さとり様が風邪を引いた。
話を聞いたあたい――お燐は、おくうとともにすぐに飛んで駆け付けた。
おくうが先導して扉を蹴り破る。
「さとり様! お体は大丈夫ですか!!」
「違う、隣の部屋!」
その前に扉を蹴り破るのはどうかと思うが。
ベッドで横になっているさとり様はまさに虫の息だった。
顔は真っ赤。苦しそうに口で呼吸する度に、喉がひゅーひゅー鳴っている。
すでに多くのペットがそれを取り囲み、病床を見守っていた。
「さとり様……」
その姿が、今にも消えいってしまいそうで、思わず名前を呼ぶ。
それに気付いたさとり様は無理に笑顔を作ってくれた。
「ああ……よく来てくれ……げほっげほっ――!」
しゃがれた声は急に中断される。
これほどまでに弱ったさとり様を見たのは初めてだった。これが、心を読むことで他者に恐れられ、静かながらも居丈高に振舞ってきた妖怪"さとり"の姿だろうか。
駆け寄っても、何もできないことが歯痒い。
さとり様のペットになって、人の姿を取れるようになって――それでご主人様の一大事に何もできないことが、悔しくて仕方がない。
「さとりさまぁ……」
「げほっ……私も、これまでかしら」
そんなこと――! 熱いものが込み上げて来て、その言葉が出なかった。
「心から想ってくれるなんて……私も最期くらいはいい思いをできるのね」
天井を見ながら、さとり様は自嘲気味に言った。
見ていて痛々しい。
このまま……さとり様の言う通り『最期』になってしまうのだろうか。
まさかあたいはご主人様の死体を運ぶことになるのだろうか。
嫌だ。
嫌だ。
そんなこと、頼まれてもしない。
楽しくない。
死体運びはもっと……なんというか、自由じゃなくちゃいけないんだ。
だから。
だから、さとり様……。
どうか、死なないでほしい……。
何か出来ることはないか、あたいは思案する。
そうだ。
「さとり様、何か欲しいものはありませんか!」
「けほっ……欲しいもの?」
さとり様は、虚ろな瞳でこちらを見つめ返す。
何か、元気になるようなことをしてあげられないだろうか。精一杯考えて出た案は、まるで気休めのようなものだった。
「……こいしの、こいしの顔が見たい……」
そう。この場に、妹のこいし様だけがいなかった。今もどこかをふらついているのだろう。
無意識でふらつくこいし様を見つけ出すことは、困難を極める。
だが、無理とは言えない。
「おくう!」
「あいあいさー!」
おくうが一つ敬礼をすると踵を返し、扉を蹴り破って飛んでいった。
おくうの、その神とかなんとかの力ならできる――私はそう確信していた。
それから五分後のことである。
おくうが一枚のドロワーズを持って戻ってきた。
「さとり様の大好きなこいし様のドロワーズを持ってきました!」
「その"大好きな"って絶対ドロワーズにかかってるわよね!?」
おくうが数瞬考えて、言い換える。
「さとり様の大好きなドロワーズを持ってきました!」
「違う! 私に下着集めの趣味があるみたいじゃない!」
「おくう、ナイス妥協案!」
「妥協しすぎ! 私が見たいのは中身の方!」
中身の方……?
「つまり……そそ(女性の陰部)が見たいとか?」
「あなたたちはどれほど私を変態に仕立て上げたいのよ……」
そもそもあたいたちがこいし様を連れてくるなんてどだい無理な話だった。
他にできることがないか、あたいは思案する。
そうだ、医者を呼ぼう。
この際、嫌われていることなんて気にしても仕方がない。
しかし、医者なんていただろうか。鬼はまさに質実剛健という言葉がそのもの。病気なんて覇気で治しそうな連中ばかりだ。病気を操る土蜘蛛が台頭できないのもそこから来ているに違いない。
ちなみに、既に土蜘蛛には相談している。「私が操れるのは主に感染症。それは病気を流行らせるかどうかの話で、個人の特定の病気を治すことはできない」と白旗を揚げていた。
それも唯一のアテだった。それもなくなって――。
あたいたちが頼れる医者はどこにいるのだろうか。
それは――地上。
未だ多くを知らない地上を探すしかなかった。
しかし、それをさとり様は許して下さるだろうか。さとり様の傍にいるべきではないだろうか――?
さとり様は、あたいの目をしっかりと見つめ返してくれた。
「行ってきなさい。私は、大丈夫だから……」
心の内を理解して、さとり様は優しい声でそう言ってくれた。
だったら、もう、なにも気にかけることはない。
「行くよ、おくう」
「……えぇっと、どこへ?」
口に出さない会話はときに不便だと思う。
地上の繁華街を越え、風の吹き抜ける洞を抜け、ありんとおくうは博麗神社まで飛んだ。
――地上で頼れる人間と言えば巫女と魔法使いぐらいだったから。
とりあえず障子を蹴り破ろうとしたおくうを制止する。
あたいはゆっくりと障子を開いた。
そこには意外な光景が広がっていた。
「――げほっ、げほっ」
「魔理沙、だいじょうぶ? もうすぐ死ぬんじゃない?」
布団に包まって苦しそうにしている魔法使いと、その様を眺めているだけの巫女がいた。
巫女はあたいたちに気付くと、ひらひらと手を振った。
「息を切らして、何か用事? ――見ての通り、病人一人で手一杯なんだけど」
茶をしばいているだけで手一杯とは、巫女は省エネルギーな生き物である。
……観察している場合じゃなかった。
あたいはここに来た本分を思い出す。
「医者を探してるんだよ」
「風邪くらい自分とこで寝て直しなさい。ねえ、魔理沙。あんたも家に帰ってくれればいいんだけど」
意に介さず、といった感じである。最初から、あまり頼りになるとは思っていなかったが。
魔法使い――魔理沙は、返事をする。
「あんな……何の菌が飛んでいるかわからない不潔な場所に居たら、病気が悪化する、ぜ」
「へえ、自覚あったんだ」
魔理沙は強がりを言っていても、弱っているのが目に見えていた。体は随分と細くなり、辛そうに口で呼吸をする様子は、まるで出店の金魚すくいの金魚みたいだった。
それを涼しい顔で眺めている博霊の巫女――霊夢。
人間とは支えあって生きているものだと聞いたが、目の前に広がっていた光景はその言葉とはまさに地上と地下ほどにかけ離れていた。
「う~にゅ~! いしゃ~!」
ああ、空に言われなかったらまた忘れてしまうところだった。
「とにかく急ぎで医者を探しているんだ。妖怪の病気も治せるほど、腕の立つ医者をね」
すると霊夢は、あのねえ、と顔をしかめた。
「地下にはいなかったんでしょ? そんなのが地上にいると思う?」
確かに、霊夢の言い分もわかる。人間が栄える地上で、妖怪の相手もできる医者がいるはずがなかった。
やはり、諦めるしかないのだろうか――。
何も打つ手がないのだろうか。
「――私のことを呼び出しておいて、けったいなことを言うわね。貴方は」
言葉と共に奥の襖が開き、赤と青に彩られた服を着た女性が現れた。
その姿を認めた霊夢は、一つ息を吐く。
「――ああ、いたわね。医者」
女性は布団の脇に腰を下ろし、魔理沙の様子を確認し始めた。眼球を覗いたり、口を開けさせたり……あたいには何をしているのか、さして意味のあるようなことには見えなかった。
一つ咳払いをし、霊夢に向き直る。そして、宣告する。
「……直に死ぬわね」
その予想は外すほうが難しいと思う。
それから女性は笑顔で続ける。
「治療費は高くつくわよ」
「ふうん」
霊夢の反応は淡白だった。是が非でも払うつもりはないのだろう。
女性は溜め息を吐いて、今度は魔理沙に向かって言う。
「治療費は高くつくわよ」
「う……」
言葉に詰まる。
「払えないなら、私は知らないわ」
うわあ、病人に詰め寄って楽しそうだよこの人。
魔理沙は、風邪のせいか潤んだ瞳で言う。そこには諦めの表情。
「……なんでもするから、助けて……」
「その言葉が聞きたかった」
それは、本人の口から聞くもんじゃないと思う。
それからの手際はまさに圧巻だった。
処置の間に、注射器から試験管から……名前のわからない機器まで登場した。手際がよく、無駄がない。
おそらく助手と思われる兎は、魔理沙の服を脱がすとか、それくらいしかしていなかった。それはきっと兎に実力がないのではなく、作業の完璧さに取り入る隙がなかったのだろう。
あまりに迅速、目まぐるしい動き。
あたいは口を挟むことはできなかった。ただ、息を呑んで見ていることしかできなかった。
そして、どれくらいの時間が経っただろうか。気がつけば霊夢が昼寝を敢行していた。
助手が女性の汗をタオルで拭ったところで、女性は、
「話は聞いていたけど、ごめんなさいね。妖怪より人間の方が早く死んでしまうものだから」
あたいたちは声をかけられた。
女性の声はずっと大人びていて、思わず萎縮してしまう。
「い、いえ……」
特にわけもなく、否定してしまう。
すると大人しくしていたおくうが、体を乗り出す。
「さとり様を助けてください!」
女性は頷いた。
女性に対して、あたいたちはさとり様の病状を説明した。「大変大変」としか言わないおくうには任せて置けないので、ほとんどあたいが説明することになる。出来るだけ思い出し、懇切丁寧、齟齬のないように努めた。
説明を終えると彼女は「想像通りね」と呟いた。
「私は八意永琳。本業は薬師をしているわ」
永琳さんは言葉を続ける。
「貴方達の主人の病気と魔理沙の病気は、まったく関係ないものではありません。少し前から、地上と地下は多少なりとも交流が出来ました。それは妖怪に限りません。例えば病原体にも言えることです。地下の病原体が地上に、地上の病原体が地下に。話は変わりますが、地下の病原体が地下で大きな勢力を持てないのは、地下の住民がそれに対して抗体を持っているからです。地上にも同じことが言えます。では、これらが交わったらどうなるのか、想像できますか?」
「……」
「すみません、もっとわかりやすくお願いします」
「あら、動物にもわかるように簡単に説明したつもりだけど」
あたいは永琳さんの後ろの助手兎に一瞥をくれる。困惑した表情で、こっち見んな、と眼が言っている。兎も大して理解できていないのだろう。
「本来は土蜘蛛が対処していると考えましたが――直接、人の往来があれば防ぎきれないこともあるでしょう。人間は新しい病原体への抵抗力が低いです。一人でも発病したのなら、蔓延しないように。蔓延しても、すぐ収められるように、薬を作らないといけなかった。薬を作るにはサンプルが必要だったので対応がすこし遅れたけれど、これで一安心でしょうね」
「結論だけお願いします」
「せっかちねえ」
こっちは急ぎだよ。
「それじゃあ結論だけ言うけど、私は行けないわ」
……な。
「な、なんで!?」
「まだ私はここを離れるわけにはいかないの」
ちょっと待って。それじゃああたいたちの苦労は無駄骨だったってこと?
……そういうわけにはいかない。やっと医者を見つけたのだ。無理矢理にでも連れて行くしかない。
そうしないと、さとり様が助けられないのだ。
同じ考えに至ったのか、おくうが身構える。
それでも永琳さんはあたいたちを眺めているだけだ。
あたいたちを目の前にしてもまったく動じない。どれだけ余裕のある人なのか。この人は人間ではないように思えた。もっと別の……強大なもの。空が神を飲み込んでから感じた恐れよりも遥かに大きい何か。
あたいは少し後ずさる。
……それを見て、永琳さんは溜め息を吐いた。
「……私は何もしないとは言ってないわよ」
「……えっ」
「私の本業は薬師。地上の病原体に対する薬くらい準備してあるわ。妖怪に効くようなのもね。それを飲ませてあげなさい」
それで。あたいは憂慮する。
「それで、大丈夫なんでしょうか……?」
「大丈夫。私の言う通りにすれば何も心配することは有りません」
永琳さんははっきりと言ってくれた。
「――それじゃあ、これ。あと体温計も付けておくわ、取っておきなさい」
すでに準備してあったのか、巾着袋には長い紐の輪がついていて、それを首にかけられた。
「落とさないように、ね」
地霊殿へと戻る道中は決して明るいものではなかった。
結果としては、医者を連れてくることはできなかった。あたいたちは失敗したのだ。
まさか、薬だけ貰ってきました、とは言えないだろう。
――よし、医者を適当に見繕うことにしよう!
ずっと横になっていると、幾分か体が楽になった。
ペット達の心は不安そのものだったけれど、寝辛くはなかった。頭がぼうっとしてうまく聞こえないからだろうか。
寝汗をたくさんかいたつもりだったけれど、服は濡れていなかった。誰かが着替えさせてくれたのだろうか。
――誰かが近づいてくる。そんな気配がした。
きっとお燐とおくうと……あと一人、誰かしら。
扉が開く。
「さとり様――医者を連れてきました!」
二人の間、むすっとした顔で立っている影は、ブロンドの髪。緑眼に嫉妬の炎を灯している。
「――医者よ」
「いや、はしひ」
「医者よ」
さて、どうしたものか。
「あなたの体温測ったら帰っていいらしいわ」
二人が席を外したと同時、橋姫パルスィはぶっちゃけた。
体温計を手渡される。前をはだけさせて、棒状のそれを腋に挟む。
あとは少しの辛抱だ。
「……私の弱っている姿を見て楽しいですか?」
なんとなく嫌味を言ってみる。
「……あの子達は素直なんだから、そういうことはあんまり言わないの」
橋姫に諭されるとは思わなかった。
……じゃあなんて言えばいいんだろう。
「いやいや言いながらも来てくれるあなたが好きですよ」
「そういうのはあなたのペットたちに言ってやりなさい」
パルスィは周りを見渡す。つられて私も、今更確認する。
――私のベッドはたくさんのみんなに囲まれていた。
パルスィは笑う。
「たくさんの連中に看取られようなんて、妬ましい」
ああ、なるほど。医者の代役に水橋パルスィという選択はあながち間違いではなかったのだろう。
私は少し気分が良くなっていた。
「ほら、体温計渡しなさい」
腋から引き抜いて、それを渡す。
彼女は体温計の表示を読む。
「ええと――37度3分」
……うん。
「ぷっはははははっ!」
「な、何笑っているのよ!」
「だって、くふふっ……どこが風邪よっ! 微熱も微熱じゃない!」
「いやいや待ちなさい! だって私死ぬほど辛いわよ!」
「普段元気な奴って大概そう言うもんよっ、ぷっははははははあ」
「笑うなあ! 笑うなあっ!」
薬を飲んでしばらく寝ていればすぐ良くなるだろう――医者でもない橋姫に言われてしまった。
「さとり様……」
「ん、なに?」
返事は、小さい寝息。お燐もおくうも眠ってしまった。私の部屋で。
背は私よりずっと高いのに、まだまだ子供だ。
私は、昼に寝すぎたせいでまったく寝付けないでいた。
がたん――物音が聞こえた。
誰かいる。私は知っている。
「――こいし、でしょう?」
「……あはは」
妹は、笑っていた。
手には抱えるほどの大きさの袋を持っていた。
「お薬」
袋の中身を手にとって、見せてくれる。
それは、星。
小さな手のひらに、小さな星が散らばっていた。
「……金平糖」
一つ手に取る。白い、ごつごつと歪な形をしたそれを、口に含む。
そして、咀嚼する。
甘い。
それはそうだろう。砂糖の塊なのだから。
でもこいしは、
「元気になった?」
私に尋ねる。
たった一粒なのに、甘味が口全体に広がっていた。
「……元気になったわ」
私は、微笑んで見せた。
「……?」
何かを見つけたのか、こいしがベッドの中を漁った。
たまに私の脚に当たってくすぐったい。
「どうしたの?」
取り出したるは、ドロワーズ一枚。
こいしの小さな手に、ドロワーズ一枚。
……ああ、と私は頷く。
こいしはじっと私を見て、微笑む。
「ねえ、なんで私のドロワーズがベッドの中にあったのかな? しかも若干濡れてるんだけど」
それはね、こいし。
「私が汗をかいたからだよ」
――それからこいしはしばらく姿を見せなかったという。
話を聞いたあたい――お燐は、おくうとともにすぐに飛んで駆け付けた。
おくうが先導して扉を蹴り破る。
「さとり様! お体は大丈夫ですか!!」
「違う、隣の部屋!」
その前に扉を蹴り破るのはどうかと思うが。
ベッドで横になっているさとり様はまさに虫の息だった。
顔は真っ赤。苦しそうに口で呼吸する度に、喉がひゅーひゅー鳴っている。
すでに多くのペットがそれを取り囲み、病床を見守っていた。
「さとり様……」
その姿が、今にも消えいってしまいそうで、思わず名前を呼ぶ。
それに気付いたさとり様は無理に笑顔を作ってくれた。
「ああ……よく来てくれ……げほっげほっ――!」
しゃがれた声は急に中断される。
これほどまでに弱ったさとり様を見たのは初めてだった。これが、心を読むことで他者に恐れられ、静かながらも居丈高に振舞ってきた妖怪"さとり"の姿だろうか。
駆け寄っても、何もできないことが歯痒い。
さとり様のペットになって、人の姿を取れるようになって――それでご主人様の一大事に何もできないことが、悔しくて仕方がない。
「さとりさまぁ……」
「げほっ……私も、これまでかしら」
そんなこと――! 熱いものが込み上げて来て、その言葉が出なかった。
「心から想ってくれるなんて……私も最期くらいはいい思いをできるのね」
天井を見ながら、さとり様は自嘲気味に言った。
見ていて痛々しい。
このまま……さとり様の言う通り『最期』になってしまうのだろうか。
まさかあたいはご主人様の死体を運ぶことになるのだろうか。
嫌だ。
嫌だ。
そんなこと、頼まれてもしない。
楽しくない。
死体運びはもっと……なんというか、自由じゃなくちゃいけないんだ。
だから。
だから、さとり様……。
どうか、死なないでほしい……。
何か出来ることはないか、あたいは思案する。
そうだ。
「さとり様、何か欲しいものはありませんか!」
「けほっ……欲しいもの?」
さとり様は、虚ろな瞳でこちらを見つめ返す。
何か、元気になるようなことをしてあげられないだろうか。精一杯考えて出た案は、まるで気休めのようなものだった。
「……こいしの、こいしの顔が見たい……」
そう。この場に、妹のこいし様だけがいなかった。今もどこかをふらついているのだろう。
無意識でふらつくこいし様を見つけ出すことは、困難を極める。
だが、無理とは言えない。
「おくう!」
「あいあいさー!」
おくうが一つ敬礼をすると踵を返し、扉を蹴り破って飛んでいった。
おくうの、その神とかなんとかの力ならできる――私はそう確信していた。
それから五分後のことである。
おくうが一枚のドロワーズを持って戻ってきた。
「さとり様の大好きなこいし様のドロワーズを持ってきました!」
「その"大好きな"って絶対ドロワーズにかかってるわよね!?」
おくうが数瞬考えて、言い換える。
「さとり様の大好きなドロワーズを持ってきました!」
「違う! 私に下着集めの趣味があるみたいじゃない!」
「おくう、ナイス妥協案!」
「妥協しすぎ! 私が見たいのは中身の方!」
中身の方……?
「つまり……そそ(女性の陰部)が見たいとか?」
「あなたたちはどれほど私を変態に仕立て上げたいのよ……」
そもそもあたいたちがこいし様を連れてくるなんてどだい無理な話だった。
他にできることがないか、あたいは思案する。
そうだ、医者を呼ぼう。
この際、嫌われていることなんて気にしても仕方がない。
しかし、医者なんていただろうか。鬼はまさに質実剛健という言葉がそのもの。病気なんて覇気で治しそうな連中ばかりだ。病気を操る土蜘蛛が台頭できないのもそこから来ているに違いない。
ちなみに、既に土蜘蛛には相談している。「私が操れるのは主に感染症。それは病気を流行らせるかどうかの話で、個人の特定の病気を治すことはできない」と白旗を揚げていた。
それも唯一のアテだった。それもなくなって――。
あたいたちが頼れる医者はどこにいるのだろうか。
それは――地上。
未だ多くを知らない地上を探すしかなかった。
しかし、それをさとり様は許して下さるだろうか。さとり様の傍にいるべきではないだろうか――?
さとり様は、あたいの目をしっかりと見つめ返してくれた。
「行ってきなさい。私は、大丈夫だから……」
心の内を理解して、さとり様は優しい声でそう言ってくれた。
だったら、もう、なにも気にかけることはない。
「行くよ、おくう」
「……えぇっと、どこへ?」
口に出さない会話はときに不便だと思う。
地上の繁華街を越え、風の吹き抜ける洞を抜け、ありんとおくうは博麗神社まで飛んだ。
――地上で頼れる人間と言えば巫女と魔法使いぐらいだったから。
とりあえず障子を蹴り破ろうとしたおくうを制止する。
あたいはゆっくりと障子を開いた。
そこには意外な光景が広がっていた。
「――げほっ、げほっ」
「魔理沙、だいじょうぶ? もうすぐ死ぬんじゃない?」
布団に包まって苦しそうにしている魔法使いと、その様を眺めているだけの巫女がいた。
巫女はあたいたちに気付くと、ひらひらと手を振った。
「息を切らして、何か用事? ――見ての通り、病人一人で手一杯なんだけど」
茶をしばいているだけで手一杯とは、巫女は省エネルギーな生き物である。
……観察している場合じゃなかった。
あたいはここに来た本分を思い出す。
「医者を探してるんだよ」
「風邪くらい自分とこで寝て直しなさい。ねえ、魔理沙。あんたも家に帰ってくれればいいんだけど」
意に介さず、といった感じである。最初から、あまり頼りになるとは思っていなかったが。
魔法使い――魔理沙は、返事をする。
「あんな……何の菌が飛んでいるかわからない不潔な場所に居たら、病気が悪化する、ぜ」
「へえ、自覚あったんだ」
魔理沙は強がりを言っていても、弱っているのが目に見えていた。体は随分と細くなり、辛そうに口で呼吸をする様子は、まるで出店の金魚すくいの金魚みたいだった。
それを涼しい顔で眺めている博霊の巫女――霊夢。
人間とは支えあって生きているものだと聞いたが、目の前に広がっていた光景はその言葉とはまさに地上と地下ほどにかけ離れていた。
「う~にゅ~! いしゃ~!」
ああ、空に言われなかったらまた忘れてしまうところだった。
「とにかく急ぎで医者を探しているんだ。妖怪の病気も治せるほど、腕の立つ医者をね」
すると霊夢は、あのねえ、と顔をしかめた。
「地下にはいなかったんでしょ? そんなのが地上にいると思う?」
確かに、霊夢の言い分もわかる。人間が栄える地上で、妖怪の相手もできる医者がいるはずがなかった。
やはり、諦めるしかないのだろうか――。
何も打つ手がないのだろうか。
「――私のことを呼び出しておいて、けったいなことを言うわね。貴方は」
言葉と共に奥の襖が開き、赤と青に彩られた服を着た女性が現れた。
その姿を認めた霊夢は、一つ息を吐く。
「――ああ、いたわね。医者」
女性は布団の脇に腰を下ろし、魔理沙の様子を確認し始めた。眼球を覗いたり、口を開けさせたり……あたいには何をしているのか、さして意味のあるようなことには見えなかった。
一つ咳払いをし、霊夢に向き直る。そして、宣告する。
「……直に死ぬわね」
その予想は外すほうが難しいと思う。
それから女性は笑顔で続ける。
「治療費は高くつくわよ」
「ふうん」
霊夢の反応は淡白だった。是が非でも払うつもりはないのだろう。
女性は溜め息を吐いて、今度は魔理沙に向かって言う。
「治療費は高くつくわよ」
「う……」
言葉に詰まる。
「払えないなら、私は知らないわ」
うわあ、病人に詰め寄って楽しそうだよこの人。
魔理沙は、風邪のせいか潤んだ瞳で言う。そこには諦めの表情。
「……なんでもするから、助けて……」
「その言葉が聞きたかった」
それは、本人の口から聞くもんじゃないと思う。
それからの手際はまさに圧巻だった。
処置の間に、注射器から試験管から……名前のわからない機器まで登場した。手際がよく、無駄がない。
おそらく助手と思われる兎は、魔理沙の服を脱がすとか、それくらいしかしていなかった。それはきっと兎に実力がないのではなく、作業の完璧さに取り入る隙がなかったのだろう。
あまりに迅速、目まぐるしい動き。
あたいは口を挟むことはできなかった。ただ、息を呑んで見ていることしかできなかった。
そして、どれくらいの時間が経っただろうか。気がつけば霊夢が昼寝を敢行していた。
助手が女性の汗をタオルで拭ったところで、女性は、
「話は聞いていたけど、ごめんなさいね。妖怪より人間の方が早く死んでしまうものだから」
あたいたちは声をかけられた。
女性の声はずっと大人びていて、思わず萎縮してしまう。
「い、いえ……」
特にわけもなく、否定してしまう。
すると大人しくしていたおくうが、体を乗り出す。
「さとり様を助けてください!」
女性は頷いた。
女性に対して、あたいたちはさとり様の病状を説明した。「大変大変」としか言わないおくうには任せて置けないので、ほとんどあたいが説明することになる。出来るだけ思い出し、懇切丁寧、齟齬のないように努めた。
説明を終えると彼女は「想像通りね」と呟いた。
「私は八意永琳。本業は薬師をしているわ」
永琳さんは言葉を続ける。
「貴方達の主人の病気と魔理沙の病気は、まったく関係ないものではありません。少し前から、地上と地下は多少なりとも交流が出来ました。それは妖怪に限りません。例えば病原体にも言えることです。地下の病原体が地上に、地上の病原体が地下に。話は変わりますが、地下の病原体が地下で大きな勢力を持てないのは、地下の住民がそれに対して抗体を持っているからです。地上にも同じことが言えます。では、これらが交わったらどうなるのか、想像できますか?」
「……」
「すみません、もっとわかりやすくお願いします」
「あら、動物にもわかるように簡単に説明したつもりだけど」
あたいは永琳さんの後ろの助手兎に一瞥をくれる。困惑した表情で、こっち見んな、と眼が言っている。兎も大して理解できていないのだろう。
「本来は土蜘蛛が対処していると考えましたが――直接、人の往来があれば防ぎきれないこともあるでしょう。人間は新しい病原体への抵抗力が低いです。一人でも発病したのなら、蔓延しないように。蔓延しても、すぐ収められるように、薬を作らないといけなかった。薬を作るにはサンプルが必要だったので対応がすこし遅れたけれど、これで一安心でしょうね」
「結論だけお願いします」
「せっかちねえ」
こっちは急ぎだよ。
「それじゃあ結論だけ言うけど、私は行けないわ」
……な。
「な、なんで!?」
「まだ私はここを離れるわけにはいかないの」
ちょっと待って。それじゃああたいたちの苦労は無駄骨だったってこと?
……そういうわけにはいかない。やっと医者を見つけたのだ。無理矢理にでも連れて行くしかない。
そうしないと、さとり様が助けられないのだ。
同じ考えに至ったのか、おくうが身構える。
それでも永琳さんはあたいたちを眺めているだけだ。
あたいたちを目の前にしてもまったく動じない。どれだけ余裕のある人なのか。この人は人間ではないように思えた。もっと別の……強大なもの。空が神を飲み込んでから感じた恐れよりも遥かに大きい何か。
あたいは少し後ずさる。
……それを見て、永琳さんは溜め息を吐いた。
「……私は何もしないとは言ってないわよ」
「……えっ」
「私の本業は薬師。地上の病原体に対する薬くらい準備してあるわ。妖怪に効くようなのもね。それを飲ませてあげなさい」
それで。あたいは憂慮する。
「それで、大丈夫なんでしょうか……?」
「大丈夫。私の言う通りにすれば何も心配することは有りません」
永琳さんははっきりと言ってくれた。
「――それじゃあ、これ。あと体温計も付けておくわ、取っておきなさい」
すでに準備してあったのか、巾着袋には長い紐の輪がついていて、それを首にかけられた。
「落とさないように、ね」
地霊殿へと戻る道中は決して明るいものではなかった。
結果としては、医者を連れてくることはできなかった。あたいたちは失敗したのだ。
まさか、薬だけ貰ってきました、とは言えないだろう。
――よし、医者を適当に見繕うことにしよう!
ずっと横になっていると、幾分か体が楽になった。
ペット達の心は不安そのものだったけれど、寝辛くはなかった。頭がぼうっとしてうまく聞こえないからだろうか。
寝汗をたくさんかいたつもりだったけれど、服は濡れていなかった。誰かが着替えさせてくれたのだろうか。
――誰かが近づいてくる。そんな気配がした。
きっとお燐とおくうと……あと一人、誰かしら。
扉が開く。
「さとり様――医者を連れてきました!」
二人の間、むすっとした顔で立っている影は、ブロンドの髪。緑眼に嫉妬の炎を灯している。
「――医者よ」
「いや、はしひ」
「医者よ」
さて、どうしたものか。
「あなたの体温測ったら帰っていいらしいわ」
二人が席を外したと同時、橋姫パルスィはぶっちゃけた。
体温計を手渡される。前をはだけさせて、棒状のそれを腋に挟む。
あとは少しの辛抱だ。
「……私の弱っている姿を見て楽しいですか?」
なんとなく嫌味を言ってみる。
「……あの子達は素直なんだから、そういうことはあんまり言わないの」
橋姫に諭されるとは思わなかった。
……じゃあなんて言えばいいんだろう。
「いやいや言いながらも来てくれるあなたが好きですよ」
「そういうのはあなたのペットたちに言ってやりなさい」
パルスィは周りを見渡す。つられて私も、今更確認する。
――私のベッドはたくさんのみんなに囲まれていた。
パルスィは笑う。
「たくさんの連中に看取られようなんて、妬ましい」
ああ、なるほど。医者の代役に水橋パルスィという選択はあながち間違いではなかったのだろう。
私は少し気分が良くなっていた。
「ほら、体温計渡しなさい」
腋から引き抜いて、それを渡す。
彼女は体温計の表示を読む。
「ええと――37度3分」
……うん。
「ぷっはははははっ!」
「な、何笑っているのよ!」
「だって、くふふっ……どこが風邪よっ! 微熱も微熱じゃない!」
「いやいや待ちなさい! だって私死ぬほど辛いわよ!」
「普段元気な奴って大概そう言うもんよっ、ぷっははははははあ」
「笑うなあ! 笑うなあっ!」
薬を飲んでしばらく寝ていればすぐ良くなるだろう――医者でもない橋姫に言われてしまった。
「さとり様……」
「ん、なに?」
返事は、小さい寝息。お燐もおくうも眠ってしまった。私の部屋で。
背は私よりずっと高いのに、まだまだ子供だ。
私は、昼に寝すぎたせいでまったく寝付けないでいた。
がたん――物音が聞こえた。
誰かいる。私は知っている。
「――こいし、でしょう?」
「……あはは」
妹は、笑っていた。
手には抱えるほどの大きさの袋を持っていた。
「お薬」
袋の中身を手にとって、見せてくれる。
それは、星。
小さな手のひらに、小さな星が散らばっていた。
「……金平糖」
一つ手に取る。白い、ごつごつと歪な形をしたそれを、口に含む。
そして、咀嚼する。
甘い。
それはそうだろう。砂糖の塊なのだから。
でもこいしは、
「元気になった?」
私に尋ねる。
たった一粒なのに、甘味が口全体に広がっていた。
「……元気になったわ」
私は、微笑んで見せた。
「……?」
何かを見つけたのか、こいしがベッドの中を漁った。
たまに私の脚に当たってくすぐったい。
「どうしたの?」
取り出したるは、ドロワーズ一枚。
こいしの小さな手に、ドロワーズ一枚。
……ああ、と私は頷く。
こいしはじっと私を見て、微笑む。
「ねえ、なんで私のドロワーズがベッドの中にあったのかな? しかも若干濡れてるんだけど」
それはね、こいし。
「私が汗をかいたからだよ」
――それからこいしはしばらく姿を見せなかったという。
「汗をかいたから」というさっぱりな理由を述べるさとりに惚れる。