはなかなかにゆゆしき事態だぞっと。月にいたころの戦いで負った傷をのぞけば、なにもしてないのに鼻から出血したなんてことは一度もないのだ。
もちろん、なにか興奮するようなことをしていたわけでもない。机の引出しに隠してある秘蔵のてゐ生着替え写真を眺めるなんてことは断じてしていない。少なくとも今は。
なにか刺激が強すぎるような滋養強壮剤を飲んだわけでもない。昨日寝るまえにニコニコ顔のお師匠様に「新薬よ」といってなにか飲まされたが、お師匠様はあれをいい夢が見られる薬といっていたので関係ないだろう。そういえば変にピンクなもやのかかった夢を見ていた気もするが、それが朝起きてすぐの鼻血に結びつくとは、論理的にいってありえない。数学は得意だ。
ならば、可能性は一つ。あれだ。太古の昔から連綿と人々の書物に書き継がれてきたある種のフラグ。ちょっと考えてみればわかる。健康的でスポーティな少女が突然鼻血を流し始めたら、その物語はどのようなラストを迎えることになるか。
「た、大変だあ」
恐怖が再びどろりと蒸し返される。
「おっしょーさまああああああ」
てゐは居間のこたつに入ってうだうだとみかんの皮をむいていた。年ごろになってからというもの、大抵の雑事は経験済みだといわんばかりに平然としたもので、鈴仙が血相変えて入ってきて向いに座って編み物をしていた永琳の胸に飛び込んで突然泣き始めても、まったくその平静さを失うことはないのだった。
「どうしたのさ?」
てゐはのんびりと尋ねる。
「さあ……」
永琳が珍しく困った顔をして首を傾げた。胸元にもっふり顔を埋めて泣きじゃくっている鈴仙の背中をポンポンと叩きながら、優しい声でいう。
「ねえ、ウドンゲ? どうしたの?」
「うええええん……おっしょーさまあああ……わたしそろそろ死んじゃうみたいですよう」
「え?」
「は」
てゐはぼろりとみかんを取り落とした。
「さっき鼻血が出てえ……きっとなにかの病気なんですよお……もっとおっしょーさまに教えてもらいひぐっ……たい、ことあったのにい……うえええん」
「落ち付きなさいウドンゲ。鼻血くらいで死にはしないわ」
てゐが見ると、永琳の服を握りしめる鈴仙の手の甲には確かに血をぬぐったあとがあった。
「もし、わたしが死んじゃったらあ……綿月さまにごめんなさいって伝えて……それから机の引き出しにあるてゐの盗撮写真を焼いてくださいい」
「ちょ」
「ふええええええん」
「てゐ、ちょっとこの子を落ち着かせてくるから、あなたは鈴仙の部屋を調べてきなさい」
「え、どうして?」
「この子、錯乱してるみたいだわ。昨日服用させた実験薬に問題があったかもしれない」
「あんた相変わらず自分の弟子を実験台に……」
「なにか?」
「いえいえ」
「とりあえず、本当に盗撮写真ってやつがあるのかどうか、調べておいて」
「ほいほい」
赤子のようにわめく鈴仙をあやしながら、永琳は自分の研究室へ向かった。
てゐは畳の上に落としたみかんをとってポイと口に放り込むと、よっこらせと立ち上がって、永琳のいいつけ通り鈴仙の部屋へ行くことにした。もし本当に盗撮写真とやらがあったら始末するつもりだった。人の弱みを握るのはいいが、人に弱みを握られるのは好まないのである。
居間を出ると、冬の空気のせいでえらく冷たくなっている床の上に、点々と血のあとが残っていた。それは鈴仙の部屋のほうまで続いているようだった。
鈴仙があんな風に取り乱すことはあんまりない。やはり、永琳の怪しげな薬のせいで惑乱していたのだろう。
とはいえ、万が一ということもある。とにもかくにも引き出しの中を調べてみなければ始まらない。
てゐは血のあとをたどって、てててと鈴仙の部屋へ向かった。急いできたにしてはやけに規則的にたれているようだ。歩いたのだろうか。
鈴仙の部屋に入ると、まず乱れたままの布団が目に入った。枕に一滴だけ血が残っているほかは、けっこう片付いてて綺麗な部屋だった。悪くいえば、面白みにかける部屋だ。仕方ないから今度お賽銭で手にいれたお金でなにか置物か絵か人形でも買ってあげようかしら。別に鈴仙のことが心配とか、そんなんじゃないけどね。
で、問題の引き出し。ぱっと開けてみると、櫛や鏡などの細々したものの他にはなにもなかった。しかしこれで諦めてしまうにはまだ早い。そんなことでは世の中うまく渡っていけないのだ。こういう場合は二重底を疑うのが常識。
てゐは引き出しの裏をのぞいてみた。ペンを差し込む穴がないか調べたのだ。正しい手順を踏んで開けないと二重底に仕掛けてあるオイルと電流がつながって自動的に発火する装置を、てゐはどこかの書物で読んだことがあった。
そんな穴はなかった。というかそもそも二重底すらなかった。
それから鈴仙の部屋を片っ端から調べてみたけれども、なにもやましいものは見つからなかった。なあんだ、つまんない。
てゐは溜息をついて居間へ戻ることにした。
「落ち付いた?」
「ええ、鎮静剤をうっておいたわ。今は私の部屋のベッドで寝ています」
「結局なんだったの? やっぱり実験薬のせい?」
「そうみたい。ちょっと残ってたんで成分を分析してみたら、少し毒つる蛇の皮の粉末の量が多かったみたい。いい夢を見られるはずが、逆に変な夢をみて錯乱してしまったようね。そっちは?」
「なかったよ写真なんて。やっぱりあれもうわ言だったのかな?」
「ええ、たぶんそうでしょう。綿月姉妹の名前を出してたあたり、無意識にあんなことをいっていたようね。罪の意識にいまだ悩まされてる、ってのことの証左だと思うけど」
「ま、どうでもいいけどさ。で、鼻血は? やっぱりなんかの分量を間違えたの?」
「いいえ、あの子は鼻血なんか出してなかったわ」
「……は?」
「あの子の手には確かに血が残っていたけど、鼻からの血じゃなかったわ。見てみたけど、鼻のあたりに血のあとはなかったし。どこも怪我をしてなかったみたいだから、どこでついたのかはちょっとわからないわね」
「待ってよ。じゃあ……」
ぞわり、と背筋が冷たくなる。
ならばいったい。
廊下に点々と残る血は、いったい、誰の血?
そうだ。急いでここまできたのなら、あんなに規則的な落ち方はしないはず。
そして、血は鈴仙のものではないのだとしたら。
知らない誰かが、
血をぽたぽた流しながら、
永遠亭の廊下をゆっくりと歩いていたのだ。
もう一つ。
それが誰なのかはわからないけれど。
その誰かは、間違いなくこの部屋へ向かっていたということだ。
ポタリとなにかがてゐの手の上に落ちた。
生暖かい。
それは、紅かった。
血だ。
どろり。
どこから?
天井から。
てゐはゆっくりと上を見上げる。
永琳を通り越して、ふすま、欄間、そして天井へと。
いったい、なにが?
完全に上を向く。
そこにあるものを見て、
てゐは絶叫した。
「あんのスキマあああああああああああああああああああああああああああっっっ!!!!!」
本文のオチをギャグにして後書きでホラーに持ってく話は多々見ますけど。
とりあえずスキマ自重しろw
で、てゐの盗撮写真の行方について(エンシェントデューパー
……こえー
時にてゐの盗撮についてそこら辺kwsk
>>白徒様
こういうの結構あるのですか……>>後書きでホラーに持ってく話
自分ではなかなかないと思っていた故に、恥ずかしいです。
ところでてゐの盗撮写真は私のふところに(インビジルフルムーン
>>2様
みんなの心の中で起きてい(ry
>>3様
こ、このSSを見事に一言で表わしていただきありがとうございます!
で、てゐの盗撮の件ですが、撮影協力はもちろん某鴉天狗氏ががが
>>喉飴様
そう言っていただけると嬉しいです!
本当はどこで落とそうかものすごい迷っていたのですが、
結局このような形に落ち付きました。
精進します。
しかし紫が永遠亭に行っていたということは同時刻に紫の部屋にいたのは……。
ところで今日ポストに餅みたいな兎耳の少女の生着替え写真が入っ(因幡の素兎
紫の部屋にいたのはもちろん……ゴクリ
>餅みたいな兎耳の少女
この形容に激しく萌えました。ちょっと触ってきまs(マインドシェーカー
大好物です、こういう話!(被った毛布の隙間からサムズアップ