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この作品はプチ27「亜神の川辺 1」の続きになっています。
先にそちらを読んで頂いたあなたは一週間後に死にます。
『 緑 』
釜の蓋を開けた途端に舞い上がる、白い湯気。火傷しないよう顔を離しながら湯気を払い、その中を見やる。
ぎっしりと敷き詰められた、ふっくらとして照り輝く白飯。
その表面をしゃもじの端ですくい上げ、息を吹きかけてから一口食べる。
「……うん」
満足げに、早苗は頷いた。急いで準備した割に、炊き上がりはなかなかのものだ。
いつもより若干散らかってしまった台所。時間に追われながらも、予定したメニューに妥協は許さず、およそ普段と変わらない時刻に食事の仕度は整った。
戸棚から三人分の茶碗を取り出しながら、居間へと呼びかける。
「神奈子さまー、お待たせしましたー」
「んー」
気の無い返事が戻ってくる。早苗は小さく溜息を漏らした。
三人分の御飯をよそい、盆に載せて居間へと持っていく。と、守矢神社の重鎮にして早苗が仕える主は、卓袱台の横で巨大な注連縄の手入れをしていた。
「もう、食卓の近くでやらないでくださいよ」
「んー」
神奈子はこちらの方を見もせず、膝の上に抱えた注連縄のほつれを鋏で切っている。
信仰を集める為、神としての自身を象徴する道具として大事にしているのはわかる。とはいえ、ほつれの切れ端が料理の上に飛ばないかが心配ではあった。
卓袱台の上には、既におかずや醤油瓶などを並べてある。今日の一押しは、今朝河童から奉納された魚を使った煮物だ。山に住んでいては魚を食べる機会などほとんど無い為、神奈子たちも喜ぶものと思ったが。
無駄とはわかりつつ、早苗は作業に熱中する主に呼びかける。
「諏訪子さまは、まだ池で遊んでますか?」
「んー」
「ちょっと呼んで来ますから、それまでに片付けてくださいね」
「んー」
「……みんなが揃ってから、お味噌汁よそいますから」
「んー」
流石に早苗は苛立ちを覚えて、注連縄を凝視してうつむいたままの神奈子にも聞こえるよう、わかりやすく大きな溜息をつく。
そそくさと居間から出ようと背を向けた時だった。
「……早苗」
唐突に呼び止められ、振り返る。相変わらず神奈子は顔を上げないままだったが。
妙に細められた上目遣いで、彼女は早苗を見据えた。
「今日は遅い帰りだったね」
「あ、はい。すみませんでした……」
「いいのよぉ。すごく嬉しそうな顔してから」
どちらかといえば、今の彼女の方がやけに嬉しそうではあったが。少なくとも怒っている様子ではない事に、多少安堵を覚える。
神奈子は浮ついた調子で後を続けた。
「誰か、気になる人でも出来たのかなぁって」
「えっ……」
心当たりのある指摘を受けて、早苗は言葉に詰まる。
気になるといえば、確かに気になる。彼女がどこで何をしているのか。
少なくともするべき事をしていないであろう事はわかっているが、むしろするべき事をせず今頃どこで油を売っているのか。
彼女が何を考えているのか。
真面目にしていればそれなりに格好良く映えるというのに、サボりさえしなければ叱られずに済むに決まっているというのに、一向に懲りる事のないサボタージュの泰斗の頭の構造がわからない。
早苗が黙り込むのを見て、神奈子は口の端をいやらしく吊り上げる。何故、彼女が早苗の心情を察しているのかはわからなかったが。
とりあえず、素直に答える事にした。
「……はい。います」
「え゛」
神奈子の笑顔が、途端に凍りつく。
ぶつりと鈍い音が鳴り、彼女の持つ鋏が注連縄の端をざくりと抉った。
「なによ、また来たの?」
「……何ですそれ」
「妖怪・紫もやしの真似」
そんな変な妖怪がいるものかとは思ったが、深くは突っ込まず。
早苗は地面に腰を降ろした。ごろりと寝転がって青空を仰ぐ、死神の隣に。
先日に比べて少しだけ風が強く、水のせせらぎに木々の揺れる音が調和しながらも。川辺はやはり静けさを装っていた。
森の中を彷徨って辿り着いた時にはわからなかったが、この場所が特に人に見つかりにくいわけではない事が、空を飛んできてわかった。探す側にとっては、意外と盲点になるのかも知れない。少なくとも、隠れる側からすればこそこそ陰に潜んでいるより気が安らぐのは確かだ。
小町は相変わらず堂々と四肢を伸ばしている。大鎌はそこら辺に適当に放ってあった。愛用しているわけではないのか、ずぼらなだけなのか。
「またサボりに来たのか?あんたもとうとう駄巫女の仲間入りってわけだ」
「貴女じゃないんだから。今日の職務はきっちりこなしてから来ました」
「あたいじゃないとはどういう事だ」
「貴女の仕事は終わったの?」
「終わってない……なるほど、あたいじゃないな」
惚けた表情を締める事もせず、彼女が空の何処を見ているのかはわからない。
時刻はとうに昼を過ぎ、こんな場所でいつまでも寝転んでいれば頭の中身が温くなるのもわからないではない。
「あー、この間は四季様にこってり叱られたさ」
「そう」
「今日もこってり叱られるんだろうなぁ」
「仕事すればいいじゃないですか」
きっぱりと指摘すると、小町は即座に寝返りをうってそっぽを向いてしまった。
彼女に覆い被さるように、早苗は両手をついて小町の顔を覗き込む。影の差した、覇気の欠片もない横顔を半眼で見下ろしながら、
「噂になってますよ。仕事をサボって色んな所をふらついて、仕事をしてるかと思えば幽霊と雑談ばかりしてるって」
「まぁ、天狗の新聞よりは確かな噂さね」
あくまで呑気に言ってのける小町。
人の話をわざとはぐらかしているような態度に、早苗はむっと眉を寄せた。
多少躊躇を覚えたものの、思い切って尋ねる。
「なんで、死神なんてやってるんですか?」
瞬間、小町は仰向けに姿勢を戻し上半身をむくりと起こした。頭がぶつかりそうになり、早苗は慌てて身体を逸らす。
後頭部に寝癖のついた赤い髪をそのままに、彼女はやはり無気力な表情を浮かべている。ただ、心の内を覗き込もうとするような訝しげな眼差しを、間近に顔を寄せたままの早苗へ向けた。
「そんなこと聞かれたの、初めてだな。どうして?」
「え、その……」
思考の流れが毛糸のように絡まって滞り、言葉が浮かんでこない。
どうして?気になるからだ。どうして?わからない。
喉を喘がせ声を詰まらせている早苗を他所に、小町は喋り始めてしまう。遠く、川の向こう岸へと顔を向け、
「私は、他の死神たちと違って不真面目だからさ」
正座を崩したような体勢の早苗とは対照的に、小町は両脚を伸ばし足首をぶらぶらと揺り動かした。
「舟を漕いでる最中も、ついお客と口を利いてしまうのさ。あいつらったら生きていた頃の話を、時には嬉しそうに、時には悲しそうに教えてくれるんだ」
彼女はいつの間にか笑みを浮かべていた。ただ、瞳の奥には自身を嘲るような淋しさを覗かせて。
何となくそれを直視できず、早苗はわずかに俯きながら小町の話を聞いた。
「てめぇを地獄に送り届けようとしてる死神にだよ?閻魔様相手じゃ懺悔にしかならない言霊を、生のまま聞かせてくれる」
「…………」
「嬉しいじゃないか。だから死神やってんだ、あたいは」
そこで、小町は一旦黙り込んだ。その間を埋めるのに相応しい言葉を思いつけず、早苗もまた沈黙する。
素直に、意外と感じた。ずぼらな死神の真摯な一面を知った事で、満たされた気概もあった。
妖怪とはいえ、幻想郷の住人である以上私と何ら変わらない少女。幼少から仕える神や最近出会った人間以外に親近感を抱くのは、久しぶりの事だった。
ただ、と小町が口を開いた。
「消えていく霊たちが語る思い出ってのは、やっぱりそれなりに重いんだ。あいつらはそれをあたいに託してくれる。でもあたいには、その重さを支えられるほどの器も、資格もない」
「どうして、そう思うの……?」
促すように、尋ねる。
彼女の渇いた微笑、その裏側を覗くような行為に、若干の罪悪感を覚えながら。
「死神をやっていて得られる喜びってのは、死神が得るのに値しないものなのかも知れない。考えるのには向かないタチでね。悩みだしたら、すぐにこうして折れてしまう」
はぐらかすような答えが返したかと思えば。ちらりと横目で、小町はこちらを見据えた。
「いっそ、死神なんてやめてしまっても良いかも知れない。そう思う時もあるよ」
関係のない事だ。視線を合わすことの出来ないまま、意中で呟く。
大して見知ったわけでもない彼女が、何に悩み、どんな選択をしようと。
何故、彼女は私にこんな話をするのか。いつものような能天気な笑顔を、陰らせるのか。
気にする必要はないはずだ。私は私にとって大切な事だけを考えていればいい。
ここで何を言っても、気休めにしかならない。彼女の事を知りもしない自分に、彼女は救えない。
けれど。
言葉に出すには歪すぎる情動が、腹の底に溜め込まれていくのに耐え切れず。
何でもいい。早苗が口を開き、喉を振るわせようとする。
それを遮るかのようなタイミングで、小町はすんなりと立ち上がってしまった。
「あ……」
「あーぁ、あたいも無粋だね。せっかくの江戸っ子設定が台無しだ」
早苗を見下ろして、小町は白い歯を見せて笑いかける。取り繕っているつもりなのだろうが、数瞬前のたそがれた姿を見た後ではあまりに不出来な表情だった。
「忘れてくんねぇ。あたいはあたい、死神小町さ。今さらやめるつもりはないね」
芝居でも講じるようにすらすらと捲くし立てながら、土埃のついた尻をぱたぱたと払う。
あくまで全てなかった事にしたいらしい彼女を、追求するのを躊躇って早苗もまたじっと彼女を見上げていた。
と。
小町の着物、その布の隙間から何かが落ちるのが見えた。小石群の上にひらりと着地する、細長い茶封筒。
手紙か何かかと、最初は思った。幻想郷に郵便制度があるかは定かでないものの、天狗が新聞配達をやっている世界なら飛脚を営む人妖がいてもおかしくはない。給料袋に見えなくもないが、それにしてはあまりに薄すぎる。
しかし、上を向いた表面に書かれていたのは、いたって簡潔な汚い文字だった。
早苗から数秒遅れて、小町もまた自分が落としたそれに気付いたらしい。
スカートの間から覗く両脚がびくりと震えるのを視界の端に捉えつつ、早苗は封筒に書かれた文字を読み上げた。
「辞表……」
「…………」
風が、一際強く川辺を吹き抜ける。乱れる前髪を、抑えることもあえてせずに。言い逃れでも何でもいい。小町の言葉を、早苗はじっと待った。
封筒が風に舞うより早く小町はそれを拾い上げて、懐に仕舞う。早苗とは決して眼を合わせず、遠くを見るような眼差しをそっぽに向けて。躊躇いがちに腕を挙げ、指を一本たててみせた。
頬に冷や汗をつたわせながら、ようやく口を開く。
「……ジョークグッズだよ」
「冗談にもなってない!?」
「さて、あたいはそろそろ仕事しにいかないと」
「貴女に限ってそれは不自然過ぎるわよ!?」
「そいやぁっ!」
小町は異常に俊敏な動きで足元の大鎌を両手で掲げ、低い怒声とともに刃の表面を川の水面に勢い良く叩きつけた。
盛大な飛沫が舞い上がり、それを顔面いっぱいに浴びた早苗は思わず目を閉じてしまう。
しまった、と悟ったその隙に。
たん、と地面を蹴る音がすぐ傍から聞こえた。
「さらばじゃーっ!」
声に抑揚を効かせながら、赤い髪の少女が空の彼方に消えていくのを、服の袖で顔を拭いながら呆然と見届けて。
早苗は立ち上がった。一人取り残された川原の静けさは、やはり変わらないまま。独りでいるには、あまりに寂しい事に気付く。
追いかけるには既に機を逸し、誰の姿も見えなくなった空の一点を見据えたまま、早苗は呼びかけるようにぽつりと呟いた。
「じゃーって……」
こまっちゃんは何故辞表を持っていたのか、これからどうするつもりなのか、早苗たんはどう絡んで行くのか、気になります。
>少なくとも起こっている様子ではない
怒っているかと