そうして、妹紅は自分が地面に横たわっているのを発見した。
さざめく竹の間から月が見えて、先刻からまだそれほど時間は経っていないらしかった。筋肉の重みを感じながら右腕を月に向かって掲げて、こぶしを握り、ほどく。指の骨から錆びた鉄をこすり合わせるような妙な音がしたが、そろそろ動けるくらいには回復しているようだった。妹紅はゆるく息を吐くと上半身を起こした。銀糸の髪に土や腐りかけた竹の葉が絡まっていて、妹紅は髪を乱暴にかき混ぜてそれを払い落とした。もう一度見上げると、帯のような、ほそく薄い雲がたなびいて、月の光で金色にみえた。風が少しあるらしかったが、竹林はわずかな竹のささめきだけがあって、ひっそりとしていた。妹紅は立ち上がって尻を払った。手のひらを見ると真っ黒で、妙なにおいがすると思ったら、これは土ではなく
妹紅は特に何も考えずに歩き出した。もう丑の刻の半ばを過ぎている頃だろうか、このような時間に出歩く人間はよく目立つ。しかし好き好んで竹林に迷い込もうとする奇特な妖怪はそういないし、まして妹紅は三下妖怪など片手であしらえた。腐りかけた竹の葉の落ちる地面は、踏むたびに陰気な足音がする。月は煌々と照り、火をおこして明かりにするまでもなかった。
四半刻ほどぶらぶらと歩いて、妹紅はいつの間にか自分のあばら家の前に立っているのに気付いて、つい可笑しくなった。ところでその庵を見てみると明かりが灯っていた。妹紅は気にした風もなく扉を開けた。
上白沢慧音がいた。
「……邪魔しているぞ」
「うん」
囲炉裏に小さな火がちろちろと燃えていた。妹紅は
「出かけてたのか」
「いつもの散歩だよ」
「ああ、いつもの……」
妹紅は髪を濡らしたままで囲炉裏のそばへ寄った。鍋がつるされていて、中で雑炊のようなものが煮えていた。二畳半ほどの小ぢんまりした板の間は、しかし人二人が腰を下ろすには十分だった。囲炉裏の火で庵の中は
「まだ沢山ついてるぞ……それに、やけに髪が絡んでないか」
「んー、まあ、いいよ」
「良くない」
慧音は妹紅の髪を手ぬぐいで拭いて土や葉を落とすとどこから持ってきたのか(妹紅は持っていない)櫛を取り出して銀糸の髪を
二人は雑炊を椀によそって食べた。具は芋とネギ、味付けは塩を振っただけのごく簡素なものであった。妹紅は味が薄いと評したが、慧音は濃い味のものばかり食べていると味覚が馬鹿になる、と言って譲らなかった。
「そういえば、今日はどうしたの」
聞いてみると、慧音は妹紅が箸をくわえるのをたしなめてから答えた。
「この前は里の子が世話になった」
「……ああ、うん」
そういえば最近子供を一人永遠亭に連れて行った、と妹紅は思った。おかわりは要るか、と慧音が言ったので、妹紅は椀を差し出した。
それから二人は二、三、雑談を交わしたが、次第に慧音の言葉は妹紅への小言に変わってゆき、女なんだから身だしなみには気をつけろ、夜に出歩くのは控えろ、などという説経になる頃には妹紅は半分寝ていた。頭突きは眠気を覚ますのには効果的であった。
慧音が去ってからも、庵の中は囲炉裏の火でぼんやりと明るかった。妹紅はにぶく熱を持った額をさすった。鍋には椀二杯分ほどの雑炊が残っていた。明日の朝餉にでもすると良い、と慧音は言った。庵の格子窓から外を見ると、月が先刻より傾きを増していた。妹紅はひとつ伸びをすると、いつもの柱に背を預けた。長年使っているその柱は、妹紅の背の形にすっかり馴染んでいた。そうして、妹紅は目を閉じた。
翌日、妹紅は
妹紅はふと思い至って、釣竿と竹で編んだ
「釣れますか」と声がして、妹紅は振り向いた。大陸風の民族衣装を着た女、紅魔館の門番がいた。手ごたえを感じたので妹紅は視線を水面に転じ、竿を引き上げると山女がかかっていた。ご覧の通り、と門番に示して見せた。
「お見事」
「しかしまだ小さいか」
妹紅は山女の口から針を外すと、湖に投げ放した。そしてまた針に餌をつけた。
「風流ですねぇ」
「いや、別に道楽でやってるんでもないけどな。……で、あんたは?」
聞いてみると門番は、ああ、そうそう、と呟いて舌を出した。「朝の鍛錬の途中でした」
門番は妹紅から数歩離れた場所で太極拳を始めた。妹紅はそんな門番を見て少し噴き出した。そうしてまた垂れた釣り針に目を戻した。ゆったりとした時間が流れた。
そのうち魚篭には山女やフナがいくらか投げ込まれ、妹紅はこのくらいで充分か、と思った。妹紅が立ち上がると、両手を前に押し込みながら息を吐いていた門番は動きを止めた。
「じゃあ、行くわ」
「さようならー」
妹紅は歩き出そうとしたが、ふと思い立って、門番を呼んだ。門番の注意がこっちに向くと同時、魚を三匹投げて寄越した。門番は俊敏な動きで全部受け取った。
「おすそ分け」
手を振る妹紅の背中に、ありがとうございますー、という声がかけられた。
人間の里の側まで来るのは久しぶりだった。用がなければ一歩も外に出なくとも生きていかれるのである。妹紅は慧音の庵の前に立つと、特に断ることもなく戸に手をかけた。
「ん、妹紅か」
庵には慧音と、子供が数人いた。そういえば寺子屋の時間はどのくらいだったか、と妹紅は思ったが、思い出せなかった。お茶を飲む慧音の周りで、子供たちは慧音としゃべったり紙になにやら描きつけたり好き勝手に暴れたりしていたが、妹紅を見ると皆一様に好奇の目を向けた。慧音は子供たちに「私の友達だよ」と言って、妹紅を手招きした。邪魔するよ、と言って妹紅は板の間に上がった。
「妹紅の方から来るなんて珍しいな」
慧音は後ろから女の子に抱きつかれながら、湯飲みにお茶を入れて妹紅に差し出した。妹紅はそれを受け取って一服した。そうして、魚篭を差し出して「昨日のお礼」と言った。
「なんだ、別に気を使わなくても」
「いいから」
「うん、ありがとう」
今日の夕餉にしよう、と言って慧音は魚篭を受け取った。するとそこに子供たちが群がった。「なになに?」「さかなだ!」「うわーぬるぬるしてらー」「こら、お前たち」
庵の中がわいのわいのと騒がしい中、妹紅は一人の女の子がずっとこっちを見ているのに気付いた。女の子は妹紅のことを遠巻きに見ていたが、やがて駆け寄ってきた。
「お、おねえちゃん、ありがとう」
そうして握った手を差し出したので、妹紅は釣られるように手を出した。妹紅の手には飴玉が載せられた。妹紅は女の子のすることが分からず首をかしげた。慧音に視線で助けを求めると、慧音は若干呆れたように息をついて見せた。
「この前、永遠亭に連れて行ったろう」
慧音に言われて、妹紅は、あ、と声をあげた。数日前に肺炎をこじらせた子供を永遠亭に連れて行ったことがあったが、そのときの子供が、目の前に立っている女の子だった。
「治ったのか」
「うん」
「よかったな」
妹紅は女の子の頭をなでた。女の子はくすぐったそうに目を細めた。
気がつけばやはり夜の竹林をぶらぶらと歩いていた。竹林は常に変化し続けるために、逆説的にどこを見てもいつもと全く同じ景色にしか見えない。そこを散歩するのは、考え事をするのにも、何も考えずに足を動かすにもうってつけだった。
後方から風切音がして、振り返ろうとしたときにはすぐ隣を何かが横切って妹紅の銀糸の髪が舞い上がった。
「お、不死人じゃないか」
ホウキにまたがったそいつは妹紅に気づくと空中に停止して話しかけてきた。
「なんだ、また肝試しかい」
と妹紅が言うと、魔理沙は可笑しそうにした。「肝を試されるのはお前だろ?」
「リベンジも受け付けるぞ?」
「まあそのうちな。今日の私は考古学者なんだ」
今度は妹紅が笑った。
「最近じゃ考古学者ってのは泥棒と同じ意味らしいぞ」
「失礼な、死ぬまで借りるだけだぜ」
死ぬまで、ね、と妹紅は笑った。こいつはいつ見ても面白い奴だ、と思った。
「おっと、こんなところで油を売ってる場合じゃないぜ」
「私は油屋は出来んなあ、年中火事になる」
「違いない」
魔理沙は気楽そうに手を振って竹林の向こうへ消えた。強い風がはじけて、あたりの竹の葉を散らし、青い顔をした竹たちをさざめかせた。妹紅は髪にかかった葉を払い落として、ふと、見上げた。
月は今日も煌々と照っていた。
妹紅は懐から、さっきもらった飴玉を取り出し、包みを解いて口に放り込んだ。舌の先がしびれるような甘さがした。女の子の顔を思い出して、鼻の先にくすぐったさを覚えた。そうしてもう一度見上げて、ソイツが笑っているのを見た。妹紅も笑った。二人は鏡写しの顔をしていた。
「こんばんは。いい月ね」
「いや、まったく」
妹紅は両拳を握って飛び上がった。
そうして、――
点数つけられないのが惜しいくらいに。
こういうリズムの作品、嫌いじゃないです。
ここは誤字かな?
下の先がしびれるような → 舌の先がしびれるような
いいですねぇこのテンポ、こういう妹紅大好きです。