「紫様、紫様、朝ですよ。いい加減起きて下さい」
「ん~……」
八雲家。
いつものように、主人である紫を藍が起こしに来る。
一度や二度声をかけたところで紫は起きては来ないが、藍もそこは慣れたもの、寝ながら脱いだであろう布団の端から覗く衣服をてきぱきと片付けている。
ようやく布団から身を起こした紫の裸身にも、藍は狼狽することはない。
「ああまたそんな格好で……風邪引きますよ?」
「だって暑かったんだもーん……」
ふらりふらりとまだ舟を漕ぎながらも、紫はスキマを使って着替えを終える。
「またそんな横着して……たまにはちゃんと着替えて下さい」
「えー、面倒くさーい」
どこかの宵闇妖怪のような台詞に、藍は思わず苦笑を漏らす。
「はいはい、そんなこと言ってると橙が真似しちゃうじゃないですか。私のご主人様なんですから、ちゃんとして下さい」
「ん……」
その表情に、紫はふと、甘えたいな、と思った。
なぜそんなことを思ったのかは分からない。ただ、なんとはなしにそう思ったのだった。
「ねー藍」
「なんです? 着替え終ったら早く来て下さいね。朝餉の準備はできてるんですから」
「おはようのちゅー、して?」
「……」
固まる。
「……熱でもあるんですか」
「……なによその反応は」
一気に素に戻った紫はジト目で藍をにらみつけるが、頭一つ分背の高い藍は即座に俯角を取る。
ぐっと詰め寄る藍に、紫は反射的に身を引いてしまう。
「いいですか紫様。ふざけるのも結構ですが、私にも付き合いきれない限度と言うものがあるんです。そもそも紫様はご自分の言動を……」
という具合にお説教という名の機銃掃射を真正面から食らって完膚なきまでに蜂の巣にされた紫は、屍のような顔で朝食を終え、橙が遊びに行き、藍が洗濯を始める昼過ぎを回った頃、マヨヒガの屋根の上で一人考え事に耽っていた。
「面白くないわね……」
面白くない。
藍にお説教で言い負かされることは珍しくもない。
しかし、たまには甘えてみたいという気持ちを無碍にされたのが面白くないのだ。
「……けっこう、恥ずかしかったのに」
一人顔を赤くする紫。
気恥ずかしさは容易に、藍にどうにかして甘えてやろうという対抗心に変わる。
考える。
どうにかして藍に、「ヒャア! もう我慢できねえ!」と言わせてやりたい。
どうすれば藍は自分の甘えを許容するだろうか?
ではまず最初に、藍が甘えることを許容している人物を考えてみる。
考えるまでもなく答えは明白だ。
スキマ妖怪の式の式こと、橙。
藍は自ら式を打ったこの黒猫を目に入れてもどころかどちらに何を入れられても痛くないくらいに可愛がっている。
橙と自分。その相違点は何か? また橙はどのような要素をもって藍から甘えを許容されているのか。
「……とは言っても、私の橙との違いなんて山ほどあるわねえ……」
いきなりの壁。
かたや幻想郷に名だたる大妖怪。かたや配下の猫を満足に扱えないようなまだまだ未熟者の式。
共通点といえば妖怪であることと性別くらいのものだ。相違点をいちいち挙げていてはきりがない。
自分と橙との相違点の中から、藍が橙に甘えを許容している要素、かつ、自分に再現可能なものを見つけ出さなくてはならない。
まず考えられるのは、最も分かりやすい点。すなわち、「橙が藍の式神であること」。
だがこれは却下だ。
藍の主である紫がその主従関係を逆転させることは不可能だ。式神とその従者の契約関係は基本的に不可逆なもの。
施術者の死亡などのごく少数の例外を除いて、式神は主のものであり続ける。
次に考えられるのは、「橙が実力的にも人格的にもまだ幼いこと」。
だが、これもまた却下だ。
実力はともかく、子供のように振舞うことはもちろん、姿そのものを子供のそれにすることは紫にとって造作もないことであり、それはすでに実行済みだった。
ちなみにそれを実行した際の藍の反応は、「分かりましたからそこどいて下さい掃除の邪魔です」だった。
何か、何かあるはずだ。決定的な何かが。
「……!」
沈思黙考する中、雷光のような理解が紫の脊椎を貫いた。
あった。決定的な要因。しかも自分にも十分再現可能な、ある要素。
血流と共に大量のアドレナリンが全身を駆け巡る。高揚、そして勝利の確信。
脳裏に閃くのは、はるかな記憶。
かの大陸で、金毛九尾の大妖として恐れられていた妖孤を屈服させ、自らの式とした時のあの光景、あの感覚。
ふ、はぁ……と吐息が漏れる。熱く、甘い。恍惚の熱。
「2度目よ、藍」
ほとんど情欲と言っていい征服の喜悦に、笑みが艶めく。
「もう一度あなたを、支配してあげる――」
「藍」
自分の名を呼ぶ主の声に、藍は普段のそれとは全く違う色を見出した。
普段自分を呼びつけるときの声には決してない色。
居住まいを正す。
「は」
短く返事を返す。ただ一言に乗せられた絶対の忠誠。
次に紫が一国を焼けと命じれば、藍はそうするだろう。
次に紫が自刃して果てよと命じれば、藍はそうするだろう。
理由など問うべくもない。主が命じればそれを行う。速やかに。それが式神の有るべき有り方だ。
主の命を待つ。
「これ……でしょう?」
紫の細くたおやかな指先が、つ……とスカートを持ち上げた。
紫の意図を測りかねた一瞬の思考の空隙に叩き込まれる、衝撃。
空を疾って襲い掛かってくる「それ」を、藍は辛うじて回避。
「紫様……!?」
「橙にはあって、私にはないもの……これよね、藍?」
「……なんのことです?」
「だから、これ」
くるりと後ろを向いた紫の腰のあたりに、異物。
「……なんですかそれ」
「だから、好きなんでしょ?」
「……何がですか」
「しっぽ」
「……確かに好きですけどソレ何のしっぽですか」
「アンキロサウルス」
「アンキロ……ッ!?」
アンキロサウルス。
今やその姿なき、かつて地上を跋扈していた古の竜。
戦車のように全身を覆う装甲と、先端に骨塊のついた長い尾がその最大の特徴である。
「見なさい藍、そして愛でなさい! この見事な尻尾! トリケラトプスも一撃よ! ほらあ……触っても、いいのよ……?」
「うわあ……鱗のゴリゴリした手触りがなんとも……じゃなくて出てけーーーー!!」
追い出されたという。
マヨヒガを放逐された紫は、あてどもなくさまよっていた。
会心の発想だと確信していた尻尾という着眼点の失敗が、思いのほかダメージが大きい。
こうなったら計画を切り替えるしかない。
プランBだ。つまりそんなものはない。
はあ……と、追い出されてから何度目かのため息。
最初はどうにかして甘えたいという妙な対抗心だったものが、だんだん孤独感に変わっていくのを、紫はぼんやりと感じていた。
橙には藍がいて、いつも甘えている。
藍には紫がいて、そんなそぶりを見せたことはないが、もし藍が甘えてきたなら、紫はもちろんそれを受け入れるだろう。
なら、と紫は思う。
なら、自分には誰がいるんだろう?
そう考えると、妙な寂しさに囚われるのだった。
ふざけて妖夢や幽々子にじゃれ付くことはあっても、そういうのはやはり何か違う。
うまく言葉には表せないが、自分を委ねられる、預けられる、そういう人物。
もっと言えば、自分のみっともないところや弱いところ、子供っぽいところ……つまり、「幻想郷に名だたる大妖怪」ではない、ただの「八雲紫」を見せられる人物。
それは、八雲藍以外にいないのだった。
「あー……なんか大事になっちゃったわねえ……」
恐らく、普段ならこんなことは思いもしなかったに違いない。
適当に藍をからかい、藍は慣れた調子で受け流す。
そういういつものやり取りのはずが、たまたま起こした気まぐれのせいでこんなことになってしまった。
いや……実のところ、誰かに甘えたいという子どもじみた気持ちは、紫自身自覚していないような胸の奥の陰りの部分にひっそりと息づいていたのかもしれない。
そもそも大陸で妖孤だった藍を調伏し自身の式にしたのも、元はといえば一種一族の妖怪という自身の無聊を慰めるためではなかったか。
そんなことを考えていると、ますます悲しくなってくる。
百万本の弓矢すら容易く防ぐ結界を持つ紫も、自身の内側で疼く痛みは防ぎようがなかった。
ふらふらとさまよっていた紫は、気が付くと紅魔湖の外れにある森の辺りにまで来ていた。
どこを見るでもなく、視線をめぐらせる。
と、聞き覚えのある甲高い声が聞こえた。視線を下げる。
見覚えのある後ろ姿が二つ。
一人は紅魔湖に住み着いている氷精。もう一人は緑色の髪をした二回りくらい年上の妖精。
歓声を上げながら危なっかしく走っていく氷精を、緑色の髪の妖精が慌てて追いかけている。
氷精は急にに立ち止まると、緑色の髪の妖精の胸に飛び込んだ。
腰のあたりにしがみついて甘えている氷精の頭を、緑色の髪の妖精は優しく撫でてやる。
――不意に襲ってきた羨望に、泣きそうになった。
その場から飛び去る。後ろを振り向かないように。風切り音で楽しげな歓声をかき消すように。
自分が世界でいちばん惨めに思えた。
何も見たくない。何も聞きたくない。
誰かの声を、姿をさえぎるために飛ぶ。
飛んで、飛んで、飛んで。
いつの間にか日は落ち、あたりは夕闇に染まりつつあった。紫にはあたりを空け色に染め上げる夕日も見えてはいない。
だから、自分を呼ぶ声に気付くのにはしばらくかかった。
「紫様!」
はっと振り向く。見覚えのある顔。
藍がいた。
「良かった……やっと見つけた……!」
心底ほっとした顔。ずっと自分を捜していただろう事はすぐにわかったが、紫はとっさに言葉を返せない。口を中途半端に空けたまま、黙っている。
「こんな時間になってもお帰りにならないから心配したんですよ? さ、橙も待ってます」
そう言って背を向けた藍の手を、紫は溺れかけた者が水面にようやく顔を出してひと呼吸分の空気を吸う時の必死さで、掴んだ。
そのとき自分がどんな顔をしていたか、紫は分からない。
手を捕まれた藍は、「あ……」と小さく声を上げた。
紫は顔を伏せる。
藍はどうしていいか分からない。
顔を伏せた紫の表情は垂れ下がった髪に隠れて見えない。
ただ、藍の手をすがるように掴んでいる。
藍は動けない。
息の詰まる沈黙。
先に動いたのは、紫だった。
少しだけ、ほんの少しだけ顔を上げる。
何か、言った。
かすれるような、吐息と区別がつかないほどの小さな声。
だが、藍には聞き取れた。ぴくんと、帽子に隠れた耳が跳ねた。
紫は、確かにこう言ったのだ。
――手……つないで……
ようやくそれだけを言って、紫はそろそろと、親に叱られた子供のように、祈るような気持ちで、しかし何を期待しているのかも自覚できないまま……視線を上に上げた。
赤い、顔。
見上げた藍の顔。真っ赤。半開きの口。言葉の形にならない、途切れとぎれの吐息。
それでも藍の手は、紫の手を、かすかに、握り返した。
「……紫、様」
先にまともな言葉を発したのは、藍の方だった。
「その……家まで、ですからね?」
「やだ」
「やだって……」
「もっと」
言いながら、紫は藍の腰のあたりに手を回し、抱きつく。
そこには藍の主も、幻想郷に名だたる大妖の姿もなかった。
「……あんまりわがまま言わないで下さいよ」
「知らないもん。言うこと聞きなさいよう」
「あ……う……」
子供だった。
そこにいるのは、甘えん坊のただの子供だった。
藍はどうしていいか分からず……という以前に、事態が飲み込めない。
紫は藍の腰に抱きついたまま、動かない。
ややあって、藍は諦めたようにため息をついた。
いつものことなのだ。紫が自分を困らせるのは。
だが、藍には何となく分かった。これはいつもの気まぐれではない。たぶん、ほんとうのこと、だ……。
「分かりましたよ、甘えん坊の、ご主人様……」
紫がそっと藍の胸に押し付けていた顔を上げた。
藍は自分でも意外なほど優しく、ふっと微笑んで、さっきのように紫の手を取る。
握った手を、壊れ物を扱う手つきでそろそろと胸のあたりに持っていき、両手でそっと包み込む。指を絡める。
式神とその主という、血縁以上のつながりを持っていながら、記憶にある限り初めて握る、主の手。
ふるうだけで幾千幾万もの妖怪を屠る手が、こんなにも小さく、細く、弱々しく震えてさえいる。
藍は胸中に、じわりと滲むようないとおしさを覚えた。
藍は、式神が主に対して決して行うはずのない行動を取った。
普段なら正気を疑って当然の行動。
だがその行動は、まったく自然な動作で行われた。
片手を、つ、と上げる。
そして……自分の主の頭を撫でる。
ぎゅ、と、再び紫が藍の胸に顔を押し付けた。
ひとたまりもなかった。藍は紫を抱きしめた。
そう、結局のところ、式神が主に逆らうことなど、できはしないのだ。
何故俺の目に水が溜まっているのだ?
そこまで俺は飢えているのか?
良かったですよ
複数尻尾は化生の誇り。11本くらい付いていればカリスマあったかも。
……てな方向に進むかと思ったら良い話でほんわかあったかい気持ちになりました。
そう、それは感動という電流が走ったのだ。
ご批判?こんなジーンとくる話に非の打ち所なんかありません。
甘々なゆからんをありがとう、そしてごちそうさまでした。
ただしアンキロ、テメーはダメだ。
……何故よりにもよってアンキロサウルスなのかは聞いたら駄目なんだろうかw
悶えまくりの萌えまくり!
多分藍しゃまは必死で本能を抑えていると妄想。
>「おはようのちゅー、して?」
ここからもうゆかりんの虜ですよ。仕方ないじゃない。
アンキロサウルスと言えば一、二を争う程格好良い恐竜ですね。
萌え転げた……
だがアンキロwwwww
>かの大陸で、金毛九尾の大妖として恐れられていた妖孤を屈服させ、自らの式とした
>藍には紫がいて、今はそうでもないが、小さい頃にはよく甘えてくれた
食い違ってません?
アンキロはいらんがなwww
俺は爬虫類の尻尾でも全然構わないで萌えちまう漢だぜ!
だが、何故アンキロの尻尾にしたんだw天才はやっぱり解せないw
>>14
金毛九尾に藍と言う式をくっ付けたのが、
今の藍じゃありませんでしたっけ?
藍と話にあった式は別だと思うんですがどうでしょう?
でも、何故にその尻尾をチョイスしたとですか?
アンキロサウルスは草食恐竜の中で最もイカすと思うのですが誰も同意してくれません。何故だ。
>14氏
指摘ありがとうございます。矛盾点を修正しておきました。
投稿前の見直しは繰り返してやらないとダメですね。
>17氏
その点はフツーに書き間違えました。
公式では藍さまに関しては「八雲藍という名前は紫がつけたもので本名は不明」という情報以外はその前身に関する記述はないのですが、やっぱり九尾の狐といったら金毛九尾のアレが出てきますよねえ。
ゆかりんも藍様も大好きです!
>「記憶にある限り始めて握る~」→「初めて」ではないかと。
再び指摘ありがとうございます。
2回も指摘されるなんて悔しいでも修正しちゃうビクンビクン。
でも尻尾にすべて持ってかれちゃったんだ。
アンキロはねーよwwww