米
このお話はプチ作品集32『あのすばらしい地震をもう一度(中編)「ライバル出現!?二人の神様」』の続きになっています。
≪ 5 ≫
子供の頃、天界の草原で蝶を集めた事がある。
理由なんて特にない。あったとしてももう覚えていない。ただ、カゴの中で世話しなく羽ばたく蝶の群れを見るのが好きだった。
花の上で羽を休める蝶をふん捕まえては、まじまじと眺める。指に燐粉が付く事なんて一向に構わず。青空の下、一日中遊んでいたって飽きなかった。
そんな時、誰かにこんな事を言われた。
「チョウチョが可哀想だから、そんな事しては駄目ですよ」
引っ叩いてやった。比那名居の一族に物言いするなんて、無礼な奴だと。
その夜、蝶たちに問いかけた。あなたたちは可哀想なの?馬鹿らしくなって、カゴを絨毯の上に放り捨てた。
いつからか見向きもしなくなった、カゴの中の蝶の群れ。彼らは一体どうなっただろう?
姿さえ覚えていない誰か。叩かれた彼女は、どんな顔をしていただろう?
わかっている。蝶はみんな死んでしまったし、少女は涙を浮かべていた。草原で遊んでいたのは、他に遊ぶ相手がいなかったからだ。
(知らなかったの。私が何をして、誰かが困っても。私はその人の事を知らないんだもの)
何故、苦しむのか。何故、悲しむのか。もう少しだけ近付ければ、それもわかったかも知れないのに。
扉の奥、廊下の隅、あるいは背後から彼女を哂う声は、傍に寄る事さえ許さなかった。
(仕方ないじゃない。私の事だって、誰も知ろうとしてくれなかったじゃない!)
考えないようにしていた事を、急に思い出したからだろうか。
うっすらと目を開けると、涙が零れ落ちた。
「ようやくお目覚めかい?」
「……ふぇ?」
何を言っているかもわからない呼び声に、腑抜けた返事だけをかえす。
身体を伸ばそうとしても、手足が何かに引っ掛かって動かない。違和感を受けて、天子の意識はようやくはっきりしてくる。
首だけできょろきょろと左右を見回す。外だ。日の暮れた妖怪の山の頂上、湖を望む夜景が広がっている。
次に、自分の身体を見下ろす。後ろ手を縛られ、両足にも縄が巻かれ、ついでに何故かドラム缶に入れられている。今の自分は、そこからひょっこりと首だけを出している状態だった。
そして、ふと顔を上げる。暗がりの中、身動きの取れない天子の前に立っていたのは、二人の女だった。
「……あぁー!注連縄女と蛙女!」
「誰が注連縄女だ」
やはり背後に注連縄の輪を背負った女―――なんとか神奈子とかいったか―――が、腕組みしながら毒つく。その隣で、奇怪な麦藁帽子の少女も不機嫌そうにして頬を膨らませた。
「蛙女もね」
「諏訪子にゃお似合いだよ。あんな攻撃仕掛けちゃねぇ」
「だってこいつってば、勝手に本堂に入ろうとするんだよ?」
礼儀がなってない、と蛙女―――もとい諏訪子とかいう女―――がこちらを睨みつけた。同じように、神奈子からも視線を向けられ、天子はうっと身じろぎする。
にやりと皮肉のこもった笑みとともに、神奈子が言う。
「まったくだ。私たちの神社を乗っ取ろうなぞ、愚かしいにもほどがある」
「なっ!知ってたの!?」
驚愕の声を上げる天子に、やれやれと肩をすくめながら神奈子はあとを続ける。
「有名さね。幻想郷中の人妖たちから気質を集めて異常気象を巻き起こした天人。大地震が目的だったってのは一部の輩にしか知れ渡ってないらしいが」
「あげく地震で壊した神社をこそこそ改造して自分の物にしようとした、と。色々調べさせてもらったよ、有頂天の不良天人さま?」
神奈子に次いで、こちらはよほど頭に来ているのか、諏訪子はあくまで冷めた眼差しで嫌味たらしく言ってくる。悔しさに歯噛みし、天子は押し黙った。
守矢神社。甘く見ていたわけではないが、これはいくらなんでも反則だ。よりにもよって神様が二人も住んでいるなんて。
が、今となってはもはや関係ない。問題は、この状況で自分は一体何をされるのかだ。何となく予想はついていたものの、やや捨て鉢になりながら天子は二人に言葉をぶつける。
「……えぇそうよ。で、何?報復で湖にでも沈めようって?二人がかりで、随分えげつない神様なのね」
何を言っても負け惜しみにしか聞こえない事は承知している。しかしたとえ相手が神様であろうと、屈するのはプライドが許さなかった。
と、神奈子は何故かかぶりを降り、にんまりと笑いかけてくる。
「まさか。そんな非道な真似をする筈がないじゃないか」
「その通り。それどころか、罪深いあんたに罰を選ばせてあげる」
続けて言う諏訪子、彼女もまた白々しく口の端を吊り上げる。
は?、と声を上げ天子が訝しむと。神様二人は、息を揃えて告げた。
「「蛙と蛇、どちらがいい?」」
「ど、どちらかで何をするのか聞いてもいいかしら……」
嫌な予感にやや身を縮こませながら、天子が苦々しく尋ねる。と、神奈子があっさりと答えを返した。
「漬ける」
自分の顔から、さぁっと血の気が引くのがわかった。
嫌だ。どうしようもなく嫌だ。しかし悲鳴を上げるのだけは堪えて、天子は訂正に判断を下す。どちらかといえば、一度経験している分蛙の方がマシだった。決してあれで耐性がついたわけではないにせよ。
が、天子の返答を妨げるように諏訪子が小さく手を挙げる。
「あ、でも言っておくけど蛙は蛙でも」
「……?」
「卵だから」
「いぃぃぃやぁぁぁぁぁぁ!」
心の中の大事な何かがとうとう折れ、天子はぶんぶんと首を振って嘆き叫んだ。
それを見て一層笑みを強くした神様二人が、両手の指をわきわきと蠢かしながらドラム缶へと詰め寄ってくる。
「私、蛇を象徴にしてるけど実はあんまり種類知らないんだよね。毒のある奴混じったらどうしよう。まぁいいか」
「あ、じゃあ私あれ入れる。コモリガエル。パープルフロッグとコンボで倍率ドン!」
「こらこら。あんたは卵にするんでしょ?」
「そうだった。いっけなーい☆」
「あははは、こーいつぅ」
「いやぁぁぁ!和みながらそんな算段しないでぇぇぇ!?」
いやいやと必死に首を振る天子。精一杯身体を揺するが、手足の縄はほどけずドラム缶から出る事も出来ない。
涙目になり喚き散らしながらも、天子は固く覚悟を決めた。
(こうなったら、やるしかない……!)
神社を倒壊させるために温存していた力。しかしこのままでは持ち腐れたまま悲劇に見舞われるだけだ。ろくに計測もしていないこの地形に、どれだけの影響が及ぼされるかはわからないが、なりふり構っている余裕は微塵にも残されていない。
天子は念じた。
(揺れろ……!!)
何も遠くを意識しなくていい。威力を加減してやる事もない。大地の底、緩やかに蠢く鼓動に蹴りを入れてやるイメージで。
ほんのわずかな鳴動が、地面を伝って空気を揺らした。
「…………?」
神様の片方が、異変に気付く。が、その時にはもう遅い。
天子は唸る。それに引き寄せられるように、地震は途端に大きさを増した。
「……こいつ!」
身体をよろめかせながら、諏訪子が毒つく。
地面は振幅がわかるほどに上下し、湖面のあちこちに波紋が生まれる。一帯を覆う地響きはみるみる内に音を増し、相手の声すら聞き取れなくなる。
が、まだ序の口だ。土砂崩れでも起こして、二人の神様を道連れにしてしまえ。やけくそになりながら天子がほくそえんだ、刹那。
がたんと、ドラム缶が大きく傾いた。
「――――――え?」
ドラム缶が中の天子ごと横倒しになり、衝撃で首を前後に揺さぶられる。それだけでは終わらず、金属の筒は地面の揺れに押され、緩やかな斜面をごろごろと転がりだした。
暗く底知れない湖へと。
「きゃああああああっ!?」
ぐるぐると目まぐるしく変わる景色に目を回しながら、天子は悲鳴を上げる。ほんの一瞬、神様二人のバツの悪そうな顔が見えたような気もしたが、気に留めていられる筈もなく。
派手な水音と飛沫を上げて、天子は湖に突っ込んだ。
鬱陶しいほど湧き上がる泡に顔面を晒されながら、足掻くことも出来ないまま水面下へと全身が沈む。
下手に動かなければ、身体だけなら浮いてくれるのだろうが。ドラム缶の中から出られずその重さにひたすら引っ張られる。暗く、冷たい。おまけにどちらが上かもわからない。口の中へと入り込んでくる無遠慮な水に正気をかき乱されて、脳裏に現実味のない言葉が走った。
(死ぬ…………)
鐘を打つような鈍い重音と、緩やかな衝撃。とうとう水底にまで到達したのだろうか。冷静にそれだけを感じ取り、しかし身体はぴくりとも動かせない。急激な体力の消耗に、抵抗の意思さえも彼女からは削ぎ落とされていた。
(誰か……お願い……)
閉じかけた瞼を、やがてゆっくりと閉じようとする。その瞬間、見えたものがあった。茫洋で小さな光。月だ。
急に呼吸が出来るようになり、天子は咳き込んで水を吐き出した。びしょ濡れでぐしゃぐしゃにしぼんだ衣装と、乱れて額に張り付いた髪の毛の気持ち悪さに身じろぎしながら、ドラム缶からわずかに這い出る。
地面だ。いつの間に移動したのかと思ったが、違う。首だけで周囲を見渡して、天子は目を丸くした。
「…………!?」
湖の水が、まるで道を作るかのように二つに割れている。壁のように聳える水の断面、その間に開かれた湖の底の地面に彼女は転がっていた。
横倒しで跳ねる魚に、ぺたりとしぼんだ水草。目の前を小さな蟹が横切り、水の断面をすり抜けて奥へと潜っていく。まるで奇跡か何かでも目の当たりにしているかのような情景に放り出されて、状況がまったく飲み込めずに呆然としていると。
どこからか声が響いた。
「―――お二人とも!何を波止場のギャングみたいな事してるんですか!?」
知っている声だ。つい最近、初めて知り合ったばかりの声。
それを聞いて、安心したためだろうか。思い出したように、天子は小さなくしゃみをした。
≪ 6 ≫
湯気の立ち昇るこじんまりとした浴場、プラスチック製の桶が小気味良い音を立てる。
浴槽の縁にまで溜まった湯に肩まで浸かり、膝を抱えて座りながら。天子はぼんやりと天井を眺めていた。長髪をまとめて頭にタオルを巻いているせいで、後頭部がやたらと重い。
何も考えていないわけではない。けれど、思うこと全てが堂々巡りしてしまい、言葉にすらならない。出るのは溜息ばかりだった。
不意に、湯船に波が立つ。ちらりと見やれば、身体を洗い終えた早苗が浴槽に足だけを浸けて腰掛けていた。
「温まりました?」
「…………ん」
こちらの顔を覗きこむ微笑む早苗から、視線をそらしながら小さく返事をする。
先程から、ずっとこんな具合だ。湖の中から助け出されてからというもの、ろくに礼すら述べられていない。気を使って声を掛けてもらうのに、空返事だけをかえしている。
意地を張っているつもりはない。ただ、神様二人を叱ってなだめ、天子に肩を貸して屋内まで運び、そのうえ風呂まで沸かすなど、彼女があまりにもテキパキと事をこなすので、言う機会を完璧に逸してしまっただけだ。
今もまた、早苗に誘われるがまま風呂に浸かっている。浴場に反響するのは、ひたすら彼女の声だけだった。
「神奈子様たちには、きちんと言い聞かせておきましたから」
「…………ん」
「お洋服乾きそうにないですから、私の寝間着使ってくださいね」
「…………ん」
気まずく返事をかえしながら、またわずかに身体を湯に沈ませる。
もう随分と長く風呂に浸かっている。そろそろのぼせてしまいそうだ。結局のところ、聞きたくない事、聞かなければならない事を先延ばしにしているだけなのだと、静かに認める。観念して、天子は顔を上げた。
「……なんで」
「はい?」
首を傾げる早苗の顔を見つめて、やや口ごもりながらも天子は言葉を紡ぐ。
「なんで、そんなに優しいわけ?」
「…………」
「あの二人から聞いてるんでしょ?私はあんたらの神社を乗っ取ろうとしたのよ。さっさと追い出せばいいじゃない」
今度は躊躇せず、むしろ急ぎ過ぎなほどに早口で言い切る。まるで、悪戯が露見して叱られるのを待つ子供のように。自分でもわかるほど、みじめな声色が響く。
が、早苗はあくまで深刻な顔一つせず、うーんと宙を見上げて何かを考えている。
そして、くすりと笑った。
「…………?」
「あ、ごめんなさい。似てたものですから、つい……」
きょとんとする天子へ、早苗はさらに意味のわからない事を言ってくる。
「は、誰が?」
「私と、あなたが」
「……似てないわよ」
あきれて呟くと、それさえ面白いかのように早苗は微笑みながら、湯船に身体を沈ませる。浴槽の縁から豪快に湯を溢れさせて、彼女は天子のすぐ隣に座った。すぐ隣、といっても二人で入るのが精一杯くらいの広さではあるが。
肩が触れる。近い距離で視線を交わすのに気恥ずかしさを感じながらも、天子は疑念を込めて早苗を見つめた。改めて、早苗が口を開く。
「私たちがこの郷に来たばかりの頃なんですけどね。あなたと同じように、麓の神社を手に入れてしまおうとしたんです」
「そうなの?」
意外な話ではあった。初めて遭遇した時からかわらず、天子は彼女に対して社交的で大人しそうな印象を抱いていた。まぁ、湖の水を割ったり神様二人に説教をしていた時点で只者でないとは重々理解したが。少なくとも、自分と同じような真似をする人間には思えない。
早苗は頷く。自嘲ともとれる複雑そうな表情を浮かべて。
「えぇ、そんなの上手くいく筈がないのに。案の定あの巫女にコテンパンにされちゃいました。ほら」
これその時の痣です、と丸い痕を見せてくる早苗に、あまり笑えず天子ははぁ、とだけ頷く。こちらからわずかに目を逸らし、正面―――否、何処か遠くを見据えながら早苗は続けた。
「外の世界では、私は神様扱いでした。それが誇らしくもあったし、煩わしくも思っていました。だから、負けた時にほんの少しだけほっとしたんです。私は特別じゃない。私にも、この世界にも、特別なものなんて何もないんだって」
「…………」
「無理する事なんてないんです。わかり合える筈なんです。この狭い幻想郷の中で、きちんと歩み寄れば届かないものなんて、ない」
早苗が、何を思いながら話しているのか。その横顔からは何も察する事が出来ない。当然だろう、今日であったばかりの自分と、彼女の心の距離は遥かに遠く、通い合うものなど何もない。
ただ、早苗の言う事が本当ならば。たった十数年しか生きていないこの人間を、信じるとするならば。天子自身こそが歩み寄らなければ、何も縮まらない。
「……私は、自分の生きたいように生きてきたわ」
「はい」
振り向く早苗の声は優しかった。それに後押しされるように、選ぶわけでもなく言葉はすらすらと零れ出る。
「でも、時々不安だった。私の生き方は本当に正しいのか。周りの人たちは何も答えてくれなかったわ。私が何をやっても、誰も何も言ってくれない。酷い事もたくさんした筈なのに、それに全然気付けなかった……」
「でも、今ならわかる?」
「わからない。わからないけど……きっと今さら謝ったって、誰も許してくれないわ」
ぽとりと、湯面に小さな波紋が広がる。堪えるように瞼をわずかに閉じるが、涙は否応なしに頬を伝い零れた。それ以上喋ると声が上擦りそうで、天子はきつく口を閉じた。
浴槽の底についた手に、そっと早苗の掌が添えられる。
「けれど、謝りたいんでしょう?貴女がそうしたいと本当に思うなら、そこから逃げるのはきっといけない事です」
「…………」
「生きたいように生きればいいじゃないですか。わからない事があったなら、私に言ってください。貴女が悪い事をすれば、私が叱ります。私だけじゃない。きっとこの郷の誰だって、貴女を一人にはしない筈ですから」
そこまで言って、早苗は立ち上がった。ぽたぽたと全身からしずくを滴らせながら、浴槽から上がる。振り返りざま、彼女は天子に手を差し伸べた。
「あ、でも。山の上で地震はもう駄目ですよ?ここ火山だっていう話ですから、下手したら噴火しちゃいます」
「……うん。そうする」
早苗の言った言葉の、何に対しての「そうする」かは、自分でもわからないまま。
天子もまた腰を上げて、早苗の手を掴んだ。
いくらなんでも入り過ぎだ。身体中から絶えず湧き上がる湯気を払いつつ、脱衣所の前の扉で早苗から乾いた手拭いを受け取る。
辞儀するように腰を折って、水滴のついた両足を拭きまわしながら。お互いの顔が見えないように、天子は声をくぐもらせながら呟いた。
「あのさぁ」
「はい?」
「……その喋り方だけど。いいから、別に」
ほんのわずかな沈黙の間に、天子が頬の熱さを嫌になるほど実感したのち。
早苗が小さな笑い声を噴き漏らすのを耳にした。
「えぇ。そうする」
ガラガラと音を立てて、戸が開かれる。奥から入り込んできたのは、風呂上がりにはこたえる冷えた空気と、米の炊かれる香ばしい香りだった。
オワリ
良いものを読ませていただきました。
早苗の大人っぽさと天子の子どもっぽさがなんともいいですね。
できればこれからも二人が仲良くなる様を描いてください。
私もできれば続編というかそういったものを希望だったりします…
この一言から始まる二柱の軽い会話に笑わせて貰いました。
ほんにてっちんは可愛いなぁ。
ずんずん読めて後味すっきりの良いお話でした。