≪ 1 ≫
ある晴れた日の博麗神社。
陽に当てられてほどよく温まった、庭を望む廊下で寝転がる少女。
紅白の衣装、頭のリボンや袖が皺になるのにも構わず、神社の家主―――博麗 霊夢がすやすやと眠っていると。
その耳元に、小さな囁き声が届いた。
「助けて、霊夢ー!」
空耳と聞き間違えてしまいそうなほどの小さな声は、しかし悲鳴のような響きを以って聞こえた。
仕方なしにと、意識を覆うまどろみを払う。うっすらと目を開けた霊夢の、眼前に立っていたのは。
掌に乗るほどの大きさしかない、二本の角を生やした少女だった。
「あ、起きた!霊夢、おーい!」
「…………萃香」
何とはなしに、その名を呟く。
別段、珍しいことではなかった。鬼、妖怪の中でも秀でて力のある種族。幻想郷には存在しないなどと誰が言ったものか、いつの間にかこの郷にすっかり馴染んでしまった一匹の子鬼こと、伊吹 萃香。
特にこの神社へは毎日のように入り浸り、飯や酒の肴を漁りにやって来る。ただ、今の彼女からはいつもより切迫した様子が見て取れた。
のそりと、霊夢は上半身を起こす。珍しいことではない。それでも浮かんだ疑問を口にする。
「どうしたのよ?今日やけに小さいわね」
当たり障りのないよう尋ねたつもりだったが。
霊夢の顔を見上げて両手を振り上げて叫ぶ萃香の目には、既に涙さえ浮かんでいた。
「私が、いなくなっちゃったのよ!」
≪ 2 ≫
茶葉の入っていない急須から、古びた茶碗へと湯を注ぐ。
茶碗の中、頭に手ぬぐいを載せて湯船に浸かる子鬼へと、霊夢は尋ねた。
「湯加減どう?父さん」
「誰が父さんよ」
きっぱりと返す萃香。ついでに半眼で自分の状況を見下ろし、
「……なんでお風呂入れられてるの、私?」
「いやまぁなんとなく。似合いそうだったから」
からからと笑って霊夢は答える。と、萃香は不機嫌をあらわに拳で湯を叩いた。
「もう、ふざけないでよ!緊急事態なんだからね」
「ごめんごめん」
言葉では謝りつつも口の端はにやつかせたまま、霊夢は机に肘を突いて子鬼の方へと顔を寄せた。頭から抜けかけていた議題を思い起こし、改めて話を切り出す。
「えっと……分裂した身体が、勝手に何処かに言っちゃったって?」
「うん……」
「そんな事がありえるわけ?」
萃香の能力。萃と疎を操る程度の力と言われてはいるが、霊夢にはどうにもその原理が理解出来ない。さしあたって目の当たりにした現象といえば、萃香自身の身体を霧のように細分化したり、山のように巨大化させたりといったものだった。
それゆえに、この縮んでしまった萃香を見てもさして驚く気にはならなかった。
むしろ可愛いものだ。和むあまり妖怪親子ごっこに興じてしまうほどに。
が、当の萃香の気は大して晴れなかったようだ。俯きながら、喋りだす。
「いつもみたいにね。お酒飲んで、疲れたからその辺で寝てたのよ」
「すさんでるなぁ」
「茶化さないでよっ……そしたら、夢を見たの」
「夢?」
話が見えず、霊夢は首をかしげる。それには構わず、萃香は話を続けた。
「声が聞こえたの。私の声だった。なんだか怒ってるみたいで、もう嫌だ、とかなんとか」
「何それ。夢診断でもして欲しいの?」
「私だってわからないよ。それで、急に身体がムズムズしだして。起きたらこんな事に……」
がくりとうな垂れる萃香。口元を湯船に沈めて、ブクブクと泡を浮かばせる。
事の次第は、それで終わりのようだった。彼女自身困惑しているのだろうが、聞かされているこちらこそ意味がわからない。悩む当てすらなく、霊夢は頭の中で萃香の話を持て余していた。
何より、どうにも調子が狂うのだ。
普段から自分の周りに集まる輩といえば、頼みもしないのに喧しく慌ただしい連中ばかりだというのに。人の気など知らず、けらけらと無邪気に笑ってばかりいるというのに。
小さな子鬼、その陰った表情を黙って見つめる。いつもとは明らかに違う、気鬱な彼女の態度。それは、その顔色にも表れていた。
平素から飲んだくれて、頬を赤く染めている筈の少女。が、今の彼女の顔はいたって白く、まるで―――信じがたいことに―――素面のようだった。
(…………ん?)
ふと疑問が浮かび、霊夢は身を乗り出して萃香を更に凝視する。
それを受けて、子鬼は訝しげな眼差しを返してきた。
「な、なに?」
「……あんたさぁ、酔い覚めてるわよね」
「ん?自分じゃよくわからないけど……」
言いながら、萃香は自分の頬やら額やら、ついでに角までをぺたぺたと触りまわす。それで何がわかるものかは知れないが、何かしら納得したらしい。萃香はぽつりと呟いた。
「……うん。多分、寝てる間に切れちゃったんだと思う」
ふぅん、と霊夢は空返事をする。しかし、思考は既に別の方向を向いていた。
鬼という種族の生態など微塵にも理解は出来ないし、萃香の身に起きた異変の正体など見当もつかない。
けれど、彼女のことが何もわからないというわけではない。
小さく吐息を漏らすとともに、霊夢は立ち上がった。
「そろそろ上がりなさい、萃香」
「いや、別に入ってたいわけじゃ。入れたの霊夢だし……」
戸惑う萃香の呟きはひとまず無視して、霊夢は近くに立て掛けられた姿見を覗き込んだ。身だしなみを整えながら、奥に映る萃香へと話しかける。
「出かけるわよ」
「ど、どこに?」
茶碗から出かけた萃香が、疑問の声を上げる。
普段から人をおちょくっては無邪気に笑う、生意気な子鬼と。今の消沈しきったか弱い彼女を胸中で重ねながら。
やはり口元が緩むのを抑えられないまま、霊夢はわざとらしく首を傾げてみせた。
「お酒の切れたあんたが行く所なんて、お酒のある場所に決まってるじゃない」
≪ 3 ≫
人が住んでいるとは到底思えない、山奥の古びた屋敷。
その玄関に設えられた、人が住んでいるとしか思えない機械式のベルに、指先を押し当てる。
建物の奥から漏れるキンコーン、という呼び出し音。しかし家主からの返事を待たず―――この手の機械はどうにも信用出来ないのだ―――、霊夢は声を上げた。
「紫ーっ。いるんでしょー?」
しばらく待つ。
木々に隠れた小鳥の一羽でも飛び立つまでは、と思ったものの。屋敷の中からは一向に、声はおろか廊下の軋む音すら聞こえてこない。静寂がいたたまれずに、仕方なく霊夢は言葉を紡ぐ。
「留守みたいね」
それは独り言ではなく、彼女の肩の上に佇む相変わらず小さな萃香に向けてのものだった。
「……留守みたいだね」
まるでオウムのようにそれだけ返事する、萃香。先ほどより三割増で落胆した様子の少女から視線を逸らし、霊夢は改めて玄関を見やった。
戸の脇に掛けられた表札。そこに記された二文字、八雲の姓へと精一杯の蔑視を叩き込む。
(いて欲しくない時には現れて、いて欲しい時にはいなくなる。はた迷惑の権化め!)
萃香を乗せて神社から飛び立ち、真っ先に向かったのがこの場所だった。
八雲 紫。この幻想郷でもっとも知恵に長けた、人を喰らう恐ろしい妖怪。萃香の好物である酒を大量に入手出来る彼女の元にならば、子鬼の分身たちも群がってくると踏んでいた。
ましてや萃香と紫は知り合いだ。居場所の心当たりだけでもあるだろうと期待していたのだが。
昼寝中、ではないだろう。代わりの式神すら応対に現れないのであれば、本格的に留守という事になる。あのスキマ妖怪の行き先など、それこそ考えるだけ無駄だ。
要するに、早くも手詰まりを迎えてしまった。
(どうしよう。あんな啖呵切っといてこの結果って……)
と、耳元でカチカチという小さな異音を聞く。
嫌な予感とともに、霊夢は萃香の方へと視線を落とした。俯いたままの少女は自分の手首をじっと見つめている。そして、もう片方の手には萃香サイズのカッターナイフが刃をあらわにしていた。
「ちょ、まった!?早まんないで萃香!」
慌てて萃香の手からカッターナイフを指で摘み上げる。力が抜けたように、子鬼はその場に崩れ落ちてしまった。
「もう終わりよ……これしかもう道はないのよ……」
「あんた、素面になると途端に病むわね……」
冷や汗を拭う霊夢をよそに、萃香は肩を震わせてぐずぐずと嘆き呻く。
「だって、もう他に当てなんてないんでしょ?探しようがないじゃない。もう死ぬしかないじゃない……」
「あーもう、変なもの取り出すんじゃないの」
ごそごそと懐からミニチュアの薬瓶やら練炭やらを取り出す萃香から、それら全てを没収する。
泣き止まない少女を見下ろし、霊夢は気だるげに溜息をつきつつも。
少女の小さな頭を、指先でそっと撫でた。
「いいわよ。どうせ今日は夕方までゴロゴロするつもりだったし」
「え?」
ぽかん、とこちらを見上げる萃香の呆けた顔に、霊夢は微笑みを返す。
「今までだって、当てがあって異変解決に出向いた試しなんてないわよ、私。それでも何とかなってきたんだから」
「霊夢……」
「探しましょ。幻想郷なんて案外狭いものよ」
ぎゅっと。
きつく締められた萃香の唇から返事を待つことはせず、霊夢は空へと目掛けて大地を蹴った。
≪ 4 ≫
決して広いとはいえない幻想郷も、一日でその全土を巡るのには無理がある。
それでも、さまざまな場所を目掛けて霊夢たちは飛んだ。
陰湿で薄気味の悪い、魔法の森。魔法使いたちの協力を得られるかと思ったが、食中毒だとかで二人とも寝込んでいた。
夏も終盤を迎えるというのに、相変わらず優雅に咲き誇る向日葵の園。暇なのかイラついている妖怪からコソコソ身を潜めながら通過した。
霧に覆われた湖の上では、いつものように馬鹿な妖精たちから弾幕勝負を挑まれた。面倒だったので適当に沈めておいたが。
三途の川の傍まで来ると、案の定死神に呼び止められた。珍しく仕事をしていたが、どれくらい続くものかは怪しいものだと、子鬼と二人して囁き合った。
その頃にはもう、日は暮れかかっていた。降り立つ先々で茂みの隙間までを丹念に覗き込んでいたのであれば、まぁ当然だろう。
飛んでいる間、素面の萃香とはあまり会話は弾まなかった。その代わり、霊夢は色々な事を考えた。
(なんで、私なんだろう)
縮んでしまった萃香が、助けを求めた相手。
それこそ始めから、あのスキマ妖怪を訪ねればよかったのだ。結果としていなかったのだから仕方ないにせよ、もう一足早ければという可能性もあった。
奴と萃香との関係。その多くは定かでないが、少なくとも霊夢よりはずっと頼りになる相手のはずだ。
(それに、あいつだってそう。地底にいた、あのふざけた女)
最近知った萃香の同胞。地底に住んでいた一本角の鬼。二人が直接顔を合わせたわけではなかったのせよ、会話の内容からはかなりの親密さを感じ取る事が出来た。何年、何十年、何百年ぶりに再会した仲かは知らないが、彼女を頼るという選択もまた、賢い判断ではあるはずだった。霊夢の元に来るよりは、遥かに。
どうしてだろう。何故だろう。
疑問が、疑問のまま渦巻いている。まるで答えを出す事を拒むように。
ふと気付き、萃香を見やる。あまりの会話のなさに、眠ってしまったらしい。
その姿はまるであどけない少女そのもので。偉そうな鬼のくせに、触れれば壊れてしまいそうなほどか弱く映えて。
(きっと……答えなんて、出すだけ野暮なものだからよ)
夕日が沈む。今日はもう終いにするべきだろう。
明日は冥界か、または天界にでも向かってみるとしようか。
ただ、夕飯の時間までにはもう一箇所くらい回れるかも知れないと、霊夢はほんの少しだけ速度を上げて飛んだ。
≪ 5 ≫
妖怪の山、その中腹。
遠くから滝の音が聞こえる獣道の途中で、霊夢たちは足止めを喰らっていた。
「だーかーら」
腕を組み、靴のつま先で地面をばしばしと叩きながら、霊夢は呻いた。
「あんたに用はないっつってんでしょ?ポチ天狗」
「そ、そうは言われても……」
霊夢の前に立ち塞がる……とはいいつつ。
白を基調とした衣装はところどころ焦げ付いてボロボロで、本人もまた気圧された様子で、やや涙目でさえいる。
山の見張り番をしているという白狼天狗。山に侵入した霊夢たちに威嚇の弾幕を放ってきたため、ひとまず全力で圧殺し通過しようとしたのだが。妖怪だけあって、流石にしぶとかった。
道を遮るように両手を広げ、天狗は必死な声を上げた。
「こんな夜分に人間を通したとあっては、私が叱られるのよ!」
「別に山登りに来たわけじゃないわよ。あのデバガメ天狗に話があるの」
日がな一日幻想郷を飛び回り、くだらない新聞作りのための取材に明け暮れている鴉天狗。あの女ならば、萃香の行方までは知らないまでも何かしら噂程度には耳に入れているかも知れない。
「射命丸様は今記事の執筆中です!邪魔すると怖いんですから」
「知ったこっちゃないわよ。ほら、香霖堂にあった骨みたいなお菓子あげるから」
「うぅ、欲しいけど……」
「霊夢、もうやめなよー」
と、いつの間にか霊夢の服の中に潜り込んでいた萃香が、襟から顔を覗かせる。
「やっぱり迷惑だよ。明日出直そう?」
「あー、もう。あんたもとことん弱気になってるわね」
やや首の痛くなる角度で萃香を見下ろし、霊夢は口をすぼめる。
「鬼の一声があれば、天狗なんてヘコヘコして道を譲るわよ。どかん、て言ってやればいいじゃない」
「でも、私たちはもう山に下手な介入はしたくないし……」
「さっすが鬼様、話がわかって頂けて助かります!」
案の定、萃香に対しては丁寧口調で応対する天狗。
腹立たしくはありつつも、これが妖怪の社会というやつなのだろう。そこに人間が割り込むことは、流石に気が引けた。
「……わかったわよ。じゃ、また明日」
苛立ちを全て吐き出すように、深く息を吐いて。霊夢は大人しく一歩身を退いた。
と、ふと思い立ち天狗へと声を掛ける。
「一応あんたにも言っとくわ。この辺で小さな萃香を見かけたら、私に教えなさいね」
「小さな……?そこにいらっしゃるじゃない」
怪訝な顔で、人の胸元を見下ろす天狗に、霊夢はかぶりを振って答える。
「違うわよ、これ以外。千里を見渡せるっていうあんたなら……」
「いや、千里っていうか」
呟く天狗が、何気なく指さした先。それは、霊夢の胸元をすり抜けてその背後を示していた。
釣られるように、霊夢はそちらへと振り返る。萃香にもまた、同じ方向が見えるように。
夜、しかも木々で頭上を覆われ星の光さえ届かない薄暗がり。色濃く茂った草むらの奥深くに、ぼんやりと見えるものがあった。
人のようにも見える長い髪。妖怪のようにも見える二本の角。ただしその姿は、見ようと思わなければ気付かないほど小さい。しかし、いざ目にすれば見間違えようのないシルエットに浮かぶ、輝く双眸と視線を交わす。
「さっきからずっと、そこにいたけれど」
天狗の声が、ひどく遠くに聞こえた。それは、霊夢と萃香が同時に叫んだせいだった。
「「いたぁーーーーーーっ!!」」
「っ!補足された!」
茂みに隠れた小さな影―――霊夢の胸元にいる萃香よりも一回り小さいように見える、しかしそれ以外はまったく同じ容姿の萃香が、何事かを言いながら踵を返す。
「本隊と合流する!戦略的撤退ー!」
「あ、逃げた!」
森の奥へと逃げていく分身を、萃香は身を乗り出して追おうとする。彼女が落ちかけるより早く、霊夢もまた駆け出した。
ついでに、呆然と佇む白狼天狗へと袖の中の物を放ってやる。
「よくできました、ご褒美!」
「わ、わふーん!」
菓子の入った袋を空中でキャッチする天狗の方はあえて見ずに、霊夢は夜闇の奥へと目掛けて跳躍した。
≪ 6 ≫
「やられたわ!奴ら、ずっと私たちの後をつけてたのよ!」
「だから、見つかんなかったんだ!」
木々の間をすり抜け、枝葉を掻い潜りながら、暗く沈んだ森の中を進む。
視界は最悪に近く、来た道などとうに覚えていない。思わず舌を噛みそうではあったが、それでも霊夢は速度を落とさずに飛び続けた。
幻想郷中を探し回っていた霊夢たちを、萃香の分身たちはずっと監視していたのだろう。どうせ、いつぞやのように霧にでもなって。
見つからないはずだ。今でさえ、霊夢の遥か前方をぴょこぴょこと飛び跳ねながら、しかし異様なスピードで逃走する萃香の分身は、余所見をすればあっという間に見失ってしまいそうではある。目を凝らして後を追うものの、距離を離さないようにするのが精一杯だった。
決して逃がしてはならない。弱気な考えは捨てなければならない。だというのに、胸中にわだかまる不安が拭えず、霊夢は呻いた。
「……なんで、つけられてたと思う?萃香」
「え?なんでって?」
風圧を手で遮りながら首を傾げる萃香へと、霊夢は一呼吸おいてから告げる。
「多分、奴らの狙いは……」
言いかけたところで。
唐突に、視界が広くなった。
「っ!」
思わず息を呑み、霊夢はその場で急停止する。その拍子で、胸元の萃香がすっぽ抜けてしまった。
「うぎゃあ」
虫のような悲鳴を上げて地面に激突する萃香。
大した怪我はするまいが、一応拾い上げてはやろうと。霊夢は一旦着地し、一歩を踏み出す。
そして、気付いた。
木々の開けた、こじんまりとした広場。その正面には壁のような急斜面が聳え、ぱっかりと大きな洞穴が開けられている。陽が出ていようと底知れないのではないかと思えるほど、深い。中は下方向へと斜面になっているようだ。
頭を抑えて起き上がった萃香もまた、それを見据える。沈黙する霊夢に代わり、彼女はシンプルに疑問を口にした。
「なに、この穴?」
「帰り道だよ。地底に続く、ね」
声は―――
何処から聞こえたようにも思えた。歯噛みし、霊夢は一様に周囲を見渡す。
何処かに隠れていたのはわかっていた。が、身を強張らせずにはいられない。腰より低い茂みの奥から、幹の陰、果ては遥か樹上まで。霊夢たちを取り囲む森のあらゆる場所から、光り輝くいくつもの瞳が覗いている。
続いて、草むらを掻き分けてやはり無数の小さな陰が押し寄せてくる。確認するまでもなく角の生えた少女の姿をしたそれらは、あっという間に霊夢と萃香を取り囲んでしまう。
霊夢は咄嗟に払い棒を取り出し、牽制のつもりで身構える。ちらりと足元の萃香を見下ろすと、彼女もまたこの状況に混乱しているようであった。
「そんな……みんな、どうして逃げたりしたの?私の身体でしょ!?」
喚くが、分身たちは何も答えない。その代わり、敵意のこもった視線だけを返してくる。それは、自分にも萃香本人にも向けられているようではあった。
(これが全部、萃香の分身。一体何匹いるの?)
「九九万九九九九匹。数えさせるのも可哀想だし教えてあげるよ」
「っ!?」
聞こえてきた声に、霊夢と萃香は振り返る。それは洞穴の中から響いたものだった。やはり小さな一匹の子鬼が、暗闇の中から悠然と歩いて出てくる。
「そして、これでようやく揃ったわけだ」
洞穴から出てきた分身は、萃香を見据えて立ち止まる。対峙するように、萃香は一歩前へと詰め寄った。
「あんたが私の身体をどうかしたのね?今すぐ元に戻しなさいよ」
「だから、戻るんだって。二つの意味でね」
やれやれと分身はかぶりを振り、背後の洞穴を指で示す。
「私たちは再び一つに戻り、私は再び戻るのさ。遥か地底の旧都にね」
「ちょ、ちょっと待った」
険悪な二匹に割って入るように、霊夢は声を上げる。分身を指さし、
「じゃあ、あんたも紛れもなく萃香なわけ?二重人格だったの、あんたら」
「うるさいなぁ」
眉をひそめつつも、分身は霊夢を見上げた。周囲全ての萃香を示すように、両手を広げてみせる。
「そうだよ。私は私、ここにいる全てが私。私の意志で動いてる。ただし……」
再び、視線は萃香へと向けられる。但し、分身の眼差しには侮蔑の念が込められていた。
「私の意志の中の百万分の一だけは、従わなかった。地上を去る事に反対した」
「私が、地上を去る……?」
「そうさ。私は鬼。誇り高き鬼だ。人間や雑駁な妖怪風情と馴れ合うなど笑止千万。一度は見捨てた人の地に、未練を残して居座るなど、伊吹の名が廃るというもの」
大仰な所作で論じてみせる、子鬼。それに呼応するように、周囲の子鬼たちもまた枝葉を揺らしてざわざわと騒ぎ始める。その様は確かに統一されているように思えた。
分身を後押しする歓声に明らかに押し負けながらも、萃香は何とか声を上げる。霊夢の方を一瞬だけちらりと見上げて、
「で、でも!人間だって、そんなに悪い奴らじゃないし、地上だって結構楽しいじゃない。わざわざ地底に帰ることなんか……」
「あぁ、可哀想な私。脆弱な人間風情と付き合っていたせいで、感化されてしまった私の心。人間に惹かれてしまった弱い心こそ、たった一人分裂したあんたなのよ」
萃香の言葉を容易く遮り、分身は更なる主張を畳み掛ける。九九万九九九九対一の意思の対立では、元より話にならないのだろうが。
「けれど、私は同胞を見捨てない。さぁ、一緒に行こう。それが伊吹 萃香としての正しい在り方なんだ」
そう言って、分身―――否、紛れもなく本物の萃香は、戸惑う少女へと手を差し伸べる。それに合わせて、周囲の萃香たちもまたわずかににじり寄り、霊夢達の包囲を縮めてくる。その誰もがわめき、騒いでいる。この郷を、人間を、霊夢を頑なに拒もうとしている。
たった、百万分の一。
唐突に神社に現れて、食卓を囲んで、酒を取り出し、顔を赤くして。
共に笑い合ったのは。萃香の中の、たった百万分の一だったというわけだ。
(まぁ、むなしいといえばむなしいけどね)
目の前で繰り広げられる、萃香の意思のぶつかり合い。天狗たちの社会と同じ、強いものが優位に立つ構造。口を出すべきではないのかも知れない。これは萃香の、ひいては鬼の問題なのだから。人間風情とやらが介入するべきではないと。
それでも。肩を震わせえも答えないでいる萃香の後ろ姿を眺め、想う。自身の意思をはっきりと確かめ、結い固める。
萃香たちへと向けて、霊夢は声を荒げて叫んだ。
「いい加減にしなさい、あんたら!」
≪ 7 ≫
鬼たちのざわめきが、ぴたりと静まる。
対峙する二匹の子鬼もまた同様だった。一方ははっとした表情で、もう一方は苛立たしげな目つきで、霊夢を見上げる。
「……邪魔しないでよ、霊夢」
忌々しげな呟きを、鼻息でもってかわす。
子供を叱る構図にしては縮尺がおかしすぎると、胸中だけで苦笑しつつ。霊夢はその場にいる全員に目を配らせた。
「あんたたちが何処に行こうと勝手だけどね。この娘だけは置いていってもらうわよ」
足元の萃香を指さし、きっぱりと告げる。即座に反応したのは、やはり正面に立つ子鬼だった。
「ふざけないでよ。元はといえば、霊夢が私を惑わせたんじゃない。鬼と人間が分かり合えるかもしれないなんて、幻想を抱かせて。そんな事はありえないと、もっと早く気付くべきだったんだわ」
「だから地底に帰りましょうって?ようはただのホームシックじゃない」
「馬鹿にして!人間が口を出すことじゃないよ」
憤怒の声を上げる子鬼を後押しするように、取り囲む萃香たちからも罵声が飛び交う。あまりに多過ぎて誰が何を言っているのかさえわからないものの。それら全てを払い去るように、霊夢は払い棒をひらひらと振りかざしてみせる。
相手を見下ろして話せる事に若干の高揚感を覚えつつ、霊夢は喋る。
「あんた達が本当に地底に帰りたいって言うなら、私だって別に止めないわよ。それこそ押し付けがましい事だしね。けど……」
ぴたりと。
足元からこちらを見上げてくる萃香と、視線を交差させる。ただでさえ小さく、涙で歪んだ少女の瞳に果たして自分が映っているかは定かでないものの。
「たった百万分の一でも、この郷にいたいって思ってくれてるなら。私と一緒にいてもいいって思ってくれてるなら」
「霊夢……」
「私も遠慮せずに言えるわ。行かないで、萃香」
自分で言っておきながら、まるでアレか何かの告白のようで。顔が強張りとても微笑んでやれはしなかったが。
その代わりとでもいうような、萃香の満面の笑顔を見れたのは、えらく久しぶりのように思えた。
「……うん。私も、ここにいたい」
力強く頷くと共にその表情をきつく引き締め、萃香は振り向いた。改めて、分身である子鬼と対峙する。
「おわかれだね、私」
「……駄目だよ」
俯き、前髪で顔を陰らせながらも、はっきりと怒気を窺わせる子鬼。彼女が手で合図すると共に、周囲の分身たちが再びざわめきだす。こちらを睨みつける視線が、より鋭く攻撃的なものに変わった。
正面の子鬼が、群隊の意思を代弁するように怒声をかます。
「人が鬼を攫うなんてふざけた話があるか!皆で行くんだ。一人でも欠けたら、私は一人ぼっちですら無くなってしまう!」
「……萃香」
「霊夢、あんたさえいなければいい。霊夢さえいなければ、私はまた一つに戻れるんだ」
言葉と共にひしひしと感じる悪寒に震えそうな身体を、歯を食いしばって叱咤する。身構えはするもの、どの方向に注意を払えばいいかも分からず霊夢は胸中で呻いた。
(ヤバいなぁ。もうスペカ勝負とかのレベルじゃない)
同じく敵意に気圧されたのだろう、萃香が後ずさり霊夢の傍に寄って来る。彼女もまた戦闘態勢をとっていたが、正直なところ勝てる見込みは愚か子の場から逃げ去る事すら難しそうではあった。
(そんなスプラッタな事にはならないよね、きっと。根拠はないけど。だって……)
徐々に狭まる子鬼たちの包囲。力ませ、震える握り拳を振り上げて、怒りを滾らせた萃香が叫ぶ。
「覚悟しろ、人間―――」
<はいはい。そんなにいきり立たないの>
囁きが、何処からともなく響き渡る。
それとともに、晴れている筈の夜空から突如として豪雨が降り注いだ。
≪ 8 ≫
滝のような勢いで打ちつける雨粒を、その場にいる全員が浴びる。
「な、何!?」
戸惑いの声を上げたのは、足元の萃香だけではなかった。追い寄せる洪水によって足を滑らせた分身が、尻餅をつく。怒りの形相は一転して呆気にとられた表情に変わり、ぽかんと口を開けて空を見上げる。
「こ、これは……」
「「「お酒だーっ!」」」
叫んだのは、別の子鬼だった。同じく雨に押し流され隊列を乱した大群たち、そのうちの何十匹かが、続けざまに歓喜の声を上げる。
「「「一日ぶりの酒だー!」」」
「「「酒の雨だー!」」」
「「「おいしぃー!」」」
「……本当。お酒だ、これ」
掌で水滴を受け止め、一口舐める萃香。霊夢が雨除けになって、彼女は頭から酒を浴びずに済んでいるようだったが。それ以外の子鬼たちの有様は酷いものだった。
酔いが回ってぼとぼとと樹上から落ちる者、どこからか杯を取り出す者、そうそうに寝入ってしまう者。先ほどまでの張り詰めた空気は何処へいったのか、普段神社で開かれている宴会の倍以上にやかましく、賑やかしく騒いでいる。一日呑んでいなかったとはいえ、これほどまでにアルコールが恋しかったというのだろうか。
「ちょ、ちょっとあんたたちー!?」
非難の声を上げたのは、正面にいた子鬼だった。全体の代弁を行っていただけあってかろうじて意思は保っている風ではあったが。フラフラとぐらつく頭を抑えながら、叫ぶ。
「呑んだくれてる場合じゃないでしょ!?地底に帰るのよ、地底に……」
その肩を、背後から別の子鬼が掴んだ。
「まぁ、いいじゃないのさ。ほーら、私の酒が呑めんと申すかー!?」
「ぎゃー、いやー!」
数匹の子鬼たちに担ぎ上げられて、彼女もまた酔っ払いの大群の中へと消えていく。
それを呆然と見送る、ただ一人正気を保った萃香。
「……う、うーん。これって?」
「まぁ、どーせこんな事になるとは思ったわよ」
ぽつりと零して、霊夢は空を見上げた。
滝のような酒の雨は始めよりもだいぶ弱まり、せいぜい小雨といった程度になり降り続けている。爽やかでかつしつこい芳香の漂う夜空。その何処にも、何者の姿をも見つける事は出来なかったにせよ。
不満を押し隠す事なく、霊夢は毒ついた。
「いつだってやる事が遅いのよ、あんたは」
<仕方ないじゃない。これだけの量のお酒を集めるのって、かなり骨が折れるのよ?>
「どうせ全部式神にやらせたんじゃない?あんたの事だからずっと私たちを監視してたんでしょ。いいとこ取りしちゃって」
<私は私に出来る事をしただけ……>
その穏やかな囁きは、霊夢だけにではなく、萃香―――この場にいる全ての子鬼に向けられたもののように感じられた。
<辛い事も、悩み事も、全てお酒でも呑んで忘れてしまえばいい。せっかく迷えるものをはっきり決めてしまうなんて、つまらないじゃない>
「紫……」
萃香の名指しにはあえてか応えずに。くすくすと笑い声だけを残して、それきり声はしなくなった。
いつしか雨の勢いはだいぶ弱まり、激しかった雨音もしだいにおさまっていく。それを更に覆い、掻き消すように、同じような声色の嬌声が森に響き渡った。一日降りの酒ということはずっと我慢していたのだろう、子鬼たちは酒の詰まった瓢箪を一斉に開け放っていく。酔えばきっとこうなる事をわかっていたのだろう。が、箍が外れた以上は酒の雨が止んでさえこの宴会は終わりそうになかった。
ともあれ。
肩の力をすぅっと抜いて、霊夢はその場にしゃがみこんだ。濡れて額に張り付いた前髪を除けて、萃香と並ぶように宴の景色を眺める。
「……こんなんでいいのかな。本当に」
「こんなんでいいのよ。本当に」
にやりと微笑み、呟く。萃香はまだ複雑そうな顔をしていたが、やがて何かを諦めたかのように苦笑を浮かべた。
夜はまだ長い。霊夢自身も、そろそろ気分が良くなってきてしまった。
けれど眠るにはまだ早いと、目の前の乱痴気騒ぎを手で示して萃香に問いかける。
「さて、どう収拾つけましょうか?」
「……決まってるじゃない。私たちも」
彼女もまた酔いが回ってきたのか、頬をほのかな桃色に染めて。
眩しいほどの笑顔を、萃香は浮かべた。
「呑んで呑んで、呑みまくるわよ」
こういう素敵な流れを書ける作者がうらやましい。
やっぱ鬼×巫女は良いものですな。
>地球人撲滅組合さん
ギャグだのシリアスだの全部やりたがるから、どっちつかずで中途半端な話になるんですよね。
前にも指摘受けたんですけどなかなか直せない……
>名前が無い程度の能力さん
霊夢が貪欲にも商売とか思いつかなかったのは、きっと主人公補正です。
あと自分で読み返して思ったけど、マサル会議だこれーっ!!(ガビーン)
解決の方法がさすが萃香
飲んで騒いで楽しんで、不安をふっとばしたか
とても彼女らしくて良いオチ。