その世界は絶えず私の触れる場所にあった。
命の終わった向こう側の世界が、私にはよく見えた。
目に見えぬものを見、聞こえぬ声を聞き、彼の岸にある世界は私の隣にあった。
初めは、形の定まらぬ、それでいてぼんやりとしながらも緩慢に浮遊する『それ』を私はただ見ている
だけだった。
幼心に見上げた空の雲、あるいは飛ぶ鳥と何ら変わらないように思えた。
……私が少し世の中というものを覚えた頃、私が何かを覚えるたびに『それ』は形を成していった。
私が知恵をつければ知恵に応じて『それ』はより近く、より傍にあるようになった。
具体的にそれが何なのか、そのときの私にはまだ理解することができなかった。
更に幾年かが過ぎ、私は高熱を出して寝こんでしまった。
形の無いものが形を成して飛び回る正体が『よくないもの』だと悟ったのは、その時だった。
『それ』は暗い影となって私の隣にあった。朦朧とする意識の中で、『それ』が何なのかはっきり理解
した。
「あなたは『終わり』ね」
私は手を伸ばして、『終わり』に触れた。
私が意識を失う直前、目も鼻も口も無いのに、それは満足げに微笑んでいたように見えた。
目を覚ました時、私の体温は自分が思うよりもずっと冷たくなっていた。
昨夜までの高熱が嘘の様に、私の中に寒々しい風が吹き抜けていった。
目を覚ましたことを喜ぶ使いの者。聞けば、流行り病で多くのものが死んだそうだ。
外に出てみると、確かに『終わり』はそこらじゅうにあった。
死んでいる人が沢山いるのが、言われなくてもよく見えた。
世界は死は満ち溢れていた。『終わり』が、満ち溢れていた。
目を凝らして『終わり』を見ると、『終わり』もまたこちらを見返してきた。
白くにごった、あるいはかつて目があった暗い穴が、こちらを見つめていた。
だが、彼らはそこにいた。体を遊離して、とても綺麗な形になったのだと私は思った。
その中に、私に随分とよくしてくれた召使を見つけて、私は手招いて見せた。
彼女は嬉しそうにこちらにやってくる。私は、彼女と言葉を交わした。
何でも三途の川が混んでいるので、まだこちらに残るのだという。
「いってしまうのね。寂しくなるわ」
名残惜しい、と互いに慰めあい、私は仲の良かった召使とお別れをした。
――それから暫く後だった。西行寺の娘は死霊を操る、などと言われるようになったのは。
きっかけは単純なもので、夜中に私の寝所に押し入った男に『終わり』をぶつけてやったのだ。
和歌の下手な男の誘いを受ける気はなかった。もっとも、上手くても受けるかどうかは別の話だけど。
とにかく、とっさのことだったから理解するまでに時間がかかった。
なにせ男は倒れたまま動かない。しかし、男から遊離した男の中身は、自分を呆然と見つめていたのだ
。
私は叫んだ。自分が『終わらせてしまった』のだ。
そんなものは見たくなかった。そんな世界なんて触れていたくなかった。
消えてほしい。どうかいなくなってほしい。そう願うと、『終わり』が男を連れて消えた。
残ったのは、蝶が羽化した後のサナギの抜け殻のような、男の死体だけだった。
死穢や血穢を、皆は嫌った。私自身も、それはよくないことだと判って気が沈んだ。
父などは何とか話を無かったことにしようとしたが、人の口には戸はたてられない。
やがて密かに「某を呪い殺してはいただけないか」などという話が来ることさえあった。
私は自分が疎ましくなっていった。
あの日、『終わり』に触れたときに私は死んでおくべきだったのではないか。
いや、今の私はとうの昔に死んでいて、私は既に形ある死そのものではないか。
次第に、そう考えるようになっていった。
『久方の 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ』
私にはどうして花が散るのかわからなかった――でも、今ならわかる。
咲いた時にもう、花は死を迎えているのだ。
だから、私も花のように、私の知る中で最も鮮やかな花の下で死ぬことにした。
庭に咲き誇る、もっとも見事で鮮やかな桜の下で。せめて、花のように。
死んだ私が最後に見たのは、あの日、あの夢の中でみた『終わり』の笑顔。
私を死に隣り合わせ、触れさせ、そして私に微笑んでくれた、他の誰でもない、私の顔――。
命の終わった向こう側の世界が、私にはよく見えた。
目に見えぬものを見、聞こえぬ声を聞き、彼の岸にある世界は私の隣にあった。
初めは、形の定まらぬ、それでいてぼんやりとしながらも緩慢に浮遊する『それ』を私はただ見ている
だけだった。
幼心に見上げた空の雲、あるいは飛ぶ鳥と何ら変わらないように思えた。
……私が少し世の中というものを覚えた頃、私が何かを覚えるたびに『それ』は形を成していった。
私が知恵をつければ知恵に応じて『それ』はより近く、より傍にあるようになった。
具体的にそれが何なのか、そのときの私にはまだ理解することができなかった。
更に幾年かが過ぎ、私は高熱を出して寝こんでしまった。
形の無いものが形を成して飛び回る正体が『よくないもの』だと悟ったのは、その時だった。
『それ』は暗い影となって私の隣にあった。朦朧とする意識の中で、『それ』が何なのかはっきり理解
した。
「あなたは『終わり』ね」
私は手を伸ばして、『終わり』に触れた。
私が意識を失う直前、目も鼻も口も無いのに、それは満足げに微笑んでいたように見えた。
目を覚ました時、私の体温は自分が思うよりもずっと冷たくなっていた。
昨夜までの高熱が嘘の様に、私の中に寒々しい風が吹き抜けていった。
目を覚ましたことを喜ぶ使いの者。聞けば、流行り病で多くのものが死んだそうだ。
外に出てみると、確かに『終わり』はそこらじゅうにあった。
死んでいる人が沢山いるのが、言われなくてもよく見えた。
世界は死は満ち溢れていた。『終わり』が、満ち溢れていた。
目を凝らして『終わり』を見ると、『終わり』もまたこちらを見返してきた。
白くにごった、あるいはかつて目があった暗い穴が、こちらを見つめていた。
だが、彼らはそこにいた。体を遊離して、とても綺麗な形になったのだと私は思った。
その中に、私に随分とよくしてくれた召使を見つけて、私は手招いて見せた。
彼女は嬉しそうにこちらにやってくる。私は、彼女と言葉を交わした。
何でも三途の川が混んでいるので、まだこちらに残るのだという。
「いってしまうのね。寂しくなるわ」
名残惜しい、と互いに慰めあい、私は仲の良かった召使とお別れをした。
――それから暫く後だった。西行寺の娘は死霊を操る、などと言われるようになったのは。
きっかけは単純なもので、夜中に私の寝所に押し入った男に『終わり』をぶつけてやったのだ。
和歌の下手な男の誘いを受ける気はなかった。もっとも、上手くても受けるかどうかは別の話だけど。
とにかく、とっさのことだったから理解するまでに時間がかかった。
なにせ男は倒れたまま動かない。しかし、男から遊離した男の中身は、自分を呆然と見つめていたのだ
。
私は叫んだ。自分が『終わらせてしまった』のだ。
そんなものは見たくなかった。そんな世界なんて触れていたくなかった。
消えてほしい。どうかいなくなってほしい。そう願うと、『終わり』が男を連れて消えた。
残ったのは、蝶が羽化した後のサナギの抜け殻のような、男の死体だけだった。
死穢や血穢を、皆は嫌った。私自身も、それはよくないことだと判って気が沈んだ。
父などは何とか話を無かったことにしようとしたが、人の口には戸はたてられない。
やがて密かに「某を呪い殺してはいただけないか」などという話が来ることさえあった。
私は自分が疎ましくなっていった。
あの日、『終わり』に触れたときに私は死んでおくべきだったのではないか。
いや、今の私はとうの昔に死んでいて、私は既に形ある死そのものではないか。
次第に、そう考えるようになっていった。
『久方の 光のどけき 春の日に 静心なく 花の散るらむ』
私にはどうして花が散るのかわからなかった――でも、今ならわかる。
咲いた時にもう、花は死を迎えているのだ。
だから、私も花のように、私の知る中で最も鮮やかな花の下で死ぬことにした。
庭に咲き誇る、もっとも見事で鮮やかな桜の下で。せめて、花のように。
死んだ私が最後に見たのは、あの日、あの夢の中でみた『終わり』の笑顔。
私を死に隣り合わせ、触れさせ、そして私に微笑んでくれた、他の誰でもない、私の顔――。