本を閉じて顔を上げる。
いつも通り、図書館は心地よい暗さの空気が停滞している。手元の本を読み終えるのにかかった時間は、感覚にしておよそ半刻ほどだろうか。確認しようにも、あいにくここに時計は無い。窓も無いから、時刻を知るための要素は皆無ということになる。メイドが夕食を知らせに来ないのだから、まだそんなに遅い時刻ではないのだろう。
時刻などはどうでもいい。何時であろうと、起きている限り本を読み、魔導書を書くだけである。この百数十年、ほとんど変わらないルーティン。
立ち上がって、赤いハードカバーの本を小脇に抱える。片手にはランプを提げる。この本は、照明も届かないような奥まったところに配架されていたはずだ。動くのは億劫だけど、しかたがない。今日は使い魔には休みを与えてある。今頃森かどこかで悪魔仲間と羽根を伸ばしているところだろう。
赤い本を所定の位置に戻し、次の本に取り掛かることにする。なんとなく目に付いたのは黒い背表紙に金の箔押しでタイトルが刻まれた本。少し高いところにあるけど、背伸びすれば魔法で浮遊せずとも取れる。
「んっ……」
届いた。なんとか指をかけて、強引に取り出そうとして、
「あ」
ぱたん、と本は床に落ちてしまう。まあ、多少紙が傷むかもしれないけど、どうということもない。腰をかがめて拾う。
と。本のそばに何かが落ちていた。見覚えのない、薄い紙っぺら。
「……カード?」
本にはさまっていたらしい。拾い上げてランプにかざし、観察する。いや、じっくり観察するまでもない。この形状をして、表面に魔術文字と記号が配列されたカードとなると、幻想郷で考えられる可能性はひとつ。スペルカードだ。
呆れた。
文字通りの切り札を栞代わりにして、あまつさえそのまま放置するなど考えられない。他人に解析されれば、その持ち主の手の内をすべて見透かされる、培ってきた技術をお手軽に盗まれる、と致命的なことこの上ない。そんなことをする愚か者はもちろん私ではない。
恋符「マスタースパーク」
それがこのカードの名前だった。文様が刻まれたその表面に、あのお気楽な顔を思い浮かべて、なんとも言えない気分になる。能天気というか、ガサツというか、無防備というか。ちゃんと人間らしく脳でものを考えているのだろうか。こんなことでよく魔法使いなどと名乗っているものだ。
本をテーブルに置き、人差し指と中指に挟んだカードをしげしげと眺めてみる。照明にすかしたり、裏、表とひっくり返してみたり。裏面はやたらとどぎつい色をしている。派手好きのあいつらしい。表にはその魔法を発動させるための回路が文様として描かれていて、これがなかなかどうして、十数年しか生きていない人間の作ったものとしては信じられない程度にハイレベルな構成をしている。……まあ、絶好調のときの私を打ち負かしたこともある人間だ。それくらいでないとこちらが困る。
さらに表面をなでてみたり、軽く曲げてみたりと、自分でも何がしたいのかよくわからないほどにいろいろいじってみるけど、そろそろ見るべきものは見てしまった。物言わぬカードをじっとにらんでから、テーブルの上に放り出そうとして、
ふと、魔がさした。
「……」
立ち上がる。視線の先には壁。外から見れば一面真紅に染まっているこの館の壁面だけど、内から見れば、味も素っ気も無いくすんだ乳白色をしている。そしてきわめて頑丈だ。そうでなければ、今まで数度行われた館内での弾幕ごっこや普段の妹様のお遊戯によって、この館は今頃ガレキの山になっている。
もう一度スペルカードの文様を観察する。スペルの効果は、大出力の魔力エネルギーの放出による単純な砲撃。私の精霊魔法のように、精霊使役のための複雑な手順などを踏む必要は無いはず。
ほら、試し撃ちのための条件は十分だ。
壁に対峙して、ひとつ呼吸。すう、はあ。
カードを構える。微細な魔力をカードに流してやると、
回路が、イメージという実体を伴って私の中に展開される。
借り物の魔法はいつもと勝手が違って、眉間がこそばゆい。
魔法の表情は、持ち主そのもの。
日なたのような温度。能天気さ。
あいつらしい、荒っぽくて、しかし真っ直ぐな魔術構成が、しみこんでくる。
あとは、この回路を動かしてやれば、
カチリ、とスイッチが入った。
途端に、魔力の奔流、奔流、
奔流、暴力的なまでの光のイメージが体を駆け巡る、全身の魔力(オド)と血液
の流れが一気に加速す (魔力の奔流)
る、それは物理的な発現を前にしてすでに焼け焦げるような熱を帯び、(魔力の奔流)
好き勝手に暴れ狂い、四方八方に飛散拡散爆散悲惨、飛び散る水分蒸発
鼓膜を突き破るような衝撃が持続、
(魔力の奔流) 喉の渇きはすでに最高潮、
異液としてせりあがる胃液 ドロドロドロドロ 蒸発
全身の細胞という細胞がプチプチプチプチプチ沸騰沸騰細亡沸騰暴騰膨張
ぐらぐら愚羅倶螺世界は回る廻る回る (魔力の奔流)
膨張を続け(魔力の奔流)るビッグ・バン
眼球の回転ぐるりぐるり回転回転廻転輪廻輪舞グルリぐるり 衝撃!
瑠璃色の世界浄玻璃玉虫色玉虫金色虫蟲無死無死
圧倒的な暴力暴力暴力暴力暴力暴力暴暴暴暴暴防暴妨妨暴冒暴暴
暴忙暴暴暴暴冒冒暴防冒暴某亡暴望暴暴亡房暴防暴暴妨膨
膨膨暴暴暴暴暴暴防暴妨膨妨暴冒暴(魔力の奔流)暴暴
暴暴暴暴冒妨冒暴防冒暴某暴望暴暴亡房暴防
暴暴妨膨防膨膨暴暴暴防暴妨妨暴冒暴暴房暴忙
暴暴暴亡暴冒冒暴(魔力の、奔流!)防冒暴
某亡暴望暴暴亡房暴防暴暴妨
膨膨暴暴防暴暴
暴暴防暴妨妨暴冒暴 (圧倒的な魔力の奔流!!)
暴房暴忙暴暴
暴暴冒
暴
(……でもっ……!)
最初こそあまりの魔力のインパクトにやられたが、
(いける……!)
暴れる魔力を制御、できる。
増幅された魔力に秩序を与え、まっすぐに伸ばした右手に意識を集中、集まる魔力をあとは放出してやれば、
そんなときに、いまさらに、
スペルの、致命的な欠陥を発見してしまい、
(あああああああああああああああああああああ!)
目の前が、白く
「……リー、…チュリー!」
目を開けると、視界は白い。そして黒い。白黒だ。紅茶にミルクを入れた直後のよう、じんわりと混ざる白黒、黒白、ぐるぐる、ぐるぐる。
頬に衝撃、ぺしぺしと音。ああ、そんなに叩かないで欲しい。私は肌も弱いのだ。跡が残ったらどうしてくれる。
「…………痛い」
「お、気がついたか」
その声により意識がクリアになる。視界には世界が確かな輪郭を持って現前する。心地よい暗さの室内。カビとホコリにまみれた本のにおい。コホンとせきをすると、ランプの火はチリリと揺れる。
「で、なんでそんなところで寝てるんだ」
ああ、何故だっけ。とりあえず、この赤いじゅうたんは少し寝心地が悪い。かたい毛先が気持ち悪く背中を刺激する。今度は寝心地も配慮した品を取り寄せるようにメイド長に言っておこう。
身じろぎをして、右手に握ったものに気づく。クシャリと潰れたカード。余熱を帯びている。……そうだ、悪いのは全部こいつだ。
「あなた、いろいろ足りてないのよ」
にらみつけてやると、能天気な表情のまま首をかしげる。怒りも呆れも通り越して、諦観だけが去来する。……魔力の収束まではいい、最後の最後にあんなデタラメな構成をしている魔法など、長いこと魔女をしていて始めてお目にかかった。あんな、瓢箪から駒を無理やり引きずり出すような無茶なエネルギーの使い方、それがあの大出力を実現しているとも言えるけど、一歩間違えばスペルを使用した本人が自壊してしまう。ああ、その無茶を許すのが例の八卦炉なのだろう。別の何かのサポートなくして、あんなスペルは成り立たない。私もそれに早く気づき、別のサポートスペルを同時展開すべきだった。
同時展開? あんな出力で、無理に決まっている。
「……本当に人間?」
思わず問うと、「私は普通だぜ」といつもどおりのお天気な答えが返ってくる。ああ、頭痛がする。こいつといると、ため息をつく機会に事欠かない。「そうだった。普通の泥棒だものね」
「失礼だな。私はちゃんと持ち主に断って借りてるだけだ」
代わり映えのしないやりとりに、今までとは違う種類の、温かいため息が出た。
「日陰浴よ。いま流行ってるの」
「音速が遅いぜ」
よくわからない指摘をされる。ほかに何か言いようがあったろうかと思考を回していると、ふわりと身体が羽根のように浮いた感覚がし、た、
「――!?!?!?」
抱きかかえられている。
いわゆる、お姫様抱っこ。
ボン、とさっきのスペルの熱が戻ったかのように、顔の体温が上がる。
「ちょっ……! 離しなさい、日陰が浴びられないでしょ」
じたばた、じたばた、猫のように暴れてやる。足を振り回し、背を反らせ、束縛から逃れようとする。しかしがっちりと私を支える腕はそれを許さない。なんなのだ、なんなのだ。顔が近い、温かい、熱い、恥ずかしい!
「ときに」と、そいつは私の暴れっぷりを意にも介さないように前を見たまま。「いつから、お前も吸血鬼になったんだ?」
「――」
一瞬、わけがわからず思考が止まる。そしてすぐに思い至り、唇の端をぬぐう。……指先にぬらりとした感触。軽く喀血していた。
ああ、無茶をしすぎたらしい。
「いろいろ足りてないのはお前のほうだ。ビタミンとかな」
返す言葉がない。ちょっと頭を使えばよかったのだ。あんな、冷静さを欠いたミスを犯すなど、動かない大図書館の名が廃る。
「まあ、こんな寒暗いところで寝てりゃ、そうなる」
返す言葉はないけど、だんだん悔しくなってきた。「あなたも寒暗い森で寝起きしているくせに」
「私はいいんだ、アウトドア派だからな」
「……本当に、心も身体もお天気ね」
「照れるぜ」「誉めてない」
太陽のように笑って、そいつは私を抱えたまま迷いなく歩く。向かう先は私の寝室だ。私はなすがまま、じっと抱えられている。揺籃のような、包み込まれる感触。落ちないように、エプロンドレスのフリルをぎゅっとつかむ。
温かい。
手の中の感触を思い出して、そいつに見つからないようにそっと見つめる。その魔法に包まれていた、こそばゆい感触を思い出す。――それも、今は手の中でただの紙切れと化している。魔法の表情は、持ち主そのもの。つかんだと思ったら、飄々とどこかへ行ってしまう。なんだかおかしくて、笑ってしまう。そして、
黒々と焦げたそれを、さりげなく床に捨てた。
「ん、どうした、思い出し笑いか?」
「思い込み笑いよ」
――あなたの恋心に、本当に触れられるのは、まだまだ先のようだ。
まあ、荒っぽい組み方は魔理沙らしいけどね。
「ああ、とことん眠いぜ……でもスペルが……もういいや、適当に撃てるようにしとけ」
なんだ今の電波?
その野蛮さにすら惹かれるパチェの乙女がよかったです。