いつもどおり、ぼんやりと目を開くと、うす暗いベッドルームの天蓋が広がった。
目を擦って、身を起こす。自分の体格よりも遥かに大きいベッド。ふわふわのシーツの感触。食欲をそそる血の匂い。
レミリアは目を擦りながら這いつくばって、ベッドの隣に鎮座してある小さな丸テーブルまで移動した。
テーブルの上に乗っかっているのは、ティッシュペーパーの箱と、水が半分だけ入ったガラスのコップ、薔薇のドライフラワー、そして銀色の呼鐘。
レミリアは銀色の呼鐘を、一瞬躊躇ってから手に取った。しゅうっ、と手から煙が上がり、焼けるような痛みが走る。まるで、赤くなるまで熱した鉄の棒を握りしめているようだった。
痛みに顔をしかめながら、それを振る。
カロン、
カロン、
上品に、高く響くような音が部屋にこだまする。
カロン――――音が部屋に沁み渡るように消えると、銀の呼鐘を、またテーブルの上に戻した。
レミリアは、確認するように、焼けただれた右手を眺める。ドロドロに溶解した手の平はケロイド状になり、脳が命令を発しなくても、ぶるぶると独りでに震えていた。
「ねぇ、咲夜。いい加減別の呼び鈴を用意してくれないかしら……?」
一人しかいないはずの部屋で、その主人は空間に語りかけるように、言葉を投げかける。
すると、テーブルの向かい側――――入口の近くから、返答があった。
「あら、何故ですか?」
「朝起きるたびに、こんな目に遭っていたら疲れてしまうわ」
「毎朝毎朝、何と刺激的な始まりなのでしょう。羨ましい限りですわ」
「ああ、誰のせいでこんな風に育ってしまったのかしら。パチェの影響……? それとも美鈴……?」
「御二方とも、関係ありませんわ。銀色は、私のフェイヴァリットカラーなので」
「そのためなら主人を傷つけてもいいと……?」
「どこに傷がありますか。それより朝食が整っております。お召しものを」
レミリアが気だるそうに振り返る。咲夜はいつもどおり、不適と言っていい様な薄笑いを浮かべ、直立していた。腕には、レミリアのお気に入りの普段着がかけられてあった。
レミリアは、右手を伸ばす。さっきまで、確かに焼けただれて、異臭を発していた掌には、もう傷一つなかった。
「今日の予定は……なにかあったかしら?」
「今日は……霊夢が訪ねてくる予定がありますわね」
「……えぇうそ!?」
レミリアは目を見開いた。「お忘れですか? お嬢様」咲夜は困ったように笑ってから、口を開いた。
「この間の宴会の時、霊夢を弾幕で打ち負かして約束を取り付けてたじゃありませんか」
少し前の宴会を思い出す。
確か、あの時、自分はとんでもなく不機嫌だったはずだ。
自分がいるのに、霊夢ときたら他の奴のことばっかり。
しかも、紫は妙に霊夢にべた付くし、白黒とか、新参の人間とか、他にもいろいろ。レミリアの考えすぎかもしれないが、とにかくそれが気に入らなかったのだ。
それで、むすっと独り、不貞腐れて呑んでいた。
むかむかして帰りたかったが、自分が帰ったら他の奴らが霊夢と過ごした時間に、私がいないことになる。それが嫌だった。
そしてもう一つ。心の奥の奥で、霊夢が話しかけてくれるのを待っていた。
人気者の彼女のことだから、あまり期待できないが、シケたように光っている月に、願ったりもした。
まさか、本当に声をかけてくれるとは思わなかったが「何シケた顔してんのよ、せっかくの宴会なのに」と霊夢は声をかけてくれた。
レミリアは「うるさいわね、あなたには関係ないでしょう」と突っぱねた。
嬉しかったのだ、本当は。自分のことを忘れていなかったことに。だけど、それも相まって、ますますかまって欲しくて、突っ撥ねてしまったのだ。
レミリアは、言った後に猛烈な自己嫌悪と後悔に襲われて、嫌われてしまったかもしれないと、泣きそうになったが、霊夢は依然と笑顔だった。「じゃあ、私と勝負しなさい。私が勝ったら笑って、皆と盛り上がるのよ? 約束よ」続けて「もしあんたが勝ったら、何でも言うこと聞いてあげるわ」といった。
そして、レミリアは頑張った。この五百年間、そして金輪際こんなに一つの戦闘に身を費やすことはないだろう、というくらい頑張った。
何せ、相手は霊夢。弾幕戦と妖怪退治では無双と謳われる兵だ。正直勝てないと思ったが、勝負の途中にレミリアが泣いているのを見て、霊夢の動きが止まった。
狙ったわけではないが、これ幸いと勝利をもぎ取ったのである。あまりに疲れていたから忘れていた。
「……シャワー浴びなきゃ」
「まったく」
咲夜は肩を竦めた。
「朝食が冷めてしまいますが……シャワーが先ですか?」
「当たり前でしょ、服は持ってきて。お湯は張らなくていいから」
「かしこまりました」
咲夜は、頭を下げると同時に消失したように、いなくなった。
レミリアは勢いよく、大きな天蓋付きの高級ベッドから飛び降りて、バスルームへ走った。
長い廊下を……紅色のカーペットが敷いてある、長い長い廊下を、ペタペタと走る。
飛ばないのは、室内を飛ぶのはお行儀が悪いと、咲夜に注意されてからだ。弾幕ごっこでもない以上、主人の行儀の悪さを、下の者たちに見せるわけにはいかない。
そして、廊下は走ってはいけませんよ、ともいわれているが、こちらは仕方ない。大事な用事が控えているのだから。
レミリアは走る。顔を微かに紅潮させて笑顔を綻ばせながら、走る、走る。
途中、幾人ものメイドたちに「おはようございます、お嬢様」と声をかけられ、「おはよう、みんな」と早口で返しながら、走る。
外見どうりの――――ただの少女のように。
ぺたぺた、ぺたぺた。
冷ややかな石敷きの螺旋階段を下れば、一本道の、大きくて長い通路に出る。真っ直ぐ行けば、可愛い妹の部屋があり、左側にある変わったスタイルの扉を開ければ、唯一無二の親友が迎え入れてくれる。
しかし今、用があるのは右側にある和風の扉。本来は無骨なシャワー室だったのを、パチュリーと美鈴、咲夜の助力でリフォームした温泉だ。霊夢が来たら一緒に入るのもいいかもしれない。
引き戸を引いて中に入ると、これまた和風の造り。スノコがひかれた十二畳の脱水所。奥には、三十人くらいなら余裕で入れる湯船が整備されている、シャワー室がある。
レミリアは吸血鬼の性質上、シャワーは浴びれないし、風呂にも入れない。だからパチュリーに頼んで、吸血鬼でも浴びれる水を精製してもらっているのだ。
屋敷の中にもシャワー室はあるが、レミリアはこっちの専用シャワー室にしか、入れない。
レミリアは身から引きちぎるように、フリルのたくさんついた花柄の寝巻きを脱ぎ棄てる。ロッカーの隅に、先ほど咲夜がもっていたお気に入りの服が掛けてあった。
そして風呂場からは、すでに水の跳ねる音が聞こえてきている。咲夜が前もってお湯を温かく調節してくれているのだろう。相変わらず瀟洒な従者だ。
レミリアは逸る気持ちを押さえながら、スモークがかっている風呂場の扉を開けた。案の定、咲夜がシャワーを掌にかけながら、しゃがんでいた。
「お早いお着きですね、お嬢様。あれほど廊下は走ってはいけないと注意しましたのに」
咲夜は柔らかに微笑んだ。
「私の館だもの、ルールは私が決めるわ」
レミリアはそれが然も当然という風に胸を張った。背中の蝙蝠羽が跳ねるように動いた。
咲夜は「はしたないですわね、おかけ下さい」と苦笑して、腰掛けをずらしてよこした。
「そう好き勝手にルールを変えられては、屋敷の者たちが混乱しますわ」
「みんな適当な妖精メイドたちだし、問題なく順応していくわよ」
「私や、美鈴も屋敷の者たちの一部ですが」
咲夜の用意した腰かけに、ちょこんと腰かける。すると目の前の鏡に、レミリアは小さな体躯が映った。
「私直従の者たちが、その程度に順応できないはずがないじゃない」
咲夜はまた困ったように笑いながら、シャンプー液を掌にたらして、泡だて始めた。
レミリアはシャワーを自分の頭から浴びる。乾いた体には、この温かく体を流れる感触が心地よかった。
「目をお瞑りください」
レミリアは言われたとおりに、目を瞑った。
すぐに、頭に咲夜の手の感触がした。
レミリアの灰蒼色の髪が、マリンブルーの泡によって洗われていく。
わしゃわしゃと心地よい加減で頭を擦られて、意識がぼやける。
「お嬢様は、彼女のどこを好いているのですか?」
明暗とした瞼の裏側に、霊夢の笑顔が甦る。
いや、笑顔だけではなかった。彼女のお菓子を摘み食いした時の怒った顔。弾幕で負けた時の悔しそうな顔。ひっそりと、誰にも悟られないように涙を流していた時の顔。
キリがないほど、思い出は込み上げてくる。なぜ一番初めに浮かんだのが彼女の笑顔なのか、それはきっと、レミリアが最高に綺麗だと思える彼女の表情は、笑顔であったからだろう。
どんなに一方的な恋だろうと、種族の違いがあろうと、レミリアの心は、想いは、本物だった。
「全部好きかな~……一目惚れだったし。私を初めて倒した人間だし」
子どものように笑うレミリア。
咲夜はやはり、柔和な笑みを浮かべて、レミリアの頭を洗っていた。
「恋は病ともいいますが、こんなに素敵な病はありませんわね」
やがて、咲夜の手の動きが止まると、頭っから水をかけられた。
ざぶざぶと、泡は洗い流されていく。彼女との思い出のように、泡は浮かんでは、水に溶ける。
「次はお体を洗いますわ、洗顔はご自分でできますわよね」
「馬鹿にしないでよ」
続いて咲夜のさらさらの掌が、ボディーソープのディープグリーンによってぬめる。
レミリアは、咲夜の手がなぜ赤切れたりせずに、常にさらさらなのか微妙に気になるところだ。
メイド長という立場上、咲夜の仕事は多い。
いや、普通ならナンバーツーの威厳に肘を乗せて、顎で下を使うものかもしれないが、咲夜に限ってそれはない。元来から勤勉であり、働きたがりなのだ。
この通り水仕事も多いし、時には力仕事もある。
ストレスは溜まっているだろうし、遊びと言えばレミリアやパチュリー、美鈴と話をしたり、小悪魔と紅茶を淹れたりする程度のはずだ。
全く人間のくせによく体がもつな、と聞こえないように呟いた。褒めすぎるのは、あまりいいことではないとレミリアは知っているのだ。
「では、失礼します」
レミリアの、絹のような肌に、咲夜の泡立った手が添えられた。そのまま、脇を抜けて胴を磨くように、擦っていく。
「……っ! もうちょっと……っ気遣いなさい」
レミリアは、咲夜の指が桜色の部分を撫で回す度、身を白魚のように跳ねさせた。緩んだ頭が、さらに溶けていくような感じがする。
咲夜はその様子が愉快なようで、にへらと笑って「すみません」と謝った。
「それにしても、すべすべで柔らくて傷一つないですね。こういう物を、玉の肌と言うのでしょうね」
レミリアは聞きながら、顔を専用の石鹸で擦り始めた。
「私たちは傷が残らないからね。そういうお前は、肌荒れを気にしているのかしら」
「もちろん気にしておりますわ。パチュリー様にお薬を処方してもらっています」
「ふぅん」、レミリアは「そういうことか」と納得する。
自慢の親友は、何でも出来る万能賢者だ。知識以上に、それを応用する知性と頭の柔らかさが彼女にはある。
この風呂場もこの水も、紅魔館そのものだってパチュリーの息がかかっている。本当に感謝してもし足りないくらいだ。
顔についた石鹸を水で洗い流して、ぬるみをとると、最初に目に入ってきたのは、鏡に映った自分だった。
そういえば、吸血鬼を映すことができる鏡を開発したのもパチュリーだったか。
目の前の鏡に映ったレミリアは、何とも幼い女の子である。
紅く光る目は大きく、目じりが少し吊上がっている。小さく整った唇からは少し八重歯が出ていて、整っている眉は細い。
顔は、自分で言ってもなかなか可愛いんじゃないか、と思う。
しかし、体のほうはどうだろう? 女の子というのは、スタイルを気にするものなのだ。
スリーサイズを評価するなら、レミリアはキュッ、キュッ、キュッ、である。
出たところがない。足は棒みたいに細いし、胸は当然ないし、腰はスリムだし、お尻も小さい。
「ねえ咲夜、ボン、キュッ、ボンな女の子とキュッ、キュッ、キュッな女の子、どっちがいいと思う?」
咲夜はレミリアの下半身に手を伸ばしながら、「そうですねぇ」といった。
「人それぞれだと思いますわ。私的には、どちらもアリですが……それよりも性格や特技などが魅力に繋がると思います」
「例えば?」
「我がままじゃない、子供っぽくない、従者を気遣うほど優しい、一人でも体を洗える――――などですね」
「厳しいわね、特に一番目と三番目」
レミリアは「う~ん」と悩んだ。刹那に、咲夜の細長くしなやかな指はレミリアの大腿を舐め回し、腰掛けとの隙間を縫ってぬるりと股間を擦り上げた。
柔らかで敏感な部分を擦り上げられ、レミリアの腰がガクン、と痙攣した。
「っ! だっ、だから気遣いなさいと……」
「汚いと、嫌われますよ?」
「……っ! そういうことはしないから!」
どういう意味かを理解して、牙を尖らせて、レミリアが猛る。
咲夜は相変わらず飄々とした様子で、いった。
「あらあら、シャイですわね」
「シャイって言わないで!」
「……ではもし、霊夢が求めてきたらどういたしますか?」
ばっくん、と心臓が跳ね上がった。霊夢が……? まさか、霊夢はそんなことしない。
でも……。
でももし、万が一ということもある。
心が通じ合ってしまえば、やっぱりそんなことをするのだろうか。そうなれば、自分は……多分、彼女を拒まない、拒めない、だろう。
それを思い描けば、何やらごちゃごちゃとした思いが溢れる。
期待、充足感、羞恥心、そして……不安。
レミリアは顔を赤く染めながら、「ん~……」と考える。割と本気で、考える。
その様子を見ながら、咲夜は苦笑した。
「では、早く一人で洗えるようにしないとダメですね」
「うるさい、従者は黙って主人に従うべきなのよ」
咲夜は「そうですか」と返して、足を洗い始めた。
細く、白く、キメ細やかな大腿を、膝を、ふくらはぎを、足の甲を、裏を、丁寧に、磨くように洗っていく。
丁寧に、丁寧に、一部も洗い逃さないように、躰の線をなぞるように、洗っていく。
ゾクゾクとした快感が、背筋を登ってくるのを覚えながら、レミリアは一つ、疑問に思ったことがあった。
咲夜は、恋というものをしているのだろうか。
レミリアを含め、妖怪とか妖精とかは、基本的に同性か異性か何て事はあまり気にならないが、人間はそうはいかないらしい。子孫を残さねばならないのだから。
しかし、屋敷の中には女しかいない。元男だった肉くらいならあるかもしれないが、元男だった肉に咲夜が恋をするなんてことは多分ない、というかあって欲しくない。
そうとは言っても、屋敷外に相手を探せば限りがなくなる。
とりあえず、今まで自分が見た中で一番いい男は、香霖堂の店主だと思う。
見た目だけなら間違いなく秀逸だろう。中身は相当に変わっているが、おそらくは悪い性格ではない。
ただこの屋敷に仕えている以上、彼との時間はお使いで買い物ついで、という何とも性悪なものになってしまうだろう。
ああ、そいうことか。
だから本当はいるけど言いたくないのではないか。
思えば、咲夜が身の上を話してくれたことはない。屋敷でこの二十年近くを過ごしてきた限り辛いこともあったろうに、それをおくびにも出さない。
それを考えると、心配になってきた。運命を操る能力も万能じゃない。少し先のことが分かり、対策を立てられるだけの話だ。しかも凄く疲れる。
ちなみに霊夢についてだが、レミリアは霊夢が人間だろうがなんだろうが、一途に愛すると決めていたのである。
霊夢には迷惑かも知れなかったが、関係ない。
その辺は、悪魔的思想だった。
「咲夜、お前に好きな人はいる?」
「いますよ」
「……え?」
割とあっさり帰ってきた返答に、レミリアはぽかんと口を開けてしまった。
「な、何で今まで言ってくれなかったの!?」
「別に、言う必要もないと思いまして」
レミリアの体についた泡をシャワーで洗い流しながら、咲夜は答える。
「誰!? 凄い気になる! どんな人!?」
「気楽に聞いてもいいのですか?」
「いいじゃない! 好きな人くらい教えなさいよ」レミリアは興奮気味にいった。
咲夜の好きな人だ。鬼のメイド長とまで言われている、クールなナイスガールの好きな人だ。
気にならないわけがない。
誰だ? 里にはよくお使いに行かせているから、香霖堂よりもそっちのほうが、可能性はある。
ただ、従者の恋だ。そいつもここで暮らさなくてはいけないかもしれないが。
咲夜はやがて、レミリアの体についた泡を流し終えると、笑みを切って真剣な顔になった。
レミリアは、きょとんとした。
何も、そこまでかしこまることはないはずだ。そこまで距離を置いている主従関係でもない。
「ど、どうしたの? 咲夜」
勝手に声帯が痙攣して、声が震えてしまった。
咲夜の眼は、レミリアを射抜いて、離さなかった。
「聞いてくれますか?」
レミリアは咲夜の迫力にたじろいて、コクンと首を縦に動かす他なかった。
「もし――――、もしですよ」
咲夜は躊躇しながら、でも、しっかりとした口調で、
「…………もし、私がここで」
一呼吸置いてから、続けた。
「私がここで、『霊夢が好き』と言えば、あなたはどうしますか?」
「……え?」
レミリアの表情が、氷ついた。
いきなり横からバットで殴られた様な衝撃が、レミリアを襲った。
胸が締め付けられて痛み、少し肩が震えた。
すぐに笑顔を取り繕ってから「まって、ふざけないでよ」と笑いかける。次の瞬間にはふにゃと溶けた笑みで「冗談ですよ」と、言ってくれるのを期待して。
しかし、咲夜は笑わない。
真っ直ぐに、レミリアを見据えて、動かない。
「何も、おかしいことはありません。彼女はそれほどまで魅力的です。私も、惹かれるほどに」
「……」
レミリアは、黙って咲夜を見つめた。咲夜も、光の籠った眼差しで、レミリアを見つめ返す。
肌に跳ねる、お湯の温度が、わからなくなっていた。
「本当に……?」
レミリアは呟きながら、うつむいた。咲夜は黙って「えぇ」と頷く。
「そう、本当に……」
「……」
悲しみに浸したような瞳がにやけて、ぷっ、とレミリアは噴き出した。
「本当に、咲夜は嘘が下手ね」
おかしくて、仕方ないとレミリアは笑った。
咲夜は「あれ?」と首を傾げて「何でばれたんでしょうか」と言った。真剣だった眼差しは、もう緩んでいた。
レミリアはケタケタと一しきり笑ってから、言った。
「あなたが霊夢を好きだったら、絶対に私には言わない、言えない、でしょう? 一生その想いを表に出さずに、胸に抱いたまま死んでいくでしょう?」
「……そうかもしれませんね」
お湯を止めながら、咲夜は答える。
レミリアはたっぷり水を含んだ髪をかきあげて、腰かけから立ち上がった。
「しかし恋とまではいかなくとも、彼女には一種の好意を持っていることは事実ですが」
「知ってるわよそんなこと」
霊夢は嫌われるような性格ではない。
やる気がない様に見えてやることはキッチリやるし、興味なさ気な風体をして時々優しかったりする。
彼女は無意識だろうが、そういうところが人気につながるのだろう。
「寝取ってしまうかもしれませんよ」
静まった心の奥からまた、ごぼごぼと黒いものが湧き出してくる。
レミリアはそれを無理やりに押さえつけた。
「そうなった八つ裂きにするわ」
軽く笑いながら、返す。
咲夜は、少し口の端を釣り上げていた。
「どちらを、でしょうか」
問いに、レミリアは完全に沈黙した。
指先から冷たい雫がこぼれていくのを感じながら、自分でもわけが分からない苛立ちが湧き上がってくる。
少し奥歯をかみしめて、ぶんぶんと頭を振った。
「あぁ、止め止め。何か不愉快だわ。咲夜、私の可愛い狗は主人を虐めることが趣味なの?」
「滅相もありません。ただ、浮かれてばかりだと、彼女の心を取り逃がしてしまうかもしれませんし。ここらで本気になってもらわないと」
レミリアは「大きなお世話よ」と言おうとして、咲夜に口を遮られた。
「お嬢様、失礼ながら言わせていただきますと……私から見たお嬢様は何かこう……惜しい人なんですよ。あと一歩というか、もうちょっとというか」
「……それってどういう意味よ」
「とにかく、バスタオルを巻いてください。そういうところからも主の貫録が窺えます」
ぼす、と頭に大きなバスタオルが落下してきた。ふわふわで、レモンのいい匂いがした。
「朝食はリビングにありますが、どういたしますか」
「パチェの図書館まで持ってきてちょうだい」
レミリアがぐしゃぐしゃ頭を拭きまわしながら風呂場から出ると、背から「かしこまりました」と聞こえて、咲夜の気配はなくなった。
ロッカーからはすでに、レミリアの寝巻きはなくなっていた。
とりあえず、体の水気を拭き取って、かけてあった服をきた。
純白に朱の刺繍とリボンが散りばめてあるドレスだ。膝下まである靴下をはいて、ドレスとセットになっていた左手のリストバンドをつける。
大きな赤いリボンが巻いてある帽子は、髪がまだ乾いていないので、被れない。
脱水所の出入り口の小さな玄関には、ローファーが置いてあった。
それを履いて、冷たい地下の廊下に出る。ぽちゃん、ぽちゃん、と水の雫が落ちる音を聞きながら、向かいにある変わった作りの部屋に入る。
すると、古臭いようなにおいとうす暗い室内が眼前に広がる。
暗いので分かりにくいかもしれないが、この図書館は紅魔館敷地よりも広い。魔法と時間操作で捻じ曲げたこの空間には、見渡す限りが本棚と書籍で埋め尽くされている。
しかも、本と本棚は勝手に増えてしまうらしいのだ。
この部屋の主、パチュリー・ノーレッジは隅っこにある書斎で、怪しく光っている水晶の明かりを頼りに本を読んでいた。
ぶかぶかな紫がベースのドレスに身を包んでいて、本に顔をうずめるようにして読書するのは彼女の癖だ。
「おはよう、パチェ。ご機嫌いかがかしら」
「おはよう、レミィ。鉄臭い紅茶のせいでもう最悪よ」
長机の上に、紅茶とイチゴジャムの塗ってあるトーストが置かれていた。
レミリアの紅茶には、少量だが血液が混ぜてある。これを飲めば一日食べなくても大丈夫なのだが、嗜好で毎朝トーストくらいは食べている。
パチュリーも気が向いたら食べるくらいで、ほとんど小悪魔か咲夜が入れた紅茶しか飲まない。
「ごめんね、早めに食べれるところに持ってきてもらったの」
「私の図書館は食厳禁なんだけど……まあ親友の頼みじゃしょうがないわね。小悪魔、私にも紅茶」
大きな本棚に囲まれた暗がりの奥から「はぁ~い、ただいま~」と返ってきた。
小悪魔はパチュリーの使い魔で、常にパチュリーの傍にいる悪魔である。
悪戯好きで力は弱い。悪魔というよりは妖精に近い存在だ。もっとも、妖精よりは頭がいいし、要領もよいが。
「今日はどうしたの? 私のところで朝食なんて珍しいじゃない」
「霊夢が遊びに来るのよ。だから今日はもうパチェに会えないかもしれないでしょ」
「ふぅん、レミィは親友よりも恋を取るのね? 悲しいわ」
「撫で撫でしようか?」
「遠慮するわ。髪が血生臭くなる」
レミリアはトーストを齧りながら、笑みを作った。
イチゴジャムの甘味が、しつこく感じた。いつもと変わらない、味なのに。
「血だって美味しいのに」
パチュリーは苦笑して言った。
「レミィ、食べながら喋るのは行儀が悪いわよ」
「咲夜みたいなこと言わないで。それより聞いてよ、お風呂場で咲夜がさ、『私も霊夢が好き』なんて言うのよ? 心臓が飛び出るかと思ったわ」
「あの子も反抗期かしら」
「育てたのはパチェと美鈴でしょ、反抗期にならない程度に育ててほしかったのに」
「ふふ、あの子も成長したってことよ」
笑いあっていると、小悪魔が紅茶を持ってきた。パチュリーは「ありがと」と短く言って、口に含む。
レミリアはその様子を眺めながら、今だに胸に渦巻いている不快感と不安を味わっていた。
自分でも認めたくない心のざわめきのせいで、朝食が美味しく感じられない。
「美味しくない、このジャム」
「あら、あの子が聞いたら悲しむわね」
「……」
レミリアは口を尖らせて、食べかけのトーストを、皿に放った。
胸の内が、ぐねぐねと蠢いているように、心地悪かった。
「どうしたの? レミィ」
本に目を向けながら、パチュリーは静かに言った。
レミリアは瞬時に理解した。
パチュリーは、自分が心に溜まったわだかまりを打ち明けるのを、待っているのだと。
レミリアは親友の優しさに感謝しながら、重い口を開いた。
「咲夜が、霊夢を好きって言ってた。今は冗談だと思うけど……今後、本気にならないって確証は、ない。その時、私はどうすればいいかな?」
「咲夜に霊夢を譲るの?」
「やだ!」レミリアは反射的に立ち上がって、言った。
「そんなのやだよ」
「なら、渡さなければいい」
「……そうなったら、咲夜はどうする? どうなっちゃうの?」
「レミィも大人になったわね」感慨深そうに、パチュリーは言った。
「その時は、あの子自身が決めるでしょう。今、心配する事じゃないわ」
「そうだけど……」
「誰かを思いやることができるっていうのは一つの財産よ。大切にしなさいな」
「……うん。もしさ、咲夜が本気で霊夢を好きになったらさ、私、勝てるかな?」
「そうねぇ」パチュリーは、相変わらず本に目を落としたまま、考えた。
「正攻法なら、まず無理ね」
「うぐっ」
レミリアの胸にぐさっと見えない杭が刺さった。
そのままずる、ずる、机に突っ伏していきながら、呟いた。
「そんなに……はっきり……言わなく……ても」
「比べる相手が咲夜って言うのが間違ってるわ。相手が悪すぎる」
「う~、くそぅ、咲夜のくせに」
「まあ、落ち着いて聞きなさい。普通に勝負すれば勝てないって言っても、恋のバトルには正攻法なんてないわ」
「じゃあ、パチュリーはどうするのよ」
パチュリーは本から目をあげた。
レミリアは突っ伏しながら、続ける。
「人形使いに、好きな人ができたとしたらどうするのよ。例えば白黒とか」
「とりあえず、全力でネズミ駆除を実行するわね」
「……狗は駆除したら困るでしょ」
「……惚れ薬、恋呪、魔法の力」
「それでもだめなら?」
パチュリーは黒々とした笑みを浮かべて「くっくっくっく」と身を震わせた。
「この図書館は広いもの。一人くらい監禁したって、大丈夫よ?」
「うへぇ」レミリアは目を丸めてから、笑った。
「病んでるわね~」
「恋は病だもの。私のよさを分かってもらうまでの間よ」
「洗脳とどこが違うの」
「洗脳は、こちらから無理やり従わせるの。私的には、拷も……けほけほ、精神的に参らせて相手から屈伏してくれるのを待つのがいいわ」
「ああ、私の親友が、こんなに冷酷な悪党だったなんて。まるで魔女よ」
「魔女だもの。好きな人をさらうのに、躊躇いなんて邪魔なだけよ」
「私はそんな悪辣なこと、霊夢にできないわ」
「ダメよ、レミィ。そういうところが……何ていうか……」
パチュリーはひとさし指をくるくるまわして、少し考えた。
「何ていうのかしら……う~ん、惜しい……そう、惜しいのよ。何だか見てるとね、レミィは何だか惜しい人なのよ。一番なのに一番じゃないというか、合格まであと三点というか」
「どういう意味よそれ~」
レミリアはそういえば咲夜にも言われたな~と思いながら、眉を寄せた。
「霊夢狙いは壮烈さを極めているわ。世間体なんて気にせず、テンプテーションと従属化で我が物にするのよ」
「パチェと話してるとこっちまでおかしくなりそうよ」
レミリアは、ずぶずぶと沈むような思考回路で、自分が霊夢を無理やり我がものにする想像をして、赤面しつつも身震いした。
霊夢をちょこっと噛んで、少し非道徳かつエロティックな行いをすれば、きっと自分しか見えなくなるだろう。
でも、そんな愛は、愛じゃない。ダメだ、絶対。
でも少しだけやってみたいような、やっぱりそれでもいいような。だって私、悪魔だし。そこまで考えたところで、パチュリーの隣にあったしおりにライトイエローの炎が灯り、震動し始めた。
レミリアが疑問符をあげる前に、パチュリーはそれをみて、顔を赤らめた。
今までの落ち着いた雰囲気はどこへやら、わたわた慌てて立ち上がり、読んでいた本を取りこぼし、またあたふたしながら、しおりを手に取った。
そして、大きく深呼吸して、しおりに魔力を込める。
炎の色が、パープルに変わった。
「……も、もしもし、アリス? きょ、今日? ん、もちろんいいわ。うん……うん。……じゃあき、気を付けてきてね」
しおりの炎がぼしゅ、と音を立てて消える。
パチュリーは、「っはあ~」と胸を押さえながら、椅子に崩れ落ちた。
こっちまで心臓の音が聞こえそうだなとレミリアは噴き出した。
「……へぇ、監禁だっけ? 洗脳だっけ? 惚れ薬? 恋呪? 魔法の力?」
レミリアはにやにやしながら、意地悪な声で、問いかける。
パチュリーは顔を赤くしたまま、手当たりしだい、そこらにあった本を、レミリアに投げつけてよこした。
それらの本に傷が残らないようにキャッチしながら、レミリアは笑い続けた。
「うるさいわよレミィ!」
「あっはっは! パチェったら悪の魔法使いどころか、ピュアな女の子じゃない! 私でも、あそこまではあがらないわよ! 全くおかしいったら!」
「これだから耳年増は」レミリアがいったところで、パチュリーが筋を立てて、詠唱を始めた。すかさず「ごめん、ごめん」と謝る。
「次言ったら灰にするわよ」
「わかった。もう言わないわ」
レミリアが、持っている本を机に戻す。
パチュリーは仏頂面で、椅子に座り直した。
「私、門のところで霊夢を待つことにするわ。がんばってね、パチェ」
レミリアは踵を返した。
パチュリーはまだぶすっとした様子で答えた。
「レミィこそ、しくじらない様にするのよ」
言葉を聞いて、満足して出入り口まで向かった。
髪が渇いて、帽子を被れる頃には胸のざわめきは、柔らんでいた。
☆
エントランスに立てかけてある日傘をさして、外に出た。
強烈な朝の光が、日傘を通しても降り注ぐ。
雪が積もっており、広大な屋敷を白に染め上げていた。その白を、光が装飾している。
レミリアは門に向って歩き出した。
さくり、さくり、雪を踏みしめるたびに、軋んだ音が鳴る。
そういえば、一人で外出するのは久しぶりなんじゃないかと思う。
自分が外に出るときは、常に咲夜が隣にいた。
きっと屋敷の中で仕事をしているのだろうが、今は一人でいたかった。
自分は咲夜のことで知らないことはないと思っていた。しかし、それがどうだ。知らないことだらけではないか。
逆に、中途半端に知っているからこそ、咲夜を恐れてしまうのだ。
さく、さく、さく。
雪を踏みしめる音が、耳ざわりに聞こえた。
目を上げると、門が開いている。この時間で門が開いているのは珍しい。人形使いはまだ来ていないだろうに。
「美鈴……?」
自分の背丈の何倍もある門をくぐって、門番の名を読んでみた。
美鈴は、門のところに腰掛けて、雪玉を握っていた。すぐにレミリアに気づいて、にこっと笑った。
「おはようございます、お嬢様。どうしたんですか? お早いですね」
「おはよう、美鈴。何で門が開いてるの?」
美鈴は朝早くからここにいる。寝泊まりはもちろん紅魔館でしているし、食料も支給している。小さな小屋が門の近くにあり、そこで休憩をとったりしているのだ。
シフトで門の警固は一日一回、必ず美鈴がしていた。
「先ほど咲夜さんが外出したんですよ。すぐに戻ってくると思いますけど」
「……何しに行ったか、聞いてない?」
美鈴は意外そうな表情をした。
「お嬢様の了承を取ったものかと思いましたが……、霊夢を迎えに行くって言ってましたよ」
「そう」
レミリアは目を伏せた。胸の内が、冷たくなっていった。
「久しぶりですね。咲夜さん抜きで、お嬢様と話すのは」
「そうね」
「こうしていると、思い出しますね」
鳥肌が立って、レミリアは顔をあげる。美鈴の瞳孔が収縮していた。
美鈴と知り合ったのは、幻想郷に来る前だった。
大昔、スカーレットのテリトリーで、人間が度々食われるようになった事件があった。
当然犯人捜しが始まり、行きあたったのが紅 美鈴だった。当時はスカーレットの領地で人を狩るという剛毅豪胆さから、もしやスカーレット家の吸血鬼より強いのではないかと言われ、スカーレットデビルと呼ばれているほどの名の知れた実力者であった。
「思い出すわね、あんたの血走った眼。最高に美しかったわ」
「何をいいますか。私の二つ名を奪ったくせに」
「周りからの勝手に呼ばれてただけじゃない」
「それでもですね、アイデンティーティーというものがあったんですよ」
「たはは」と笑って、雪玉を握り続ける。その姿にはもう、当時の面影は見えない。
反して、元々紅い髪の毛を真っ赤に染めて血肉を貪る彼女の姿が、鮮明に蘇った。
美鈴は強かった。そして今も変わらない。美鈴は強い。衰えるどころか、更に強くなっている。
「ねえ、美鈴」
「何でしょうか?」
「今、あなたと闘えば、どちらが生き残るかしら」
「間違いなくお嬢様ですね」
「……即答ね」
美鈴はぎゅっ、ぎゅっと雪玉を握り続ける。
「あの時代と、何も変わりません。ずるいですよ、吸血鬼は」
「そうね。よくもあんなに突っかかってくれたじゃない」
「意地になっただけです。あんな反則的な能力があると知っていれば、喧嘩なんて売りませんでした」
美鈴は、雪玉の表面を両手で擦って、磨き始めた。
レミリアは、何故かそのようすが、ひどく懐かしく感じられた。
決闘と言うより、リンチと言った方がいいかもしれない。スカーレットの領地であったために、十数人の精鋭吸血鬼と殺し合いになった美鈴は破れ、レミリアの父の気まぐれから無理やり従属の契約を取り交わされ、今に至る。
美鈴は自分の配下になりたての時も少しの間、いじけて何かで指遊びしていた。
「ああ、出来れば一度、見てみたいですね。レミリア・スカーレットが血まみれで横たわる様を」
美鈴は愛おしげに、雪玉を磨く。
「でも残念ながら、それを見ることは叶いません。お嬢様が血まみれで殺されるとするなら、その前に私は門前で血まみれにされてますからね」
「……ふふ」
「……?」
「一様、守ってくれるんだ」
レミリアが笑う。
「……命に代えましても」
美鈴も笑っていた。
がっちがちになった雪玉を、ぽいと投げてよこした。
レミリアはそれを取って、滑らかな表面に指を滑らせる。
「これから人形使いが来るわ。私の親友の、大事なお客さまよ。……わかってるわね?」
「……つまり」
美鈴は緑色の帽子を直しながら、立ち上がった。
「死なない程度に痛めつけてパチュリー様のところまで運べばいいんですね? でも弾幕勝負、私は苦手ですから勝てる見込みは薄いですよ?」
弾幕勝負は美鈴には向いていない。どれくらい向いていないかと言えば、スモウレスラーを百メーター走の選手にするくらい向いていない。
ボディビルディング部のマッチョマンが、裁縫部に移籍になったような衝撃があっただろうとレミリアは少し同情した。
太い指をプルプルいわせながら、小さな針穴に細い糸を通す、通らない。糸を落とす、拾えない。針を落とす、見つからない。
ああ、可哀相に。涙目で大机をひっくり返す大男を想像して、レミリアは涙腺を押さえた。
まあ弾幕はお遊びに違いないが、それでもみんな本気をだして、それに全てを傾けるのだ。
「そうそ……って、わかってないじゃない。大事なお客様を死なない程度に痛めつけて、どうするつもりなのよ」
「看病で好感度アップ、さらに、痛み止めと称して怪しいお薬を……」
「ああ、私の館にはこんなのしかいないのかしら」
コンクリート並みの強度になっている雪玉を、レミリアはくしゃりと潰しながら、嘆いた。
美鈴は笑いながら「何をいってるんですか、欲しいものはどんな手を駆使しても手に入れるべきですよ」という。
自分より美鈴のほうがよほど妖怪っぽいのかもしれないとレミリアは思った。
「じゃあ、あなたには好きな人はいるのかしら?」
「咲夜さん大好きです」
「ストレートねぇ」
「でもさっき、お尻をちょこっと触ったらナイフで刺されそうになりました」
「刺さってあげればよかったじゃない」
「痛いのは嫌ですよ。とにかく、私は情熱の全てを彼女に注ぎます」
「もし咲夜が霊夢になびいたら、二人で泣きましょうね」
「私浮気OKですから」
「……心が広いのね」
レミリアはため息をついた。
美鈴は首を傾げて、レミリアにいった。
「お嬢様は最終的にどんな関係になるのが理想なのですか?」
「わかんない、……とりあえずは好きって言われるのが目標」
「純情ですねぇ。志が低すぎますよ。私の知っているレミリア・スカーレットは我がままで暴力的なはずですよ」
「一方通行の愛じゃ意味ないのよ」
「何ていうんでしょうねぇ……、そういうところがお嬢様の……う~ん」
「何が言いたいのよ」
美鈴は少し考えてから、言った。
「……惜しい、そうだ、惜しいんだ。何だかお嬢様はすっごく惜しい人に見えるんですよね。もう一手というか、詰め甘と言うか」
「……本日三度目よ、それ」
溜息も出なかった。自分は、そんなに惜しい人間だったのだろうか。
レミリアは今まで、我がままで聡明な自分を真っ直ぐ伸ばしてきたつもりだ。
その結果、有能な部下に恵まれ、親友に恵まれ、整った地位と環境に恵まれたのだ。
自分は間違っていないと思いたかったが、立て続けに三度『惜しい人』と呼ばれて、なお己を信じられるほど自己を妄信してもいない。
「ねぇ、咲夜と私だったら……どっちを選ぶ?」
「私に聞いてもわかりきったことでしょう」
「客観的にみて」
「……まあ、十人いたら九人は咲夜さんですね」
「何か落ち込んできた」
レミリアはしゃがみ込んで丸まった。情けないやら何やらで、朝っから絶不調だった。
「でもそうなると、霊夢さんは咲夜さんよりお嬢様を選ぶってことになっちゃいますね」
美鈴の言葉にレミリアは、過剰といっていいほどに反応し顔を上げた。
「な、何でそう思うの?」
「あの変人が、大多数の九人に属すると思いますか」
「片腹痛いですよ」美鈴はころころ笑った。
なるほど、霊夢なら確かにそうだろう。そうだ。そんな気がしてきた。
レミリアは、少しだけ心が軽くなったのを感じた。
太陽が雲に隠れて、日差しが少しだけ弱くなっていた。
とにかく、霊夢を、咲夜を信じてみよう。
裏切られたなら、泣きながら明後日の方向にでも走ろうか。
「美鈴、私が明後日の方向に走ったら、付いてきてくれる?」
「……よく分からない質問ですが、お嬢様の願とあらば、地獄へでも、天国でも付いていきましょう」
「そう、でも天国へは行けないわ。ごめんね」
「それじゃあ、なるべく地獄に落ちない程度に調整してくださいね」
笑う美鈴を見て、本当にこの子を部下にしてよかったと泣きそうになるレミリアだった。
☆
一方、咲夜はもう博麗神社についていた。
抜けるような青空のもと、足を踏み出す。階段の下まで飛んできて、石段は歩くことにしたのだ。吐く息が白く濁って、芯まで寒さが浸透した。
一歩、
一歩、
長い石段を踏みしめながら、悔恨の念に浸る。
あんなこと、言わなければよかった。
その一言に尽きる。あんな滅多なことは、言わなければよかった。
思い出す主人の顔、目を見開いて血の気が引いて。自分の一言でころころと変わる表情が、可愛かったのだ。
でも顧みると猛省せざるを得ない。
どう考えても自分が悪い。もしかしたら、変な疑心と不安を持たせてしまったかも知れない。
しかも後の質問が悪かった。
私と霊夢、どちらを殺しますか、そういう内容の問だ。明らかにレミリアは怒っていた。
涼しい顔をしているのは、逆に心底から湧き上がる怒りを抑え込む作業であることを咲夜は知っていた。
自分が霊夢を好きだといったのはもちろん冗談だ。
レミリアがあまりにも煮え切らずにもたもたしているから、切迫した緊張感を持たせたかったのだ。
「……」
咲夜は顔を上げた。
しかし、半分。半分だけは、冗談ではすまない気持ちもあるかもしれない。
咲夜は今まで、恋というものをしたことがないし、これからもするつもりはなかった。
できれば一生を主人に捧げて、美鈴やパチュリーたちと緩やかな人生を送るつもりだった。
ところが、出会ってしまった。
出会ってしまったのだ。
紅白の蝶に。幻想の光華に。
自分の気持ちを整理していけば、明白な答えだ。
自分は霊夢を好いている。
経験がない以上、この好きがどういったベクトルにかかる好きなのかが、咲夜には分からない。
レミリアは、自分が一生気持ちを外に出さないまま、死んでいくと言っていた。
運命を操る主人が見たものなら、そうなるのだろう。
第一、主人の物を横取りする従者なんてただの裏切り者だ。
自分がどういった経緯であの館にいたのかは思い出せないが、小さい時から世話になっていた家のことだ。裏切るなんてもってのほか。だからこの気持ちを忘れて、早くいつもの自分に戻ろう。そうしよう。
胸に響く温かい鼓動を冷やしながら、階段を上りきって鳥居をくぐる。
レミリアが約束した時間まで、まだ時間があった。
境内に、霊夢の姿はない。雪が薄らと降り積もっている古びた賽銭箱がぽつんと座っているだけで、無人だった。
神社の近くには、大きく湯気を立てる温泉がこんこんと湧いていた。当然、無人である。
咲夜はとりあえず母屋に入ってみた。
古臭いにおいと、そこはかとなくノスタルジックな雰囲気が漂う、いつもの居間である。
火を焚いてないと室内でも寒い。隅っこにある囲炉裏は灰をかぶっていた。
隣にある寝室に入る。
まさか、まだ寝ているのでは、と考えた。
そして半分的中。
薄い布団に毛布をかけて、身の凍えるような気温に耐えている霊夢がいた。
カタカタと震えている様を見れば、起きているかどうかなんてすぐにわかる。
「ごきげんよう、霊夢」
「……咲夜?」
しゃがみ込んで話しかけると、霊夢は布団を被ったまま、身を反転させた。
ガチガチと歯が鳴っていて、顔が白い。
「一様迎えに来てみたんだけど、大丈夫?」
「大丈夫じゃないわよ。凍死一歩手前の状態で、昨日から踏ん張っていたわよ」
「それは御苦労さま、立てる?」
「無理、体が動かない」
咲夜はどうしようか、と悩んだが、動けないのなら動かしてやるかと思い、布団を引っぺがした。
「わわっ! ちょっと何してんのよ!」
「馬鹿言ってないで、早く行くわよ。お嬢様がお待ちかねだわ」
咲夜は、薄い寝間着姿の霊夢を見て、何故か気恥しくなるのを感じた。
リボンの髪留めを付けてない霊夢を見たのは、初めてだった。
流れるような黒髪が波打ちながら、蒲団の上に広がっていた。
普段のお転婆さが消え失せ、なにやら大人びて見える。
霊夢は三秒間、自分を抱きしめて暖を取ったが、冷え切った体を抱きしめても、マイナス効果にしかならないと理解した。
霊夢は、手を伸ばした。
ほとんど無意識に。
一番近くて、暖かそうなものに。
がっちり胴を掴まれた咲夜は、ほとんど、何も考えることができないまま、霊夢にかぶさった。
「ちょ、ちょっと」
「うう……あんたもあんまり暖かくないじゃないの」
咲夜を布団のように自身に被せつつ、霊夢は剥がされた布団に手を伸ばした。
外も寒かったために、咲夜の体も冷えていたのである。
「よいしょ……と、これで完璧」
霊夢は、咲夜の上からさらに布団、毛布をかぶり直して、安堵の息を吐いた。
霊夢にとっては、寝起きの半無意識状態だったわけである。
しかし、咲夜にとってはそうはいかない。
ようやく落ち着こうとしていた心が、再び揺れてきていた。
肌に直接感じる体温と、柔らかさ。
そして、匂い。
甘いような、独特の人間の匂い。本能を直接揺さぶるような、匂い。
これが、博麗霊夢。
次第に体が熱くなっているのを感じ取る。
これはやばい。早く、離れなければ。
そう思って、体を起こそうとしても、動かない。
霊夢の足が、咲夜の腰にからみついて、離れさしてくれない。
「霊夢っ……離しなさい」
「いや、寒い」
「お願いだから」
咲夜が身を起しかけたせいで、僅かな隙間が生じた。霊夢は「ん~」と唸りながら、隙間をなくそうと咲夜にくっつく。
それが、咲夜には堪らなかった。
だめだ、落ち着かなければ、と呼吸を整える。
「ん、何か甘いにおいがする」
咲夜の胸に顔を埋めていた霊夢が、呟くように言った。
ああ、さっきのシャンプーのにおいか、と一瞬考える。
思考が働く程度には、咲夜の頭も冷えてきていた。が、
「この匂い、好き」
また、頭が沸騰しそうになる。
わけもなく、好きとか言うな。
早く、お嬢様のところに行かないと。
でももうちょっとくらい、いいかもしれない。なにせまだ時間はある。
そんな咲夜の葛藤を知ってか知らずか、霊夢は薄眼を開けて上目使いで、咲夜を見た。
「後二分」
投げかけられた言葉は、堕落への一歩だった。楽なほうに、自分を誘導させるための。
そう、わかっていた。わかっていたのだ。しかし、誘惑は強烈だった。
「……仕方ないわね」
咲夜はレミリアに謝りつつ体を弛緩させた。何も、淫卑な行いをするわけではない。これは、離してくれない霊夢が悪いと自分に言い聞かせながら。
霊夢は咲夜の胸の位置に顔を埋めていたため、苦しそうにもがもがしてから、咲夜の横に顔を出した。
すぐに心地よい重みを感じながら、寝息を立て始める。
咲夜は体制が悪くて、霊夢の隣にくっ付くように移動して、一息ついた。
目を瞑って、手を霊夢の腰に回して、足を絡ませる。
確かに、暖かい。
誰かと寝るなんて久しぶりだったので、ずいぶんと新鮮に感じた。
少し前に美鈴が、いつの間にかベットに潜り込んでいたのが、最後の記憶だった。
妖怪と人間の体温の違いに、不思議な感覚を覚えながら、眉を歪めた。
やっぱり、これをお嬢様に見られたら多分、殺されるなと心の片隅で、思った。
二分、
二分経ったら、出発しよう。
そう言い聞かせて、霊夢の肩に顔を埋めた。甘ったるい匂いが、思考を侵していった。
朝早くから仕事をしている咲夜には、侵食に耐える理性など持ち合わせていなかった。
淡い快楽で霞んだ世界の中、咲夜は霊夢とお茶を楽しんでいる夢をみた。
結局、咲夜が霊夢を連れて紅魔館に戻ってきたのは、昼近くになってからだった。
嗅覚が鋭いレミリアに、咲夜のメイド服についた霊夢の匂いは誤魔化せず、怒りより悲しみが勝ってしまったレミリアは「咲夜が霊夢取ったぁ~!」と泣いて明後日の方向に走り、何故か美鈴も後を追い、両方を咲夜が捕まえ美鈴をリリースし、レミリアを霊夢がなだめて、その場は納まった。
レミリアは妥協し『咲夜とは浮気ならかまわない、ただし私を誰よりも大事にしなさい』と駄々をこねた。
そして、その分を取り返すかのように霊夢に半日ベタベタひっつき、お泊まり会まで開いたのであった。
霊夢は苦笑いだったが、決して嫌な顔はしていなかった。
レミリアも、美鈴も笑っていた。もちろん、パチュリーとアリス、小悪魔も。
ただし、咲夜はこっそり、己の胸にじわじわとした思いを感じて、溜息を吐いていた。
これで博麗幻恋記一巻は、御終いです。
お泊まり会でもいろいろとハプニングが起きたのですが、その話は、また今度。
目を擦って、身を起こす。自分の体格よりも遥かに大きいベッド。ふわふわのシーツの感触。食欲をそそる血の匂い。
レミリアは目を擦りながら這いつくばって、ベッドの隣に鎮座してある小さな丸テーブルまで移動した。
テーブルの上に乗っかっているのは、ティッシュペーパーの箱と、水が半分だけ入ったガラスのコップ、薔薇のドライフラワー、そして銀色の呼鐘。
レミリアは銀色の呼鐘を、一瞬躊躇ってから手に取った。しゅうっ、と手から煙が上がり、焼けるような痛みが走る。まるで、赤くなるまで熱した鉄の棒を握りしめているようだった。
痛みに顔をしかめながら、それを振る。
カロン、
カロン、
上品に、高く響くような音が部屋にこだまする。
カロン――――音が部屋に沁み渡るように消えると、銀の呼鐘を、またテーブルの上に戻した。
レミリアは、確認するように、焼けただれた右手を眺める。ドロドロに溶解した手の平はケロイド状になり、脳が命令を発しなくても、ぶるぶると独りでに震えていた。
「ねぇ、咲夜。いい加減別の呼び鈴を用意してくれないかしら……?」
一人しかいないはずの部屋で、その主人は空間に語りかけるように、言葉を投げかける。
すると、テーブルの向かい側――――入口の近くから、返答があった。
「あら、何故ですか?」
「朝起きるたびに、こんな目に遭っていたら疲れてしまうわ」
「毎朝毎朝、何と刺激的な始まりなのでしょう。羨ましい限りですわ」
「ああ、誰のせいでこんな風に育ってしまったのかしら。パチェの影響……? それとも美鈴……?」
「御二方とも、関係ありませんわ。銀色は、私のフェイヴァリットカラーなので」
「そのためなら主人を傷つけてもいいと……?」
「どこに傷がありますか。それより朝食が整っております。お召しものを」
レミリアが気だるそうに振り返る。咲夜はいつもどおり、不適と言っていい様な薄笑いを浮かべ、直立していた。腕には、レミリアのお気に入りの普段着がかけられてあった。
レミリアは、右手を伸ばす。さっきまで、確かに焼けただれて、異臭を発していた掌には、もう傷一つなかった。
「今日の予定は……なにかあったかしら?」
「今日は……霊夢が訪ねてくる予定がありますわね」
「……えぇうそ!?」
レミリアは目を見開いた。「お忘れですか? お嬢様」咲夜は困ったように笑ってから、口を開いた。
「この間の宴会の時、霊夢を弾幕で打ち負かして約束を取り付けてたじゃありませんか」
少し前の宴会を思い出す。
確か、あの時、自分はとんでもなく不機嫌だったはずだ。
自分がいるのに、霊夢ときたら他の奴のことばっかり。
しかも、紫は妙に霊夢にべた付くし、白黒とか、新参の人間とか、他にもいろいろ。レミリアの考えすぎかもしれないが、とにかくそれが気に入らなかったのだ。
それで、むすっと独り、不貞腐れて呑んでいた。
むかむかして帰りたかったが、自分が帰ったら他の奴らが霊夢と過ごした時間に、私がいないことになる。それが嫌だった。
そしてもう一つ。心の奥の奥で、霊夢が話しかけてくれるのを待っていた。
人気者の彼女のことだから、あまり期待できないが、シケたように光っている月に、願ったりもした。
まさか、本当に声をかけてくれるとは思わなかったが「何シケた顔してんのよ、せっかくの宴会なのに」と霊夢は声をかけてくれた。
レミリアは「うるさいわね、あなたには関係ないでしょう」と突っぱねた。
嬉しかったのだ、本当は。自分のことを忘れていなかったことに。だけど、それも相まって、ますますかまって欲しくて、突っ撥ねてしまったのだ。
レミリアは、言った後に猛烈な自己嫌悪と後悔に襲われて、嫌われてしまったかもしれないと、泣きそうになったが、霊夢は依然と笑顔だった。「じゃあ、私と勝負しなさい。私が勝ったら笑って、皆と盛り上がるのよ? 約束よ」続けて「もしあんたが勝ったら、何でも言うこと聞いてあげるわ」といった。
そして、レミリアは頑張った。この五百年間、そして金輪際こんなに一つの戦闘に身を費やすことはないだろう、というくらい頑張った。
何せ、相手は霊夢。弾幕戦と妖怪退治では無双と謳われる兵だ。正直勝てないと思ったが、勝負の途中にレミリアが泣いているのを見て、霊夢の動きが止まった。
狙ったわけではないが、これ幸いと勝利をもぎ取ったのである。あまりに疲れていたから忘れていた。
「……シャワー浴びなきゃ」
「まったく」
咲夜は肩を竦めた。
「朝食が冷めてしまいますが……シャワーが先ですか?」
「当たり前でしょ、服は持ってきて。お湯は張らなくていいから」
「かしこまりました」
咲夜は、頭を下げると同時に消失したように、いなくなった。
レミリアは勢いよく、大きな天蓋付きの高級ベッドから飛び降りて、バスルームへ走った。
長い廊下を……紅色のカーペットが敷いてある、長い長い廊下を、ペタペタと走る。
飛ばないのは、室内を飛ぶのはお行儀が悪いと、咲夜に注意されてからだ。弾幕ごっこでもない以上、主人の行儀の悪さを、下の者たちに見せるわけにはいかない。
そして、廊下は走ってはいけませんよ、ともいわれているが、こちらは仕方ない。大事な用事が控えているのだから。
レミリアは走る。顔を微かに紅潮させて笑顔を綻ばせながら、走る、走る。
途中、幾人ものメイドたちに「おはようございます、お嬢様」と声をかけられ、「おはよう、みんな」と早口で返しながら、走る。
外見どうりの――――ただの少女のように。
ぺたぺた、ぺたぺた。
冷ややかな石敷きの螺旋階段を下れば、一本道の、大きくて長い通路に出る。真っ直ぐ行けば、可愛い妹の部屋があり、左側にある変わったスタイルの扉を開ければ、唯一無二の親友が迎え入れてくれる。
しかし今、用があるのは右側にある和風の扉。本来は無骨なシャワー室だったのを、パチュリーと美鈴、咲夜の助力でリフォームした温泉だ。霊夢が来たら一緒に入るのもいいかもしれない。
引き戸を引いて中に入ると、これまた和風の造り。スノコがひかれた十二畳の脱水所。奥には、三十人くらいなら余裕で入れる湯船が整備されている、シャワー室がある。
レミリアは吸血鬼の性質上、シャワーは浴びれないし、風呂にも入れない。だからパチュリーに頼んで、吸血鬼でも浴びれる水を精製してもらっているのだ。
屋敷の中にもシャワー室はあるが、レミリアはこっちの専用シャワー室にしか、入れない。
レミリアは身から引きちぎるように、フリルのたくさんついた花柄の寝巻きを脱ぎ棄てる。ロッカーの隅に、先ほど咲夜がもっていたお気に入りの服が掛けてあった。
そして風呂場からは、すでに水の跳ねる音が聞こえてきている。咲夜が前もってお湯を温かく調節してくれているのだろう。相変わらず瀟洒な従者だ。
レミリアは逸る気持ちを押さえながら、スモークがかっている風呂場の扉を開けた。案の定、咲夜がシャワーを掌にかけながら、しゃがんでいた。
「お早いお着きですね、お嬢様。あれほど廊下は走ってはいけないと注意しましたのに」
咲夜は柔らかに微笑んだ。
「私の館だもの、ルールは私が決めるわ」
レミリアはそれが然も当然という風に胸を張った。背中の蝙蝠羽が跳ねるように動いた。
咲夜は「はしたないですわね、おかけ下さい」と苦笑して、腰掛けをずらしてよこした。
「そう好き勝手にルールを変えられては、屋敷の者たちが混乱しますわ」
「みんな適当な妖精メイドたちだし、問題なく順応していくわよ」
「私や、美鈴も屋敷の者たちの一部ですが」
咲夜の用意した腰かけに、ちょこんと腰かける。すると目の前の鏡に、レミリアは小さな体躯が映った。
「私直従の者たちが、その程度に順応できないはずがないじゃない」
咲夜はまた困ったように笑いながら、シャンプー液を掌にたらして、泡だて始めた。
レミリアはシャワーを自分の頭から浴びる。乾いた体には、この温かく体を流れる感触が心地よかった。
「目をお瞑りください」
レミリアは言われたとおりに、目を瞑った。
すぐに、頭に咲夜の手の感触がした。
レミリアの灰蒼色の髪が、マリンブルーの泡によって洗われていく。
わしゃわしゃと心地よい加減で頭を擦られて、意識がぼやける。
「お嬢様は、彼女のどこを好いているのですか?」
明暗とした瞼の裏側に、霊夢の笑顔が甦る。
いや、笑顔だけではなかった。彼女のお菓子を摘み食いした時の怒った顔。弾幕で負けた時の悔しそうな顔。ひっそりと、誰にも悟られないように涙を流していた時の顔。
キリがないほど、思い出は込み上げてくる。なぜ一番初めに浮かんだのが彼女の笑顔なのか、それはきっと、レミリアが最高に綺麗だと思える彼女の表情は、笑顔であったからだろう。
どんなに一方的な恋だろうと、種族の違いがあろうと、レミリアの心は、想いは、本物だった。
「全部好きかな~……一目惚れだったし。私を初めて倒した人間だし」
子どものように笑うレミリア。
咲夜はやはり、柔和な笑みを浮かべて、レミリアの頭を洗っていた。
「恋は病ともいいますが、こんなに素敵な病はありませんわね」
やがて、咲夜の手の動きが止まると、頭っから水をかけられた。
ざぶざぶと、泡は洗い流されていく。彼女との思い出のように、泡は浮かんでは、水に溶ける。
「次はお体を洗いますわ、洗顔はご自分でできますわよね」
「馬鹿にしないでよ」
続いて咲夜のさらさらの掌が、ボディーソープのディープグリーンによってぬめる。
レミリアは、咲夜の手がなぜ赤切れたりせずに、常にさらさらなのか微妙に気になるところだ。
メイド長という立場上、咲夜の仕事は多い。
いや、普通ならナンバーツーの威厳に肘を乗せて、顎で下を使うものかもしれないが、咲夜に限ってそれはない。元来から勤勉であり、働きたがりなのだ。
この通り水仕事も多いし、時には力仕事もある。
ストレスは溜まっているだろうし、遊びと言えばレミリアやパチュリー、美鈴と話をしたり、小悪魔と紅茶を淹れたりする程度のはずだ。
全く人間のくせによく体がもつな、と聞こえないように呟いた。褒めすぎるのは、あまりいいことではないとレミリアは知っているのだ。
「では、失礼します」
レミリアの、絹のような肌に、咲夜の泡立った手が添えられた。そのまま、脇を抜けて胴を磨くように、擦っていく。
「……っ! もうちょっと……っ気遣いなさい」
レミリアは、咲夜の指が桜色の部分を撫で回す度、身を白魚のように跳ねさせた。緩んだ頭が、さらに溶けていくような感じがする。
咲夜はその様子が愉快なようで、にへらと笑って「すみません」と謝った。
「それにしても、すべすべで柔らくて傷一つないですね。こういう物を、玉の肌と言うのでしょうね」
レミリアは聞きながら、顔を専用の石鹸で擦り始めた。
「私たちは傷が残らないからね。そういうお前は、肌荒れを気にしているのかしら」
「もちろん気にしておりますわ。パチュリー様にお薬を処方してもらっています」
「ふぅん」、レミリアは「そういうことか」と納得する。
自慢の親友は、何でも出来る万能賢者だ。知識以上に、それを応用する知性と頭の柔らかさが彼女にはある。
この風呂場もこの水も、紅魔館そのものだってパチュリーの息がかかっている。本当に感謝してもし足りないくらいだ。
顔についた石鹸を水で洗い流して、ぬるみをとると、最初に目に入ってきたのは、鏡に映った自分だった。
そういえば、吸血鬼を映すことができる鏡を開発したのもパチュリーだったか。
目の前の鏡に映ったレミリアは、何とも幼い女の子である。
紅く光る目は大きく、目じりが少し吊上がっている。小さく整った唇からは少し八重歯が出ていて、整っている眉は細い。
顔は、自分で言ってもなかなか可愛いんじゃないか、と思う。
しかし、体のほうはどうだろう? 女の子というのは、スタイルを気にするものなのだ。
スリーサイズを評価するなら、レミリアはキュッ、キュッ、キュッ、である。
出たところがない。足は棒みたいに細いし、胸は当然ないし、腰はスリムだし、お尻も小さい。
「ねえ咲夜、ボン、キュッ、ボンな女の子とキュッ、キュッ、キュッな女の子、どっちがいいと思う?」
咲夜はレミリアの下半身に手を伸ばしながら、「そうですねぇ」といった。
「人それぞれだと思いますわ。私的には、どちらもアリですが……それよりも性格や特技などが魅力に繋がると思います」
「例えば?」
「我がままじゃない、子供っぽくない、従者を気遣うほど優しい、一人でも体を洗える――――などですね」
「厳しいわね、特に一番目と三番目」
レミリアは「う~ん」と悩んだ。刹那に、咲夜の細長くしなやかな指はレミリアの大腿を舐め回し、腰掛けとの隙間を縫ってぬるりと股間を擦り上げた。
柔らかで敏感な部分を擦り上げられ、レミリアの腰がガクン、と痙攣した。
「っ! だっ、だから気遣いなさいと……」
「汚いと、嫌われますよ?」
「……っ! そういうことはしないから!」
どういう意味かを理解して、牙を尖らせて、レミリアが猛る。
咲夜は相変わらず飄々とした様子で、いった。
「あらあら、シャイですわね」
「シャイって言わないで!」
「……ではもし、霊夢が求めてきたらどういたしますか?」
ばっくん、と心臓が跳ね上がった。霊夢が……? まさか、霊夢はそんなことしない。
でも……。
でももし、万が一ということもある。
心が通じ合ってしまえば、やっぱりそんなことをするのだろうか。そうなれば、自分は……多分、彼女を拒まない、拒めない、だろう。
それを思い描けば、何やらごちゃごちゃとした思いが溢れる。
期待、充足感、羞恥心、そして……不安。
レミリアは顔を赤く染めながら、「ん~……」と考える。割と本気で、考える。
その様子を見ながら、咲夜は苦笑した。
「では、早く一人で洗えるようにしないとダメですね」
「うるさい、従者は黙って主人に従うべきなのよ」
咲夜は「そうですか」と返して、足を洗い始めた。
細く、白く、キメ細やかな大腿を、膝を、ふくらはぎを、足の甲を、裏を、丁寧に、磨くように洗っていく。
丁寧に、丁寧に、一部も洗い逃さないように、躰の線をなぞるように、洗っていく。
ゾクゾクとした快感が、背筋を登ってくるのを覚えながら、レミリアは一つ、疑問に思ったことがあった。
咲夜は、恋というものをしているのだろうか。
レミリアを含め、妖怪とか妖精とかは、基本的に同性か異性か何て事はあまり気にならないが、人間はそうはいかないらしい。子孫を残さねばならないのだから。
しかし、屋敷の中には女しかいない。元男だった肉くらいならあるかもしれないが、元男だった肉に咲夜が恋をするなんてことは多分ない、というかあって欲しくない。
そうとは言っても、屋敷外に相手を探せば限りがなくなる。
とりあえず、今まで自分が見た中で一番いい男は、香霖堂の店主だと思う。
見た目だけなら間違いなく秀逸だろう。中身は相当に変わっているが、おそらくは悪い性格ではない。
ただこの屋敷に仕えている以上、彼との時間はお使いで買い物ついで、という何とも性悪なものになってしまうだろう。
ああ、そいうことか。
だから本当はいるけど言いたくないのではないか。
思えば、咲夜が身の上を話してくれたことはない。屋敷でこの二十年近くを過ごしてきた限り辛いこともあったろうに、それをおくびにも出さない。
それを考えると、心配になってきた。運命を操る能力も万能じゃない。少し先のことが分かり、対策を立てられるだけの話だ。しかも凄く疲れる。
ちなみに霊夢についてだが、レミリアは霊夢が人間だろうがなんだろうが、一途に愛すると決めていたのである。
霊夢には迷惑かも知れなかったが、関係ない。
その辺は、悪魔的思想だった。
「咲夜、お前に好きな人はいる?」
「いますよ」
「……え?」
割とあっさり帰ってきた返答に、レミリアはぽかんと口を開けてしまった。
「な、何で今まで言ってくれなかったの!?」
「別に、言う必要もないと思いまして」
レミリアの体についた泡をシャワーで洗い流しながら、咲夜は答える。
「誰!? 凄い気になる! どんな人!?」
「気楽に聞いてもいいのですか?」
「いいじゃない! 好きな人くらい教えなさいよ」レミリアは興奮気味にいった。
咲夜の好きな人だ。鬼のメイド長とまで言われている、クールなナイスガールの好きな人だ。
気にならないわけがない。
誰だ? 里にはよくお使いに行かせているから、香霖堂よりもそっちのほうが、可能性はある。
ただ、従者の恋だ。そいつもここで暮らさなくてはいけないかもしれないが。
咲夜はやがて、レミリアの体についた泡を流し終えると、笑みを切って真剣な顔になった。
レミリアは、きょとんとした。
何も、そこまでかしこまることはないはずだ。そこまで距離を置いている主従関係でもない。
「ど、どうしたの? 咲夜」
勝手に声帯が痙攣して、声が震えてしまった。
咲夜の眼は、レミリアを射抜いて、離さなかった。
「聞いてくれますか?」
レミリアは咲夜の迫力にたじろいて、コクンと首を縦に動かす他なかった。
「もし――――、もしですよ」
咲夜は躊躇しながら、でも、しっかりとした口調で、
「…………もし、私がここで」
一呼吸置いてから、続けた。
「私がここで、『霊夢が好き』と言えば、あなたはどうしますか?」
「……え?」
レミリアの表情が、氷ついた。
いきなり横からバットで殴られた様な衝撃が、レミリアを襲った。
胸が締め付けられて痛み、少し肩が震えた。
すぐに笑顔を取り繕ってから「まって、ふざけないでよ」と笑いかける。次の瞬間にはふにゃと溶けた笑みで「冗談ですよ」と、言ってくれるのを期待して。
しかし、咲夜は笑わない。
真っ直ぐに、レミリアを見据えて、動かない。
「何も、おかしいことはありません。彼女はそれほどまで魅力的です。私も、惹かれるほどに」
「……」
レミリアは、黙って咲夜を見つめた。咲夜も、光の籠った眼差しで、レミリアを見つめ返す。
肌に跳ねる、お湯の温度が、わからなくなっていた。
「本当に……?」
レミリアは呟きながら、うつむいた。咲夜は黙って「えぇ」と頷く。
「そう、本当に……」
「……」
悲しみに浸したような瞳がにやけて、ぷっ、とレミリアは噴き出した。
「本当に、咲夜は嘘が下手ね」
おかしくて、仕方ないとレミリアは笑った。
咲夜は「あれ?」と首を傾げて「何でばれたんでしょうか」と言った。真剣だった眼差しは、もう緩んでいた。
レミリアはケタケタと一しきり笑ってから、言った。
「あなたが霊夢を好きだったら、絶対に私には言わない、言えない、でしょう? 一生その想いを表に出さずに、胸に抱いたまま死んでいくでしょう?」
「……そうかもしれませんね」
お湯を止めながら、咲夜は答える。
レミリアはたっぷり水を含んだ髪をかきあげて、腰かけから立ち上がった。
「しかし恋とまではいかなくとも、彼女には一種の好意を持っていることは事実ですが」
「知ってるわよそんなこと」
霊夢は嫌われるような性格ではない。
やる気がない様に見えてやることはキッチリやるし、興味なさ気な風体をして時々優しかったりする。
彼女は無意識だろうが、そういうところが人気につながるのだろう。
「寝取ってしまうかもしれませんよ」
静まった心の奥からまた、ごぼごぼと黒いものが湧き出してくる。
レミリアはそれを無理やりに押さえつけた。
「そうなった八つ裂きにするわ」
軽く笑いながら、返す。
咲夜は、少し口の端を釣り上げていた。
「どちらを、でしょうか」
問いに、レミリアは完全に沈黙した。
指先から冷たい雫がこぼれていくのを感じながら、自分でもわけが分からない苛立ちが湧き上がってくる。
少し奥歯をかみしめて、ぶんぶんと頭を振った。
「あぁ、止め止め。何か不愉快だわ。咲夜、私の可愛い狗は主人を虐めることが趣味なの?」
「滅相もありません。ただ、浮かれてばかりだと、彼女の心を取り逃がしてしまうかもしれませんし。ここらで本気になってもらわないと」
レミリアは「大きなお世話よ」と言おうとして、咲夜に口を遮られた。
「お嬢様、失礼ながら言わせていただきますと……私から見たお嬢様は何かこう……惜しい人なんですよ。あと一歩というか、もうちょっとというか」
「……それってどういう意味よ」
「とにかく、バスタオルを巻いてください。そういうところからも主の貫録が窺えます」
ぼす、と頭に大きなバスタオルが落下してきた。ふわふわで、レモンのいい匂いがした。
「朝食はリビングにありますが、どういたしますか」
「パチェの図書館まで持ってきてちょうだい」
レミリアがぐしゃぐしゃ頭を拭きまわしながら風呂場から出ると、背から「かしこまりました」と聞こえて、咲夜の気配はなくなった。
ロッカーからはすでに、レミリアの寝巻きはなくなっていた。
とりあえず、体の水気を拭き取って、かけてあった服をきた。
純白に朱の刺繍とリボンが散りばめてあるドレスだ。膝下まである靴下をはいて、ドレスとセットになっていた左手のリストバンドをつける。
大きな赤いリボンが巻いてある帽子は、髪がまだ乾いていないので、被れない。
脱水所の出入り口の小さな玄関には、ローファーが置いてあった。
それを履いて、冷たい地下の廊下に出る。ぽちゃん、ぽちゃん、と水の雫が落ちる音を聞きながら、向かいにある変わった作りの部屋に入る。
すると、古臭いようなにおいとうす暗い室内が眼前に広がる。
暗いので分かりにくいかもしれないが、この図書館は紅魔館敷地よりも広い。魔法と時間操作で捻じ曲げたこの空間には、見渡す限りが本棚と書籍で埋め尽くされている。
しかも、本と本棚は勝手に増えてしまうらしいのだ。
この部屋の主、パチュリー・ノーレッジは隅っこにある書斎で、怪しく光っている水晶の明かりを頼りに本を読んでいた。
ぶかぶかな紫がベースのドレスに身を包んでいて、本に顔をうずめるようにして読書するのは彼女の癖だ。
「おはよう、パチェ。ご機嫌いかがかしら」
「おはよう、レミィ。鉄臭い紅茶のせいでもう最悪よ」
長机の上に、紅茶とイチゴジャムの塗ってあるトーストが置かれていた。
レミリアの紅茶には、少量だが血液が混ぜてある。これを飲めば一日食べなくても大丈夫なのだが、嗜好で毎朝トーストくらいは食べている。
パチュリーも気が向いたら食べるくらいで、ほとんど小悪魔か咲夜が入れた紅茶しか飲まない。
「ごめんね、早めに食べれるところに持ってきてもらったの」
「私の図書館は食厳禁なんだけど……まあ親友の頼みじゃしょうがないわね。小悪魔、私にも紅茶」
大きな本棚に囲まれた暗がりの奥から「はぁ~い、ただいま~」と返ってきた。
小悪魔はパチュリーの使い魔で、常にパチュリーの傍にいる悪魔である。
悪戯好きで力は弱い。悪魔というよりは妖精に近い存在だ。もっとも、妖精よりは頭がいいし、要領もよいが。
「今日はどうしたの? 私のところで朝食なんて珍しいじゃない」
「霊夢が遊びに来るのよ。だから今日はもうパチェに会えないかもしれないでしょ」
「ふぅん、レミィは親友よりも恋を取るのね? 悲しいわ」
「撫で撫でしようか?」
「遠慮するわ。髪が血生臭くなる」
レミリアはトーストを齧りながら、笑みを作った。
イチゴジャムの甘味が、しつこく感じた。いつもと変わらない、味なのに。
「血だって美味しいのに」
パチュリーは苦笑して言った。
「レミィ、食べながら喋るのは行儀が悪いわよ」
「咲夜みたいなこと言わないで。それより聞いてよ、お風呂場で咲夜がさ、『私も霊夢が好き』なんて言うのよ? 心臓が飛び出るかと思ったわ」
「あの子も反抗期かしら」
「育てたのはパチェと美鈴でしょ、反抗期にならない程度に育ててほしかったのに」
「ふふ、あの子も成長したってことよ」
笑いあっていると、小悪魔が紅茶を持ってきた。パチュリーは「ありがと」と短く言って、口に含む。
レミリアはその様子を眺めながら、今だに胸に渦巻いている不快感と不安を味わっていた。
自分でも認めたくない心のざわめきのせいで、朝食が美味しく感じられない。
「美味しくない、このジャム」
「あら、あの子が聞いたら悲しむわね」
「……」
レミリアは口を尖らせて、食べかけのトーストを、皿に放った。
胸の内が、ぐねぐねと蠢いているように、心地悪かった。
「どうしたの? レミィ」
本に目を向けながら、パチュリーは静かに言った。
レミリアは瞬時に理解した。
パチュリーは、自分が心に溜まったわだかまりを打ち明けるのを、待っているのだと。
レミリアは親友の優しさに感謝しながら、重い口を開いた。
「咲夜が、霊夢を好きって言ってた。今は冗談だと思うけど……今後、本気にならないって確証は、ない。その時、私はどうすればいいかな?」
「咲夜に霊夢を譲るの?」
「やだ!」レミリアは反射的に立ち上がって、言った。
「そんなのやだよ」
「なら、渡さなければいい」
「……そうなったら、咲夜はどうする? どうなっちゃうの?」
「レミィも大人になったわね」感慨深そうに、パチュリーは言った。
「その時は、あの子自身が決めるでしょう。今、心配する事じゃないわ」
「そうだけど……」
「誰かを思いやることができるっていうのは一つの財産よ。大切にしなさいな」
「……うん。もしさ、咲夜が本気で霊夢を好きになったらさ、私、勝てるかな?」
「そうねぇ」パチュリーは、相変わらず本に目を落としたまま、考えた。
「正攻法なら、まず無理ね」
「うぐっ」
レミリアの胸にぐさっと見えない杭が刺さった。
そのままずる、ずる、机に突っ伏していきながら、呟いた。
「そんなに……はっきり……言わなく……ても」
「比べる相手が咲夜って言うのが間違ってるわ。相手が悪すぎる」
「う~、くそぅ、咲夜のくせに」
「まあ、落ち着いて聞きなさい。普通に勝負すれば勝てないって言っても、恋のバトルには正攻法なんてないわ」
「じゃあ、パチュリーはどうするのよ」
パチュリーは本から目をあげた。
レミリアは突っ伏しながら、続ける。
「人形使いに、好きな人ができたとしたらどうするのよ。例えば白黒とか」
「とりあえず、全力でネズミ駆除を実行するわね」
「……狗は駆除したら困るでしょ」
「……惚れ薬、恋呪、魔法の力」
「それでもだめなら?」
パチュリーは黒々とした笑みを浮かべて「くっくっくっく」と身を震わせた。
「この図書館は広いもの。一人くらい監禁したって、大丈夫よ?」
「うへぇ」レミリアは目を丸めてから、笑った。
「病んでるわね~」
「恋は病だもの。私のよさを分かってもらうまでの間よ」
「洗脳とどこが違うの」
「洗脳は、こちらから無理やり従わせるの。私的には、拷も……けほけほ、精神的に参らせて相手から屈伏してくれるのを待つのがいいわ」
「ああ、私の親友が、こんなに冷酷な悪党だったなんて。まるで魔女よ」
「魔女だもの。好きな人をさらうのに、躊躇いなんて邪魔なだけよ」
「私はそんな悪辣なこと、霊夢にできないわ」
「ダメよ、レミィ。そういうところが……何ていうか……」
パチュリーはひとさし指をくるくるまわして、少し考えた。
「何ていうのかしら……う~ん、惜しい……そう、惜しいのよ。何だか見てるとね、レミィは何だか惜しい人なのよ。一番なのに一番じゃないというか、合格まであと三点というか」
「どういう意味よそれ~」
レミリアはそういえば咲夜にも言われたな~と思いながら、眉を寄せた。
「霊夢狙いは壮烈さを極めているわ。世間体なんて気にせず、テンプテーションと従属化で我が物にするのよ」
「パチェと話してるとこっちまでおかしくなりそうよ」
レミリアは、ずぶずぶと沈むような思考回路で、自分が霊夢を無理やり我がものにする想像をして、赤面しつつも身震いした。
霊夢をちょこっと噛んで、少し非道徳かつエロティックな行いをすれば、きっと自分しか見えなくなるだろう。
でも、そんな愛は、愛じゃない。ダメだ、絶対。
でも少しだけやってみたいような、やっぱりそれでもいいような。だって私、悪魔だし。そこまで考えたところで、パチュリーの隣にあったしおりにライトイエローの炎が灯り、震動し始めた。
レミリアが疑問符をあげる前に、パチュリーはそれをみて、顔を赤らめた。
今までの落ち着いた雰囲気はどこへやら、わたわた慌てて立ち上がり、読んでいた本を取りこぼし、またあたふたしながら、しおりを手に取った。
そして、大きく深呼吸して、しおりに魔力を込める。
炎の色が、パープルに変わった。
「……も、もしもし、アリス? きょ、今日? ん、もちろんいいわ。うん……うん。……じゃあき、気を付けてきてね」
しおりの炎がぼしゅ、と音を立てて消える。
パチュリーは、「っはあ~」と胸を押さえながら、椅子に崩れ落ちた。
こっちまで心臓の音が聞こえそうだなとレミリアは噴き出した。
「……へぇ、監禁だっけ? 洗脳だっけ? 惚れ薬? 恋呪? 魔法の力?」
レミリアはにやにやしながら、意地悪な声で、問いかける。
パチュリーは顔を赤くしたまま、手当たりしだい、そこらにあった本を、レミリアに投げつけてよこした。
それらの本に傷が残らないようにキャッチしながら、レミリアは笑い続けた。
「うるさいわよレミィ!」
「あっはっは! パチェったら悪の魔法使いどころか、ピュアな女の子じゃない! 私でも、あそこまではあがらないわよ! 全くおかしいったら!」
「これだから耳年増は」レミリアがいったところで、パチュリーが筋を立てて、詠唱を始めた。すかさず「ごめん、ごめん」と謝る。
「次言ったら灰にするわよ」
「わかった。もう言わないわ」
レミリアが、持っている本を机に戻す。
パチュリーは仏頂面で、椅子に座り直した。
「私、門のところで霊夢を待つことにするわ。がんばってね、パチェ」
レミリアは踵を返した。
パチュリーはまだぶすっとした様子で答えた。
「レミィこそ、しくじらない様にするのよ」
言葉を聞いて、満足して出入り口まで向かった。
髪が渇いて、帽子を被れる頃には胸のざわめきは、柔らんでいた。
☆
エントランスに立てかけてある日傘をさして、外に出た。
強烈な朝の光が、日傘を通しても降り注ぐ。
雪が積もっており、広大な屋敷を白に染め上げていた。その白を、光が装飾している。
レミリアは門に向って歩き出した。
さくり、さくり、雪を踏みしめるたびに、軋んだ音が鳴る。
そういえば、一人で外出するのは久しぶりなんじゃないかと思う。
自分が外に出るときは、常に咲夜が隣にいた。
きっと屋敷の中で仕事をしているのだろうが、今は一人でいたかった。
自分は咲夜のことで知らないことはないと思っていた。しかし、それがどうだ。知らないことだらけではないか。
逆に、中途半端に知っているからこそ、咲夜を恐れてしまうのだ。
さく、さく、さく。
雪を踏みしめる音が、耳ざわりに聞こえた。
目を上げると、門が開いている。この時間で門が開いているのは珍しい。人形使いはまだ来ていないだろうに。
「美鈴……?」
自分の背丈の何倍もある門をくぐって、門番の名を読んでみた。
美鈴は、門のところに腰掛けて、雪玉を握っていた。すぐにレミリアに気づいて、にこっと笑った。
「おはようございます、お嬢様。どうしたんですか? お早いですね」
「おはよう、美鈴。何で門が開いてるの?」
美鈴は朝早くからここにいる。寝泊まりはもちろん紅魔館でしているし、食料も支給している。小さな小屋が門の近くにあり、そこで休憩をとったりしているのだ。
シフトで門の警固は一日一回、必ず美鈴がしていた。
「先ほど咲夜さんが外出したんですよ。すぐに戻ってくると思いますけど」
「……何しに行ったか、聞いてない?」
美鈴は意外そうな表情をした。
「お嬢様の了承を取ったものかと思いましたが……、霊夢を迎えに行くって言ってましたよ」
「そう」
レミリアは目を伏せた。胸の内が、冷たくなっていった。
「久しぶりですね。咲夜さん抜きで、お嬢様と話すのは」
「そうね」
「こうしていると、思い出しますね」
鳥肌が立って、レミリアは顔をあげる。美鈴の瞳孔が収縮していた。
美鈴と知り合ったのは、幻想郷に来る前だった。
大昔、スカーレットのテリトリーで、人間が度々食われるようになった事件があった。
当然犯人捜しが始まり、行きあたったのが紅 美鈴だった。当時はスカーレットの領地で人を狩るという剛毅豪胆さから、もしやスカーレット家の吸血鬼より強いのではないかと言われ、スカーレットデビルと呼ばれているほどの名の知れた実力者であった。
「思い出すわね、あんたの血走った眼。最高に美しかったわ」
「何をいいますか。私の二つ名を奪ったくせに」
「周りからの勝手に呼ばれてただけじゃない」
「それでもですね、アイデンティーティーというものがあったんですよ」
「たはは」と笑って、雪玉を握り続ける。その姿にはもう、当時の面影は見えない。
反して、元々紅い髪の毛を真っ赤に染めて血肉を貪る彼女の姿が、鮮明に蘇った。
美鈴は強かった。そして今も変わらない。美鈴は強い。衰えるどころか、更に強くなっている。
「ねえ、美鈴」
「何でしょうか?」
「今、あなたと闘えば、どちらが生き残るかしら」
「間違いなくお嬢様ですね」
「……即答ね」
美鈴はぎゅっ、ぎゅっと雪玉を握り続ける。
「あの時代と、何も変わりません。ずるいですよ、吸血鬼は」
「そうね。よくもあんなに突っかかってくれたじゃない」
「意地になっただけです。あんな反則的な能力があると知っていれば、喧嘩なんて売りませんでした」
美鈴は、雪玉の表面を両手で擦って、磨き始めた。
レミリアは、何故かそのようすが、ひどく懐かしく感じられた。
決闘と言うより、リンチと言った方がいいかもしれない。スカーレットの領地であったために、十数人の精鋭吸血鬼と殺し合いになった美鈴は破れ、レミリアの父の気まぐれから無理やり従属の契約を取り交わされ、今に至る。
美鈴は自分の配下になりたての時も少しの間、いじけて何かで指遊びしていた。
「ああ、出来れば一度、見てみたいですね。レミリア・スカーレットが血まみれで横たわる様を」
美鈴は愛おしげに、雪玉を磨く。
「でも残念ながら、それを見ることは叶いません。お嬢様が血まみれで殺されるとするなら、その前に私は門前で血まみれにされてますからね」
「……ふふ」
「……?」
「一様、守ってくれるんだ」
レミリアが笑う。
「……命に代えましても」
美鈴も笑っていた。
がっちがちになった雪玉を、ぽいと投げてよこした。
レミリアはそれを取って、滑らかな表面に指を滑らせる。
「これから人形使いが来るわ。私の親友の、大事なお客さまよ。……わかってるわね?」
「……つまり」
美鈴は緑色の帽子を直しながら、立ち上がった。
「死なない程度に痛めつけてパチュリー様のところまで運べばいいんですね? でも弾幕勝負、私は苦手ですから勝てる見込みは薄いですよ?」
弾幕勝負は美鈴には向いていない。どれくらい向いていないかと言えば、スモウレスラーを百メーター走の選手にするくらい向いていない。
ボディビルディング部のマッチョマンが、裁縫部に移籍になったような衝撃があっただろうとレミリアは少し同情した。
太い指をプルプルいわせながら、小さな針穴に細い糸を通す、通らない。糸を落とす、拾えない。針を落とす、見つからない。
ああ、可哀相に。涙目で大机をひっくり返す大男を想像して、レミリアは涙腺を押さえた。
まあ弾幕はお遊びに違いないが、それでもみんな本気をだして、それに全てを傾けるのだ。
「そうそ……って、わかってないじゃない。大事なお客様を死なない程度に痛めつけて、どうするつもりなのよ」
「看病で好感度アップ、さらに、痛み止めと称して怪しいお薬を……」
「ああ、私の館にはこんなのしかいないのかしら」
コンクリート並みの強度になっている雪玉を、レミリアはくしゃりと潰しながら、嘆いた。
美鈴は笑いながら「何をいってるんですか、欲しいものはどんな手を駆使しても手に入れるべきですよ」という。
自分より美鈴のほうがよほど妖怪っぽいのかもしれないとレミリアは思った。
「じゃあ、あなたには好きな人はいるのかしら?」
「咲夜さん大好きです」
「ストレートねぇ」
「でもさっき、お尻をちょこっと触ったらナイフで刺されそうになりました」
「刺さってあげればよかったじゃない」
「痛いのは嫌ですよ。とにかく、私は情熱の全てを彼女に注ぎます」
「もし咲夜が霊夢になびいたら、二人で泣きましょうね」
「私浮気OKですから」
「……心が広いのね」
レミリアはため息をついた。
美鈴は首を傾げて、レミリアにいった。
「お嬢様は最終的にどんな関係になるのが理想なのですか?」
「わかんない、……とりあえずは好きって言われるのが目標」
「純情ですねぇ。志が低すぎますよ。私の知っているレミリア・スカーレットは我がままで暴力的なはずですよ」
「一方通行の愛じゃ意味ないのよ」
「何ていうんでしょうねぇ……、そういうところがお嬢様の……う~ん」
「何が言いたいのよ」
美鈴は少し考えてから、言った。
「……惜しい、そうだ、惜しいんだ。何だかお嬢様はすっごく惜しい人に見えるんですよね。もう一手というか、詰め甘と言うか」
「……本日三度目よ、それ」
溜息も出なかった。自分は、そんなに惜しい人間だったのだろうか。
レミリアは今まで、我がままで聡明な自分を真っ直ぐ伸ばしてきたつもりだ。
その結果、有能な部下に恵まれ、親友に恵まれ、整った地位と環境に恵まれたのだ。
自分は間違っていないと思いたかったが、立て続けに三度『惜しい人』と呼ばれて、なお己を信じられるほど自己を妄信してもいない。
「ねぇ、咲夜と私だったら……どっちを選ぶ?」
「私に聞いてもわかりきったことでしょう」
「客観的にみて」
「……まあ、十人いたら九人は咲夜さんですね」
「何か落ち込んできた」
レミリアはしゃがみ込んで丸まった。情けないやら何やらで、朝っから絶不調だった。
「でもそうなると、霊夢さんは咲夜さんよりお嬢様を選ぶってことになっちゃいますね」
美鈴の言葉にレミリアは、過剰といっていいほどに反応し顔を上げた。
「な、何でそう思うの?」
「あの変人が、大多数の九人に属すると思いますか」
「片腹痛いですよ」美鈴はころころ笑った。
なるほど、霊夢なら確かにそうだろう。そうだ。そんな気がしてきた。
レミリアは、少しだけ心が軽くなったのを感じた。
太陽が雲に隠れて、日差しが少しだけ弱くなっていた。
とにかく、霊夢を、咲夜を信じてみよう。
裏切られたなら、泣きながら明後日の方向にでも走ろうか。
「美鈴、私が明後日の方向に走ったら、付いてきてくれる?」
「……よく分からない質問ですが、お嬢様の願とあらば、地獄へでも、天国でも付いていきましょう」
「そう、でも天国へは行けないわ。ごめんね」
「それじゃあ、なるべく地獄に落ちない程度に調整してくださいね」
笑う美鈴を見て、本当にこの子を部下にしてよかったと泣きそうになるレミリアだった。
☆
一方、咲夜はもう博麗神社についていた。
抜けるような青空のもと、足を踏み出す。階段の下まで飛んできて、石段は歩くことにしたのだ。吐く息が白く濁って、芯まで寒さが浸透した。
一歩、
一歩、
長い石段を踏みしめながら、悔恨の念に浸る。
あんなこと、言わなければよかった。
その一言に尽きる。あんな滅多なことは、言わなければよかった。
思い出す主人の顔、目を見開いて血の気が引いて。自分の一言でころころと変わる表情が、可愛かったのだ。
でも顧みると猛省せざるを得ない。
どう考えても自分が悪い。もしかしたら、変な疑心と不安を持たせてしまったかも知れない。
しかも後の質問が悪かった。
私と霊夢、どちらを殺しますか、そういう内容の問だ。明らかにレミリアは怒っていた。
涼しい顔をしているのは、逆に心底から湧き上がる怒りを抑え込む作業であることを咲夜は知っていた。
自分が霊夢を好きだといったのはもちろん冗談だ。
レミリアがあまりにも煮え切らずにもたもたしているから、切迫した緊張感を持たせたかったのだ。
「……」
咲夜は顔を上げた。
しかし、半分。半分だけは、冗談ではすまない気持ちもあるかもしれない。
咲夜は今まで、恋というものをしたことがないし、これからもするつもりはなかった。
できれば一生を主人に捧げて、美鈴やパチュリーたちと緩やかな人生を送るつもりだった。
ところが、出会ってしまった。
出会ってしまったのだ。
紅白の蝶に。幻想の光華に。
自分の気持ちを整理していけば、明白な答えだ。
自分は霊夢を好いている。
経験がない以上、この好きがどういったベクトルにかかる好きなのかが、咲夜には分からない。
レミリアは、自分が一生気持ちを外に出さないまま、死んでいくと言っていた。
運命を操る主人が見たものなら、そうなるのだろう。
第一、主人の物を横取りする従者なんてただの裏切り者だ。
自分がどういった経緯であの館にいたのかは思い出せないが、小さい時から世話になっていた家のことだ。裏切るなんてもってのほか。だからこの気持ちを忘れて、早くいつもの自分に戻ろう。そうしよう。
胸に響く温かい鼓動を冷やしながら、階段を上りきって鳥居をくぐる。
レミリアが約束した時間まで、まだ時間があった。
境内に、霊夢の姿はない。雪が薄らと降り積もっている古びた賽銭箱がぽつんと座っているだけで、無人だった。
神社の近くには、大きく湯気を立てる温泉がこんこんと湧いていた。当然、無人である。
咲夜はとりあえず母屋に入ってみた。
古臭いにおいと、そこはかとなくノスタルジックな雰囲気が漂う、いつもの居間である。
火を焚いてないと室内でも寒い。隅っこにある囲炉裏は灰をかぶっていた。
隣にある寝室に入る。
まさか、まだ寝ているのでは、と考えた。
そして半分的中。
薄い布団に毛布をかけて、身の凍えるような気温に耐えている霊夢がいた。
カタカタと震えている様を見れば、起きているかどうかなんてすぐにわかる。
「ごきげんよう、霊夢」
「……咲夜?」
しゃがみ込んで話しかけると、霊夢は布団を被ったまま、身を反転させた。
ガチガチと歯が鳴っていて、顔が白い。
「一様迎えに来てみたんだけど、大丈夫?」
「大丈夫じゃないわよ。凍死一歩手前の状態で、昨日から踏ん張っていたわよ」
「それは御苦労さま、立てる?」
「無理、体が動かない」
咲夜はどうしようか、と悩んだが、動けないのなら動かしてやるかと思い、布団を引っぺがした。
「わわっ! ちょっと何してんのよ!」
「馬鹿言ってないで、早く行くわよ。お嬢様がお待ちかねだわ」
咲夜は、薄い寝間着姿の霊夢を見て、何故か気恥しくなるのを感じた。
リボンの髪留めを付けてない霊夢を見たのは、初めてだった。
流れるような黒髪が波打ちながら、蒲団の上に広がっていた。
普段のお転婆さが消え失せ、なにやら大人びて見える。
霊夢は三秒間、自分を抱きしめて暖を取ったが、冷え切った体を抱きしめても、マイナス効果にしかならないと理解した。
霊夢は、手を伸ばした。
ほとんど無意識に。
一番近くて、暖かそうなものに。
がっちり胴を掴まれた咲夜は、ほとんど、何も考えることができないまま、霊夢にかぶさった。
「ちょ、ちょっと」
「うう……あんたもあんまり暖かくないじゃないの」
咲夜を布団のように自身に被せつつ、霊夢は剥がされた布団に手を伸ばした。
外も寒かったために、咲夜の体も冷えていたのである。
「よいしょ……と、これで完璧」
霊夢は、咲夜の上からさらに布団、毛布をかぶり直して、安堵の息を吐いた。
霊夢にとっては、寝起きの半無意識状態だったわけである。
しかし、咲夜にとってはそうはいかない。
ようやく落ち着こうとしていた心が、再び揺れてきていた。
肌に直接感じる体温と、柔らかさ。
そして、匂い。
甘いような、独特の人間の匂い。本能を直接揺さぶるような、匂い。
これが、博麗霊夢。
次第に体が熱くなっているのを感じ取る。
これはやばい。早く、離れなければ。
そう思って、体を起こそうとしても、動かない。
霊夢の足が、咲夜の腰にからみついて、離れさしてくれない。
「霊夢っ……離しなさい」
「いや、寒い」
「お願いだから」
咲夜が身を起しかけたせいで、僅かな隙間が生じた。霊夢は「ん~」と唸りながら、隙間をなくそうと咲夜にくっつく。
それが、咲夜には堪らなかった。
だめだ、落ち着かなければ、と呼吸を整える。
「ん、何か甘いにおいがする」
咲夜の胸に顔を埋めていた霊夢が、呟くように言った。
ああ、さっきのシャンプーのにおいか、と一瞬考える。
思考が働く程度には、咲夜の頭も冷えてきていた。が、
「この匂い、好き」
また、頭が沸騰しそうになる。
わけもなく、好きとか言うな。
早く、お嬢様のところに行かないと。
でももうちょっとくらい、いいかもしれない。なにせまだ時間はある。
そんな咲夜の葛藤を知ってか知らずか、霊夢は薄眼を開けて上目使いで、咲夜を見た。
「後二分」
投げかけられた言葉は、堕落への一歩だった。楽なほうに、自分を誘導させるための。
そう、わかっていた。わかっていたのだ。しかし、誘惑は強烈だった。
「……仕方ないわね」
咲夜はレミリアに謝りつつ体を弛緩させた。何も、淫卑な行いをするわけではない。これは、離してくれない霊夢が悪いと自分に言い聞かせながら。
霊夢は咲夜の胸の位置に顔を埋めていたため、苦しそうにもがもがしてから、咲夜の横に顔を出した。
すぐに心地よい重みを感じながら、寝息を立て始める。
咲夜は体制が悪くて、霊夢の隣にくっ付くように移動して、一息ついた。
目を瞑って、手を霊夢の腰に回して、足を絡ませる。
確かに、暖かい。
誰かと寝るなんて久しぶりだったので、ずいぶんと新鮮に感じた。
少し前に美鈴が、いつの間にかベットに潜り込んでいたのが、最後の記憶だった。
妖怪と人間の体温の違いに、不思議な感覚を覚えながら、眉を歪めた。
やっぱり、これをお嬢様に見られたら多分、殺されるなと心の片隅で、思った。
二分、
二分経ったら、出発しよう。
そう言い聞かせて、霊夢の肩に顔を埋めた。甘ったるい匂いが、思考を侵していった。
朝早くから仕事をしている咲夜には、侵食に耐える理性など持ち合わせていなかった。
淡い快楽で霞んだ世界の中、咲夜は霊夢とお茶を楽しんでいる夢をみた。
結局、咲夜が霊夢を連れて紅魔館に戻ってきたのは、昼近くになってからだった。
嗅覚が鋭いレミリアに、咲夜のメイド服についた霊夢の匂いは誤魔化せず、怒りより悲しみが勝ってしまったレミリアは「咲夜が霊夢取ったぁ~!」と泣いて明後日の方向に走り、何故か美鈴も後を追い、両方を咲夜が捕まえ美鈴をリリースし、レミリアを霊夢がなだめて、その場は納まった。
レミリアは妥協し『咲夜とは浮気ならかまわない、ただし私を誰よりも大事にしなさい』と駄々をこねた。
そして、その分を取り返すかのように霊夢に半日ベタベタひっつき、お泊まり会まで開いたのであった。
霊夢は苦笑いだったが、決して嫌な顔はしていなかった。
レミリアも、美鈴も笑っていた。もちろん、パチュリーとアリス、小悪魔も。
ただし、咲夜はこっそり、己の胸にじわじわとした思いを感じて、溜息を吐いていた。
これで博麗幻恋記一巻は、御終いです。
お泊まり会でもいろいろとハプニングが起きたのですが、その話は、また今度。
できれば椛霊という新境地の開拓もお願いします。
もちろんヤンデレ椛で。
いまからでも続きが楽しみだ…
>>全キャラと霊夢をいちゃいちゃさせるだけの、百合シリーズを書きたかった。これに尽きます。
あなたは神か… 最高にありがたい…
夜伽と創想の境界を見極めて、椛×霊夢を!
ヤンデレ椛という単語に、猛烈に恥ずかしい過去をつつかれた気分に陥りましたorz
あの時のことは忘れてください。なにとぞ、なにとぞ。
>>2さん
任せておいてください!
>>3さん
戦友とお呼びしても、よろしいしょうか
>>4
椛×霊夢に需要があるとは考えてもいませんでした!
今から書き始めます!
咲霊は咲夜さんがお姉さんなのがジャスティスですが純情な咲夜さんもなかなか...
不足していた咲霊分を補給させていただき、感謝の一言です。もっと、もっと咲霊を!(
次回は虹川姉妹のお話でしょうか。心待ちにしております。
純情咲夜さんに朴念仁霊夢、なんと素敵な組み合わせなことか
でも椛霊ってのも見てみたいかも!
咲夜の日々の疲れものんびりとした霊夢に触れて癒されるようになっていくのでしょうか
今のところは悩みも増えて余計に疲れてしまいそうですけれど
とてもとても素敵なシリーズを始められましたね
さとりと霊夢も気になるところですし、鬼'sと霊夢なども見てみたいです
両方4・4で永林×霊夢が見て見たいですねぇ。
甘さ4、ミルク4の天子→←霊夢をリクすることは許されるでしょうか...
ただパチュリーと美鈴は少し自重しろww
しかしこの甘さで標準……だと……?
これは激しく期待せざるを得ない、4以上のいちゃいちゃ的な意味で。
咲霊追加で!
>>7さん
もっとやらせていただきます!
>>8さん
ありがとうございます!
>>9さん
元ネタを知っていらっしゃるとは……吃驚しました。
勇萃霊とさと霊追加で!
>>10さん
変態咲夜さんは個人的にですが、苦手なので……。
次もがんばります!
>>11さん
ありがとうございます!
永霊4・4追加で!
>>12さん
もちろんです! ありがとうございます!
天霊4・4追加で!
>>13さん
ありがとうございます! 期待していてください!
でも私は期待されると弱い人間なので……若干……どうしたら……。
めちゃくちゃ面白かった!
皆の関係とかが原作っぽくて、なのに恋の方では乙女過ぎてたまらんww
あっちの方で是非とも5を見たいが、でもこの直前のまんまで止めてて欲しいとも思う自分がいる
霊夢さんマジ魔性