――開幕。或る男の門出。
「瑣末な出来事がありまして!
弱き命の灯火が、更に風前へと近付いたのです!」
◆
浮世に在りし懊悩煩悶、悩乱苦悩、邪気悪念。
全てを喰らわんと欲す邪鬼が降臨せしめて身を喰われし或る男。
嗚呼現世に憐憫遺し、死に逝く彼の男の眼前に新たな小路が姿を現す。
逢着するは見知らぬ風景、異なる空を飛ぶ異形。
索然たる紅色の鳥居が男を待ち構えるが如く聳え立つ。
「いざ戻らんと欲せば事無きを得り。
いざ逝かんと申せばその命無き事を知れ」
紅白の蝶がそう云えば、微々たる怯えも見せず男の頭が縦に傾く。
己が身の肉を摘まめば幻想の証拠は無く、真実ばかりが目の前覆い、男は我が目が壊れていない事を識る。
未練雑念その全て、置いて去った浮世が仮初と云うならば、我が生きる道は他に無し。
超然とした男を顧みて、紅白の蝶が優雅に舞い舞い雲無き空へふわりと飛び立つ。
如何ともし難いその光景、眼に収めれば、現の中に紛れる疑念は影も無く。
か弱き命を携えた、男が一人小さな道を逝く。宛て無き地平に稜線が尖っている。
―― 一時閉幕。
「人間道を通貫する男、外道に身を置く我らが見ても尚憐れ!
六道を巡りし男が行き着く果てに、輪廻が微笑む事も無し!
なれど蜘蛛は地獄に糸垂らし、掴めば助かる事もまた必然!
嗚呼男の手に委ねられし細き糸、奇跡と云わず何と云う!」
◆
――開幕。有象無象の囁き。
「もし其処の御仁。
情緒纏綿たるその姿、既に見て見ぬ振りをする訳には行きませぬ。
未だこの道を歩もうと思うのであれば、是非に我が話を聞いて逝け」
信に足らぬその微笑、男の口を開く鍵には成らず。
戸惑い顔に浮かびし男、幾度とその場に立っては沈吟。
尚も女は笑んでいる。尚も信に足らない微笑は形を崩さない。
遠く烏がかあと鳴く。まるで男を嘲るが如く、蒼穹に響く嘲りの音。
「其の話に益あれば、何を欲して其れを説く。
疑心が暗鬼と成れば容易く人を信ずる事は叶わない。
なれば其の縁由を示すが道理。我が信ずる道に他者無き今は」
「何と悲しき運命か。
永久に他者を信じぬのなら、逝く先に光は見えず。
光無き道に差す陽射しは暗黒と知れ。
尚も我を拒むのならば、冥府の淵に落ちるが好い」
「前世に勝る地獄無し。食糞餓鬼が跋扈する彼の世に望む事も無く。
我の成り果てが醜穢なる死骸と宣命するなら云い得て妙なり。
既知の恐怖は最早安穏とさえ成る事を知れ」
天照る太陽の如く輝く女の髪は、風に靡かれ尾を引いて、扇の中より出でる厳酷な一文字。
されど男に震える気色は毫も無く、唯々燃ゆる不信の焔が瞳の奥に揺れている。
嗚呼女はやがて嘆息零し、男を一瞥しては別れの言の葉一枚、風に乗せて残し逝く。
数多の眼が悍しく光る闇の中、金糸が甘き残り香漂わせ、女の姿は闇に消え。
見知らぬ土地に佇む男は孤独な身、遠く聳える山々の頂から、赫焉たる陽が斜に差している。
――己が愚行を自覚し得るなら、やがて遇う事もありましょう。死神潜む川の畔にて。
女の声が忘れられぬ。男の頬に差す青味が、確然たる暗翳を投ずる。
―― 一時閉幕。
「斯様な出来事がありますれば、男の運命や如何に!
見えざる闇に、彼の男は一向気付く気色無く!
なれば己が愚を自覚する暇は皆無!
嗚呼畢竟、男に吝嗇の兆し無し!」
◆
――開幕。堕ち行く太陽。
妖艶なる月が煌々と輝く夜空、消えた太陽の名残が西の空に残っている。
藍を引いて漆黒と混じり、死した光を鏤めて、豪華絢爛たる空懸かる。
死して初めて真を知り、死して初めて信を失い、死して初めて疑を取り戻した男が行く先に、光が見える事はなく。
唯々暗黒が遥かなる地平に向かって続く中、男が独り歩き逝く。
避け得ざる懸崖に近付く度に、つと男の頬を雫が伝う。
「汝此れより先に進む事勿れ。
先に在るは幻想の花開く恐ろしき地よ。
己が命惜しく思うのならば、決して進んではなりませぬ。
彼の地に潜みし女は汝を殺す事を厭わない」
卒然と躍り出る霊妙なる少女。
頭より生える角は蟲と同様、何かを探るが如く、頻りに揺れる。
其の周りを飛ぶ光、黄色い光が闇に浮かぶ度、少女の顔を朧に映す。
藍は漆黒に染められて、白き光が天空を支配する。
「例えその忠告が真であろうとも、我が逝く先に壁を築く事能はず。
示された道にこそ厄があるやも知れぬなら、この道逝くが我の意思。
元より死んだ身なれば、今一度死するは必然、其の女に会うのも興となる事よ」
「死を恐れぬ心意気、確かに受け賜わった。
なれば後悔する事も無し。死より尚凄惨な事態に遇う事もまた已む無し。
さあ逝けか弱き人の子よ。我が忠告受けぬと云うのなら、死へと続くこの道を逝くが好い。
万を超えて億を成し、兆を築いて無限となる蟲よりも儚き命を贄として」
去り行く少女の姿は星々の海に溶け、廻る光が同化する。
男の影は消え、闇に溶けた背中に懸かる寂寥の月。
曼珠沙華が風に揺られて花弁を散らし、紅き花弁が闇に浮かぶ。
―― 一時閉幕。
「男が手を差し出す事は遂に無く!
願わくば、其の先に手向けの花が溢れん事を!」
◆
――開幕。俯く向日葵。
広がる海は黄色に染まり、宵の色彩が黒混ぜて、項垂れた向日葵が男を見下す。
蟲が湧くかのように、其の種は不気味に敷き詰められて、大きな花弁が揺れている。
死地に臨むは自明の理。迷い断つ男が招きし惨禍の業火は男の身を焼き尽くす。
死臭に塗れたその死体より蛆虫湧いて、竦む足が其処に留まる。
何と悲しき運命か! 男に逃げる術は無く! 唯々足が顫動を巻き起こしている!
「今宵満月が輝く下で、此処に訪れた料簡は如何様。
脆弱なる人間が生きれる道理は皆無。
なれば其の身我が糧として、喰らってやれば好いだけの事。
か弱き人間よ覚悟は有るか。もう直お前の身体は千に千切れる」
花弁が大地に堕ちて、枯れるが如く。
「何を躊躇う事がある。
力を持たぬ我が身となれば、喰らう以外に何も無し。
世に汚されし此の身体、喰らう価値があるなら喰らえ。
暗鬼も気骨が折れた。愈々休息を欲している」
男の死も、自然の理。
「我を恐れぬ其の心、しかと刻んで喰らってやろう。
流れる血潮を夜気にて冷やし、湯気立つ肉に歯牙を掛け、透き通った眼球を舐め回し、
四肢を千切って其の骨を墓石とし、魂すらも残さずに。
斯くも儚き人間よ。今こそ衆生に別れを告げるが好い」
頭を垂れた向日葵に、紅き血潮が降り掛かる。
季節を間違えた紅雨に打たれしは、斯くも悲しき男の身。
縁無き人の世に光無く、彼の男が遺した言葉は既に人でなく。
――別れを告げし者は、この御身以外に何も無し。
やがて、宵は赤く染まりぬ。
――終幕。
「げに悲しき其の男の末路、如何に悲惨であろうとも!
此の地に住まう者達に何ら変化を与えぬ故に!
闇の中に揺らめき消える瑣末な出来事として終わるのだった!」