比那名居天子。天人という幻想郷では誰もが憧れる存在になった少女であり、生老病死に苦しまず衣食住にも不自由しない完全無欠の娘であった。
だが彼女は今、衣服が破れて髪が乱れた姿で、ふてくされた顔をして地べたに座っている。
「さて、これであなたの負けだと思うけど、異議はある?」
「……ないわよ!」
西行寺幽々子は天子の目の前で、手の中の扇を広げてのほほんとした笑みを浮かべていた。
冥界にある白玉楼の庭。ここでこの二人は先ほどまで、スペルカードルールに基づいた壮絶な決闘を繰り広げていたのだ。ちなみに戦いの理由は特に無い。
そしてその結果として幽々子が勝者となり、天子は無様な姿で地に伏すことになった。
別に負けたのはこれが初めてではない。以前にも決闘で敗れたことはあるが、そのとき天子は手加減をしていた。今回はかなり本気でやったにも関わらず負けてしまったのが、不満顔を浮かべている原因だった。
「さて、じゃあ負けたんだから。約束を守ってもらいましょうか」
「え? ……や、約束って?」
「やあねぇとぼけちゃって。前の決闘のときに『ネクターってお酒が飲みたいわ』って言ったら『次に勝ったら飲ませてあげるわよ!』なんて答えてくれたじゃない」
天子を眉を寄せて思い出そうとした。そういえば以前そんなことを言ったような気がしないでもない。
しかしネクターとは……と天子は悩んだ。あまり聞かない名の酒だが、記憶が正しければそれは天界にある不老長寿の効用を持つ霊酒である。いらぬ混乱を引き起こしかねないので、地上への持ち出しは禁じられている一品だ。
「あら、どうしたの? まさか約束を守れないとでも言うんじゃないわよね?」
「う、うるさいわね! ちょっと待ってなさい、すぐに持ってくるから!」
地上への持込は不可だが、冥界ならばまあ大丈夫だろう。たぶん。それに相手は普通の人間ではなく亡霊だ。きっとセーフだろう。おそらくは。
天子はそう考え、さっそく霊酒を持ってくるために天界へと飛び立った。
しばらくしてから、天子は白玉楼へと戻ってきた。足音もどたどたとやかましく上がりこんできたかと思うと、居室で書を読んでいた幽々子におおぶりな白磁の徳利を突き出した。
「あら、それがネクター?」
「そうよ。地上に転がってる凡百の神酒とは違う、紛れもない霊酒よ」
「じゃ、さっそくいただきましょうか。妖夢ー、ぐい飲みの雪のやつ、持ってきてー」
その言葉に応えて、半人半霊の従者が白く上品な雪模様のついた酒器を持ってきた。幽々子はそれを手に取ると、微笑みながら天子に向かって差し出す。
だが天子は、意味がわからず不機嫌そうな顔をする。
「…………なに?」
「注いで」
「はぁ!? なんで私がそんな召使の真似事しなきゃなんないのよ!」
「飲ませてくれる、って言ってたわよね」
「ぐっ……」
天子は不満いっぱいの表情を浮かべながらも、不承不承といった感じで幽々子の酒器に酒を注ぐ。
杯になみなみと霊酒が満たされる。幽々子はそれをこぼすことなく口元まで運び、ゆっくりとあおった。
「あら?」
まったくこぼさずに飲み干したはずであった。だがどうしたことか霊酒は幽々子の口には一滴も入らない。すべて口の脇からこぼれてしまい、白玉楼の畳を濡らしただけだ。
「ちょっとこれ、どうなってるの?」
妖夢が雑巾で畳を拭くのを見ながら、幽々子は疑問の声をあげる。それに対して天子は不敵な笑みを浮かべた。
「ふふん。ネクターを甘く見たからよ。天界の霊酒よ? 欲にまみれた者の口には、そう簡単に入らないわ」
「じゃあ、どうすれば飲めるの?」
「そうねぇ、ま、欲を無くしていけばいいんじゃないの? 頑張ってね」
天子は、してやったりといわんばかりの意地の悪い笑顔を浮かべる。だが幽々子はそれに微笑みで返した。
「なに言ってるの、頑張るのはあなたよ」
「……へっ?」
思いもかけない反撃に、天子は妙な声をもらしてしまう。
「だって、スペルカードで負けたのはあなたでしょ? で、これはあなたの罰ゲーム。だからあなたが頑張って、私にネクターを飲ませないと」
「うぐっ……」
反論の隙もないほど畳み掛けられて、天子は押し黙る。
いくらなんでも横暴ではないかと思ったが、負けた手前もある。それに言い訳していると見られるのも嫌だった。
「わかったわよ! 飲めるようにしてあげるからちょっと待ってなさい!」
そう言って天子は考え始めた。
さすがに酒を飲むだけだから、悟りを開くほど欲を捨てなくてもいい。その場しのぎの程度でよいのだ。だが今の幽々子が一滴も飲めないということは、霊酒に避けられるほど欲があるということで……
「……もしかしてあんた、お腹空いてない?」
「そういえば空いてるわね。運動したばっかりだし」
「もっとも基本的な食欲に反応したか……じゃあまず、それを満たさないとね」
「あ、それは嬉しい。ご馳走してくれるのね?」
「はぁ!? なんで私が!?」
「だって、白玉楼の者に準備させたんじゃ、あなたが飲ませてくれたことにならないじゃない」
「ああもう、わかりました。食事を持ってくればいいんでしょう!」
「肉や魚がふんだんに使われている物がいいわー」
(天人に生臭物を用意させるなんて!)
内心憤ったが、こうなっては仕方がない。
天界の料理の不評さは知っていたので、天子は地上を目指して飛び立った。
数時間後。白玉楼の一室には、盛大に食べ散らかされた膳がいくつも転がっていた。すべて幽々子がたいらげたのである。
もっとも食べ方は名家の出らしい行儀の良いものであったが、常人の数倍の速度で数倍の量を食べ尽くす様は、いかに食事作法が完璧といえども「食べ散らかした」と形容するしかない。
「ふぅー。食べた食べた。たまには地上の食事もいいものよねぇ」
「苦労したんだから、もっとゆっくり味わってほしかったんだけど……」
天子は不満そうに睨みつける。世間知らずの彼女には、まず料理というものがどこで手に入るのかもわからなかったのだ。
とりあえず人間の里の大きな家に入って「料理を用意しなさい」と宣言し、その場にいた人間達からひどい馬鹿を見る目で眺められた。やってきた阿求が料理店の所在地を教えなければ、妙な天人扱いされただけで事態がまったく進展しなかっただろう。
教えられたとおり料理店で料理を注文したはいいが、人間の使っている通貨というものを持っていなかったため、それなら身体で支払えと怒鳴りつけられたりもした。駆けつけた衣玖が珊瑚の飾りを渡していなければ、今頃危ないところであった。
「ともかく、もうこれで食欲はないでしょう? ほら、ぱっぱと飲んじゃいなさい」
「うーん。お腹いっぱいすぎてあんまり味わかんないんだけど、まあしかたないわね」
酒器を差し出し、それに天子が霊酒を注ぐ。そして幽々子がぐいっと飲み干そうとすると、またも酒はすべてこぼれてしまった。
「あらあ……また飲めないんだけど?」
「ええいもう! あんだけ食べたのに何が足りないってのよ!」
「知らないわよ……ふあーあ」
大あくびをする幽々子をみて、天子はあることに気づいた。
(そうか、睡眠欲か!)
「ほらそこの半人半霊。畳を拭くのはもういいから、あなたの主人の寝床を用意してあげなさい」
「え? ですが天人様、まだ日が沈んでもいないのに」
「いいから早く! 片付けは私がするから」
せかされたので、妖夢は幽々子をつれて寝所へと向かう。
天子は「まったくもう」と悪態をつきながら雑巾で畳を拭こうとして、食膳に足が引っかかり派手にぶちまけた。
夜半の白玉楼。
結局天子はまともな掃除ができず、戻ってきた妖夢がさらに増えてる仕事量に眉を寄せながら片付けをし終わったあと。夜明けまでずいぶんと間のある時間に幽々子は目を覚ました。
彼女が布団の上で寝ぼけ眼を擦っていると、制止しようとしている妖夢を引き連れた天子が、寝所にずかずかと入ってきた。
「天人様、まだ幽々子様は起きたばかりですし、寝巻きのままですので、どうかもう少し待って……」
「待てるわけないじゃない! どうせしばらくしたらこいつは、腹の虫を鳴かせ始めるに決まってるわ。ぼんやりしてたら無限ループよ」
そう言ってから、霊酒で満たされた杯を乱暴に差し出す。それを寝ぼけ眼のまま受け取った幽々子は、ゆっくりと口元に当てて傾け、そして盛大にこぼした。
「あああ、こんどは布団まで……」
「う、どうしてかしら」
がっかりした顔で雑巾を取りに行く妖夢。残された天子は今回もだめだった原因を考え始めた。
(三大欲求のうち食欲も睡眠欲も満たした。すると残る欲っていったら、アレしか……)
幽々子の方を見る。寝起きでとろんとした目、寝巻きは着崩れて白い胸元や脚をさらけだしており、その肌はどこか上気しているようでもあった。
「……言っとくけど、別にそういう気があるわけじゃないからね。欲を満たすために……仕方なくなんだからね!」
「ん?」
天子は襟元のリボンをほどき、ボタンを上から順に外しながら、ゆっくりと顔を近づけていった。幽々子の方は寝起きで頭が働いていないのか、ぽややんとした顔で見つめ返すだけだ。
やがて二人の唇が近づき、重なろうとしたその瞬間――
「こら、なにやってんのよ」
鈍器による一撃が、天子の後頭部を襲った。
あまりの激痛に、声もなく倒れてのた打ち回る天子。
その背後の空間には隙間が開いており、八雲紫が姿を現していた。
「人の親友に色仕掛けとは、天人もくずれにくずれたみたいね」
「こ、これは仕方がなく……!」
反論しようとした天子は、紫の手の中にあるものをみて言葉を詰まらせる。
さっき後頭部を殴ったと思われる、片手で握れるサイズである金属製の円筒。その表面には色鮮やかな桃の絵があり、さらには天子をさんざん悩ませていたものの名前が書かれていた。
「これが本当のネクターよ。ピーチネクター。お酒じゃなくてジュースだけどね。リングプル式の350ml缶で、しばらく前に幻想入りしたものよ。そこの天人が持ってきたのはネクタル。不老長寿の効能があるけど美味しいものじゃないわ」
そう言ってネクターの缶を幽々子に手渡す。手馴れた様子で缶を開け、美味しそうに飲み干す幽々子を見ながら、天子はがっくりと肩を落とした。
「なんのために苦労したのよ……」
「無駄な努力よ。それはそう簡単に飲める代物じゃないわ。三大欲求を抑えたところで『霊酒を飲みたい』って欲をなくさなきゃいけないんだから。だいたい、あんただって口にできないんじゃない?」
紫のあざ笑うかのような言葉に、天子はかっと顔を赤くした。
「言ったわね。じゃあいいわよ、私だけで飲んでやる。飲んでもいないのに不味いと決め付けるなんて、天上の美味を知らない下賤の言葉だわ」
そう言って天子は霊酒の徳利に直接口をつけ一気にあおった。しかし霊酒は天子の喉を潤すことも拒否し、口の端から盛大にこぼれる。
雑巾を持ってきた妖夢は、その光景を見てため息をつくのであった。
田舎だからかなぁ