※いわゆる百合っぽくなっています
視界はお世辞にも明るいとは言えなかった。雨で網がかかった下からは霧まで漂い出歩く者、出歩こうとする者の意思を削ぎ落としていた。
しかし神社のうっとうしくなる階段を上りきったアリスは、多少冷えているかと思っただけで、特に足を鈍らされはしなかった。
静まり返った辺りを流し見ながら遅い歩調のまま裏へ向かい、わずかの時間ためらい、靴と傘を置いて縁側から直接片廊下へ上がる。自力で迎え入れるのもつらいだろうと考えた。
伸びる廊下を見渡す。雨音の他は死んでいた。
強制されたわけではないが、異音を混ぜれば台無しになるかと感じ、溶けこみたいと、なんとはなしに思った。周りに従い足音を立てぬよう進む。
少し歩いて一つの部屋の前で立ち止まる。ひと声かけるべきだった。
だがやはり惜しいと思い、黙って障子戸を滑らせる。
部屋に差し込む障子越しの明かりは、明るくはないが陰湿さを思わせるほど暗くもなかった。アリスの開いた狭い扇形の明かりは、部屋にあった明かりより、少しだけ明るく室内を浮かび上がらせた。それでもなお、室内は黒を基調にしたかと思わせる。
普段も今も、それほど愛想の良い表情をしてはいなかったので、目を凝らそうとする必要はなかった。
壁際に黒い漆塗りのたんすと鏡台。その真向かいの壁際に掛け軸とつぼ。何度訪れても簡素な自室だった。
そして中心に白く、中身が詰まっていても薄い布団。畳は靴下を通しても冷たかった。
「いらっしゃい」
待ちわびてはいないが嬉しそうな、少しかすれた声。アリスは、喉は痛いだろうかと心配したが顔には何も出さなかった。
「風邪なんて珍しいじゃない」
「まぁね」
霊夢は軽く笑った。
布団脇へ座り、懐からヒトガタをした紙を取りだし、よくわかるように振ってみせる。アリスには、やりかけの実験があった。一旦始めれば、工程を最後まで通しでこなさなければ材料含めオシャカになるもの。
それを怒る気など毛頭なかったが、アリスにとってのひと呼吸を置くためには口に出さなければならなかった。
「『いらっしゃい』って何よ。いきなり式神寄越して。……来るのが当然のように思わないでほしいわ」
「でも……来た」
呼吸は短く、明るさが足りないが顔も熱で赤いのだろうと思い、霊夢の浮かべる笑みに、やはりわからないとアリスは思った。
それから流しを借りて作った氷のうを頭に載せてやり、何か食べたのか聞くと首を横に振る。
何を言うでもなくお粥を作りはじめたが、誰かのための料理をするのは久しく、緊張はないものの迷いがその手を手間取らせた。霊夢であることが、更に鈍らせた。
用意したお粥を枕元に置き、身を起こすのを助ける。軽さに、意味もなく唇を噛んだ。
明かりを灯そうかと考えたが結局アリスは何もせず、霊夢も気がついていたように思えたが、それについてはひと言も触れなかった。ただ障子戸を少し開けたままにしてほしいと言っただけだった。
「食べさせてよ」
やはり霊夢へ形式的にため息をついてみせてから、丁寧に口へ運ぶ。熱いと言われ息を吹きかけて冷ましてやる。おいしいと言われ頷きだけ返す。
「それは、お粥に自画自賛……?」
「かもね」
湧き上がる嬉しさを抑えるために、肩をすくめてそう言わなければならなかった。
それから枕元に水差しを置き、薬はどこかと聞いた。霊夢は切らせていると答えた。
「そう……」
我ながらあまり呆れはしなかったのだなとぼんやり思い、アリスは永琳の所へでも調達しに行こうと考え、立ち上がろうとする。
そのスカートを霊夢が掴んで止めた。
驚き、中腰のまま霊夢を見れば静かに笑んでいた。戸の細い隙間からは雫の流れる音が絶え間なく聞こえていた。
「いらない」
どうしてと続けるより、霊夢のほうが早かった。
「飲めばすぐ治るから」
霊夢はアリスが立たないだろうとわかるまで離さず、それから手を滑り落とす。
時間をかけて座りなおしながら霊夢の言葉の意味を考え、その、自身にとって都合の良い推測を押さえつけるために深い平静を必要とした。顔色が見えるほど明るくないこの場では、胸元に触れられなければ表面に問題はない。
「変わってるわ」
ため息は混じらせたが、その行いを否定はしなかった。
「それほど変なことは言ってない」
「……どうだか」
「飲ませて」
水を軽めに注いだコップを渡す。と、その拍子に近づいた目が合った。
受け取ったコップを音もなく反対側へ置き、滑らかな黒さが淡い白光を照り返す瞳で見つめていた。
敵意を持たない射すくめようとする眼差しはいつまで続ける気だと、責めるでもなくただ問いを投げかけていた。
その差し込まれる強さを弱めようと、アリスは見開いていた目を普段の気だるげな辺りにまで細める。視界はぼやけて余計なものも薄まった。
霊夢は苦渋の色を浮かべ息を漏らしたが、それも一瞬のうちに、アリスの気づかぬうちに仕舞われた。
霊夢は身体を布団へ潜らせた。霊夢とアリスは下と上から顔を向けあわせてはいたが、互いの視線は逸れていた。無言は雨音が埋める。
心は落ち着き、霊夢に聞いてみたいと思った。自分の側からの会話であれば調整は幾分たやすいとアリスは考えた。
「どうして」
「え?」
「どうして、私に?」
看病をさせるのか。
霊夢には、他に頼れる者がいくらでもいる。アリスより先に。
霊夢とは積極的な交流を持ってはいない。持ち損ねていた。突然の指名はアリスからすれば抜てきに近かった。
なぜ、自分を呼んだのか。一度は避けて通ろうとした問いであり、霊夢が触れようとした場所に近い問いであり、アリスをけして浮かれさせなかった理由でもあった。
アリスは思う。自分が訪れる前に誰も来なかったなどとは到底考えられず、ならば、今この場に誰もいないというのは、そういうことだろう。なぜ、霊夢はそうまで手間をかけたのか。
「だからよ」
霊夢はアリスの姿を見て、悩みを待つだけの時間を置いてから答えたが現実に口から出た言葉は締めくくりしかなく、答えになっていなかった。アリスは会話の運び先を見失い、早々に主導権を失う。
霊夢はただわからないと見つめるアリスへ何かを思いきった顔を向け、肘を支えに身体を斜めに起こしてから横向きになる。
よく見ていろと目で訴え、アリスの膝元へ手を伸ばし、伸ばした手を自分の元へ戻す。行ったり来たり、それを何度も繰り返した。アリスが座っていた位置は、霊夢とは近くはないが離れすぎているわけでもなく、微妙に離れているかの具合だったため、霊夢はその場に留まったままでは手が届かず、アリスへ伸ばす度に身体を揺らして苦しそうだった。緩やかな手は、うっすらとした直線を描くようにも見えた。
しばらく繰り返し、息が上がったらしく、アリスは霊夢の身体を無理がかからぬよう気をつけて横たえた。
「だからよ」
無愛想に、短くそれだけをアリスへ贈った。
わからない。抽象的すぎて何をしていたのかもわからなかった。
戸惑いに曇った顔を見せられた霊夢は焦り、慌てながらも声音を整えて話し出す。かすれはとれなかった。
「今のはアリスと私の距離を見せたのよ」
そう言って熱を測る仕草で額に手を当てたが、顔は隠し損ねた。
黙りこくり、再び雨しか聞こえなくなった頃、控えめに続きが始まる。
「アリスはずっと……来なかったでしょ?」
霊夢は二人の間にある空間を見つめた。そうして寂しげなそれを大事なものだと目で撫でていた。
「だから、任せられると思った」
隠していようともがめついのは苦手なのだと言い、自分の選択できる余裕がなければ駄目なのだと加えた。
「そうして初めて、私はどうしようかって考えるの」
いつの間にか、その顔はまた静かな笑みを浮かべていた。
アリスは悩んだ。それほど資するのだろうか。自分は何もしようとしていないではないか。
「だからよ」
霊夢の優しげな言葉は深みへ陥れる。 偽りのない答えを受け入れるのを怖がり、疑うアリスを、霊夢はどこか仕方なさそうな顔をしてほんの少し、楽しそうに見守っていた。
それも途中からは物思いにふけりだし、やがて、唐突に身を乗り出した霊夢は引きずった掛布団の脇から腕を伸ばし、アリスの手首を掴んだ。退く間を与えず元の位置へ戻って横になり、引かれる形になったアリスは膝をついた。困り、弱りきった声を上げて形だけの抗議をする。
「な、なにをするのよ……」
霊夢は一度、目でいかにも嬉しそうに笑いかけ、口ずさむ。
──ためらいに、ふれるかなわぬ、きみなれど、たがいのまあい、うめたかんあり
「……え?」
「ためらいに、触れる叶わぬ、君なれど。互いの間合い、埋めた感あり……って言ったの」
そう言って握る手に力を込める。袖が、引き絞られる音を立てた。
反すうしても今ひとつ理解に届かず首をかしげるアリスを見て、霊夢の顔は打って変わり、渋くなる。
「触れられないのは……コッチのほう」
胸を指した。
「アリスは素で私の要望を満たしてるのっ。……で、あとは私のほうから行くって言ってるのっ」
どこまで言わせるのだとそっぽを向いてしまう。照れたのではなく拗ねていた。手は離そうとしなかった。
雨をひと浴びして頭を冷やしたいと思いながらアリスは尋ねる。
「え、えぇと……結局私は、どうすれば……?」
「じっとしてればいいのよ。あとはこっちで──」
言い終わらず咳きこむ。
思えば無理をさせてしまったのかもしれない。すっかり放られていた氷のうを額に載せてやる。
「今は……胸張って看病しなさいよ」
「キンカン煮たのあるけど、食べる? 喉に効くわ」
「食べる」
立ち上がろうとして、できなかった。
「……離して」
「なんで」
「家にあるのよ。取ってこないと」
「逃げないでしょうね」
「まさか」
思ってなどいなかったが、目を細めた恨まれそうな声に冷や汗が流れる。
短すぎる弁明を信じているのか、霊夢はあっけなく手を離した。
「いってらっしゃい」
「雨だから少しかかるかもしれないわ」
急ごうと思い、体をひねろうとして、崩れた。不満げな霊夢に足を掴まれていた。
「なに、するのよ」
「いってらっしゃい」
「こ、答えなさいよ」
「いってらっしゃい」
「……」
「いってらっしゃい」
「……いって、きます……?」
自信のなさそうな解答に微笑み、霊夢は足を離した。
二度ほど動作を不自然に中断させられたため、アリスは何度か平衡感覚を確認しながら立ち上がる。
すぐには動く気になれず霊夢を見つめていた。惜しい気持ちがそうさせているのかもしれないと思ったが、霊夢のそれさえ見透かす、にやついた顔に眉を寄せて廊下へ出た。
体調を崩している時にも大人しくしていられないのなら、好きなだけこじらせてしまえばいいと毒突きにもならない仕様もない考えが浮かび、その分手厚くしてあげられるのでは、と考えている自身の魂胆に多少呆れた。
いつ来たのか、蓬莱人形が軒先のはりで首を吊っていた。特に驚きもせず従え、靴を履いて傘を差す。
アリスには、傘を叩く音が少し優しくなっていると感じられた。
「おいで」
濡れネズミになる気はないが急がなければならない。行って、戻ってこなければならないのだから。
互いに人付き合いが器用ではない感じがすごくいい
霊夢さんの求めるものが非常に彼女らしい
アリスは微妙に鈍感?でも必死に気持ちを汲み取ろうとしているのが分る
ぴったりはまった良いコンビだなぁと素直に感じました。でも仲が進展するの遅そうだなぁw
公平かつ無関心な性格の二人の間に発生した付かず離れずの微妙な引力の描写が、その空間がとても綺麗でした。
どちらかがアクションを起こすまではその微妙なバランスを保ち続ける関係。
とても素晴らしい。
あぁ、ホントにたまらん。
ごちそうさまでした。
見られることはないでしょうが、ありがとう。
2008年くっ・・・