心頭滅却すれば火もまた涼しという言葉を残した僧侶はたしか焼死したはずではないのかと妖夢は思ったが、今はそれ以外に考えることもない。非業の死を遂げた故人のことを慮る間もあればこそ、太陽の光は天の上から五臓六腑をも焼き尽くさんと冥界の庭に降り注ぐ。
季節は夏。
鳥鳴く声も蝉鳴く声も死者の群れ、通りすがる幽霊の影もひたすらに冷たい冥界でありながら、その暑さは地上のそれと大して変わらない。むしろ太陽に近い分だけ暑さが際立つのではないかと思わせるほど、妖夢はだらだらと汗を掻きながら廊下の雑巾掛けに勤しんでいた。
どたどたと忙しなく廊下を駆けていき、額から飛び散る汗でまた汚れてしまったとため息をつきながら、また同じ場所に雑巾を滑らせる彼女は、傍目からすれば非常に微笑ましいものに映るだろう。無論、彼女はそれを知れば羞恥に頬を染めるだろうが、それも全て彼女の生真面目さによるものに相違ない。
「しかし……」
額の汗を拭い、袖に付いてしまった汚れに顔をしかめる。
「暑い」
妖夢は、真白なる空に光り輝く太陽を仰ぐ。腕まくりをしてなお、この暑さは身体に染み入る。冥界、白玉楼は西行寺の庭であるから、多少、身嗜みに欠けた格好をしても文句を言う人はひとりしかいない。ただ、そのひとりにとやかく言われるのが嫌なものだから、妖夢は茹だるような暑さにもかかわらず、下手に脱いだり着替えたりということはしないのだった。
「ふッ」
三度、廊下を駆ける。
裸の足の指先が、水気を帯びた廊下の滑りにも負けず、深く、強く食い込んでは、瞬時に離れる。
温もりを帯びた足跡が、一足飛びに、斑模様になり廊下に刻まれる。それもまた、程無くすれば消える幻で、今度は汗を飛ばすまいと慎重に駆けて行く妖夢も、たとえ振り返ってもその足跡の汚れには気付くまい。汚れというには、酷に過ぎるけれど。
足音もなく、二百由旬には届かないけれど、それなりに長い廊下を突き進む。
「……、は、はッ」
息継ぎも細かく、水気もほとんどない雑巾で、きれいにするという目的よりも、ただ雑巾掛けをするという行為の達成のみを重要視しているかのように、妖夢は動く。
だから、普段なら当然見えるものですら、不意に見えなくなる。
視野狭窄。本末転倒。
たしかに、転倒は転倒に違いないが。
「――ッ、あ」
遅い。
ただ速く駆けることのみを求めていた妖夢は、目の前の廊下が何故か水浸しであったこと、そしてそこに雑巾を突っ込み、手を滑らせ、足を滑らせるまで、何が起こったのかが全くわからなかった。
べちゃあ、と嫌な水音がした。
「みゃあー!」
すってんころりん。
勢いがつきすぎていたから、体勢が崩れてもすぐ立て直すことも出来ず、妖夢は廊下から中庭に転げ落ちる。途中、段差に腰を強打し、顔が砂利に埋もれる。足がどこに向いているのかわからない。ただ、痛みは後からついてきた。状況は見えず、混乱は収まらない。
何が起こったのかさえ判然としない暗闇に、一筋の光明に相応しい声が差す。
「みゃあ! だって……」
聞いたところ、妖夢の声真似であるらしい。
いまだ暗闇の中にいる妖夢だったが、それでも声の主が誰であるかはたちどころにわかった。起き上がるべく、手のひらを地面に刺して、ひとまず暗闇から脱出する。足は、とりあえず明後日の方向に投げ出されていて、もう動けないとばかりに行動を拒絶していた。
要は、変なふうに転がったせいで、攣った、ということである。
「い、だだだだだだッ!」
超痛い。
太ももからふくらはぎから、ここが攣ったら痛いだろうというところが全て攣る。何かの嫌がらせじゃないかというくらいに攣る。一体、自分はどれほど肉体を酷使していたのだろうかと、全く意識していなかったけれど、本当はかなり限界に近いところにいたらしい。
自愛できないのならば、肉体が強制的に活動を休止する。
強制だから、多少の痛みは伴うものだ。
「……ッ、はぁ、……いたた……」
無意識に押さえていたふくらはぎは、いまだにぴくぴくと蠢動している。激痛に悶えて呼吸は荒く、脚にもどことなくシコリが残っているけれど、顔を上げる分には問題ない。
するとそこには、見慣れた主の姿がやはりある。
幽々子は扇に唇を隠しながら、「みゃあ!」と面白がるように連呼している。
妖夢は赤面する。
「や、やめてくださいよ……」
「みょん!」
「みょんはいいじゃないですか別に……」
みょんみょん言いながら飛び跳ねていることには何か意味があるのだろうかと思ったが、必ずしも意味のあることばかりしているわけでもないのだと、妖夢は思い直す。
なまじ、意味深なことばかり言う主だから、いつも深く考え込んでしまう。
未熟であることなど百も承知だが、何も知らないと思われたままだというのは恥ずかしい。
早く、速く、追い着かねばならないと思うのだけれど。
追い着かねばならないのかと、思うこともあるのだけれど。
「雑巾掛け、お願いしたのだけどね」
「はい」
痛む脚を丁寧に折り曲げ、無礼のないように膝を突く。今度は膝に砂利の跡が付きそうだが、その程度の充血ならすぐに治る。
「雑巾、乾いてるみたいだったから」
「はあ」
水浸しになった廊下を指し、幽々子はなかば睥睨するような笑みで言う。
「水、これくらいあれば足りるかしら?」
「いや、足りますけど……」
口ごもる。
なんとなく嫁姑抗争みたいだなと思い、すぐさま首を振る。
「あと、打ち水」
「それはもうちょっと外でやってください」
「あと、もうちょっと妖夢の頭を冷やすためにね」
軽口の境目に、ちょっとした本音を差し挟む。
翻弄されている、という実感はある。主の思い通りになっている、という悔しさもある。
けれど、それ以上に、心のうちを見透かされているような、奇妙な爽快感が先に立っている。
「……冷えましたよ、だいぶ」
肝も、体温も、それなりに。
気が付けば、服のあちこちも水をかぶっている。汗か水かわからないものが染み込んだ服を脱ぎ払わねば、とてもじゃないが作業を続けられそうにない。
廊下から軒下に滴り落ちる無数の雫を前に、ため息より早く、幽々子の声が飛ぶ。
「そんなんじゃ、もう着替えないといけないわね」
何故か、声が弾んでいる。
濡れそぼった身体を起き上がらせ、適度に震える脚と、前髪を伝う汗か水かわからないものを指先で摘まみ、妖夢は心なしか冷めた声で言う。
ああ、たしかに、滅却すれば涼しくはなるものだ。
ある意味、死に近い冥界なればこそ。
「それが目的ですか……」
がっくりと、肩を落とす。幽々子は笑い、扇が揺れる。
本末転倒とは、よくいったものである。
攣ったとこにあてたら悪化しそうですが
というか、幽々子さまやり過ぎです! と昨日転んで、昨晩寝てたら足攣った私としては言っておかねば(顔面は無いですが
ごちそうさまでした。