妹紅がかわいい。
なにがかわいいかというと、少々おてんばなところがある彼女だが、不意に見せる子どもっぽいところが特にかわいい。
かわいい。
テラかわゆす。
しかし内心での事情である。あくまでも心の中での言葉である。
そんな下品すぎる動物的な言葉を妹紅に対して言ったことは一度もない。
わたし――上白沢慧音は、けーね先生けーね先生とご近所さんから慕われる存在なので、いくら妹紅がかわいいからといって、いきなり劣情に狩られて押し倒したりはしないし、いくらかわいさのあまりに壁に頭を何度もぶつけて燃え盛る性欲を押さえつけていようとも、実際には笑顔で応対することができるのだ。
それが人間の社会的動物たる証。
すなわち、倫理。
社会と歴史、そしてなにより道徳の時間に習わなかったか?
習わなかったのなら、この、けーね先生が教えてあげよう。
『好きな女の子を無理やり押し倒してはいけません』
当然のことである。
きわめて自明の、証明するまでもない常識的事柄である。
ああ、でも――
いまチラリと考えてしまった。
チラリと悪魔の考えが脳みその上あたりを低空飛行していった。
歴史的には――
あくまで歴史的という付言をつけたうえでの言葉であるが――、
人間は戦争のたびに婦女子に暴力を働いてきた。
はっきり言えば、強姦することで死の恐怖を忘れるという効用は捨てがたいものだったのだ。
それはもう良いか悪いかという問題ではない。
そういう歴史がある。ただそれだけのこと。
歴史は残酷ではあるが、とても人間的な時間でもある。歴史は人間的な時間の総体であるからだ。
いくら平和やら理想やらを説いたところで、人間の寿命は決して歴史を越えることはできない。つまりそれは個人は集団を超えることができないのと同様、人間というのは与えられた環境に適応しなければ生きていけないということを如実に言い表している。個人は歴史を越えることができないのだ。
妖怪は別だが……。
とりあえず、わたしは半分は人間だし、妹紅も人間である。
したがって、人間のルールはわたしたちにも当然及ぶ。
人間は歴史に従い、歴史を創りだす。
したがって――したがって――したがって。
歴史的に押し倒したい。
妹紅を歴史的に押し倒したい。
冷酷無比な人間の歴史の一ページにくわわりたい。
いやまてまてまてまてまて。
いまわたしは何を考えていた。
歴史を言い訳になにかよこしまなことをしようとしていなかったか。
歴史は事実の記載であるが、理由の記載ではない。個人の行動の理由を全体の潮流のなかで見渡すことはあろうが、最初の一滴の水がどうして生じたかということは、歴史が扱う問題ではない。性欲もしかり。性欲もしかり。
邪念を一心に振り払い、わたしは南無阿弥陀仏を唱える。
人間の中にある悪は本当に御しがたい。
だからこそ法が作られたのではないか。
律と令である。
律は律する、すなわち刑罰法規のことを指し、これは人間の欲望を抑制するために生まれた。
なぜか?
人間とは動物的な存在であるからだ。この考え方は要するに――。
ああ。かわいいっ!
そんなかわいい姿をわたしに見せないでくれ。ご飯粒がほっぺたについているよ……。気づいてないよ。おいしそうにバクバク食べてるよ。
精神攻撃か。新手の精神攻撃を受けているのかわたしは。
そのときわたしは思考が完全に停止していくのを感じていた。
その白い一粒のかたまりに、いや違う――、白いカタマリのついた柔らかそうな頬に目を奪われていた。
どこまで考えたか……、そうそう、刑罰法規についてだったな。
刑罰法規がなぜ生まれたかといえば、要するに人間は刑罰によって律する必要があったからである。
なにもしない自然状態であれば、互いに互いを食いつぶしてしまう。自然状態における人間にとって最大の敵は人間だという皮肉な話なのだ。
そういった弱い人間を効率的に守るために刑罰法規は存在する。これはその人を罰しようということが主眼ではない。そういった意味合いもあるのだろうが、もっと言えば、これは全員で全員を縛っているのだ。悪いことをしたら怒られるということを経験的に広く知らしめることで、互いに互いを律しようとしているのである。
人間の歴史は幼児の頃から始まっているといえるだろう。幼児のころから、悪いことをすれば叱られる。
叱り叱られるというのは、人間の歴史の縮図であるのだ。
え?
あっ。どうしてじろじろ見てんのって、そんなこと決まってるじゃないか。
いわずもがなではないか。
ご飯粒になりたい。
今のわたしはそう言いたい。
けれど実際に発せられた言葉は違った。よくもまあこう口からでまかせが言えるものだと自分でも驚くぐらいだ。
わたしはご飯粒のなかに歴史が見えるのだと、それなりに哀愁の漂うような顔で応えた。
まったくの嘘ではない。
わたしの知覚作用においては、ご飯粒ひとつにも歴史が透けてみえる。
それは政治であり、それは社会であり、それは世界なのだ。
比喩的な表現としても悪くないだろう。
ご飯を食べるときに、いただきますと言うのは命をいただいているという謙虚な気持ちがあるからであり、世界とのつながりのなかで自分が生かされていることを実感するからこそ唱えることができる言葉である。そういった謙虚さを持ちえるのはかよわい人間の美徳であろう。
そこにおいては、ご飯一粒は世界と等価の重さを持つ。
ごはん一粒無駄にはできない。
自らが人間であることを自負しているわたしにとって、ご飯一粒であろうとも、そのふっくらとした白いかたまりのなかには人間であることの誇りが存在するのだ。
食べよう。
食べようじゃないか。
許されるなら妹紅のことも食べようと考えたが、わたしは無心でご飯を口に運んだ。
あ、ちょ、なんでござりますか。
不意に妹紅の顔が近づいてきたので、わたしは焦った。
なんだ? なんだ?
そっと手が伸びて、わたしの顔を両の腕で包む妹紅。
そのまま愛くるしい天使のような顔が近づき――。
ちゅ
顔に口づけされた。
ほっぺたにご飯粒がついていたとのことであった。
糸が切れるときのように、わたしの歴史は終焉した。
未来に生きる子ども達には、ほんの少しだけ聖なる言葉を伝えたい。
ご飯には神様 が宿ってるんだよ、と。
なにがかわいいかというと、少々おてんばなところがある彼女だが、不意に見せる子どもっぽいところが特にかわいい。
かわいい。
テラかわゆす。
しかし内心での事情である。あくまでも心の中での言葉である。
そんな下品すぎる動物的な言葉を妹紅に対して言ったことは一度もない。
わたし――上白沢慧音は、けーね先生けーね先生とご近所さんから慕われる存在なので、いくら妹紅がかわいいからといって、いきなり劣情に狩られて押し倒したりはしないし、いくらかわいさのあまりに壁に頭を何度もぶつけて燃え盛る性欲を押さえつけていようとも、実際には笑顔で応対することができるのだ。
それが人間の社会的動物たる証。
すなわち、倫理。
社会と歴史、そしてなにより道徳の時間に習わなかったか?
習わなかったのなら、この、けーね先生が教えてあげよう。
『好きな女の子を無理やり押し倒してはいけません』
当然のことである。
きわめて自明の、証明するまでもない常識的事柄である。
ああ、でも――
いまチラリと考えてしまった。
チラリと悪魔の考えが脳みその上あたりを低空飛行していった。
歴史的には――
あくまで歴史的という付言をつけたうえでの言葉であるが――、
人間は戦争のたびに婦女子に暴力を働いてきた。
はっきり言えば、強姦することで死の恐怖を忘れるという効用は捨てがたいものだったのだ。
それはもう良いか悪いかという問題ではない。
そういう歴史がある。ただそれだけのこと。
歴史は残酷ではあるが、とても人間的な時間でもある。歴史は人間的な時間の総体であるからだ。
いくら平和やら理想やらを説いたところで、人間の寿命は決して歴史を越えることはできない。つまりそれは個人は集団を超えることができないのと同様、人間というのは与えられた環境に適応しなければ生きていけないということを如実に言い表している。個人は歴史を越えることができないのだ。
妖怪は別だが……。
とりあえず、わたしは半分は人間だし、妹紅も人間である。
したがって、人間のルールはわたしたちにも当然及ぶ。
人間は歴史に従い、歴史を創りだす。
したがって――したがって――したがって。
歴史的に押し倒したい。
妹紅を歴史的に押し倒したい。
冷酷無比な人間の歴史の一ページにくわわりたい。
いやまてまてまてまてまて。
いまわたしは何を考えていた。
歴史を言い訳になにかよこしまなことをしようとしていなかったか。
歴史は事実の記載であるが、理由の記載ではない。個人の行動の理由を全体の潮流のなかで見渡すことはあろうが、最初の一滴の水がどうして生じたかということは、歴史が扱う問題ではない。性欲もしかり。性欲もしかり。
邪念を一心に振り払い、わたしは南無阿弥陀仏を唱える。
人間の中にある悪は本当に御しがたい。
だからこそ法が作られたのではないか。
律と令である。
律は律する、すなわち刑罰法規のことを指し、これは人間の欲望を抑制するために生まれた。
なぜか?
人間とは動物的な存在であるからだ。この考え方は要するに――。
ああ。かわいいっ!
そんなかわいい姿をわたしに見せないでくれ。ご飯粒がほっぺたについているよ……。気づいてないよ。おいしそうにバクバク食べてるよ。
精神攻撃か。新手の精神攻撃を受けているのかわたしは。
そのときわたしは思考が完全に停止していくのを感じていた。
その白い一粒のかたまりに、いや違う――、白いカタマリのついた柔らかそうな頬に目を奪われていた。
どこまで考えたか……、そうそう、刑罰法規についてだったな。
刑罰法規がなぜ生まれたかといえば、要するに人間は刑罰によって律する必要があったからである。
なにもしない自然状態であれば、互いに互いを食いつぶしてしまう。自然状態における人間にとって最大の敵は人間だという皮肉な話なのだ。
そういった弱い人間を効率的に守るために刑罰法規は存在する。これはその人を罰しようということが主眼ではない。そういった意味合いもあるのだろうが、もっと言えば、これは全員で全員を縛っているのだ。悪いことをしたら怒られるということを経験的に広く知らしめることで、互いに互いを律しようとしているのである。
人間の歴史は幼児の頃から始まっているといえるだろう。幼児のころから、悪いことをすれば叱られる。
叱り叱られるというのは、人間の歴史の縮図であるのだ。
え?
あっ。どうしてじろじろ見てんのって、そんなこと決まってるじゃないか。
いわずもがなではないか。
ご飯粒になりたい。
今のわたしはそう言いたい。
けれど実際に発せられた言葉は違った。よくもまあこう口からでまかせが言えるものだと自分でも驚くぐらいだ。
わたしはご飯粒のなかに歴史が見えるのだと、それなりに哀愁の漂うような顔で応えた。
まったくの嘘ではない。
わたしの知覚作用においては、ご飯粒ひとつにも歴史が透けてみえる。
それは政治であり、それは社会であり、それは世界なのだ。
比喩的な表現としても悪くないだろう。
ご飯を食べるときに、いただきますと言うのは命をいただいているという謙虚な気持ちがあるからであり、世界とのつながりのなかで自分が生かされていることを実感するからこそ唱えることができる言葉である。そういった謙虚さを持ちえるのはかよわい人間の美徳であろう。
そこにおいては、ご飯一粒は世界と等価の重さを持つ。
ごはん一粒無駄にはできない。
自らが人間であることを自負しているわたしにとって、ご飯一粒であろうとも、そのふっくらとした白いかたまりのなかには人間であることの誇りが存在するのだ。
食べよう。
食べようじゃないか。
許されるなら妹紅のことも食べようと考えたが、わたしは無心でご飯を口に運んだ。
あ、ちょ、なんでござりますか。
不意に妹紅の顔が近づいてきたので、わたしは焦った。
なんだ? なんだ?
そっと手が伸びて、わたしの顔を両の腕で包む妹紅。
そのまま愛くるしい天使のような顔が近づき――。
ちゅ
顔に口づけされた。
ほっぺたにご飯粒がついていたとのことであった。
糸が切れるときのように、わたしの歴史は終焉した。
未来に生きる子ども達には、ほんの少しだけ聖なる言葉を伝えたい。
ご飯には
いくらなんでも斬新すぎるwww
そして翌日にはこの言葉を送らざるを得ない。
っ「ゆうべはおたのしみでしたね」
押し倒した瞬間、「その時歴史が動いた」 ってテロップが流れるのを想像した
そうなると俄然真面目要素が輝く。
真面目な人ってむしろギャグが光ったりする気がする今日このごろです。
皆様感想ども。