雪が降っている。
白く軽やかな雪が、さんさんと景色を一色に包み込んでいた。
吐いた息が窓を曇らせる。私は手のひらで軽く窓をこすった。
手のひらはしっとりと濡れて、少し冷たかった。
私はただ無数の雪の結晶が紅魔館の庭園を、霧の湖を、そのさらに向こうに見える山々や平原を、白く白く埋めていくのを眺める。
雪は私にはできないことができるんだなぁ。
ぼんやりと私はそんなことを思った。
私は目の前にある景色を隅から隅まで、破壊することはできるのかもしれないが、一色に塗り上げることなんてとてもできない。
私は窓の桟に手をかけて、雪が静かに世界に降り積もるのを見つめていた。
地下室から出られるようになって、私は多くのことを知るようになった。
いや、知る、というより、経験する、というほうが正しいかもしれないか。
地下室にいたとき、退屈と知的好奇心だけは有り余っていたので、冬には地上に雪が降るということを、私は本から学んでいた。
雪が六角形を基調とした結晶を作ることも。あのゆっくりと落ちてくる雪の結晶が、暗く激しく鳴動する雲の中で生まれるということも。屋根に降り積もった雪が建物を押しつぶしてしまったりすることも。
あの狭い地下室の中といえど、495年間は生きてきたのだ。私はほかにもたくさんのことを知っている。
だけど、やっぱり――
「たくさんのことを知ってるってことは、知らないことはほとんどないってことじゃないんだよね」
私は誰に向かってでもなく呟く。
どうもこの世は私の知らないことだらけのようだ。
私は495年間、あの地下室から出なかったことについて、そのことだけを悔やんでいた。
もっと早く外に出ていれば、もっとおもしろいことにもっと早く出会えたのかもしれないのに。
私はそのことについてだけ、とても後悔している。
ときどき妖精メイドたちがこそこそと話をするのを聞くことがある。
495年も地下室に閉じ込められて可哀想に――
彼女たちは私をそのような目で見ているらしい。
そんなこと言われても。
としか、私は思えない。
私はこの生きかた以外にほかの生きかたを知らなかったし、現に今も知らないのだ。
だから、自分が哀れだとか、惨めだとか、不幸だとか、そんなこと考えたこともなかった。
私の知る生活は、地下室の中で寝て、起きて、運ばれてくるご飯を食べて、地上からやってくるお姉さまやパチュリー、咲夜といっしょに遊んで、パチュリーから借りた本を読んで、それからぼーとして、またなんとなく眠くなったから寝て――そんな単純なサイクルの生活だった。否、今だから単純といえるが、当時はそんなこと特に考えなかった。ただ、お姉さまたちはどんな風に暮らしてるんだろうなぁ、とぼんやり想像するだけだった。
もちろん、その想像が、私の羨望に足るものであったこともある。だが、最終的には、その生活には見合った対価が必要なんじゃないかという考えにいつも行き着くのだった。どんな人生にも困難や苦しみがあるということを、私はお姉さまたちの話や本から学んでいたし、それを忘れて己が身を無理に不幸の底に貶めるほど私は愚かではなかった。
――まあ、人の幸不幸は人ぞれぞれだしね。
お姉さまたちの華やかな生活を幻視した後、私はいつも、何も傷つけるわけでもないが何も生むことのできないその考えを自分に納得させて空想を終わらせるのだった。
私はつまらない回想をやめて、暗い空をひらひらと降りてくる雪に意識を戻した。吸血鬼の視力をもってしても数え上げることができないほど、たくさんの氷の結晶が空気を白く冷たく包み込んでいる。
私はふと、この空を舞う儚い雪の粒を一つ残らず全部消してしまおうか、と思った。
本当に気まぐれな思いつきである。
そういえば地下室にいるときはあまり物を壊さなかったなぁと思う。
…………嘘をつきました。ごめんなさい。
結構、ものを大事に扱うのが下手なタイプです。
けど、積極的にものを壊そうとしなかったというのは、事実だった。
力加減がわからず思わず壊してしまったり、気づいたときには壊れていたりしたときはあったが、自分から、ものを壊したいな、と考えたことはそんなになかったと思う。
地下室に閉じ込められてから数年はストレスがたまって、つい椅子やらベッドやらに八つ当たりしてしまうことはあったけど、私にも学習能力はあるもので、それ以降はなるべく破壊活動を控えていたのだ。地下室は基本的に閉じられた空間である。入ってくるものも出ていくものもほとんどないし、あそこにストックされているものもわずかなのである。そのため、私が何も考えずに破壊の能力を使おうとするなら、地下の私の居室は数秒ともせず、ごみ置き場に早変わりしてしまうのだ。そうしたら、暇を潰すものがなくなる。手元に残るのは膨大な時間――すなわち退屈だけである。いくら私の能力でも退屈な時間は破壊できなかった。
だから。
せめて外に出られるようになったのだから。
私は自分の能力をもう少し自由に使ってもいいんじゃないか。
私は平和に降りゆく雪を見ながら、そんな悪い考えを起こした。
私の見ている中、しんしんと雪は降り続ける。
何ものにもとらわれることなく、真っ白い雪は地上に積もってゆく。
害意ある視線を意にも介さず、雪はひたすら広大な自然を包み込んでゆく。
私はなんとなくつまらなくなって――馬鹿らしくなって、捻くれた考えを捨てた。
ここで私の能力を使うのは、とても間違っていることのように思えたのだ。
窓の外の雪が、ただ空から地上へと静かに落ちてくる。
幼い私の心にも、それは『あるものがあるべきところにあるすがた』なのだろうな、となんとなく感じられるのだった。
だから、私はそれを壊してしまうのが惜しくなったのだ。
妬むのでもなく、嫉むのでもなく、私は少し窓の外の雪が羨ましくなった。
「雪見ですか、フランドールお嬢様」
気付けば隣には咲夜が立っていた。口元には穏やかな微笑が浮かんでいる。私も咲夜に笑顔を返した。
「うん、雪を見てた」
「風流ですね」
咲夜もまた窓ガラスをこすって外を見る。咲夜の指がたてるキュッキュという音が、なんとなく可笑しかった。
「お姉さまはどうしたの?」
「レミリアお嬢様ですか? 今、図書館の暖炉の前でパチュリーさまと一緒にかき氷を食べていますよ」
「……かき氷って雪のこと?」
「ええ、まさか、この寒いときに苺シロップやメロンシロップを探す羽目になるとは思いませんでしたわ」
苦笑する咲夜。私も思わず頬が歪むのを抑えられなかった。
「お姉さまったら、風流も何もないなぁ」
「全くですわ。でも、お嬢様がおっしゃるには、こたつの中で食べるアイスが美味しいように、暖炉の前で味わう氷は格別なのだそうです」
「こたつのアイス、暖炉のかき氷――これも花より団子、ってやつなのかな」
「違いありませんわ」
「実になんというか……お姉さまらしいなぁ」
「本当に違いありませんわ」
私と咲夜はくすくすと笑いあう。パチパチと燃える暖炉の前でお姉さまとパチュリーが、氷を掬ったスプーンを口に運ぶ姿が想像できた。パチュリーはいつものどおりつまらなそうな顔をして、お姉さまは容姿相応の子供のように、頬をわずかに赤くしてかき氷を食べるのだ。そして、氷を口の中に入れた瞬間、二人してキーンと痛む頭を抱えこむ。カリスマも何もあったものではない。
だが、それがお姉さまやパチュリーの、さらに言えば紅魔館のあるべき姿なのかもしれなかった。
それはまるで、何の疑問も持たず、他者の目を気にすることもなく空を舞う雪のように――
ひとしきり笑いあった後、私と咲夜は視線を窓の外に戻して、白く彩られてゆく世界を見た。
雪を降らせる冬の冷気が窓越しに伝わってくる。
私と咲夜が黙ってしまったので、部屋の中はとても静かだった。心のなかにも透明な静かさが広がっていた。
「ねえ、咲夜」
私の言葉はその静かさの中から自然と生まれていた。咲夜は小首を傾ける。
「雪ってどんな気持ちなんだろうね?」
私の問いはとてもアホらしいものだった。雪に心などあるわけがない。そんなことわかっているのに、私の口からはそんな戯言が出ていた。
私の口唇はさらに言葉をつむぎ続ける。
「雪ってどんなことを思いながら地面に降ってきるんだろうね。寒かったりしないのかな? 地面に落ちたら痛かったりするのかな?」
…………言った後、私は酷く恥ずかしくなった。私は咲夜に恥ずかしさを悟られないようにするので必死だった。
だが、咲夜はわずかに目元を緩めて、私の言葉に答えてくれた。
「さあ…………私はメイドですから、高い空から降りてくる雪の気持ちはよくわかりませんわ」
咲夜は、窓の向こうの暗い空から休むことなく降ってくる雪を見つめて言った。
「どんな気持ちなのでしょうね――うれしいのか、楽しいのか、悲しいのか、苦しいのか…………フランドールお嬢様がおっしゃったように、寒いのかもしれませんね。ひょっとしたら、氷精や冬妖怪ならわかるのかもしれませんが」
咲夜の表情は優しげだった。全てを白く包み込む雪のように優しかった。
だからだろうか、
「じゃあさ、」
私は自分でも信じられないようなことを咲夜に訊いていた。
「咲夜は私がどんな気持ちでいるのかわかる?」
咲夜はわずかに小首を傾けた。思わぬ言葉が口から出てしまった私は慌てていた。
「その、さ。咲夜とか、ほかの皆からは私はどんな風に映ってるんだろって。ちょっと何か気になっちゃってさ…………」
冬の透き通った空気にやられてしまったのか、私はひどく――素直になってしまっていた。
「自分でも、自分の気持ちがわからなくて……。自分でも自分のことがわからなくて…………。私は今、嬉しいのかなとか、悲しいのかな、とか、わからなくて……………………」
私は自分でも何を言っているのかわからなかった。咲夜のきょとんとした顔の前で私は自分の心ががらんどうになっているような気がした。
「――やっぱり、雪は地面に落ちたら痛いのかな?」
私の混乱した心は止まらなかった。とても制御できない。
ああ、私はいったい何が不安だというのだろう。
「どうなんだろう? 雪は雪として生まれてきたからには、地面に落ちなければならない。それが自然の姿だから。じゃあ、雪が本当に地面にぶつかってしまうとき、そのとき、雪のかけらは痛いって思うんだろうか? つらいって思うんだろうか? 苦しいって思うんだろうか? 悲しいって思うんだろうか――」
窓の外では雪が降り続いている。
優しく優しく雪は世界を包み込んでいる。
雪は静かに何もかもを許容するように世界を抱擁する。
雪たちは雪として生まれ、地面に落ちて、そして、
世界を優しく抱きしめる――
「雪は優しいのかな、咲夜? 雪は優しそうに――あんなに優しそうに世界を覆ってゆく。雪は果たして本当に優しいのかな? 優しそうだけど、優しいのかな?」
私の言葉は、ぎりぎり意味がつながる程度の文章にしかならなかった。
ただ私は気づいていた。このどうしようもなく喚き出したい、走り出したい――何もかもを放棄して逃げ出したい気持ちが何であるか――
私は。
この破壊の悪魔は。
「フランドール・スカーレットはフランドール・スカーレットとして生まれてきて幸福なのかな?」
ああ、そうだ。
雪を羨ましいと思ったのも、そうなのだ。
私は私がわからないのだ。
私は自信をもって私が幸せだといえないのだ。
外を知って悔やんだことは、外のことを知らなかったこと。
そして、何より思い知ったことは、この世界には他者が――私に話しかけてくる他者が存在するということを、知らなかったことなのかもしれない。
ああ、お姉さまやパチュリー、咲夜に美鈴、ほかの紅魔館の皆のことはもちろん知っていた。
だけど、私はその人たちの生きかたについて考えたことはなかった。
地下室にいれば簡単なのだ。
人生は一つしかないから。
だけれど、私は知ってしまった。
霊夢や魔理沙に会って、外に出ることを許されてから。
私が今まで知らないところで、他の人たちがどんなことで笑い、どんなことで泣き、どうして笑い、どうして泣いているのか――
そして、その皆が私にもそうやって笑って泣くことを許してくれたという事実を。
だから――私は迷っているのだ、疑問に思っているのだ。
たとえ頭の中で他者の幸福を羨むのがどんなに馬鹿げたことか理解していても。
自分の幸福を自信をもって肯定することを。
私は生まれてきて初めて、自分の生きる姿に疑問を持っているのだ。
私は肩で息をしていた。何でだろう。運動をしたわけでもないのに、こんなに息が苦しいなんて。
胸が締め付けられるように痛い。やがて、冷静さが戻ってきた私の頭はこの拘束感について、やっと理解することができた、これは心が締め付けられているのだ、と――
私は問題のあまりの重苦しさに立ち眩みを感じていた。私はただうつむいていることしかできなかった。
しかし、救いの手は思ったよりも簡単に差し伸べられた。
「私は十六夜咲夜として生まれてきて、幸福だと感じております」
咲夜だった。
咲夜はひざを突き、目線を私と同じくらいの高さに合わせた。
「私ごとき卑賤の身が、フランお嬢様の幸福について語るなど、とても畏れ多いことです。ですが、十六夜咲夜について語るのでしたら――私は十六夜咲夜としてレミリアお嬢様、フランドールお嬢様にお仕えできて、とても幸せなことだと思っております」
咲夜の目は穏やかだった。だけど、その瞳の奥には鋼鉄のナイフよりも堅く、力強い心が宿っていた。
「私も人間の身とはいえ、そして、人間の身だからこそ、苦しい思い、つらい思いをして参りました。この能力も」
咲夜はそこで言葉をちょっとだけ区切った。少しだけ咲夜は眉を歪め、悲しそうな顔をしたが、その目から想いの強さは抜けることはなかった。
「私を傷つけたことがあります。他人を傷つけたこともあります。なければいいのに、と恨んだことも、あってよかった、と喜んだことも、もうどうでもいい、と虚しくなったこともあります。ですが、私は今、この短い生を振り返って、私のもつ特異な力も含めて――悔やむまいと心に決めております」
そう言って、咲夜は私を優しく抱きしめてくれた。咲夜の姿がいつもより大きく見えた。
「フランドールお嬢様。今、自分が幸福だと言えなくてもよいのです。お嬢様の道はまだ続いております。まだまだお嬢様は生きてゆかれます」
大丈夫です――と咲夜は私に言い聞かせる。
咲夜の静かで力のこもった声が、私の心に明かりを差してゆく。
「大丈夫です、お嬢様。お嬢様は強いお方です。咲夜が請け負いましょう。いつか――今は無理でもお嬢様が胸を張れる日がやってきます。
そのときまで、そして、それからもずっと――――生きておゆきなさい」
咲夜の右手が私の目元をぬぐう。
そのとき、ようやく私は自分の頬を涙が濡らしていることに気がついたのだった。
咲夜は改めてハンカチを取り出し、私の顔を丁寧に拭いた。
その優しい仕草が私の暗い気分を拭い去ってくれているように感じた。
「今、お嬢様がすべきことは泣いていることではありません」
咲夜は優しく優しく私に笑いかける。いつもの咲夜の元気づけられる笑顔だった。
「お嬢様はかわいい女の子なんですから、泣いていては台無しです。笑っているのがお嬢様の一番のお仕事です」
「…………そうかな?」
「そうですとも」
私は自然に笑うことができた。
私を苦しめていた阿呆な考えはすでにどこかへ消し飛んでしまっていた。
咲夜はうなずくように微笑み、立ち上がる。
咲夜はやがてお気に入りの懐中時計を取り出して時間を確認した。
「…………それではフランお嬢様。私はそろそろ仕事に戻らなければなりませんので、失礼いたします」
「うん、わかった」
「お嬢様はまだしばらく雪見を続けられるつもりですか?」
「うーん、どうしようかな…………何か、他に暇を潰せることってある?」
「暖炉の前でかき氷なんていかがでしょう?」
咲夜は悪戯っぽく笑いかける。私は思わず吹き出してしまった。
「暖炉の前でかき氷かぁ…………」
「レミリアお嬢様おすすめの一品ですよ」
「わかった。私ももらうことにするよ。でも、私の分は残っているのかなぁ?」
「ご安心ください。ポリバケツ二杯分はありますから」
「お姉さま、そんなにもってこさせたんだ……」
「ええ、寒いし重いし、大変でしたわ」
咲夜と私はくすくすと笑いあった。
――それはとてもとても幸福な時間だった。
「じゃあ、私は図書館に行くことにするね」
「はい。それでは、失礼いたします」
私が別れを告げると、咲夜は退去の一礼をした。そこで、私はしなくてはならないことを一つ思い出した。
「そうだ、咲夜」
私の声に咲夜がきょとんとした顔をする。私は最大限の笑顔で咲夜に伝えた。
「咲夜……ありがとう」
その言葉に咲夜は嬉しそうに微笑んだ。「御礼を言っていただけるほどのことではありません」という言葉を残して、咲夜はいつものようにその場からいなくなった。
「さて、お姉さまのところにでも行くとするか」
私の生きてきた道とこれから生きていく道が幸福かどうかは、まだわからない。
そのまえに季節はずれのかき氷に、頭を痛くしてみるというのも一興だろう。
私は駆け出そうとして、ふと窓の外を見た。
雪は当分止みそうにない。雪は誰にもはばかることなく幻想郷を包んでゆく。
微笑みは自然にこぼれた。
今なら少しだけ雪に向かって自分を誇れる気がした。
私は笑いながら、お姉さまのいる図書館に向かって走り出す。
雪は白く優しく――世界を包んでいた。
.
そうだっその通りだっ……!
こんな美しいssを読んだのは久しぶりだ。妹様に幸あれ!
作者様の今後の活動に期待極大。
咲夜とフランの絡みって好きです。
大変ありがたい言葉、恐縮です。
今後も精進してゆく次第です。
>2様
ありがとうございます。
本編では咲夜とフランの絡みがほとんどないだけに、扱いが非常に難しいです。下手をすると、二人は顔見知りでもない可能性があるのですから。そういう意味でも、このSSは作者の勝手な東方観で歪められたものでもあるのです。
>奇声を発する程度の能力様
まさか、これだけ時間が経っても読んでくださる方がいらっしゃるとは……
本当にありがとうございます。
幻想郷住民に大いなる幸あれ