戦いの場面で痛い描写があるかもしれません。血が噴いたり体が燃えたりします。
今回もキャラが変かもしれません。
夜の竹林。微風が静かに竹を揺らし、枝葉を伝播し広がっていく。竹林全体がかすかに揺らいでいるように感じられる。枝葉の繁みは厚く、林の中からは空を見上げても、ほんの少しの夜空のかけらしか見えない。
暗がりの中、竹をかき分け、妹紅は歩いていく。平常でない場所だが、妹紅は散歩をしているだけである。ずっと昔から妹紅はここに住んでいる。竹林は庭のように、どこへでも行ける。
しばらく歩き、林を抜けて小道に出た。険しい林でやや疲れた足を休ませながら、平坦な道を行く。
道の先に人影を目にし、妹紅は立ち止まった。
人影と、そのまわりを跳ねる二、三の小さな影。こちらへ歩いてくる。風が、影の長い髪を吹き上げる。
輝夜だ。
あいつに関わりたくない。妹紅は踵を返して林に入ろうとした。
ふと背後に気配が迫り、
「妹紅」
と、名前を呼ばれた。
振り返ると、背後に輝夜が立っている。
ほんの一瞬で移動する、輝夜の能力らしい。だが無視して歩みを進めようとすると、輝夜が袖を摘んだ。
「せっかく、偶然会ったのだから、すこし遊ばない?」
妹紅は舌打ちした。輝夜の顔を見る。
輝夜の眼に、狂気が宿っていた。一度目が合うと、その眼から逃れられなかった。
「…っ」
袖を振り払い、数歩後退する。竹にぶつかり、それ以上さがれない。
「妹紅?」
輝夜が歩み寄り、妹紅の目を覗き込む。妹紅の深紅の目が、かっと見開かれた。
拳が輝夜の顔に飛ぶと同時に、輝夜の手が妹紅の手首を押し拳を逸らす。拳風で黒髪が揺れた。
「遊んでくれる気になったのね」
輝夜は口の両端を吊り上げて笑った。
笑みに歪んだ眼が揺れる。妹紅は膝を折り伏せた。頭のあった場所へ、輝夜の回し蹴りが竹に当たった。
妹紅は輝夜に飛びつき、爆発を起こし吹き飛ばした。
宙を飛ぶ輝夜から光が放たれる。妹紅はとっさに避けたが、腕をかすめ、血が噴いた。
妹紅は燃え上がり、小道に立った輝夜を睨んだ。炎が腕を舐め、傷が塞がり消える。
「輝夜、殺してやる」
輝夜は爆発で傷付いた手の甲の血へ舌を這わせ、嬉しそうに歯を見せる。
「今夜も、楽しみましょう」
駆けつけた数匹のイナバたちが、恐れて逃げ去った。
妹紅と輝夜、どちらのものともつかない血が道を濡らし、竹に赤い染みをつけていく。
寒さと体の痺れで、妹紅は目を覚ました。早朝の薄明かりが繁みから零れ落ち、妹紅の目を細めさせた。体を起こすと、腰から足までが水にひたっていた。
竹林の中の小川に倒れていたのだった。水に体温を奪われ、血が冷えたため体が痺れていた。
こわばった足で立ち上がろうとし、関節が痛み、失敗して水に倒れる。川をはいずり、岸にあがった。草の上に身を横たえて、熱を取り戻すのをしばらく待った。
夜明けの蝉の鳴き声が竹の上から響き、目覚めはじめる生き物たちに日の出の予感を告げる。
妹紅は疲れた目で、蝉の姿をさがす。無数の竹の、どれにとまって鳴いているのか、見つけ出せそうにない。
気を失う以前のことを思い出した。輝夜と戦い、互いに殺し合い妹紅も輝夜も死んだあと、なお続けようとして、イナバの知らせで駆けつけた八意永琳が止めに入った。
輝夜は八意に引かれて帰った。妹紅も帰ろうと歩きだしたが、血を流しすぎ、意識が朦朧として傷の治りも遅い。体をひきずようにしてここまで来、川に倒れて意識を失ったのだった。
今は血も足りて、傷はすべて治っている。朝日が昇り、少しでも体が温まると、妹紅は立ち上がった。
竹の葉や雑草の朝露に服を濡らしながら、歩いていくと、通り過ぎようとした茂みから、妙なものが突き出ているのが見えた。
「何だ、あれ」
赤いリボンと青い四角。どこかで見たことがあった。
「ああ、あれは…」
茂みに踏み込み、中を見下ろす。
「上白沢、…えっと」
「うわ!?」
突然踏み込んできた妹紅に驚き、赤青の人が悲鳴を上げて飛び出した。
妹紅もびっくりして、目の前の人を見る。
「ええっと、」
「あ、妹紅さん」
名前を覚えられていて、妹紅は自分が相手の名前を覚えていないことを恥じた。
とっさに名前を思い出す。
「えと、慧音」
歴史について詳しい彼女を以前訪ね、いろいろと話を聞いたことがあった。
「何してたの?」
慧音は恥ずかしそうに、露で濡れた頬をぬぐった。
「花を、摘んでいたんです」
茂みを示し、もう一度中に入っていく。背伸びをして中を見ると、竹の根元に、紫色の花が見えた。
慧音はその花の根を堀り、きれいに引き抜いて、根のまわりを土でおおう。花を持ち、茂みから出た。
「ああ、そうだったんだ。驚かせてごめん」
「いえ」
慧音は首を振ろうとして、妹紅の姿に目を留めた。
「どうしたんですか、服」
「ん」
妹紅は自分の服を見る。あちこちが裂けたり破れたりしている。輝夜と殺し合い、服がぼろぼろになったことを忘れていた。
「ちょっと喧嘩してね。これから着替えに帰るところだった」
それで妹紅はこの場を離れようとした。しかしふと気になり、慧音を振り返った。
「その花、どうするの?」
「持って帰って、鉢に植えるのです」
「へぇ」
何か言いたいことがある気がしたけれど、言葉が浮かばなかった。
慧音と別れて家に帰る。服を着替え、髪を梳かした。
このとき、さっき慧音に言おうとしたことを思い出した。
「まぁ、あとででもいいや」
体が疲れていたから、妹紅は畳に寝転んで休んだ。
午後、太陽が空の真上を横切り、もっとも暑い時間を過ぎた頃に妹紅は出かけた。
竹林から里までずっと広がる水田地帯を、細かく縫うあぜ道を歩いていく。ときおりカエルが妹紅の足音に驚いて、田んぼの水に飛びこんだ。カエルを踏みたくないから、わざと大げさに土を踏んで歩く。
里の近くへ来ると、里への方角からややずれて、林に入り慧音の家を目指す。
慧音の家は、里を囲む林の中にある。あたりの妖怪を警戒し、里を守るためなのだろう。
家に近づくと、慧音が庭の花に水をやっていた。
こんにちは、と挨拶をすると、慧音は如雨露を傾けながら振り返った。
「あ、こんにちは」
花壇に、慧音より背の高いひまわりが並んでいる。その下にもいろいろな花が咲いていた。葉や茎に水滴を光らせて、きれいだった。妹紅は花に興味を持ち、かがんで顔を近づけると、花から蜂が飛び出した。わっと退いたところを慧音に見られ、
「近づきすぎると危ないですよ」
「先に言ってよ」
笑われるそばで苦い顔をし、蜂がぶつかっていった鼻先をなでる。
「じりじりする…」
「あはは。妹紅さん、家にあがっていきませんか」
「いや、今朝言い忘れたことを話しに来ただけだから」
「けれど、せっかくですから」
辞退しようとするが、慧音にあがっていくようすすめられ、ちょっと休んでいこうという気になった。
「じゃあ、お邪魔します」
玄関をあがり、家に入る。
甘い、花の香りがした。家の中にも花の鉢がいくつかある。鉢は窓際など日当たりの良い場所に並んでいる。
如雨露をかたづけて慧音もあがった。
「花が好きなの?」
「好きですよ。花があると、気持ち良くないですか?」
花の香りで気持ちが安らぎ、落ち着く。空気もさわやかだ。
「そうかも」
並んだ鉢の花を見て、そう答えた。花が室内の空気をきれいにするのだと思った。
「お茶を入れますね」
「お茶も、花茶?」
「残念ながら、麦茶です」
座布団に座り、卓の中央の花瓶に目をやる。今朝、茂みの中で慧音が摘んだ紫色の花だ。妹紅はこの花のことを話しに来たのだった。
茶器を用意する音が台所から聞こえてくる。それを耳に挟みながら、家の中を見回した。普通の棚や小棚、ぎっしり詰まった本棚、窓際に書き物机と花瓶。それから花の鉢。質素にこざっぱりとしているが、花の彩りと香りがほんのりと上品さを添えている。
なるほど気持ち良く、深呼吸する。
盆に茶器を載せ、慧音が運んだ。
「はい、どうぞ」
差し出されたコップを取り、一口飲むと、体がすうっと冷えた。
「おいしい」
「ありがとうございます」
慧音も、もう一つのコップで飲む。一口飲むと、部屋の隅の小棚へ行き、引き出しから何かを取り出してきた。
「薬です」
と、膏薬の小さな壺を妹紅に見せる。
「さっき、蜂がかすったところに」
「刺されてないし、いいよ」
「ひりひりするなら、一応塗っておくといいです。あとで腫れるかもしれませんよ?」
言われるとそんな気がした。確かにひりひりするし、鼻の頭が腫れるなんて、滑稽だろうと想像した。
慧音から壺を受け取り、白い膏薬を指先に少しすくい鼻に塗った。
「あ、そうそう。話しに来たことだけど」
妹紅は紫色の花を指して言った。
「この花、根に毒があるから気をつけて」
「そうなんですか」
慧音は驚いた顔をした。
「傷に触れたり、食べたりしなければ害はないけど。毒にあたると大変なことになる」
「わかりました、気をつけます」
「食べちゃだめだよ」
と念を押す。
「食べませんよ」
一拍置いて、慧音がふっと笑みをこぼした。
「妹紅さん、食べたんですか?」
「食べてないよ」
真面目な顔で即答する。
「まあ、怪我した手で花をいじることもないよね。土で破傷風とかもあるし」
「そうですね」
このような花にも毒があるのか、と感心し、慧音は紫色の小さな花を見つめた。それから、頭を下げた。
「教えに来てくださって、ありがとうございます」
「ううん、急に邪魔してごめん」
「構いません」
妹紅が二口目でお茶を飲み干すと、慧音がおかわりを注いだ。
「それにしても、慧音の家きれいだね」
庭や家の中の花を見て、きれいだと思った感想を話す。心地良い空気についても。
「妹紅さんは、花は好きですか?」
「そんなには。でもきれいなのは好きだな」
慧音の鉢の花を見渡す。
「あんなのがあると、いいね」
「一つ、持っていって育ててみてはどうです?」
「え?」
「育てるときっと好きになりますよ。それに、楽しいですよ」
「そうかな」
妹紅は首をかしげる。それとなく花を一つずつ眺めていくと、白い花に目がとまった。
真っ白で、しとやかな花だ。こういうのなら、確かに好きになるかもしれない。
「うーん、花育ててみようかな」
言うと、慧音はにこりと微笑んだ。
「あの花、いい?」
目にとまっている白い花を指す。
「いいですよ」
慧音は立ち上がり、妹紅が指差した花の鉢を持ってきて卓に置いた。
「この花はとてもいい香りがするんです」
「うん、いい香りがするね」
「水不足に弱いですが、朝と夕方に、鉢の下にたまらない程度で水をあげていれば大丈夫です」
「わかった」
花の話を聞き、お茶を飲んで、やがて妹紅は立ちあがった。
「もう、行かれるのですか?」
「うん、そろそろ」
花の鉢を持って表に出、庭の花を見る。きれいで、甘く、落ち着く空気を、また吸いに来たいと思った。
「また、花を見に来たいな」
「いつでも。冬以外は咲いています」
「じゃあ、花をありがとう」
慧音に手を振り、家を離れて林を抜けた。
来たときと同じあぜ道を歩くが、転んだりして花を落とさないよう、ゆっくりと足を運んだ。
ひぐらしが鳴いている。遠くから、里へ駆けていく子供たちの声が聞こえ、来たときよりも涼しい風が手元の花を揺らした。
竹林の家へ帰り、妹紅は花に水をやった。ややすると水は土を透って鉢の底に溜まる。少し多かったかと思い、窓から鉢を外に突き出して、傾けて水を捨てた。
日当たりのいい場所に置こうとしたが、夕暮れ時だから、家のどこが日当たりのいい場所かわからない。普段そんなふうに家を観察したこともなかった。とりあえず、窓枠に置く。
妹紅は寝台に身を投げた。うつぶせの顔を上げて窓枠の花を見る。雰囲気がそんなに浮いているのでも、反発するのでもなく、花は花できれいだった。
案外悪くない。これなら気に入るかも。
西日をうけ、赤くなった横顔もきれいだ。
たまに忘れることもあったが、妹紅は毎日、朝と夕方に水をやった。花の寿命や、咲いている期間についてを慧音に聞きそびれたが、花はずっと咲いていた。
結局窓際が一番日当たりがよく、花は窓枠に置かれている。
夜はちょっと花びらを閉じているかもしれない、と妹紅は気づいた。昼間、日の光をあびて、花は慧音の家とおなじ香りを、妹紅の家にも漂わせた。
じきに香りがなじみ、妹紅はなんとなく落ち着きを感じはじめていた。慧音の家ほどではないが、かすかに、徐々に。
だんだん花が気に入ってきた。一輪の花を、きれいだとしみじみ思い、花を見つめて、家でぼうっとすごす時間が多くなった。
輝夜がイナバを寄越して遊びに誘ったが、妹紅はイナバを追い返した。”遊び”が面倒に思え、このままのんびりしていたかった。特にすることはないが、つまらなくもない。この落ち着きが心地良いのだ。
そうして数日過ごした後の、満月の夜。
苛立ち、じっとしていられず、妹紅は外に飛びだした。
満月の夜はいつもこうなる。
月は人を狂わす…月が満ちきり、満遍なく地上を照らす夜だから、当然かもしれない。
輝夜も同じだった。満月の夜には、決まって落ち着きなく外を出歩く妹紅を、竹林で待ちかまえている。
狂気にすり切れた意識で、妹紅は、何かに導かれるように輝夜の気配をたどっていく。
千年の憎しみ。
こうして竹林を駆けることを、もう数えられぬほど繰り返している。
竹の林がひらけ、明るく降る月光の中に輝夜はいた。
輝夜を殺す。
妹紅を殺す。
千年の殺し合い、二人は再び、月の下にあいまみえた。
月を背にし、空に浮かぶ輝夜に炎を撃ち込む。
輝夜が光を放ち、炎を貫いた。妹紅は燃え上がり、炎を羽ばたき舞い上がる。
輝夜の撃つ光をかいくぐり接近する。眼前が眩しく輝き、光の矢が放たれた。妹紅を刺し貫かんとする矢を、爆発でかき消す。爆風で輝夜と妹紅の距離は開けたが、妹紅は翼を伸ばし、爆風に乗り急旋回して輝夜との距離を一気に詰める。
輝夜が足を突き出し、迫り来る妹紅を蹴った。肘で蹴りを防ぎ、腕を絡めて足を捕まえる。
足をかかえ、輝夜を地面にたたきつける。
追撃しようと降下したとき、上空から光が降り妹紅の背を打った。
墜落しながら翼で加速し、妹紅は輝夜の体に足を突き立てる。輝夜は半身をかわして避けた。地面が砕け、衝撃が妹紅の骨をびりびりとしびれさせる。
そのひるみを輝夜は突き、妹紅の腹を殴り、倒そうとする。しかし妹紅は飛び退る。
輝夜へむけ炎の弾を撃つ。避けながら輝夜も撃つ。
距離を牽制しながら、妹紅は竹薮の中に入った。
光で幾本もの「竹が切れ、頭上へ崩れかかる。
光を乱射し竹を粉砕する。その隙に妹紅は竹にまぎれ輝夜に肉薄し、肩でぶつかりとびついた。
輝夜の背に腕をまわし、抱きかかえて爆破する。
直後、背に光がささった。輝夜の手に握られている。
妹紅は輝夜をかかえたまま膝をつく。
輝夜が膝で妹紅を蹴り上げ、押し倒し、馬乗りになり首をおさえつける。
輝夜の顔を殴り、腕をつかみ、親指で肘関節を破壊するが、妹紅の首を押さえる手に、徐々に重みがかかっていく。
爆発ですでに焼け爛れている輝夜の腕をかきむしる。
妹紅の目が血走り、白目までも瞳のように赤くなっていく。
首がちぎれてしまうほど重みがかかる。
炎で、輝夜の手が焼け落ちた。上半身を起こして輝夜をふりおとし、その体を今度は妹紅がおさえつける。
だが、息が止まり、妹紅は輝夜の上に崩れた。
輝夜の腕が妹紅の背にまわされる。
「ねぇ、妹紅。今日も楽しいわね…」
妹紅は返事をしない。
「ね、そうでしょう?」
びくり、と妹紅が震え、手を輝夜の口に突きこんだ。
輝夜は指を噛み切った。
指を吐き出し、妹紅の血で溢れた口で、
輝夜は、妹紅の耳元にささやく。
「妹紅、
一緒に死にましょう」
光が二人をつつむ。
二人の体は光の中に掻き消えた。
半月が、目に映る。
空に半月が浮かんでいる。
体の感覚がない。
頭の裏がごりごりする。
起き上がろうとするが、体が動かない。
否、視界が移り、動いたことは確か。
ほんの少し、背骨の感覚がある。
首の動きがにぶい。あたりを見ると、竹林だったそこは、戦いの後、一点の荒地になっていた。
右手を動かし、手のひらをにぎる。感覚がすこしずつ濃くなっていく。
足も、ちゃんと動く。ざざっと石の地面をずる音がする。耳も正常。
深く呼吸をすると、背中がみしみしと鳴った。
新しい体はこういうものだ。はじめは使いづらい。
体をゆっくり動かして徐々に慣らしていく。そうして体をほぐし、しばらくしてから、なんとか立ち上がった。
満月から、半分月が欠けるまで、体の修復に時間がかかった。その間失われていた意識がはっきりとするまでも、時間がかかった。
半月を望み、一歩ずつ踏み出しながら、妹紅は徐々に記憶をとりもどしていく。
「寒…」
まともに神経も機能するようになり、冷たい空気に肌が震えた。そういえば、体ごと消え去った服は修復されない。
「ああ、やばい」
硬い舌と唇をほぐすつもりで、一言つぶやく。早く家に帰りたい。
裸足で踏む竹薮のするどい草が、神経を刺激する。飛んで帰ると楽だが、体をなるべく早く元通りに使えるようにするため、妹紅は体を動かす。神経の働きが良くなるにつれて、伝わる痛みは鋭くなる。
家に近づき、妹紅は最後に大切なことを思い出した。満月の夜に家を出てから今まで、花に水をやっていない。
やや足を速めた。体はだいぶ滑らかに動くようになっていた。駆け出すと、膝がやや遅れてついてきた。
家に着き、窓枠へ目をやる。
花は枯れていた。
近づき、しおれた花を見やる。月の光をあびているが、以前の白さは失われ、かたく黄ばんでいる。
妹紅の記憶では、ついさっきまでこの花は白く、瑞々しく膨らんでいた。
記憶よりも強い芳香が、枯れた花から漂い、空間を満たしている。
妹紅は箪笥の前へ行き、服を着た。
服にも、その香りが染みている。
きつい香りに、責められているように感じる。
たった一輪の花のために、少し怯えてしまった気持ちで、妹紅はもう一度花を見る。
鮮明に思い出される、美しい一輪の姿。
きれいだった。きれいだから、毎日水をやっていた。
それがいつか、楽しくなっていた。
それが失われたのだ。
長らく忘れていた、喪失を妹紅は感じた。失えば二度と戻らないということ。
妹紅は花を惜しんだ。
この花を好きになっていた。
きっと好きになる、と言っていた慧音を思い出す。
慧音の言ったとおりだった。
花をくれた慧音。慧音に謝らないと…
慧音は散歩をしていた。川に沿った農道の、里からだいぶ離れた場所を歩いている。
よく晴れた日だった。こんな日は外に出ると気分がいい。川の向こう、道のそばに、田畑が広がっている。農作業をしている人はいない。
夏の日中の農作業は苦しい。大方の人々は、日の出前に目を覚まし、涼しいうちに作業をする。
行く先で、妹紅が川に釣り糸を垂れていた。妹紅の姿を見て、慧音はそちらへ近づいていく。
「妹紅さん」
あと数歩ほどの一で、慧音は声をかけた。
「糸、引いていますよ」
一瞬肩を震わせて妹紅は振り向いた。慧音の顔を見、釣り糸の先を見て、魚がかかっていることに気づいた。
「あー」
あわてて引くと、魚が飛びあがった。釣竿をひきあげたまま魚篭に入れ、手をつっこんで釣り針をはずす。
「ふう。あぁ、慧音、こんにちは」
「こんにちは」
二人は笑いあい、魚篭の魚を覗きこんだ。
「わあ、けっこう大きいですね」
「うん。これで今晩のおかずになるな」
いいですね、と慧音はにやりとした。
「私は、今晩のおかずは何にしようかな」
「慧音も魚にしたら?」
「釣ってくれます?」
「いいよ」
妹紅は釣り針に餌をつけなおし、川に投げ入れた。
その隣に慧音は腰を下ろす。楽しそうに釣り糸の先を眺めている。
「焼こうか、揚げようか」
「おっかないこと言うね」
「魚ですよ」
「煮魚は?」
「小魚を煮るがごとし…」
「小鮮でしょ。どこかで聞いたことがあるけど、それ、何の言葉だっけ」
「わかったらご褒美をあげます」
「いつからここは寺子屋になったんだ」
「今からここは寺子屋です」
「これから釣れた魚をあげるから答えを教えてください」
「賄賂は受けつけませんよ」
「生徒のかわいいお願いじゃないの」
「あくどいお願いですね」
「子供心だよ、出来心」
「そういえば、妹紅さんは何歳なのですか?」
「聞くな」
めちゃくちゃな会話を楽しむ。と、手元で釣竿がはねた。糸が引かれている。
さっと引くと、やや小ぶりな魚が吊れた。
「小さいな。もう一匹吊る?」
「私はこれくらいがいいです」
魚は釣り針をはずされ、魚篭に入れられる。慧音が覗こうとして頭を傾けると、帽子が滑り、川に落ちた。
「あっ」
妹紅が裸足になり、ズボンをまくりあげ川に入った。水をはねながら駆け、帽子に追いついてすくあげた。
岸にもどり、慧音に帽子を手渡す。
「あ、ありがとうございます」
帽子はふちが濡れてしまった。岸にひっくりかえして置き、日に当てて乾かす。
「水、冷たいよ」
妹紅は川の水をすくい、慧音の手にたらした。
「ひゃあ、冷たい」
「慧音も入りなよ」
と、川の真ん中へ歩いていく。膝の下まで水につかり、ズボンのもっと上までまくる。
気持ちよさそうに思い、慧音は靴をぬぎ、裾を摘んで水に入った。
「そういえば、慧音、寺子屋は?」
「夏休み中です」
返事をし、細かい砂利を踏み分け、水をすいすいとわりながら歩く。水が足に触れて流れていく感覚が気持ちいい。
「夏休みか、じゃあ、遊ぼうっ」
「わぷっ」
慧音の顔に水がかかった。水にぬれ、きょとんとしている慧音を見て妹紅がけらけらと笑っている。
「な…」
目をしばたたき、顔を振って水を飛ばし、慧音も妹紅に水をかけた。
「冷たっ」
妹紅は腕で水をうけたから、袖が濡れた。
「あー、濡れた、慧音のせいで濡れた」
「はじめに水をかけたくせに」
と、慧音は笑い返した。その顔に水。
水をかけてはかけられて、水のはねあいが始まった。
妹紅はもとより両手で水をすくって投げつけ、水がかかるのも気にせずはしゃいでいるが、片手で裾をひきあげ、もう片手で妹紅に水をかけていた慧音も、いつのまにか濡れるのを忘れて両手で水をはねていた。
川辺に二人の笑う声と、水音が響く。蝉も鳴きやんで飛び去りそうなほど、元気にさわいでいる。
慧音が川底の石に足を滑らせそうになり、なんとか踏みとどまって足をついた。
「あぁ、危なかった」
ここで一時休戦。慧音は岸に座り、足で川の水をはねた。顔や首を水がしたたり、はりつく髪を手ではらう。服の裾はすっかり水につかり、重くたれて水面にゆらゆらとしている。慧音は面白そうにそれを見つめている。
川の中に立ったまま、慧音を見ていた妹紅が言った。
「慧音、意外と子供っぽいところあるんだね」
顔を上げ、さっと赤面する慧音。
「少し、はめをはずしただけです」
「へぇ」
「妹紅さんだって、びしょびしょじゃないですか」
「慧音がいっぱいかけるからね」
むっと顔をしかめる。
「あはは、いつも慧音って堅いから、あんなにはしゃいでて私も楽しかったんだ。ごめん」
そう言われて満更でもないようで、慧音はしかめ面を笑わせた。
「妹紅さんも、」
「ん」
「普段は物静かですから」
「そう?」
「水をかけてくるなんて驚きました」
慧音の反撃がはじまる。
「意外と子供っぽいんですね」
「それは、」
一瞬返事に口ごもる。
「ああしてさそわないと慧音は砕けないでしょ。あ、それより」
「え?」
「慧音の話し方も、くずしていいよ。丁寧に話さなくても」
「いえ、妹紅さんのほうが年上ですし。私もこれで慣れていますから」
「やっぱり慧音は堅いな」
二人で笑い、息を整えた。妹紅も岸に座る。
「あ、慧音」
妹紅は話すべきことを思い出した。
「何ですか?」
やや間をおいてから、妹紅は口をきった。
「花、枯れちゃったんだ。前に、慧音にもらった白い花」
妹紅は慧音の目を見た。
「何日か家を出てた間に。…大切にしてた。ごめん」
慧音は、伏せられた妹紅の目を見つめ返した。
「そうですか…でも、次は、きっと上手くいきますよ」
次は。
妹紅の瞳がゆらいだ。
白い花を枯らしたときと、同じようなことがあれば、次も花を枯らしてしまうだろう。それは、戦いで体の回復に時間がかかったとき。
輝夜と殺し合いをしてきて、そのようなことは何度もあった。特に満月の夜は、二人とも狂っているから、あれほどの結果に終わる場合がほとんどだった。
次、花を育てれば、
「うん、次は」
しかし、妹紅は思考を途中でやめ、さらりと明るい声で答えた。慧音がなぐさめてくれたから、それに答えなければ。
「慧音の言ったとおり、育ててるとだんだん好きになってさ」
遠くを見つめる目で、妹紅は花を思い出す。
「香りがまだ、残ってるんだ」
慧音は目を細め、微笑んだ。
「これから、花を探しに行きませんか?」
妹紅は慧音に目を向けた。
「ん。あぁ、そうだね」
岸に足を上げ、水をかわかす。
「どこに行く?」
「山で探しましょう」
川の上流のほう、道の先を示す。道は小山へ続いている。
頷き、妹紅は靴をはいた。慧音は裾をしぼってしわをのばし、帽子をかぶる。
誰も盗らないだろうと言い、妹紅は釣竿と魚篭を川に置いて歩き出した。魚篭は石でおさえて、川につけておいた。これで新鮮なまま保っておける。
道は川に沿って山へあがっていく。川は山から流れてきている。二人の歩くあとに、ぽたぽたと水がおちた。
風が青田を揺らし、一斉に揺れる稲が、波のようなさざめきをたてる。風は耳元をかすめて吹き過ぎる。蝉が鳴きしきり、日差しはいよいよ明るい。
山にはいり道が細くなると、道のわきに生える草が慧音の足首をくすぐった。
「あ、あれ」
木の根が這ってごつごつしている土の斜面を慧音は指差した。斜面の中ほどの切り立ったところに、白い花が生えている。
「あれは…」
慧音がくれた花に似ていた。
妹紅は斜面の下に立ち止まり、花を見上げた。花びらの数が多く、一枚一枚とがっている。茎は短い。
斜面に靴を食い込ませて足がかりをつくり、そこへ足をかけてややのぼる。手を伸ばして花の根元の土をけずると、土が自然と崩れて、花は妹紅の手に落ちた。
花を持って降り、慧音に見せた。
「きれいですね」
「うん」
香りをすうと、こちらのほうがすんとしている。山らしい、と思った。凛とした雰囲気がある。
斜面の土をつかみ、花の根をつつんだ。
「こうするのかな」
「そうです」
慧音が竹林の茂みで、こうしていたのを覚えていた。こうしておけば、土のついたまま鉢に持ち帰り、鉢に入れ土をととのえるだけで良いのだと慧音は言った。
あのときの、茂みから突き出ていた慧音の帽子を思い出して、ついにやりとしてしまった。
「どうかしましたか?」
「いや、何も」
笑いをしずめ、妹紅は川原の岩の上に花を置いた。
「慧音は花、探さないの?」
「今のところ、家に空いている鉢がないので」
と慧音は肩をすくめてみせた。
次の花を探しに行こうという意味だったのか、と妹紅は思った。
さきほど、妹紅の話を聞き、慧音は、妹紅が花を好きになったこと、花を育てていて楽しかったことを感じ取った。失った花を惜しんでいることも。
だから、慧音は妹紅をさそった。だが妹紅には心につかえるものがあった。
それぞれ手ごろな石に腰をおろし、足を伸ばした。
山の新鮮な空気を吸い、息を吐き出すと、体の中が新しい空気で満たされ、古い空気は抜けていく、そんなふうで気持ちが良かった。慧音は髪をかきあげ、うしろ首につめたい風を感じながら心地良く微笑んだ。
「山は気持ち良いですね」
妹紅は考え事をはじめた様子で、そうだね、と返事をしたきり、どこを見るともなくぼうっとしていた。慧音は妹紅の顔を見つめて、横を向き、川を眺めた。
木々の枝葉から日差しが零れ、流れゆく水面の、ざわつく水をきらきらと光らせている。時折魚がはね、ぱしゃっと音がした。
頭上は鳥や蝉の声で満たされている。鳥はあちこりの枝を飛び回りながらさえずり、蝉は一箇所にとどまって鳴き続ける。
何もかもが生気に満ち溢れているなか、慧音と妹紅の間にだけ、静けさが落ち着いていた。
やがて、妹紅は口を開いた。
「慧音がくれた花を枯らせてしまったのは、輝夜と殺し合いをして、体が治るまで時間がかかったからなんだ」
焦点のあわない目つきのまま、ゆっくりと話す。慧音は妹紅を振り向き、耳を傾ける。
「何日もかかってしまったから。…こんなこと、よくあるんだ。その間水をあげられなかった。輝夜と戦うのは好きじゃないけど、」
そこで一旦切り、妹紅は慧音に目を向けた。
「輝夜への憎しみを積み重ねてきた、衝動が来る。そうなると、あがらえない。ずっとそうして生きてきたから。今度、花を育てはじめると、また花を枯らしてしまうかもしれない」
自信がない、とかすれる声で次いだ。
「でも、花を育てて、妹紅さんは楽しかったのでしょう」
「楽しかったよ」
妹紅は目元をきつくした。
「だから枯れたとき、悲しくなった。花を失うんだから」
「失うのが、怖い?」
「…うん」
それを思っても、殺し合いをしないことは難しい、ということが慧音にはわかった。慧音には考えられない長い年月、妹紅は輝夜と戦いを繰り返している。その基になる憎しみもある。
「輝夜と戦ったのは満月の夜だった」
「あぁ、満月…」
満月に人は狂う。満月の夜に衝動が来るのはおかしくない。
満月のごとに殺しあう。花を枯らす。妹紅はそれを怖れているのだと慧音は思った。
殺し合いをしているあいだに、大切なものが失われるということ。自身は無限に蘇り、喪失を忘れていた妹紅にとって、花は喪失を思い出させた、大切なものだから。
「では、妹紅さん」
慧音は妹紅に近づき、目を覗き込んで言った。
「私が妹紅さんを止めます。殺し合いに行かないで済むように」
一言一言、妹紅に言い聞かせる。
「ですから、きっと大丈夫です。花は枯れません」
ひきつめていた妹紅の神経がほつれ、表情がゆるんだ。
「そう…慧音、ありがとう」
「任せてください」
と、元気付けるように慧音は胸をたたく。
「満月の夜には私も力が強くなりますから、なお安心です」
「本当?」
妹紅は笑う。慧音が自信ありげに胸をたたくところが、おかしかった。
「本当です」
「止められる?」
「私だって、腕に自信はあります」
妹紅の笑みを見て、信じられていないと慧音は思い、ややいきりたった。
「試してみますか?」
立ち上がり、妹紅を見下ろす。その目つきが真剣で、妹紅は驚いた。
「ん、いいけど」
妹紅も立ち、伸びをする。慧音は腕をさすり、妹紅と対した。
「私が止めてみせます」
「ん」
妹紅は前に出、慧音の脇をすりぬけようとする。慧音は足を広げて横に動き、妹紅の頭をおさえた。
妹紅は慧音を見上げてにやりとした。
「まだまだ」
慧音も笑おうとしたが、隙なく妹紅が逃げだす。
片手を妹紅の頭につけたまま、体を回し妹紅をかかえようとする。と、急にぴたりと妹紅がとまり、慧音は妹紅にぶつかった。
衝撃で帽子が飛ぶ。
「ぐぅ」
「あはは、冗談」
妹紅がするりと慧音から逃れ出、宙で慧音の帽子を掴む。
「つかまえようとするんじゃだめだよ」
「ふむ」
慧音の腕が伸びる。
「お?」
妹紅のシャツの胸倉がつかまれ、引き寄せられ帽子を取られる。慧音は律儀に帽子をかぶりなおす。
妹紅が笑った。足を払われ、慧音は一瞬体を浮かした。
その一瞬に体をねじって足を飛ばす。顔に迫る足を妹紅をは肘ではじいた。
起き上がった慧音は妹紅にせまり、腕を伸ばすが、手首をつかまれてぐるりと放られた。
一回転して止まり、妹紅を振り返ると、また笑っている。
「遊びじゃありませんよ、妹紅さん」
あしらわれて、腹が立った。
「これからだ」
砂利を蹴り、妹紅に肉薄する。妹紅の手が慧音をおさえるが、そのままぶつかる。手を伸ばし妹紅の胴をつかまえた。
妹紅は体を傾け、勢いに乗せて慧音を横に流したが、慧音の手は妹紅をはなさず、今度は妹紅が引っ張られた。
引き寄せた妹紅を、まだ残っている勢いで地面にたたきつける。
妹紅の体が跳ねたが、すかさず上に乗り、両手をおさえる。
ほうと一息つく。
背中に妹紅の膝があたり、前につんのめった。手の力が緩み、妹紅は腕をふりはらいって慧音の肩を押して体を起こし、足を折って慧音を寝かしつけた。
がっちり押さえつけられ、慧音は一切身動きができなくなった。
妹紅が手を離し、慧音の頭から帽子をとって自分の頭にかぶる。
「いただき」
醜態。
これでは妹紅を止められない。
懇親の力で跳ね上がった。身を起こし、目を向けるよりはやく、妹紅の体のある位置へ拳を突き出す。
手ごたえがあった。だが首が拳の先を向くと、妹紅はいない。
勘が体を動かした。横に振った拳が妹紅にあたる。足を真横に蹴る。
蹴った足を軸足にしてさらに蹴る。妹紅は両肘をたてて防いでいた。
腰を正面にまわし、上がった足の踵を突き上げて落とす。
踵にあたり、下を向いた妹紅のうしろ首をおさえ、下に押す。
帽子が落ちる。
しかし、妹紅はあごを引いて首をまげた。慧音の腕の向きが狂い、手首がねじれる。
勢いが削ぐ。
慧音の手首をつかみ、背中をぴたりと慧音につけ、全身をバネにして頭上で慧音を投げる。
慧音は地面にたたきつけられた。
「ふう。慧音、大丈夫?」
これで終わろうと、妹紅が声をかけた。
慧音は起き上がり、血走った目で妹紅を睨む。
一瞬間、慧音の手に光が凝縮した。剣となり振り払い、刃が飛ぶ。
妹紅は刃を避けた。慧音に飛び込み手刀で手首を打つ。剣を落とした慧音の頬をたたき、目を覗き込んだ。
「慧音、終わりだよ」
はっと目が見開かれ、妹紅の目を見た。
「大丈夫?」
「あ、ぁ…」
息を整え、慧音は落ち着こうとする。
妹紅が手のひらに川の水をすくってきた。口をつけ、飲み干す。
「落ち着いた?」
「ん…」
帽子を広い、妹紅は慧音の頭にかぶせた。
「失礼しました。調子に乗ってしまいました」
「いや、私も。ごめんね」
妹紅は強かった。だが今怖くなったのはむしろ、慧音自身が途中で戦いに憑かれてしまったことであった。
腕を試すだけのつもりではじめたが、真剣になりはじめると、いつのまにか本気の戦意をむき出していた。
妹紅を地面に倒し、殴り、蹴った。
妹紅を止めたいと思いこうなったとはいえ、これこそ醜態だと思えた。戦っていると、狂う。慧音ははじめて身に味わった感覚が怖かった。
満月が狂わし、妹紅に与える衝動が、これだとしたら…。
突然のひぐらしの鳴き声が、慧音の緊張をやぶった。いつしか山は暗く、日が沈みはじめている。
「そろそろ帰ろうか」
妹紅が手を差し出した。
慧音は怯えを捨てて、妹紅の手をとり立ちあがった。
蝉の声はすべてひぐらしのものとなり、水田も川も黄金色に輝く。沈みかける夕日は、田畑が広がり続く台地をあますところなく染めている。山の木陰から出た二人は、眩しさに目を細めた。
額に手をかざした慧音の目が、日差しに光っている。西日を浴びた横顔も、眩しかった。
花を両手で持っていた妹紅は、川辺に放置していた釣竿と魚篭を見つけ、
「ああ、忘れてた」
と笑った。慧音が釣竿と魚篭を拾い上げた。生きていた魚は、魚篭が川からあげられて急に水がなくなり、驚いて暴れだした。慧音はあわてて蓋をする。
「新鮮ですね。刺身にしましょうか」
「川の魚は刺身にできないよ」
と、妹紅は口をゆがめる。
「不味そうですね」
慧音は味を想像しなかった。
「でも、生きているのを料理するのは、気が引けます」
「まな板に乗せておけば、じきに料理できるようになるよ」
道に長く伸びた影を追いかけあい、やがて分かれ道へ来た。まっすぐ行くと里、曲がると竹林の方へ続く道だ。
妹紅は片手に花を持ち、もう片手で慧音から釣竿を受け取り、魚篭から自分のぶんの魚をつかみ出した。
魚は左右に体を曲げて逃げようとするが、妹紅はしっかりと尾を握っている。
「慧音は魚篭ごと持って行きなよ」
別れを言うのがすこしためらわれて、慧音は言った。
「ついでですし、うちで夕食を食べていきませんか?」
妹紅は微笑み、首を振った。
「いや、家に帰るよ。慧音も疲れたでしょ、ゆっくり休むといいよ。それに花を植えないといけないし」
「あぁ、そうですね」
それではいただきます、と慧音は魚入りの魚篭をかかえた。
「あ、妹紅さん」
最後に声をかける。
「ん?」
「満月の夜は、必ず止めますから。安心して、花を育ててあげてください」
「うん。ありがとう。…それじゃ」
妹紅の影がだんだんと伸びていき、小さくなる。手を振り、慧音は里へ向かう道を歩き出した。
白い花を植えていた鉢に、今度の白い花を植えた。場所も、同じく窓際に置く。水やりもおなじようにした。
この花はそれで大丈夫なようだった。夜は花を閉じ、妹紅が目覚めることには開いている。部屋にはかすかに残っていた以前の花の香りと取って代わって、すんとしたさわやかな香りが流れだした。妹紅はそれが嬉しかった。
妹紅はこの花も好きになった。
穏やかな気持ちで過ごすが、花を見ていると、枯れた黄色が花にかぶさって見えることがあった。そのとき妹紅の表情は曇った。
イナバが来る。追い返す。また来る。追い返す。家から閉め出す妹紅の様子に、鬼気じみたものが混ざりはじめ、泣いて帰るイバナもいた。
輝夜がじかに来ないことが救いだった。輝夜も、普段はのんびり過ごしている。
輝夜に鉢合わせる可能性の少ない昼間に外を出歩くようになり、夜は健やかに眠った。生活がそのようになったためか、妹紅の精神は健全になったかもしれない。
不安は底に沈み、時折掻き立てられる。
新月が過ぎ、半月に満ち、再び満月をむかえた。
それまで妹紅が無事に過ごしているようで安心していた慧音は、緊張を持ち直した。
日が沈み、月がのぼるまでの薄暗い時間、角と尻尾のあるハクタクが竹林を歩いていく。
以前、紫色の花を摘んだ場所で、妹紅と待ち合わせることになっている。慧音は妹紅の家の場所を知らない。
帽子はかぶっていない。腕を組みながら歩き、慧音は考える。
狂った妹紅を見たことはない。体が治るのに半月もかかるほどの殺し合いをするのだから、狂えばどれほど、恐ろしくなるか。
妹紅の攻撃のまとになれば、ただでは済まない。しかし、妹紅を止められなければ妹紅は輝夜に殺される。そして花のもとへ帰れなくなる。
慧音だって、妹紅がそうなることが嫌だ。何としても、やるしかない。
考え事に熱中しすぎて、慧音は前を見ていなかった。腕を組み歩くまま藪につっこみ、転んだ。ばきばきと枝が折れる。
「いたたたっ!」
手を突き立ち上がる際に、枝の折れ口が慧音の半そでの腕を引っかく。切り傷はなかったが、ずんずんと痛む。
「うぅ…」
情けなく慧音は立ち尽くした。ここが待ち合わせの場所だった。暗い竹林を見回す。妹紅はまだ来ていなかった。
やがて、草を踏む音がし、妹紅が竹の林から現れた。
「慧音。こんばんは」
「あ、こんばんは」
すでに少々おかしくなって来ると思っていた妹紅が、いつもどおりの様子のようで、慧音はほっとした。
慧音の角を見上げて、妹紅はぽかんとしている。
「どうかしました?」
「あ、いや」
妹紅は、満月のとき慧音がハクタクになることを思い出した。忘れていて、一瞬別人かと思っていた。
「えと、行こうか?」
「あぁ、はい」
竹の林に入る妹紅を追い、慧音も林に入る。蝉も鳴りを潜める頃、明かりの一切ない暗がりで、妹紅の後姿を見失わぬよう、目を凝らして慧音は妹紅についていった。
道はずいぶんと険しい。妙なところに妹紅は家を建てたものだ、と思った。
やがて竹がなくなり、広い場所に出ると、家が建っていた。
「これ、家」
暗くてはっきりとは見えないが、しっかりとした家だ。
「妹紅さんが建てたのですか?」
「ん、そうだけど」
慧音は感心して家を見上げた。
「すごいですね。一人で、こんなにしっかりした家を建てるなんて」
「丈夫な屋根の下で休みたいからね。まぁ、入って」
戸を開け、妹紅が家の中に入る。慧音も妹紅について家に入った。
玄関で靴を脱ぎ、あがる。花の香りがした。
窓枠に花の鉢があり、山で妹紅が摘んだ白い花が植えられている。鉢の隣に、小さい如雨露。
花の様子は山に咲いていた頃とかわらない。妹紅が花を大切にしていることがわかり、慧音は微笑んだ。
「座布団、一枚しかないんだ。とりあえず、座ってて」
言われたとおり、慧音は座布団に正座をする。
堅いな、と妹紅はくすりと笑った。
「お茶を入れるよ」
と言い、水場へ行った。
慧音は妹紅の後ろ姿を目で追い、次に窓枠の花を見た。香りが心地良い。けれど、すこし緊張して落ち着けず、こわばった肩をほぐそうと腕をまわした。そのとき、腕に目が留まり、さきほどの引っかき傷が、赤く腫れているのに気がついた。
痛みはしないが、恥ずかしい。お茶を用意して、急須と湯のみを持ってきた妹紅の目に入らないよう、おとなしく腕を垂らす。
急須を卓に置き、湯のみを並べる。
「花茶ですか?」
聞くと、妹紅は一瞬目を丸くし、ふきだした。
「花はあれしかないよ」
と、白い花を示す。
「あれをお茶にしたらなくなってしまう」
「そうですね。あぁ、これはほうじ茶ですか」
「緑茶だけど」
「そうですか」
あたたかいお茶を、ゆっくりと飲む。満月の狂気と戦いを想像していた慧音は、予想しなかった安らぎに心が温まった。
「緑茶とほうじ茶をどうして間違えた?」
「あれ、どうしてでしょうか」
明らかに味の違う両者を、暗くて色が見えないからといって間違えるのはおかしい。慧音は何気なく、飲んだお茶をほうじ茶だと言ったのだったが、間違えた理由はわからなかった。
実際は、緊張が残っていたためであったが。
「満月に人は狂う」
「私が狂ったと?」
「まだ月はのぼってないけど」
「もうすぐですね」
慧音は窓から空を見上げる。空はやや明るい。もう月が出る寸前なのだろう。
あぁ、と妹紅は息をはき、湯飲みを持ち寝台に腰をかける。
不安なのだろうか。慧音は妹紅の顔をうかがった。
「で、狂ったのは頭と味覚、どっち?」
心配したのに、そんなことを言われて拍子抜けした。不安をまぎらわすために、言っているのかもしれないが。
「頭が狂えば味覚もおかしくなるかもしれませんね」
「栗を食べて柿と言うような」
「味覚を確かめる方法がありません」
「何か食べてみたら?」
「何を?」
「何もないや」
言って、食事はいつも、魚を釣ったり鳥を捕まえたりして、ありあわせで済ませている、と妹紅は話した。それでよく健康なものだ、と慧音は半ば呆れた。肌色もいいし、健康には見える。
「そういえば、夕食は?」
「食べてきました」
「そう。私もさっき食べたんだ」
飲み干した湯飲みを、手を伸ばして卓に置き、妹紅は寝台にうつぶせになった。顔を横に向け、慧音を見る。
「あれ、腕を怪我してるよ」
「え?」
妹紅は慧音の腕を見た。腫れを見られてしまった。
「どうしたの?」
「あぁ、さっき藪に転んだときに。これくらい、怪我とも言えません」
と慧音は腕をさする。妹紅は慧音の腕を見つめている。
「私、怪我をしてもすぐに治るから、薬を置いてないんだ」
「これだって、すぐに治りますよ」
「そう。なら、いいけど」
妹紅は笑みをうかべた。
「前に慧音の家に行ったとき、薬をくれたよね」
「そうでしたね」
「お茶を飲んで、薬を塗れば、あの時と今と同じことをしていることになってた」
「あぁ…そうですね」
妹紅の発見に感心した。
「あげる花はないけど…」
妹紅は枕を抱き、顔をうずめた。
窓からさしこむ光に気づき、慧音は外を見た。
月が空にのぼっていた。銀色に輝く、完全に満ちた月。
妹紅を見ると、枕にうつぶしてじっとしている。
月の光に照らされ、花の白い輪郭がくっきりと浮かび上がっている。香りが、月光のように透き通って冷たいような気がした。
妹紅は黙っている。肩がかすかに震えている。
慧音は不安を掻き立てられ、妹紅に話しかけたいが、口を開けなかった。不安は言葉にならず、狂う予兆なのか、衝動を抑えているのか、妹紅の震える肩に手を触れた。
妹紅がわずかに顔を上げる。切れたような細い目尻が光り、慧音を見上げる。
目元に悪寒が走った。
「大丈夫ですか」
「大丈夫」
と、また顔を伏せたが、枕を押したりつぶしたりして落ち着きがない。枕から顔をはなし、仰向けに転がって、慧音の手をとった。
手のひらを親指の爪でなぞる。
「これが生命線?」
「そのあたりです」
「暗くて見えないけど」
爪がすうっとなぞっていく。爪は手首まで滑っていき、食い込んで痛かった。慧音は顔をゆがめた。
手に触れる妹紅の指先から伝わる脈動が、早い。
月の光はますますさしこみ、室内は次第に明るくなっていく。花がぎらぎらと輝く。慧音は震えた。
「灯りを、つけないのですか」
妹紅は慧音の手を離し、頭を逸らして慧音を見た。
「つけたい?」
「灯りがあるほうが、いいかと思って」
月光を追い出したかった。月の光が慧音の神経にさわり、不吉に感じる。
妹紅の狂気を誘うように。
「灯りもない」
「そうですか」
妹紅の瞳が、月の明かりに光る。血のように赤い瞳に見すくめられる。
急に起き上がり、寝台を降りて玄関へ向かった。
とっさに妹紅の腕をつかむ。
妹紅が振り返り、ゆがんだ目で慧音を見下ろした。
爪が立っていた。慧音は驚いたが、握る力を弱められない。
「灯りをつける燃えしろを取ってくるんだよ」
妹紅が薄く笑った。
悲しそうな微笑に、慧音は傷付いた。
「ごめんなさい…」
徐々に手を離していく。指が離れたとき、妹紅が慧音の手を握った。
「一緒に行こう」
頷き、妹紅の手を握りかえして立ち上がった。二人で玄関を出る。竹薮の前へ行き、枝を折り、握りながらまた折って手に数本ため、家へ入った。慧音が後ろ手で戸を閉めた。
慧音は手を離した。妹紅は水場から石皿を持ってきた。卓に置き、上に枝を並べて指先から火をこぼす。やや大きい炎となり、部屋全体を明るくした。
月の光が炎の明るさに負け、窓の外へ退いて慧音はほっとした。窓枠の花も、火の灯りでほのかに赤い。
「なんだか、少し落ち着いた」
妹紅は畳に座り足を伸ばした。
「やっぱり、落ち着かなかったんですね」
うん、とかすれる声で妹紅は言った。
妹紅の隣に慧音は腰を下ろした。
「座布団に座りなよ」
「いえ、いいです」
妹紅の様子がまた変わったとき、絶対に見逃さないよう、慧音は妹紅に近づいていたかった。
「でも、今晩はちょっと気が楽なんだ」
畳に手をつき、背をのけぞらせて、妹紅は灯りを見た。
「慧音がいるからかな」
言われて、赤くなりそうな顔を火に向け、ごまかす。
「今日は、もしかしたら、大丈夫かな」
「…そうですか」
妹紅の顔を見る。疲れの陰りが見えるが、落ち着いた顔。目にはさっきの光はなく、とろんとしている。
月光を退ける火の灯りが心強い。
このまま、夜があけるまで、
戸がどんどんと鳴り、引き開けられた。
二人は振り返る。そこに、宵闇をまとった黒髪の姿。
「こんなところにいたの。妹紅」
開いた戸から吹き込んだ風が枝を散らし、火が消えた。差し込んだ月の光に、輝夜の顔が照らし出される。
「待ちくたびれたわ…だから、探しに来たの」
目が酷薄に笑っている。妹紅は慧音の前に立ち、その顔を睨みつける。
「なんでここがわかった」
「探していたら、灯りが見えたから」
「帰れよ。今日は殺しあう気はない」
輝夜の眼がぎらつく。まっすぐに見つめる輝夜の眼から、妹紅は必死で目をそらした。
「嘘でしょう。私と妹紅は殺しあうってことが、千年の決まりじゃない」
薄く笑み、首をかしげる。
「妹紅は、私を憎んでいるのでしょう?どうしてそんなことを…」
近づき、無理矢理妹紅の瞳をとらえる。妹紅は腕を上げ、輝夜を突き放そうとした。
その直前に慧音が立ち上がり、輝夜を押さえた。
一瞬、場が沈黙した。
「…誰?」
輝夜の眼が慧音に向けられた。その眼を見て、慧音は肩を震わせた。
狂気に憑かれている。奥のほうから、刺すような光が宿っている。慧音は恐ろしかったが、その眼を睨み返した。
「私は、」
名乗りかけたところを、妹紅が慧音の肩をつかみ後ろに引いた。
「友人だ。構うな」
慧音は妹紅を振り向いた。妹紅は輝夜に対している。
輝夜と慧音を関わらせたくなく、名を知らせることも危ないと思い、妹紅はそうしたのだった。輝夜は慧音にも手を下すかもしれないから。だが慧音は、この場に関係のない者のように扱われたと感じ、妹紅の言った言葉が刺さった。
「ふぅん。めずらしい友人をお持ちだこと」
慧音を一瞥し、妹紅に目を向ける。
「ねぇ、妹紅、遊びましょう…」
輝夜の眼の光が強まり、妹紅の目を貫いたかに見えた。
妹紅の腕ががくりと動いた。慧音が腕をつかみ、妹紅をおさえる。
「友人は、邪魔をしない」
輝夜が慧音を突き飛ばした。手が妹紅を離れ、慧音は卓に足をひっかけ、うしろ倒れる。
「ッ!」
妹紅が輝夜の頬を殴った。輝夜は数歩後退する。
「構うなって言ったろ!」
怒鳴り、輝夜に迫ろうとした。
妹紅、と名前を呼び、慧音が起き上がる。
固まった妹紅の腕を引き、慧音が前に出た。
妹紅は思いがけなく強く引かれ、驚いた。
「あんたには、出て行ってもらう」
輝夜に迫る。
「それはこっちの台詞よ」
輝夜が口を開いたとき、慧音が掌底で輝夜を突いた。強大な衝撃で、輝夜の体が家の外へ吹き飛ぶ。すかさず輝夜を追って慧音は駆け出した。
「慧音!」
妹紅も家を出る。
浮かび上がり、回転して身を持ち直しながら輝夜は光を放った。慧音の手には剣がにぎられ、光を弾き返す。剣を振り、飛ぶ刃が輝夜の光とあたり爆発した。
慧音は爆光を突きぬける。光を横に薙いで輝夜は迎えうった。剣を立て、勢いを削がず進む。光の向こうの輝夜に剣を振り下ろす。輝夜は防いだが、剣があまりにも重く、地に墜落した。
そのほうへ、慧音は剣を振り刃を飛ばす。輝夜は光で刃を打ち消す。
「ふん、なかなかやるじゃない」
口の端をゆがめ、ゆらりと起き上がる。
慧音は降り立ち、剣を構える。
「妹紅さんは、見ていてください」
背後の妹紅に声を掛ける。妹紅は唖然として口を開けなかった。
輝夜がここに来てしまってからは、私のやるべきことは、妹紅を止めることではなく、輝夜を追い払うことだ。それが殺し合いをさせない方法だから。
慧音は地を蹴った。
輝夜も慧音に接近した。距離がなくなる。慧音は剣を突き出す。輝夜は飛び、足を蹴りだし慧音の顔を狙った。髪一筋の隙で慧音は首を曲げ、剣を上へ振るが、輝夜の体が飛び過ぎるのが早かった。
振り返りながら刃を飛ばす。輝夜の光とぶつかり、爆光が慧音の目をくらます。一瞬で輝夜は慧音の目の前に現れた。気配を神経が感じ取り、慧音の腕が突き動かされた。首へ伸びる輝夜の手を、剣の刃がかする。しかし輝夜の手はなおも伸び、慧音の首をつかむ。
殺し合いに慣れている輝夜は、体が傷ついても動きを止めない。そこが慧音と違うところだった。
首を絞められ、慧音は剣を振り上げる。が、輝夜の一方の手に手首をつかまれ、腹を蹴り上げられる。膝がくずれた。
だが慧音のほうが力が強い。手首をつかまれた腕をぐいとひねりあげ、力任せに振り下ろした。
ばちり、と肩に剣が食い込み、輝夜が沈む。首にからまる輝夜の指をこじあけ、飛び退った。
そのとき、慧音の体を光が包んだ。全身が危険を察知し、飛び上がる。慧音の体のあった場所で爆発が起きた。
飛び上がった先へ光が飛ぶ。剣を振り、光をはじく。そこへ輝夜が接近し、慧音を殴る。傾いた慧音を蹴り落とす。
落ちつつ姿勢を変え、慧音は着地した。光が頭上八方から飛ぶ。その下をなんとか駆け抜けた。
その先に輝夜が待ち構えていた。光を振り、慧音を貫いたかに見えた。
慧音はとっさに剣で防いだが、腕が震えた。赤く腫れていた傷から、血が流れ出していた。
輝夜が迫り、手を伸ばす。
慧音の胸に指が突き立った。
鮮血が飛ぶ。輝夜の顔に血がかかるのを見、遅れて痛みが走った。
妹紅が叫ぶ。
妹紅の声が聞こえる。
花が枯れたら、妹紅の心はあんなふうに叫ぶのだろうか。
それは嫌だ。
慧音は剣を突き出す。
輝夜の胸を刺した。
数歩さがる。
輝夜の体が揺らぐ。
息を吐くと血がながれた。
心臓が律動を乱しばくりと膨らむ。その度に血が噴き出す。
気持ちが悪い。痛みに、胸を掻きむしりたい狂気を押さえつける。
背後に近づく妹紅。慧音は振り返らない。
「妹紅さん、は、さが、ってて」
一言発すると激痛が走る。妹紅の名前以降は極めて小さな声になった。
妹紅は立ち止まり、退く。慧音の気迫に押された。
輝夜が立ち上がる。輝夜の胸からも血が出ているが、それを気にしているふうではない。
「ふふ、少し楽しいわ」
輝夜が笑う。笑い声に、慧音の神経は焼け切れた。
「でも、前座は短くなければ」
慧音の剣が投げられた。一瞬で輝夜のもとまで飛んだが、かすかに身をかわし避ける。
「本番は楽しめないわ」
慧音は手を広げ、無数の光線を放つ。
輝夜は光を突き抜けた。光と共に慧音は飛ぶ。
光の中で影がぶつかる。
輝夜の手の光が慧音を貫いている。
消える意識の、最後の一瞬で、慧音は拳を輝夜にたたきつけた。
輝夜は顔が砕け、首を折り、倒れた。
慧音は膝を突き、すでに意識のない体はゆっくりと傾く。
妹紅が、倒れこむ慧音を抱きかかえた。
慧音の名前を呼ぶ。
叫ぶ。
月が慧音の顔を白く照らす。
薄く開いた口から、息はこぼれない。
熱を帯びた、白い頬に指を触れた。
「妹紅…」
輝夜が立ち上がった。
慧音を抱えている妹紅を見下ろす。
「邪魔者はいなくなったわ」
歩み寄り、輝夜の手がさしだされる。
「私と、遊びましょう」
妹紅は輝夜を見上げる。狂気の光はおだやかに眼に漂っている。その向こうで光る満月。
妹紅の目は光に吸い込まれた。
だが、妹紅のなかで、何かが既に壊れていた。
妹紅は羽ばたき、慧音を抱えて飛び上がった。
月に背を向け、必死の速さで飛ぶ。
輝夜が追ってくる気配を感じる。
しかし決して振り向かず、妹紅は羽ばたいた。
息が切れても飛び続けた。どこまでも逃げ、どこまでも飛ぶ。
輝夜の気配が引きはなれても、まっすぐに飛び続け、やがて月の光の届かない場所まで来た。
どこかの、とても高い山に飛び込んだ。
木の根元に降り立ち、炎を消して暗闇に身を潜めた。
木の根に座り、慧音を膝に寝かせる。
頬に触れると、風で冷え切って、冷たかった。
首筋に指を伸ばし、脈をさぐるがみつからない。
脈はもう止まっているのかもしれない。
胸の傷口に触れる。血も冷えている。
頬をなでる。
手に水が触れた。
妹紅の目から零れた涙だった。
慧音の顔を濡らす。なお数滴の涙が落ちる。
妹紅は、花は失うことにはならなかった。
慧音が防いでくれた。
かわりに、慧音を失ったのか。
狂気に、大切なものが呑まれていく。
大切なものは、失って、はじめて…
足に、ふわりとしたものが触れた。
かすかに動いたそれを感じた。
慧音の尻尾だと妹紅は気がづいた。
頬をなで、耳元で名前を呼ぶ。慧音は反応しない。
胸が小さく上下し、ほんの少し息を吐く音が聞こえた。
妹紅は名前を呼び続ける。頬は温かい。慧音の熱なのか、妹紅の熱なのか、わからないけれど、妹紅は慧音を暖めるように、ぴたりと抱き締めた。
慧音の呼吸は続く。尻尾がすこしだけ動く。
妹紅は名前を呼ぶ。
慧音に目覚めてほしかった。目覚めて、慧音が動く姿を見たかった。
「慧音、お願い、目を覚まして…」
慧音が一瞬唸った。
喉がうごき、唸ろうとしている。
「慧音」
喉をなでる。ゆっくりと脈が伝わる。
「ん…」
暗闇のなかで、小さく光った。慧音の目が開かれた。
「慧音、大丈夫?」
慧音の体が動き、傷の痛みでぴくりと跳ねた。
妹紅は体をなでて落ち着かせる。
涙が溢れ、頬を伝い落ちる。
慧音の指が、妹紅の涙をたどった。
「泣いているのですか」
ささやく小さな声を、妹紅は耳をそばだてて聞き逃さなかった。
「そりゃあ、泣くよ」
微笑む笑窪を慧音の手がつつむ。
「ここは?」
「どこかの山の中。輝夜から逃げてきた」
深い森の中のようだった。そよとの風もなく、頭上は木で真っ黒に覆われている。
「ここなら、月も見えないし、見つからない」
慧音は安心したのか、妹紅の膝に沈みこんだ。
「ずっとここに、いますか?」
「いや。夜が明ければ、輝夜も落ち着くはず」
ふうっと息を吐く音が聞こえた。
「ね、慧音、慧音が助かって本当によかった」
妹紅が言った。
「花は慧音が守ってくれたけど、慧音を失ったと思った。さっきまで、慧音が気がつくまで、すごく辛かった」
「妹紅さん…ごめんなさい」
「謝らないで、慧音が起きて、嬉しいから。辛かったのよりも、ずっと嬉しくて、幸せだよ」
また一滴、涙が零れる。
「それでさ…、大切なものを、失って悲しい気持ちより、大切にして、一緒にいて幸せな気持ちのほうが大きいって思った」
「…はい」
「だから…何も怖がらないで、大切にするよ。花も、慧音も」
恥ずかしくて声がかすれた。
けれど、きっと慧音に聞こえてしまった。
「…わたし、」
「ん?」
「私も、大切にしてくれるんですか?」
「うん。慧音は大切な人だよ。…嫌?」
慧音はぶんぶんと首をふった。
「あはは。…ありがとう」
慧音は黙ってじっとしているが、慧音の尻尾がふさふさしている。悪い気分ではないのだろうと妹紅は解釈した。
「ところで、慧音、聞いていい?」
「なんですか?」
「どうして、輝夜と戦ったのか、って」
「どうして、って。殺し合いに行かないで済むようにする、と言ったじゃないですか」
「あぁ…本気で言ってくれてたんだ」
「本気だって、思ってくれていなかったのですか」
「いや、こんなにまでしてくれるとは、思ってなかった」
慧音が顔をしかめたのが、触れている手から伝わった。
「私も、妹紅さんといる時間が楽しいのです。妹紅さんが大切だから…私だって」
小さな小さな声が、途切れて、聞こえなくなった。
「慧音?」
慧音は何も言わない。体もじっとして、吐息と鼓動だけだった。
妹紅は慧音の頭を抱き締めた。
「慧音、ありがとう…」
それきり、妹紅も何も言わなかった。
慧音の体があたたかかった。
夜が明け、妹紅は鳥の鳴く声で目を覚ました。眠っている慧音をかかえ、薄暗い森から飛び上がる。ずいぶん遠くまで飛んできていたようで、どこにいるのかわからなかったが、月に背を向けて飛んできたから、西へ向かってみる。
しばらく飛ぶと、見慣れた風景と里が見えた。慧音の家へ降り、布団に慧音を寝かせた。
明るい場所で見ると慧音の傷はひどかった。医者に見せなければと思ったけれど、目を覚ました慧音に話すと、
「私が傷を負っているのを里の人に見せると、私が妖怪に襲われたと思い、その妖怪が里を襲うのではないかと不安にさせてしまうから、」
だめだと言った。それでも、傷を放っておくのは危ない。
妹紅は慧音を家で休ませて、一人永遠亭へ向かった。こっそりと入り、輝夜には内密にして八意に会い、薬をもらってきた。
薬で慧音を治療し、もう一度寝かせてから、妹紅は花に水をやりに竹林へ戻った。
風の涼しい晩、妹紅が慧音の家を訪れた。
「花を見せてもらいに。お邪魔していい?」
「もちろん、あがってください」
慧音は喜んで迎え入れた。以前、「また花を見に来たい」と言っていたのが、本当に来てくれて嬉しかった。
薬の効果は覿面で、傷は一週間ほどでふさがったが、まだしばらくは療養しなければならない。茶器を運ぼうとする慧音から、妹紅が盆を取り上げた。
「それくらいできますよ」
と言うが、妹紅は面白そうになんでも手伝おうとする。傷がふさがりきらなかった頃など、妹紅が何でもかんでもしてくれて、慧音は何もすることがなかった。
慧音がしかめ面をするとわかっていて、楽しんでいるのだろうか。
そう思うと、慧音はまたよけいに顔をしかめた。
「さ、飲もうよ」
卓に盆を置き、座布団に座って妹紅が手招きする。
慧音も座り、熱い急須を傾けて湯のみの注いだ。
「ん、なんか良い香りがする」
「まあ、飲んでみてください」
慧音は微笑み、妹紅に湯のみを差し出す。
「あちち、」
一口流しいれ、舌をひっこめて妹紅は飲んだ。
「おいしい。でも、何のお茶?」
「花茶ですよ」
「あー」
妹紅は笑って、お茶を喉につまらせてむせてしまった。背中をなでてあげる。
「うーん。花茶ってこんなにおいしかったんだ」
「お茶用の乾燥花をたまたま手に入れたので、淹れてみました」
「すごい。いいなぁ」
ふと、妹紅は卓の上を見てたずねた。
「そういえば、あの紫色の花は?」
「あの花は、寝室の枕元に置いています。いい香りがしてよく眠れるのです」
「毒の効用だったりしてね」
「目が覚めなくなったら、起こしに来てくださいね」
「ガラスの棺を花でいっぱいにしてね」
「何ですか、それ」
「さぁ、何かな」
空になった妹紅の湯のみにお茶を注ぐ。慧音も二杯目を飲んだ。
「そうだ。今度の満月の日に、またあの森に行ってみない?」
あの森とは、輝夜から逃げて妹紅がたどり着いた、山の中の森のこと。
「あこなら、輝夜に見つからないし、月も見えないし。面白そうだから探検しようよ」
「けれど、あそこは少し怖いですよ。真っ暗で」
「照らせばいいじゃない」
と、妹紅は指の先に火をともした。慧音はそれを見てぞっとする。
「いや、それは」
「ん?」
妹紅の家で、せがんで灯りをつけてもらい、結果輝夜に見つかってしまったことが思い出された。あのことが慧音のトラウマになった。
「それか、戦うときは」
妹紅は慧音の目を覗き込んだ。
「今度は、一緒に戦う。ね」
妹紅一人でも、慧音一人でもいけない。一緒なら、大丈夫。
「そうですね」
慧音はわかっている。笑って、頷いた。
帰り際、妹紅は、
「次は、また花茶を飲みに来たいな」
と言った。
「お茶はいつだって淹れられますから。いつでも来てください」
と、前と同じように答える。
ただの親切だけではないということを、わかってくれればいいのだが。おそらく、無理だろう。
花の夜露の香りに包まれて、慧音は妹紅を見送った。
窓枠の花を見つめ、妹紅は考える。
このあとしばらくは何とかなるだろうが、狂気から逃れ続けることはできないだろう。
千年の歳月は重い。輝夜がどう出るかも予測できない。
けれど、慧音と一緒なら、大丈夫な気がする。
戦いでは慧音を助けられるけれど、実際は、いつも慧音に助けられてばかりだ。
慧音を助けるには、とりあえず今は、慧音を楽しませてあげることかな。
妹紅と一緒にいる時間が楽しい、と慧音は言っていたから。
いろいろな不安のことは、もっと後に考えよう。今は、慧音を大切にしたい。
花の命は儚い。慧音の命も。きっと、大切な命を守ってみせる。慧音と一緒なら。
ゲームでは出てないけど慧音先生もこたんに敬語なんだよね、珍しく準拠した口調で非常に萌えた!ありがとう
話もサラっと心地よいドライさで、まさに花のはかなさを受け止めたもこたんのようにこちらも読み終えることができますた。
読んでて何か幸せになれます!
慧音のふさふさ尻尾にきゅんきゅんしました。