レーザー・ドロワー。
今、幻想郷の弾幕撃ちでその単語を知らない者はいないだろう。
履いた者が次々と飛行タイムを更新していったドロワーズ。
その姿を世間に知らしめたのは、何を隠そうあの博麗の巫女である。
以前、博麗神社の近くから間欠泉が湧き上がった。物見遊山で見学しに来ていた者たちは、巫女を見て驚愕した。その異変の調査に向かう前、空を飛んでいた巫女は普段の何倍もの速度が出ていたという。
まさか、と考えた妖怪たちはその後に開かれた宴会の席で巫女を囃し立て、しかし実演されたことによってその事実を認めざる負えなくなった。
皆がわらわらと取り囲み「いいから飛んでみなさい」「飛べばわかる」などと迫っていた様は――博麗神社にはそのような資産はないというのに――まるで恐喝のようだったと、盟友の河童は語った。
閑話休題。
その理由を、同席していた天狗が意気揚々と話し始め、レーザー・ドロワーの存在が知られるようになったのである。
いつの間に天狗と巫女が提携したのか、巫女本人に尋ねたところ、
「下着一つで飛ぶ速さが変わるわけないでしょ」
と妖怪たちを煽るリップサービスまで行われた。
かくして、幻想郷にレーザー・ドロワーブームが巻き起こったのである。
しかし、レーザー・ドロワーはその製造工程の複雑さ故にまだ生産の体制が整っておらず、トップクラスの弾幕撃ちですら手に入れるのが非常に困難だった。
「それも、私の力をもってすれば何の障害にもならないわ」
湖の畔に位置する紅い館――幻想郷の一大勢力に数えられる紅魔館の主レミリア・スカーレットは、件のレーザー・ドロワーを入手することに成功していた。
――実際は、宴会の席で行われたビンゴ大会の景品として手に入れたのだが。こんなことに能力を使うなんてくだらない、と呟いた新顔の黒猫がのされていた。これだから新参は。
レミリアはレーザー・ドロワーを、今、誰もが喉から手が出るほど欲するあのレーザー・ドロワーを掲げ見ている。
流線形のフォルムに、それを彩るフリル……。機能美と装飾美の融合。
はあっ……! レミリアの頬はほんのり紅く色づいていた。
「咲夜ー?」
「はい、お嬢さ――っ!」
音も立てず、時間を待たず、元からそこにいたかのように現れた咲夜は、しかしレミリアの姿を見て眩暈を起こした。
彼女の仕える館の主人が、全裸で、ドロワーズを眺めていたのだ。その上、その状態で従者を呼び出したのだ。当然の反応だろう。
だが、彼女は完ぺきな従者だ。それ以上は取り乱さない。
たまにあっても、絵本の朗読レベルだった。しかし、今は全裸。そう、全裸。主人はそのつもりなのだ。彼女は床に同伴する覚悟もできていた。もちろん、求められるまで着衣を乱すようなことはない。意のままにあるのみ、あわよくば攻守逆転が。全裸なのが悪い。
そうして期待に胸を膨らませながら、咲夜はレミリアに問うた。
「――どのような御用でしょうか」
「このドロワーズ、締め付けがきつくて一人じゃ履けないのよ。手伝って頂戴」
咲夜は黙って頷いた。
「せーのっ!」
タイミングを合わせて、ドロワーズを引き上げる。
それはレミリアの脚に吸いついてしまったかのように、なかなか上へ昇ろうとはしなかった。
「この体勢じゃあ力が入らないわ」
「私がバックから押し上げます」
そう言って、咲夜はレミリアの後ろに回り、お尻を持ち上げる。だが、あまり効果はないようだ。
「はあ……まったく、不便ねえ」
「速さを手に入れるには、それだけ苦労が必要なんですよ」
言いながら、咲夜はレミリアの股の間から持ち上げる。だが、あまり効果はないようだ。
「ちゃんと力を入れなさい!」
「力を入れていいんですか?」
咲夜は問い返したが、レミリアは構わない。
「いいから早く入れなさい!」
「では失礼します――っ!」
ガタッ。
――高くそびえた積み木が、崩れるような音がした。
「お姉様――?」
レミリアの妹、フランドール・スカーレットが扉に手をかけたままそこに静止していた。
「ああ! フラン、いいところに来たわ。あなたも参加しなさい」
崩れた積木が蹴飛ばされるような音がした。
「いやあああああああああぁぁぁ!!」
「ふ、……ふらん?」
「来ないでっ! 変態、変態っ!」
半狂乱のフランの姿に、レミリアは恐怖を感じてしまう。
自分が遠ざけてしまっていた頃の姿を重ねてしまったから。
「お前なんか、お前なんかっ!」
耳を塞ごうにも、
「お姉様じゃない――っ!!」
手遅れだった。
フランは、走り去ってしまった。
たった一人の肉親を否定して。
「お、嬢様……」
残されたレミリアを、咲夜はただ見ているだけしかできない。
ああ、いつか来ると思っていた。来るのが早かっただけだ。
元に戻った関係も、いつ崩れるかわからず怯えていた毎日。今度すれ違えば、また何百年も出会うことなんてない。そう思って、大切にしようとしていた日々が、終わって……。
嫌だ。
――レミリアは、願う。強く、願う。
離れても、手を伸ばせば触れ合えるはず。怯えているのは自分だけだ。
そう奮い立たせる。
「……咲夜!」
「はいっ!」
「心配する必要は、どこにもない!」
レミリアは、奮う。
「追いかけるわ! ――このレーザー・ドロワーの履いた私が、どれだけ速く飛べるか見せつけるの!」
そうすることで、姉の威厳を取り戻すことができる。
その言葉に、咲夜は呼応するように。
「では――」
すっと手を振り上げると、意固地だったレーザー・ドロワーがレミリアの腰にぴったりとはまっていた。種のない手品だ。
それを確認するのも、レミリアの反射神経をもって一瞬を要しない。床を蹴りあげ、翼を広げ、跳躍――加速する!
速く。
速く。
もっと速く――ッ!
心は不安と焦燥に果ててしまおうと言うのに、レミリアの胸は躍っていた。
かつて、ここまで速く飛べたことがあっただろうか。今まで、これほどの風を感じることがあっただろうか。
いや、ない。
まるで弾丸。流れる景色は直線。ただ、一心に妹を追うために、レミリアは飛んでいる。
「待ちなさい! フランドール!」
その姿はすぐに捉えられた。
長い直線の廊下。距離を埋めるのに5秒もかからない。
フランが、振り返った。
――そうだ。この地上最強で、最速の私を見れば、さっきの発言なんて撤回したくなるはず。それが、紅魔館の主と同時に姉として、妹にできること――。
さあ、とレミリアは声を張り上げる。
「私を見なさい――フラン!」
あと2秒で、手が届く。
「――ひっ」
フランは、一瞬息を呑むと、
「いやああああああああああああああああああ!!」
一目散に逃げ出した。叫び声付きで。
まさか、また逃げられるとは思わなかったレミリアは、声を上げる。
「待ちなさい! 待ちなさい、フラン!」
あと2秒が、どんどん長くなる。
もっと速く、飛べる。
すぐ追いつける。
はずなのに。
拒否の言葉に、翼は鈍ってしまった――。
やがて、地に着き、少し歩いたところで、止まってしまった。
「どうして……」
もう見えなくなってしまった。
言葉が、零れてしまう。
「どうして……っ」
繰り返す。その問いに、答える者はいないというのに。
眼前に伸ばした手は、虚空をつかむ。
「どうして……届かないの……っ?」
言葉にしても、現実から目を逸らすことはできない。
息を吐くと、そのまま泣き出しそうになる。
何が悪かったのか。何がいけないのか。どうして辿り着けないのか。
フランに向き合う覚悟はできたのに。
フランは見ようとしてくれない。
まるで、物を識別できなくなっていく、そんな姿を見ているだけしかできなかった日々を、会わないことが安息に変わってしまった日々を、リフレインしているかのように。
そして、その迷宮には出口がなかったことに――。
「あ、はっ……」
嫌だ、と思う。笑うと、目尻から涙が零れてしまう。
こんなみっともない姿、誰にも、見られたく、な、い。
「レミィ……」
聞こえたのは、旧友の声。
少しかすんだ、紫の色彩が、そこに立っていた。
「う、ああ……っ!」
溜まらず、抱きついてしまう。
彼女は体は弱いというのに、しっかりと受け止めてくれた。
「少し、だけ……!」
そう、少しだけ。
少しだけ。
そう自分に言い聞かせて、レミリアは、フランドールの姉は、涙を流した。
旧友――パチュリー・ノーレッジはただ、その少しだけ待つことにした。
こすりつけられるレミリアの頭を帽子越しに撫でながら。
紅魔館の主の痴態を、誰にも見られないように。
そして、パチュリーは言った。
「とりあえず、服を着た方がいいわ」
フランは、持ち手無沙汰に外を歩いていた。
あまりに逃げることに気を取られすぎて、パチュリーの図書館に向かおうにもそうすることができなかった。門番に会おうにも、門とは逆方向。ただ、森の中を歩き続けるしかできなかった。
それもこれも、姉が半ケツでメイド長といちゃついていたり「あなたも参加しなさい」などとのたまったりドロワーズ一枚で全速力で突っ込んできたりしたからなんだが。
だが、当てはすぐに見つかった。
しばらくは魔理沙の家に滞在すればいい。そう考えていた。
その方がずっと気楽で、楽しい。
「まーりーさっ!」
扉を開けた、玄関の向こう。
奇しくも、レミリアと同じドロワーズを履こうか脱ごうかとしている魔理沙が、顔を紅くしていた。
「い……い、いや、これにはだな! ととと、というかあっ、ノックくらいし、」
言い訳が付きる前に霧雨邸が崩壊したのは説明を必要としない。
森をずっと行っても、山に行っても、向日葵の咲く丘に行っても、どこに行っても似たような光景が広がっていた。
フランは疲弊していた。
彼女にしてみれば、気付かぬうちに世界が変革してしまっていたのだ。
昨日と同じ場所――少なくともドロワ半裸族を見かけないような――休息の得られる場所を探してさまよう。
そのうちに、世界の東の果て――博麗神社まで来ていた。
淡い期待を抱き、
障子を開ける。
そこには、いつか見た時と同じ、紅白の巫女服に身を包んだ博麗霊夢がそこにいた。
「あら、悪魔の妹じゃない」
また半裸もしくは全裸だと思っていたので、フランはすぐに反応できなかった。
その様子に、霊夢は、くすっと笑う。
「……家出?」
家出。そう言えば、そういうことになるのだろう。
フランは、小さく頷いた。
「まー、わからなくもないわね」
霊夢の腕に抱えられた黒猫が小さく鳴く。悪い気分はしなかった。
「うちには黒猫とか、白黒とか、烏とか、いろんな奴が来るのよ」
だから、と霊夢は、
「今更コウモリ一匹増えたところで、何も変わらないわよ」
その袖を翻して言った。
そのまま、関心のなさそうに奥に戻っていく巫女。後ろ姿は質素なのに、頼ってもいい人なんだ、と安心感が得られる。
フランは少し迷ったが、座敷に上がり、障子を閉めた。
この残酷な世界に、彼女、フランドール・スカーレットが絶望してしまわないように。