前々から気にはなっていた。
気にはなっていたが、しかし人形にそこまでする必要があるのか、という疑問もあった。
先日の魔理沙との苛烈を極めた弾幕ごっこを思い出す。
『ハァ、ハァ――私の勝ちねッ』
『くそ、アリスはずるい。全力を出さないとか言って結局全力じゃないか。そんなに息まで切らして』
『まだ全力じゃないわよ。本気を出せばもう一体くらい人形が増えるわ』
『もうほとんど全力じゃないか!』
『ここからが本当の地獄なのよ』
『よく言うぜ。それに人形が精巧なのもずるい! パンツが見える度に一々気を取られるこっちの身にもなれってんだよ!』
『……え、パン――?』
『この見せパンのアリス!』
魔理沙は捨て台詞を吐いた後、鮮やかな手際でアリスのロングスカートをへそまでめくり、赤らめた顔で「どひゃーッ!」と言って逃げていった。
全く忌々しい。何が見せパンのアリスだ。例えヤクザキックで相手を垂直にスタンプし続けても、太股すら見せない自信がある。
険しい霊峰を幾つも超え、容赦なく体力を奪う冷たい雨に打たれ、何度も膝を折り、何度も涙を流し、血の豆を作りながら辿り着いた桃源郷だからこそ、そこにある花園は美しいのだ。見せパンなどはそこらでカビを撒き散らしている魔法の研究にも使えないキノコと同じ。いやそれ以下。見せパンのアリスなどという侮辱は断じて聞き流せるものではない。
だがしかし、上海達のおパンツが見えていたこともまた事実。
「ねえ上海、ドロワーズを履いてみる?」
何の指示も出さなければ指先一つ動かさない人形が、嬉しそうにこくんと頷いた気がした。
*
「霊夢、悪いけどドロワーズを一枚くれない?」
「え……」
アリスの突然の申し出に霊夢は狼狽えた。一呼吸を置いてから境内をぐるりと練り歩き、茂みの中に妖精が潜んでないかとお祓い棒を突き回し、アリスの元へ戻り、あさっての方向を見つつも決意めいた顔で震える息を吐き、
「い、良いわよ」
と言って、おもむろにたくし上げたスカートの中へ手を突っ込んだ。
「違う違う! ホカホカのが欲しいんじゃなくて!」
「え、違うの? 冷たいほう?」
「うん」
アリスって中級者なのねと呟いて自室へ引っ込んでいった霊夢は、すぐに一枚のドロワーズを持って戻ってきた。
「でも良かったわ、昨日のやつまだ洗濯してなくて」
「そういうのでもないから!」
「えぇ……ごめん、私ができるのはここまでよ。これ以外のプレイは上級者向けだからやっちゃダメだって紫が言ってた」
この破廉恥娘が!
いつもならば口を衝いて出てくるはずの理性の塊は、しかし上級者向けという言葉の罠に絡め取られ喉元で止まっていた。
上級者向けのドロワーズプレイってなんだろう。
「力足らずで悪いわね」
「ああ、いや、そういういかがわしいのじゃなくて、ちょっと人形用のドロワーズを作りたいから見本が欲しいのよ。この辺りのドロワっ子って霊夢と魔理沙くらいだから」
「もう! そうならそうと言ってよね!」
恥ずかしさを隠すようにぷりぷりと怒り出した霊夢は再び自室からドロワーズを持ってきて、入念に内側を確認してからアリスへと手渡した。
どうやら上級者向けは内側に関係するようだ。新世界の扉が少し開く。
「それにしてもどうして急にドロワーズなのよ」
「魔理沙が人形のパンツを見せられちゃ弾幕ごっこに集中できないってうるさいのよ。負け惜しみを真に受けるのもバカバカしいけど、どうせ勝つなら気持ち良く勝ちたいじゃない」
「一理あるわね」
「でしょ? 負けた時の言い訳を一つずつ潰して『負けました』って言わせてみせるわ」
「いや、パンツを見せられちゃ弾幕ごっこに集中できないって話のほう」
「ええッ!」
そんな馬鹿なと霊夢の顔を見ると、いたって真面目な巫女の顔。
「魔理沙と霖之助さんの三人で里の演劇を見たことがあるんだけどね、その演劇では男の人が女装していたの。内容は終始コミカルなもので、その女装した男の人は大袈裟にすっ転んだり飛び跳ねたりしてスカートの内側を見せていたの。その度に会場は笑いに包まれて、たまにはこういうのも良いなあって思っていたのよ、ふふ、あれはなかなか面白かったわ」
楽しかった思い出を瞼の裏で再現した霊夢は満足そうに微笑んで、ぽかぽかと日の当たる縁側に腰掛けてお茶を口に含んだ。
アリスは続きを待った。が、雀が三度鳴いても霊夢は遠くを見てお茶を飲むばかりだった。
「……それで?」
「ん? 終わりよ?」
ああ、頭が痛い。
「もっと話し相手にわかるように噛み砕いてくれないかしら。紫の悪い癖が移っているわよ」
「だから、スカートがめくられたら目がいってしまうってこと。男の人が履いているスカートだとわかっていても、ついね。うふふ、霖之助さんなんて『ああ、また見てしまった! 本能が憎い!』って地団駄を踏んでいたんだから」
「……ふむ」
なるほど、確かに言われてみればわからないでもない。
スカートとパンツの関係性において、身につけている者の美醜は関係ないのかもしれない。考えてみれば風はめくる対象を選ばず、遍くスカートに小粋な悪戯を仕掛けようと野原を駆け巡る。
自然とは即ち調和。調和とは即ち美。雲は空を選び、月は夜を選び、川は大地を選んだように、風はスカートと添い遂げることを選んだ。
そこにあるのは、狂おしいまでに一途な美。
「そうね……私が間違っていたわ。めくれ上がるスカートはただそれだけで美しい。それが男のものでも人形のものでも、本能が抗うことのできない力がある」
だから魔理沙は人形のスカートに目を奪われた。
弾幕ごっことは何か。
ある種の決闘だ。しかし勝ち負けを越えたところには美の創造がある。空はキャンバスへ、感性は絵の具と筆へ姿を変える。あるものは色彩に富んだ弾幕を、あるものは幾何学的な造形を、あるものは壮絶な波状攻撃を。二人が織り成す立体的な色彩は虹すら霞むことだろう。
美の乱流の中を泳ぎ切ったときの恍惚感はお風呂上がりのコーヒー牛乳すら遠く及ばない。
その美の闘争のさなか、めくれ上がったスカートとパンツがあるというのは、余りにも野暮。美は決して混じり合わない。薄暗いお化け屋敷の中でライトアップされたゴッホの自画像を見ても、漏れるのは感嘆の吐息ではなく悲鳴だけだ。
「つまりドロワーズを履くことでその場にはそぐわない美を排斥して、弾幕という美の極致を守っていたのね」
「流石七色の人形遣いね。理解が早いわ。そういうことよ」
「それじゃ私もこれからドロワーズを履かないと!」
「落ち着きなさいアリス」
霊夢は、一つの真理を目の当たりにして逸るアリスの正面へと回り込み、両肩にそっと手を置いて言い聞かせる。
「例えば、咲夜のスカートからはみ出たドロワーズを想像してごらんなさい」
「……ッ、無茶よ咲夜! それは人形裁判するまでもなく有罪よ……」
「そう。そんな格好をレミリアに披露したら三分後には屋根無しの幻想郷ライフが始まるわ」
「そんな……神社に寝泊まりさせてあげないの……?」
「冗談! 何が悲しくてそんな醜いドロワーズを見なきゃいけないの!」
そうだよなぁ。私も咲夜のスカートからはみ出たドロワーズは見たくないもんなぁ。
アリスは霊夢の言わんとしたことが徐々にわかってきた。
「つまり、ドロワーズには素質が必要……ということね」
「ええ。そしてアリスにはその素質が――」
ない。
霊夢が最後の言葉を言わなかったのは、優しさだったのかもしれない。
「なんてことなの……」
「別に悪いことじゃないわアリス。そんなに自分を責めないで。人の成長とは登山、絶頂を目指し、そしてまた落ちてくる。貴方は私達よりも少しだけ早く山登りを始めたに過ぎないのだから」
人はオムツに包まれて情緒を学び、ドロワーズと共に多感な時期を過ごし、パンツで意中の人を射止めるようになっている、と霊夢は語る。
はて、登山のように来た道を戻るなら、更年期障害をドロワーズと共に乗り越えて、老後の下の緩みはオムツでフォローするのではないか。驚愕の摂理がこんにちは。アリスは考えるのを一秒で放棄した。
「私はドロワーズを履かない、まだ履きたくない」
「ぎりぎりを攻めてもかぼちゃパンツってところよね」
「ところで霊夢」
「うん?」
「紫は――」
「はぁい! ドロワーズはもう渡したわ! そろそろ帰った方が良いんじゃないかしら!」
「そういえばなんで紫ってドロワーズプレイに詳しい――」
「あ! そろそろお風呂掃除しなきゃ! んもぅ私は忙しいんだから早く帰ってよね!」
霊夢は庭先にあった箒を担いで風呂場へと飛んでいった。
彼女ほどの人間が軽く錯乱するほどの機密事項だったのだろう。良いじゃないか、別に紫がドロワーズを履いていても、良いじゃないか。彼女はまだ多感な少女なのだから。
アリスは意に反して溢れ出る涙を霊夢のドロワーズで拭い、何も聞かなかったと呟いてから神社を後にした。
* *
八百九十三体分のドロワーズを作り終えたのは神社で解脱してから一週間経ってからであった。
当初は、上海人形をはじめとした精鋭達のドロワーズだけを作るつもりだった。が、大江戸からくり神風特攻隊の面々にもドロワーズを作ってやることにした。彼女らは火薬を抱えて要人と自爆するのを由とする、テロリズムに魂を売った生まれながらの武闘派である。ミルクの香りがするドロワーズよりも、サングラスと硝煙の匂いこそが相応しい。
しかしアリスはそんな特攻ガール達の分も全て作った。魔力で何度でも蘇ることが可能とは言え、ドロワーズまでは無理である。花と散る大江戸からくり人形達の骨は拾いドロワーズはまた作る、博愛の精神がもたらした意地であろうか。
一つ一つのドロワーズに名前入りの刺繍まで施している。ニトロ。スラリー。アセトン。TNT。スカートが翻るとしたらそれは薫風ではなく爆風であろう。
「ふう……完成っと」
立ち上がって伸びをすると背骨がぽきぽきと音を立てた。軽いストレッチをして全身に血を通わせる。作業後の疲労感と達成感が染み渡る。しかしアリスの顔はどこか晴れない。
――これで良かったのかしら。
博愛の精神。胸中でその言葉を繰り返し鼻で笑った。一度は捨てた精神ではないか。今更、大江戸達のドロワーズまで作ったところで何になる。
「あーやめやめ、変なこと考えるのやめ」
そう口に出してはみたものの、拭えない何かがアリスの心に蟠っていた。ずっと見て見ぬ振りをしてきた感情。
意識してしまってはもう駄目だった。それは急速に形を作り、ついには名前を持った。
――罪悪感。
人形の姿を模した爆弾。その性質は人形の本質ではない。愛でられもせず、玩具にもされず、ただ破壊にのみ特化した兵器。それを生み出した瞬間に、自分は博愛の精神を失ったのだ。そうアリスは考える。
大江戸達と同時に生まれたのが博愛のオルレアン人形だった。忘却しようとした人形達への博愛の精神を、そのビスクドールへと閉じこめた。もう二度とこのような人形を作らないという戒めだったのか、捨てきれずにいた心を明け渡したのか、いつでも取り戻せるように預けただけなのか。それは未だにアリス自身もわかっていない。
確かに言えることは、自分は博愛の精神を自分からオルレアンに譲ったという一点である。
「恨んでるだろうな……はぁ」
溜め息が出た。
人形に魔力を通せば意識が芽生えると信じている。
生まれて間もない大江戸達に、お前は自爆する為に生まれたんだよと人形が持つ一切の権利を剥ぎ取り、その代わりに火薬を握らせて自己犠牲を強制させた。
今更許されようとは思っていない。では自分は何のために彼女達の分も作ったのだろう。
別に拵えた対爆ガラスケースから大江戸からくり神風特攻隊の面々を呼び寄せて、完成したばかりのドロワーズを履かせる。机の上でよちよちと着替える様子は、その身に火薬を詰まらせているとは到底思えない可愛らしいものだった。
それを見つめるアリスの顔は、晴れない。
* * *
「おお! 本当に作ったのか!」
テーブルの上でスカートをちょこんと持ち上げてお辞儀をする上海人形。持ち上がったスカートの下からドロワーズが少しだけ見え、魔理沙は驚嘆とも感嘆とも似た声を上げた。
「うわッ、よくできてるな」
「こら。はしたないからスカートをめくるのは止めなさい」
「だってよく見えないだろ」
嫌がる上海人形に良いではないか言いながら、魔理沙はけしからん歴戦のおっさんのみが持っている笑みを浮かべてスカートをまくり上げる。
親が見たら泣く姿だった。
「しかし何というか、アリスってつくづく馬鹿だよな」
「どういう意味よ。貴方が言うから作ったんでしょう」
「いやだってさ――」
にやりと笑って魔理沙は言った。
「――これでお前のアドバンテージは無くなったんだぜ?」
それは紛れもない宣戦布告。魔理沙につられるようにアリスの表情も笑みへと変わる。受けて立とうじゃないの。
カップに残った紅茶を呷り、アリスと魔理沙は魔法の森の上空へと移動した。
やや暑く、日射しの強い秋。遠く、妖怪の山はそろそろ紅葉の季節だろう。眼下の魔法の森にそんな情趣は期待できない。魔法使い同士の弾幕ごっこはこういう素っ気ないところが良い。
「これで負けたらもう言い訳は無しよ」
「冗談、負けるわけがない……ぜ!」
箒へ腰掛けていた魔理沙が手を振り上げる。すると辺り一面に星屑の弾幕が生まれた。まるで空気が波打っているかのように星屑は漂いながら不規則にうねる。これは直接相手を狙ったものではなく、ただの空間制圧の一手目だ。そしてここから導き出される魔理沙の戦法は限られる。
「いきなり大技? ほんと芸がないわね」
「弾幕はパワーだからな。まずは小手調べのマスタースパークだ」
「トドメは?」
「トドメのマスタースパークだぜ!」
「このパワー馬鹿ッ!」
そういう奴だ。
確かに馬鹿ではあるが、その馬鹿さを押し通すだけの力があるのも事実。魔理沙のひたむきさは嫌いではない。
不規則に飛ぶ星屑は徐々に形を大きくし、感じることのできない乱気流がこの一帯に巻き起こっているかのように荒れ始めた。
アリスは薄く笑う。昂揚感に身を浸し、蕩けるような美の世界へと身を投じる。
「いくわよ新生ドロワーズ部隊」
「もっと良いネーミングは無かったのか!」
十の指に二十の人形を魔力の糸で繋ぎ、激しい潮流の星屑の海を縦横無尽に泳いでいく。ひらりと翻るスカートから見えるのは、ドロワーズという名の戦装束だ。ジャンヌ・ダルクを彷彿とさせる勇ましさよ。
「え! ジャンヌ・ダルクってドロワーズを履いてたの!?」
「たぶんね!」
魔理沙を射程に捉えた三体の人形へ光の速度で魔力信号を飛ばす。秒間七発の光弾はたちまち二十一発の散弾へと化け魔理沙を襲う。顔を引き攣らせた魔理沙は重力に逆らって真上へと回避した。仕切り直しだ。
が、今のファーストコンタクトで、うねる星屑に撃ち落とされた人形の数は四。過去最悪の被弾数だった。心の中で舌打ちしている暇もない。魔理沙の機動力なら既に回避体勢を終えている。すぐに牽制射撃の一つでも撃ち込んでくるだろう――そう思った瞬間に、きた。小賢しくも太陽を背にしたのが上手かった。アリスの照準と索敵が僅かに狂い、太陽直視のための網膜保護と採光の最適化を施そうとした一瞬の隙に細いレーザーがすぐ脇を通り過ぎた。
ナロースパーク。
運悪く直線上に並んでいた二体の人形がそれに食われた。
――ついてない!
そんな認識はすぐに改めた。偶然じゃない。恐らく、二体が重なる位置を狙い撃った。
今の魔理沙には人形の位置がよく見えている。
なるほど、確かに前回よりは遙かに戦い方が上手い。スカートに目がいって集中できないというのは嘘ではなかったのだろう。面白いじゃないか。
戦いのさなかアリスが鷹揚に頷いたのは余裕からではなく、次の段階へと進む為の一つの自己暗示のようなものだった。
魔理沙も瞬時に箒を呼び出す時に使っているアポーツという転移魔法。自宅の人形をガラスケースから手元へ呼び出す際に使っているそれは、応用次第ではもっと広範囲に渡って転移させることが可能である。魔理沙が春雪異変の時のことを覚えていれば――尚良い。あの時は自分の横にしか転移させなかった。
一番前に配置した人形を中継地点として、魔理沙の背後に先程食われた二体分の補充をしてやる。
弾幕はブレインだ。それを不意打ちとは言う程、魔理沙の頭は春ではないだろう。
「作戦タイムは終わりか!?」
「貴方の負け台詞を考えていただけよ。負けたら『アリスさんまいりました』って言いなさいよね!」
アリスの言葉を受けて魔理沙の口が大きく裂けた。
「ところで、そこは窮屈そうだなアリス」
目を走らせる。星屑は意志を持っているかのようにアリスの回りを取り囲んでいた。
魔理沙は人形達の位置だけではなく星屑のランダムな動きにも気を配っていた。これが口を開けばパワーだパワーだと言っていた魔理沙の戦い方か。集中力が依然と桁違いだ。
「へぇ、ブラウン運動のお勉強でもしたの?」
「今日は暑いからな! なんとなく星達はこんな風に動くと思っただけだぜ! そこからこれをどうやって避けるのかな!」
――恋符『マスタースパーク』
身動きできるスペースなんて普通に考えて無い。そこに特大の魔砲が撃ち込まれた。
絶望的な状況に、しかし。
「魔理沙の部屋に比べたらこんなの全然身動きとれるじゃない!」
凶悪に煌めく星屑の隙間に体をねじ込んで、地球を貫通させるつもりで撃ったとしか思えない魔砲をスカートの裾を焦がしながらやり過ごした。噴き出る汗が肉薄するマスタースパークに怯えて気化していく。
だが、チャンスだ。
動けない魔理沙へと人形を近づけ、過密すぎて避けきれない星屑は別の人形をぶつけて敗北から僅かに距離を取り、そこで生まれた余裕の中にガラスケースにある人形の座標と魔理沙の背中の空間をリンクする魔術式をぶちこみ、中継地点にいる人形からの信号のラグを処理して……、
膨大な魔力の奔流が空間を食い尽くした。
それは周囲の気流を著しく乱していく。星屑は一層激しくのたうち回った。アリスはそれを避けようとし、左腕をマスタースパークの魔力の渦に飲み込まれた。
「きゃあッ」
滝に手を飲み込まれた感覚に近いと思った。冗談のような速度で地上へ引っ張られる。水よりも重く粘液質な魔力から抜け出せたときは、もう魔法の森の日の当たらない地面に寝そべる以外の体力は残っていなかった。
「チェックメイトだぜアリスさん」
「ハァ、ハァ……」
アリスが息も切れ切れになって立ち上がったとき、魔理沙はにんまりと笑ってミニ八卦路と向けていた。
* * * *
魔法の森の内部。呼吸を整えるには最悪な環境である。疲労は抵抗力の低下を招き、幻覚作用のある胞子を吸い込むと面倒なことになりかねない。アリスがそんなこと思っていると、早速ありえない光景が目に入った。すぐそこにある巨木の幹が、ごっそり抉られている。
あれが幻覚でなければ、つくづく恐ろしい威力である。まあ……幻覚だろう。
「……」
「ハァ……ハァ……ふふ、どうしたのよ、黙りこくって」
「いや……もう一手用意してるんじゃないだろうな、と思って」
魔理沙はの表情は相変わらず笑っているが、目だけは警戒の色を帯びていた。
「お得意のボンバーガールズはどうした? 森に飲み込まれた瞬間に撒いててもおかしくないだろうと思ってな。私が動いた瞬間に四方八方から飛んできて爆破したりしないよな」
「ああ……」
なんだ、大江戸のことか。
途端に先程までの昂揚感がさっと引いていくのが感じられた。
「あの子達は使わないわ」
「ほう、珍しいな」
珍しいと言われるほど毎度のように使っていたのだろうか。そう考えてアリスはぞっとした。そして、たった今ぞっとしたことについて、再びぞっとした。自分は何を考えているのだろう。自爆人形を作っておいて、どうして使うことに怯えなければならない。
――嫌だなぁこの気持ち。
負い目だった。自分が生み出した人形にそう感じている。そして自分の浅ましさに吐き気すら感じている。
何度もあの子達を爆破させてきたことを、ドロワーズをプレゼントしたというだけで帳消しにしようと考えていた自分がいた。特別の証明として他の人形達に入れなかった名前の刺繍。あれは、あの子達にじゃなく自分に言い聞かせるためのものに過ぎなかった。
「ん? どうしたアリス、顔色が悪いぞ? 今更になって負けたのが悔しくなったのか?」
「別にそういうんじゃないけど」
「だったら早く言えよほら、魔理沙さんまいりましたって」
「はいはい魔理沙さん――」
みし、と音がした……気がした。軋むような音が耳を打った、気がした。
次に、自分が倒れているかのような錯覚を覚えた。軽い目眩かと思った。酔ったような感覚だった。
幻覚作用を疑い頭を振った。いや、これは違う。みしみしと軋む音は大きくなっていく。
アリスは空を見上げた。空が、落ちてきていた。
「危ない魔理沙ッ!」
突然、雷の轟きのような音がカビ臭い森の中に反響した。魔理沙の背後にそびえていた巨木が、その胴体に風穴を開けられてゆっくりゆっくり藻掻くように傾いでいた。緩やかにこちらへ倒れていることに気付いたときにはもう遅かった。十分すぎる落下速度を蓄えたそれは、瞬きを幾つかする間に自分たちを押し潰すだろう。気付くのに遅れたことを悔やむ時間すらもう無かった。
横に飛び退けば避けられる。アリスはそう思った。
そう思いながら、どういうわけか、こちらにミニ八卦路を向けて未だに状況の把握ができていない魔理沙を全力で突き飛ばしていた。横に突き飛ばすという不自然な力の入れ方だった。体勢を崩したアリスはその場に転倒し、咄嗟にアポーツの魔法で右手に呼び出した人形を振りかぶって、十分な魔力を込めて、
そのまま硬直した。
「避けろアリス!」
突き飛ばされてからの魔理沙の状況認識は電光的に早かった。アリスに激しく突き飛ばされてもなおミニ八卦路の構えを崩さなかったのは、アリスへの警戒を解いていなかったからだ。突き飛ばされた衝撃で照準はアリスからずれ、上手い具合に巨木に向いていて、そして、それだけだった。
魔力を込めている間に全ては終わっている。その一瞬の判断ができたから「避けろ」と叫ぶことができた。「避けろ」と叫ぶことしかできなかった。
それは魔理沙の優秀さの表れでもあった。その優秀さであっても間に合わないタイミングの出来事だった、それだけの話である。
「あ――……」
硬直するアリスの右手にあったのは大江戸からくり人形の一つだった。他の人形達よりも若干重たいのは詰め込まれた火薬のせいだ。無意識で呼び寄せても、持つだけでそれがニトロと名付けた人形であることはわかった。
アリスはそれを投擲しようとして、できなかった。
自分の命が潰されようとしている刹那ですら、これまで誤魔化してきた罪悪感に睨まれて動けなくなってしまった。
呪うような後悔だった。
それは、彼女達にドロワーズを作って埋め合わせをした気になっていた浅ましい感情をではない。
それは、自爆人形を作ろうと決断した在りし日のことでもない。
彼女達に自爆すること以外の役割を教えなかった自分。もう使わないと口にした矢先、今この瞬間にもう彼女達を爆破させようとしている自分。気が狂いそうなくらいに後悔した。
火薬を詰め込んだから何だというのか。突然爆発するような子供を自分は作ってしまったのか。
そんなわけはない。魔力の注入と爆破の意志、二つの安全機構のプロセスをつけた彼女達が前触れもなく爆発するわけはない。にもかかわらず生活から遠ざけたのは、心のどこかで彼女たちを危険だと思っていたからではないのか。
なに、それ。望んでもないのに作られて、ノーと言えないのを良いことに火薬を押し付けられ、何度も何度もアリス・マーガトロイドの為に自爆した挙げ句、この子達が受け取ったものは定期的なメンテナンスだけ?
――ごめん。
アリスは強く目を瞑る。ありったけの魔力を込めて、飴細工のような己の肉体の強度を僅かでも上昇させる。絶対に死にはしない。伊達に長く生きてきたわけじゃない。きっと、死にはしない。生きて、あの子達に紅茶を淹れてもらうんだ。最初はぎこちない手つきだろう。でもすぐに学習するに違いない。私の作った人形だもの、優秀に決まっている。
その瞬間、右手の人形が青白く光った。
人形に魔力を通せば意識が芽生える。アリスはそう信じている。
『アリス、アリガトウ』
そう信じているからこそ、アリスにはそう聞こえた、気がした。
――魔操『リターンイナニメトネス』
まるで己の意志が弾けたかのようにアリスの手から飛び出した人形は、局地的な超指向性の青い気炎を真上に噴き上げて、頽れる巨木を真っ二つにへし折った。遙か後方に飛んでいった巨木の上半身がドウと倒れる。地を揺らす音の余韻はいつまでも続き、舞い上がった木屑がぱらぱらと降り、
『ニトロ』と刺繍されたドロワーズだったものが、アリスの膝の上にひらひらと身を寄せるように落ちてきた。
もう原型すら留めていない焦げた生地を、アリスは震える手で抱きしめた。
* * * * *
「うわぁ!」
「そんな驚くこと無いじゃない」
「いや、まぁそうなんだけどさ。この人形が近くによるとびっくりするんだよなぁ」
「ふふ、こんなに可愛いのに。早く紅茶を受け取りなさいよ」
「軽いトラウマだぜ……おっと、ありがとさん。しかしこのお茶が爆弾ってことないよな?」
「あのね、大江戸からくり人形っていうのは元々はお茶を運ぶために作られたお人形なのよ」
「へぇ。それを爆弾の配達に応用したわけか」
「うん……」
「なんだ、後悔してるのか?」
大江戸からくり人形の神風特攻隊の復元は簡単であった。爆発に関する全てのシステムは火薬を除けば全て魔力による回路だ。人形作りというよりもロボットの組み立てに近い。初期の開発にこそ時間と労力を費やしたものの、設計図ができてしまえば復元は難しくないのである。
そして、生み出したことの後悔は無い。
「あるとすれば、この子が生まれてから今まで、何もさせてこなかったこと」
「へぇ」
「これからはどんどん私のために働いてもらうわよ」
「うへぇ、とんだブラック企業だなここは。給料も出さないくせに」
「良いのよ。衣食住を世話するのだから」
他の人形との区別はもうない。ガラスケースの隔たりはどこまでも無色で透明だ。
「お、こいつ気が利くな。お代わりを持ってき熱ぃぃぃいい!」
「ああ、まだ運ぶの下手なのよ、大目に見て頂戴」
テーブルの上で紅茶のポットを運んでいた大江戸からくり人形は、狙い澄ましたように魔理沙を目掛けて盛大に転んだ。
めくれ上がったスカートの中には彼女の名前が刺繍されたドロワーズがある。
勿論、焼け焦げた後なんてない。
<了>
気にはなっていたが、しかし人形にそこまでする必要があるのか、という疑問もあった。
先日の魔理沙との苛烈を極めた弾幕ごっこを思い出す。
『ハァ、ハァ――私の勝ちねッ』
『くそ、アリスはずるい。全力を出さないとか言って結局全力じゃないか。そんなに息まで切らして』
『まだ全力じゃないわよ。本気を出せばもう一体くらい人形が増えるわ』
『もうほとんど全力じゃないか!』
『ここからが本当の地獄なのよ』
『よく言うぜ。それに人形が精巧なのもずるい! パンツが見える度に一々気を取られるこっちの身にもなれってんだよ!』
『……え、パン――?』
『この見せパンのアリス!』
魔理沙は捨て台詞を吐いた後、鮮やかな手際でアリスのロングスカートをへそまでめくり、赤らめた顔で「どひゃーッ!」と言って逃げていった。
全く忌々しい。何が見せパンのアリスだ。例えヤクザキックで相手を垂直にスタンプし続けても、太股すら見せない自信がある。
険しい霊峰を幾つも超え、容赦なく体力を奪う冷たい雨に打たれ、何度も膝を折り、何度も涙を流し、血の豆を作りながら辿り着いた桃源郷だからこそ、そこにある花園は美しいのだ。見せパンなどはそこらでカビを撒き散らしている魔法の研究にも使えないキノコと同じ。いやそれ以下。見せパンのアリスなどという侮辱は断じて聞き流せるものではない。
だがしかし、上海達のおパンツが見えていたこともまた事実。
「ねえ上海、ドロワーズを履いてみる?」
何の指示も出さなければ指先一つ動かさない人形が、嬉しそうにこくんと頷いた気がした。
*
「霊夢、悪いけどドロワーズを一枚くれない?」
「え……」
アリスの突然の申し出に霊夢は狼狽えた。一呼吸を置いてから境内をぐるりと練り歩き、茂みの中に妖精が潜んでないかとお祓い棒を突き回し、アリスの元へ戻り、あさっての方向を見つつも決意めいた顔で震える息を吐き、
「い、良いわよ」
と言って、おもむろにたくし上げたスカートの中へ手を突っ込んだ。
「違う違う! ホカホカのが欲しいんじゃなくて!」
「え、違うの? 冷たいほう?」
「うん」
アリスって中級者なのねと呟いて自室へ引っ込んでいった霊夢は、すぐに一枚のドロワーズを持って戻ってきた。
「でも良かったわ、昨日のやつまだ洗濯してなくて」
「そういうのでもないから!」
「えぇ……ごめん、私ができるのはここまでよ。これ以外のプレイは上級者向けだからやっちゃダメだって紫が言ってた」
この破廉恥娘が!
いつもならば口を衝いて出てくるはずの理性の塊は、しかし上級者向けという言葉の罠に絡め取られ喉元で止まっていた。
上級者向けのドロワーズプレイってなんだろう。
「力足らずで悪いわね」
「ああ、いや、そういういかがわしいのじゃなくて、ちょっと人形用のドロワーズを作りたいから見本が欲しいのよ。この辺りのドロワっ子って霊夢と魔理沙くらいだから」
「もう! そうならそうと言ってよね!」
恥ずかしさを隠すようにぷりぷりと怒り出した霊夢は再び自室からドロワーズを持ってきて、入念に内側を確認してからアリスへと手渡した。
どうやら上級者向けは内側に関係するようだ。新世界の扉が少し開く。
「それにしてもどうして急にドロワーズなのよ」
「魔理沙が人形のパンツを見せられちゃ弾幕ごっこに集中できないってうるさいのよ。負け惜しみを真に受けるのもバカバカしいけど、どうせ勝つなら気持ち良く勝ちたいじゃない」
「一理あるわね」
「でしょ? 負けた時の言い訳を一つずつ潰して『負けました』って言わせてみせるわ」
「いや、パンツを見せられちゃ弾幕ごっこに集中できないって話のほう」
「ええッ!」
そんな馬鹿なと霊夢の顔を見ると、いたって真面目な巫女の顔。
「魔理沙と霖之助さんの三人で里の演劇を見たことがあるんだけどね、その演劇では男の人が女装していたの。内容は終始コミカルなもので、その女装した男の人は大袈裟にすっ転んだり飛び跳ねたりしてスカートの内側を見せていたの。その度に会場は笑いに包まれて、たまにはこういうのも良いなあって思っていたのよ、ふふ、あれはなかなか面白かったわ」
楽しかった思い出を瞼の裏で再現した霊夢は満足そうに微笑んで、ぽかぽかと日の当たる縁側に腰掛けてお茶を口に含んだ。
アリスは続きを待った。が、雀が三度鳴いても霊夢は遠くを見てお茶を飲むばかりだった。
「……それで?」
「ん? 終わりよ?」
ああ、頭が痛い。
「もっと話し相手にわかるように噛み砕いてくれないかしら。紫の悪い癖が移っているわよ」
「だから、スカートがめくられたら目がいってしまうってこと。男の人が履いているスカートだとわかっていても、ついね。うふふ、霖之助さんなんて『ああ、また見てしまった! 本能が憎い!』って地団駄を踏んでいたんだから」
「……ふむ」
なるほど、確かに言われてみればわからないでもない。
スカートとパンツの関係性において、身につけている者の美醜は関係ないのかもしれない。考えてみれば風はめくる対象を選ばず、遍くスカートに小粋な悪戯を仕掛けようと野原を駆け巡る。
自然とは即ち調和。調和とは即ち美。雲は空を選び、月は夜を選び、川は大地を選んだように、風はスカートと添い遂げることを選んだ。
そこにあるのは、狂おしいまでに一途な美。
「そうね……私が間違っていたわ。めくれ上がるスカートはただそれだけで美しい。それが男のものでも人形のものでも、本能が抗うことのできない力がある」
だから魔理沙は人形のスカートに目を奪われた。
弾幕ごっことは何か。
ある種の決闘だ。しかし勝ち負けを越えたところには美の創造がある。空はキャンバスへ、感性は絵の具と筆へ姿を変える。あるものは色彩に富んだ弾幕を、あるものは幾何学的な造形を、あるものは壮絶な波状攻撃を。二人が織り成す立体的な色彩は虹すら霞むことだろう。
美の乱流の中を泳ぎ切ったときの恍惚感はお風呂上がりのコーヒー牛乳すら遠く及ばない。
その美の闘争のさなか、めくれ上がったスカートとパンツがあるというのは、余りにも野暮。美は決して混じり合わない。薄暗いお化け屋敷の中でライトアップされたゴッホの自画像を見ても、漏れるのは感嘆の吐息ではなく悲鳴だけだ。
「つまりドロワーズを履くことでその場にはそぐわない美を排斥して、弾幕という美の極致を守っていたのね」
「流石七色の人形遣いね。理解が早いわ。そういうことよ」
「それじゃ私もこれからドロワーズを履かないと!」
「落ち着きなさいアリス」
霊夢は、一つの真理を目の当たりにして逸るアリスの正面へと回り込み、両肩にそっと手を置いて言い聞かせる。
「例えば、咲夜のスカートからはみ出たドロワーズを想像してごらんなさい」
「……ッ、無茶よ咲夜! それは人形裁判するまでもなく有罪よ……」
「そう。そんな格好をレミリアに披露したら三分後には屋根無しの幻想郷ライフが始まるわ」
「そんな……神社に寝泊まりさせてあげないの……?」
「冗談! 何が悲しくてそんな醜いドロワーズを見なきゃいけないの!」
そうだよなぁ。私も咲夜のスカートからはみ出たドロワーズは見たくないもんなぁ。
アリスは霊夢の言わんとしたことが徐々にわかってきた。
「つまり、ドロワーズには素質が必要……ということね」
「ええ。そしてアリスにはその素質が――」
ない。
霊夢が最後の言葉を言わなかったのは、優しさだったのかもしれない。
「なんてことなの……」
「別に悪いことじゃないわアリス。そんなに自分を責めないで。人の成長とは登山、絶頂を目指し、そしてまた落ちてくる。貴方は私達よりも少しだけ早く山登りを始めたに過ぎないのだから」
人はオムツに包まれて情緒を学び、ドロワーズと共に多感な時期を過ごし、パンツで意中の人を射止めるようになっている、と霊夢は語る。
はて、登山のように来た道を戻るなら、更年期障害をドロワーズと共に乗り越えて、老後の下の緩みはオムツでフォローするのではないか。驚愕の摂理がこんにちは。アリスは考えるのを一秒で放棄した。
「私はドロワーズを履かない、まだ履きたくない」
「ぎりぎりを攻めてもかぼちゃパンツってところよね」
「ところで霊夢」
「うん?」
「紫は――」
「はぁい! ドロワーズはもう渡したわ! そろそろ帰った方が良いんじゃないかしら!」
「そういえばなんで紫ってドロワーズプレイに詳しい――」
「あ! そろそろお風呂掃除しなきゃ! んもぅ私は忙しいんだから早く帰ってよね!」
霊夢は庭先にあった箒を担いで風呂場へと飛んでいった。
彼女ほどの人間が軽く錯乱するほどの機密事項だったのだろう。良いじゃないか、別に紫がドロワーズを履いていても、良いじゃないか。彼女はまだ多感な少女なのだから。
アリスは意に反して溢れ出る涙を霊夢のドロワーズで拭い、何も聞かなかったと呟いてから神社を後にした。
* *
八百九十三体分のドロワーズを作り終えたのは神社で解脱してから一週間経ってからであった。
当初は、上海人形をはじめとした精鋭達のドロワーズだけを作るつもりだった。が、大江戸からくり神風特攻隊の面々にもドロワーズを作ってやることにした。彼女らは火薬を抱えて要人と自爆するのを由とする、テロリズムに魂を売った生まれながらの武闘派である。ミルクの香りがするドロワーズよりも、サングラスと硝煙の匂いこそが相応しい。
しかしアリスはそんな特攻ガール達の分も全て作った。魔力で何度でも蘇ることが可能とは言え、ドロワーズまでは無理である。花と散る大江戸からくり人形達の骨は拾いドロワーズはまた作る、博愛の精神がもたらした意地であろうか。
一つ一つのドロワーズに名前入りの刺繍まで施している。ニトロ。スラリー。アセトン。TNT。スカートが翻るとしたらそれは薫風ではなく爆風であろう。
「ふう……完成っと」
立ち上がって伸びをすると背骨がぽきぽきと音を立てた。軽いストレッチをして全身に血を通わせる。作業後の疲労感と達成感が染み渡る。しかしアリスの顔はどこか晴れない。
――これで良かったのかしら。
博愛の精神。胸中でその言葉を繰り返し鼻で笑った。一度は捨てた精神ではないか。今更、大江戸達のドロワーズまで作ったところで何になる。
「あーやめやめ、変なこと考えるのやめ」
そう口に出してはみたものの、拭えない何かがアリスの心に蟠っていた。ずっと見て見ぬ振りをしてきた感情。
意識してしまってはもう駄目だった。それは急速に形を作り、ついには名前を持った。
――罪悪感。
人形の姿を模した爆弾。その性質は人形の本質ではない。愛でられもせず、玩具にもされず、ただ破壊にのみ特化した兵器。それを生み出した瞬間に、自分は博愛の精神を失ったのだ。そうアリスは考える。
大江戸達と同時に生まれたのが博愛のオルレアン人形だった。忘却しようとした人形達への博愛の精神を、そのビスクドールへと閉じこめた。もう二度とこのような人形を作らないという戒めだったのか、捨てきれずにいた心を明け渡したのか、いつでも取り戻せるように預けただけなのか。それは未だにアリス自身もわかっていない。
確かに言えることは、自分は博愛の精神を自分からオルレアンに譲ったという一点である。
「恨んでるだろうな……はぁ」
溜め息が出た。
人形に魔力を通せば意識が芽生えると信じている。
生まれて間もない大江戸達に、お前は自爆する為に生まれたんだよと人形が持つ一切の権利を剥ぎ取り、その代わりに火薬を握らせて自己犠牲を強制させた。
今更許されようとは思っていない。では自分は何のために彼女達の分も作ったのだろう。
別に拵えた対爆ガラスケースから大江戸からくり神風特攻隊の面々を呼び寄せて、完成したばかりのドロワーズを履かせる。机の上でよちよちと着替える様子は、その身に火薬を詰まらせているとは到底思えない可愛らしいものだった。
それを見つめるアリスの顔は、晴れない。
* * *
「おお! 本当に作ったのか!」
テーブルの上でスカートをちょこんと持ち上げてお辞儀をする上海人形。持ち上がったスカートの下からドロワーズが少しだけ見え、魔理沙は驚嘆とも感嘆とも似た声を上げた。
「うわッ、よくできてるな」
「こら。はしたないからスカートをめくるのは止めなさい」
「だってよく見えないだろ」
嫌がる上海人形に良いではないか言いながら、魔理沙はけしからん歴戦のおっさんのみが持っている笑みを浮かべてスカートをまくり上げる。
親が見たら泣く姿だった。
「しかし何というか、アリスってつくづく馬鹿だよな」
「どういう意味よ。貴方が言うから作ったんでしょう」
「いやだってさ――」
にやりと笑って魔理沙は言った。
「――これでお前のアドバンテージは無くなったんだぜ?」
それは紛れもない宣戦布告。魔理沙につられるようにアリスの表情も笑みへと変わる。受けて立とうじゃないの。
カップに残った紅茶を呷り、アリスと魔理沙は魔法の森の上空へと移動した。
やや暑く、日射しの強い秋。遠く、妖怪の山はそろそろ紅葉の季節だろう。眼下の魔法の森にそんな情趣は期待できない。魔法使い同士の弾幕ごっこはこういう素っ気ないところが良い。
「これで負けたらもう言い訳は無しよ」
「冗談、負けるわけがない……ぜ!」
箒へ腰掛けていた魔理沙が手を振り上げる。すると辺り一面に星屑の弾幕が生まれた。まるで空気が波打っているかのように星屑は漂いながら不規則にうねる。これは直接相手を狙ったものではなく、ただの空間制圧の一手目だ。そしてここから導き出される魔理沙の戦法は限られる。
「いきなり大技? ほんと芸がないわね」
「弾幕はパワーだからな。まずは小手調べのマスタースパークだ」
「トドメは?」
「トドメのマスタースパークだぜ!」
「このパワー馬鹿ッ!」
そういう奴だ。
確かに馬鹿ではあるが、その馬鹿さを押し通すだけの力があるのも事実。魔理沙のひたむきさは嫌いではない。
不規則に飛ぶ星屑は徐々に形を大きくし、感じることのできない乱気流がこの一帯に巻き起こっているかのように荒れ始めた。
アリスは薄く笑う。昂揚感に身を浸し、蕩けるような美の世界へと身を投じる。
「いくわよ新生ドロワーズ部隊」
「もっと良いネーミングは無かったのか!」
十の指に二十の人形を魔力の糸で繋ぎ、激しい潮流の星屑の海を縦横無尽に泳いでいく。ひらりと翻るスカートから見えるのは、ドロワーズという名の戦装束だ。ジャンヌ・ダルクを彷彿とさせる勇ましさよ。
「え! ジャンヌ・ダルクってドロワーズを履いてたの!?」
「たぶんね!」
魔理沙を射程に捉えた三体の人形へ光の速度で魔力信号を飛ばす。秒間七発の光弾はたちまち二十一発の散弾へと化け魔理沙を襲う。顔を引き攣らせた魔理沙は重力に逆らって真上へと回避した。仕切り直しだ。
が、今のファーストコンタクトで、うねる星屑に撃ち落とされた人形の数は四。過去最悪の被弾数だった。心の中で舌打ちしている暇もない。魔理沙の機動力なら既に回避体勢を終えている。すぐに牽制射撃の一つでも撃ち込んでくるだろう――そう思った瞬間に、きた。小賢しくも太陽を背にしたのが上手かった。アリスの照準と索敵が僅かに狂い、太陽直視のための網膜保護と採光の最適化を施そうとした一瞬の隙に細いレーザーがすぐ脇を通り過ぎた。
ナロースパーク。
運悪く直線上に並んでいた二体の人形がそれに食われた。
――ついてない!
そんな認識はすぐに改めた。偶然じゃない。恐らく、二体が重なる位置を狙い撃った。
今の魔理沙には人形の位置がよく見えている。
なるほど、確かに前回よりは遙かに戦い方が上手い。スカートに目がいって集中できないというのは嘘ではなかったのだろう。面白いじゃないか。
戦いのさなかアリスが鷹揚に頷いたのは余裕からではなく、次の段階へと進む為の一つの自己暗示のようなものだった。
魔理沙も瞬時に箒を呼び出す時に使っているアポーツという転移魔法。自宅の人形をガラスケースから手元へ呼び出す際に使っているそれは、応用次第ではもっと広範囲に渡って転移させることが可能である。魔理沙が春雪異変の時のことを覚えていれば――尚良い。あの時は自分の横にしか転移させなかった。
一番前に配置した人形を中継地点として、魔理沙の背後に先程食われた二体分の補充をしてやる。
弾幕はブレインだ。それを不意打ちとは言う程、魔理沙の頭は春ではないだろう。
「作戦タイムは終わりか!?」
「貴方の負け台詞を考えていただけよ。負けたら『アリスさんまいりました』って言いなさいよね!」
アリスの言葉を受けて魔理沙の口が大きく裂けた。
「ところで、そこは窮屈そうだなアリス」
目を走らせる。星屑は意志を持っているかのようにアリスの回りを取り囲んでいた。
魔理沙は人形達の位置だけではなく星屑のランダムな動きにも気を配っていた。これが口を開けばパワーだパワーだと言っていた魔理沙の戦い方か。集中力が依然と桁違いだ。
「へぇ、ブラウン運動のお勉強でもしたの?」
「今日は暑いからな! なんとなく星達はこんな風に動くと思っただけだぜ! そこからこれをどうやって避けるのかな!」
――恋符『マスタースパーク』
身動きできるスペースなんて普通に考えて無い。そこに特大の魔砲が撃ち込まれた。
絶望的な状況に、しかし。
「魔理沙の部屋に比べたらこんなの全然身動きとれるじゃない!」
凶悪に煌めく星屑の隙間に体をねじ込んで、地球を貫通させるつもりで撃ったとしか思えない魔砲をスカートの裾を焦がしながらやり過ごした。噴き出る汗が肉薄するマスタースパークに怯えて気化していく。
だが、チャンスだ。
動けない魔理沙へと人形を近づけ、過密すぎて避けきれない星屑は別の人形をぶつけて敗北から僅かに距離を取り、そこで生まれた余裕の中にガラスケースにある人形の座標と魔理沙の背中の空間をリンクする魔術式をぶちこみ、中継地点にいる人形からの信号のラグを処理して……、
膨大な魔力の奔流が空間を食い尽くした。
それは周囲の気流を著しく乱していく。星屑は一層激しくのたうち回った。アリスはそれを避けようとし、左腕をマスタースパークの魔力の渦に飲み込まれた。
「きゃあッ」
滝に手を飲み込まれた感覚に近いと思った。冗談のような速度で地上へ引っ張られる。水よりも重く粘液質な魔力から抜け出せたときは、もう魔法の森の日の当たらない地面に寝そべる以外の体力は残っていなかった。
「チェックメイトだぜアリスさん」
「ハァ、ハァ……」
アリスが息も切れ切れになって立ち上がったとき、魔理沙はにんまりと笑ってミニ八卦路と向けていた。
* * * *
魔法の森の内部。呼吸を整えるには最悪な環境である。疲労は抵抗力の低下を招き、幻覚作用のある胞子を吸い込むと面倒なことになりかねない。アリスがそんなこと思っていると、早速ありえない光景が目に入った。すぐそこにある巨木の幹が、ごっそり抉られている。
あれが幻覚でなければ、つくづく恐ろしい威力である。まあ……幻覚だろう。
「……」
「ハァ……ハァ……ふふ、どうしたのよ、黙りこくって」
「いや……もう一手用意してるんじゃないだろうな、と思って」
魔理沙はの表情は相変わらず笑っているが、目だけは警戒の色を帯びていた。
「お得意のボンバーガールズはどうした? 森に飲み込まれた瞬間に撒いててもおかしくないだろうと思ってな。私が動いた瞬間に四方八方から飛んできて爆破したりしないよな」
「ああ……」
なんだ、大江戸のことか。
途端に先程までの昂揚感がさっと引いていくのが感じられた。
「あの子達は使わないわ」
「ほう、珍しいな」
珍しいと言われるほど毎度のように使っていたのだろうか。そう考えてアリスはぞっとした。そして、たった今ぞっとしたことについて、再びぞっとした。自分は何を考えているのだろう。自爆人形を作っておいて、どうして使うことに怯えなければならない。
――嫌だなぁこの気持ち。
負い目だった。自分が生み出した人形にそう感じている。そして自分の浅ましさに吐き気すら感じている。
何度もあの子達を爆破させてきたことを、ドロワーズをプレゼントしたというだけで帳消しにしようと考えていた自分がいた。特別の証明として他の人形達に入れなかった名前の刺繍。あれは、あの子達にじゃなく自分に言い聞かせるためのものに過ぎなかった。
「ん? どうしたアリス、顔色が悪いぞ? 今更になって負けたのが悔しくなったのか?」
「別にそういうんじゃないけど」
「だったら早く言えよほら、魔理沙さんまいりましたって」
「はいはい魔理沙さん――」
みし、と音がした……気がした。軋むような音が耳を打った、気がした。
次に、自分が倒れているかのような錯覚を覚えた。軽い目眩かと思った。酔ったような感覚だった。
幻覚作用を疑い頭を振った。いや、これは違う。みしみしと軋む音は大きくなっていく。
アリスは空を見上げた。空が、落ちてきていた。
「危ない魔理沙ッ!」
突然、雷の轟きのような音がカビ臭い森の中に反響した。魔理沙の背後にそびえていた巨木が、その胴体に風穴を開けられてゆっくりゆっくり藻掻くように傾いでいた。緩やかにこちらへ倒れていることに気付いたときにはもう遅かった。十分すぎる落下速度を蓄えたそれは、瞬きを幾つかする間に自分たちを押し潰すだろう。気付くのに遅れたことを悔やむ時間すらもう無かった。
横に飛び退けば避けられる。アリスはそう思った。
そう思いながら、どういうわけか、こちらにミニ八卦路を向けて未だに状況の把握ができていない魔理沙を全力で突き飛ばしていた。横に突き飛ばすという不自然な力の入れ方だった。体勢を崩したアリスはその場に転倒し、咄嗟にアポーツの魔法で右手に呼び出した人形を振りかぶって、十分な魔力を込めて、
そのまま硬直した。
「避けろアリス!」
突き飛ばされてからの魔理沙の状況認識は電光的に早かった。アリスに激しく突き飛ばされてもなおミニ八卦路の構えを崩さなかったのは、アリスへの警戒を解いていなかったからだ。突き飛ばされた衝撃で照準はアリスからずれ、上手い具合に巨木に向いていて、そして、それだけだった。
魔力を込めている間に全ては終わっている。その一瞬の判断ができたから「避けろ」と叫ぶことができた。「避けろ」と叫ぶことしかできなかった。
それは魔理沙の優秀さの表れでもあった。その優秀さであっても間に合わないタイミングの出来事だった、それだけの話である。
「あ――……」
硬直するアリスの右手にあったのは大江戸からくり人形の一つだった。他の人形達よりも若干重たいのは詰め込まれた火薬のせいだ。無意識で呼び寄せても、持つだけでそれがニトロと名付けた人形であることはわかった。
アリスはそれを投擲しようとして、できなかった。
自分の命が潰されようとしている刹那ですら、これまで誤魔化してきた罪悪感に睨まれて動けなくなってしまった。
呪うような後悔だった。
それは、彼女達にドロワーズを作って埋め合わせをした気になっていた浅ましい感情をではない。
それは、自爆人形を作ろうと決断した在りし日のことでもない。
彼女達に自爆すること以外の役割を教えなかった自分。もう使わないと口にした矢先、今この瞬間にもう彼女達を爆破させようとしている自分。気が狂いそうなくらいに後悔した。
火薬を詰め込んだから何だというのか。突然爆発するような子供を自分は作ってしまったのか。
そんなわけはない。魔力の注入と爆破の意志、二つの安全機構のプロセスをつけた彼女達が前触れもなく爆発するわけはない。にもかかわらず生活から遠ざけたのは、心のどこかで彼女たちを危険だと思っていたからではないのか。
なに、それ。望んでもないのに作られて、ノーと言えないのを良いことに火薬を押し付けられ、何度も何度もアリス・マーガトロイドの為に自爆した挙げ句、この子達が受け取ったものは定期的なメンテナンスだけ?
――ごめん。
アリスは強く目を瞑る。ありったけの魔力を込めて、飴細工のような己の肉体の強度を僅かでも上昇させる。絶対に死にはしない。伊達に長く生きてきたわけじゃない。きっと、死にはしない。生きて、あの子達に紅茶を淹れてもらうんだ。最初はぎこちない手つきだろう。でもすぐに学習するに違いない。私の作った人形だもの、優秀に決まっている。
その瞬間、右手の人形が青白く光った。
人形に魔力を通せば意識が芽生える。アリスはそう信じている。
『アリス、アリガトウ』
そう信じているからこそ、アリスにはそう聞こえた、気がした。
――魔操『リターンイナニメトネス』
まるで己の意志が弾けたかのようにアリスの手から飛び出した人形は、局地的な超指向性の青い気炎を真上に噴き上げて、頽れる巨木を真っ二つにへし折った。遙か後方に飛んでいった巨木の上半身がドウと倒れる。地を揺らす音の余韻はいつまでも続き、舞い上がった木屑がぱらぱらと降り、
『ニトロ』と刺繍されたドロワーズだったものが、アリスの膝の上にひらひらと身を寄せるように落ちてきた。
もう原型すら留めていない焦げた生地を、アリスは震える手で抱きしめた。
* * * * *
「うわぁ!」
「そんな驚くこと無いじゃない」
「いや、まぁそうなんだけどさ。この人形が近くによるとびっくりするんだよなぁ」
「ふふ、こんなに可愛いのに。早く紅茶を受け取りなさいよ」
「軽いトラウマだぜ……おっと、ありがとさん。しかしこのお茶が爆弾ってことないよな?」
「あのね、大江戸からくり人形っていうのは元々はお茶を運ぶために作られたお人形なのよ」
「へぇ。それを爆弾の配達に応用したわけか」
「うん……」
「なんだ、後悔してるのか?」
大江戸からくり人形の神風特攻隊の復元は簡単であった。爆発に関する全てのシステムは火薬を除けば全て魔力による回路だ。人形作りというよりもロボットの組み立てに近い。初期の開発にこそ時間と労力を費やしたものの、設計図ができてしまえば復元は難しくないのである。
そして、生み出したことの後悔は無い。
「あるとすれば、この子が生まれてから今まで、何もさせてこなかったこと」
「へぇ」
「これからはどんどん私のために働いてもらうわよ」
「うへぇ、とんだブラック企業だなここは。給料も出さないくせに」
「良いのよ。衣食住を世話するのだから」
他の人形との区別はもうない。ガラスケースの隔たりはどこまでも無色で透明だ。
「お、こいつ気が利くな。お代わりを持ってき熱ぃぃぃいい!」
「ああ、まだ運ぶの下手なのよ、大目に見て頂戴」
テーブルの上で紅茶のポットを運んでいた大江戸からくり人形は、狙い澄ましたように魔理沙を目掛けて盛大に転んだ。
めくれ上がったスカートの中には彼女の名前が刺繍されたドロワーズがある。
勿論、焼け焦げた後なんてない。
<了>
何の上級者だとかその他色々と突っ込みどころ満載でどこから突っ込めばいいのかわかりませんでしたが今回も楽しく読ませていただきました。
霊夢さん上級者向けプレイと言うものをご教授ください。
敬礼せざるを得ない(AA略
なんという事でしょう!
プチでよかったのかこれw
よたよたとぎこちない大江戸可愛いよ大江戸。
弾幕勝負の描き方も鮮やかだし、
もはや作者様に敬服するしか有りませぬ。
どういう文章力だすげぇww
お見事!!