わたしにだって、徒為をこころみないと判らないことはあるわ?
衰滅させても殺戮しても、他にもいっぱい死に方があるように
――あんた、ほんとは、呑めても嫌いな方かもね
◆
改めて数えてみると、それはもうそろそろ片手の指では足らなくなるほど何年も前のことだ。
適度にぼんやりして、普通に妖怪退治に集中していると、時間はあっという間に過ぎる。
私は、時間の使い方の巧い方だろう。
「fundamental」
桜が散っていく。間断なく散っていく。
慣れて飽いて満足がいって、もう誰も花見に訪れることのなくなった時期。
私はたったの五日間で獲得した、うんざりの向こうにあったルーチンに任せて庭を掃いていた。
うちの染井吉野は一体、あの身体の何処にこんな質量を隠し持っていたのだろう。
三日も放っておけば、境内に満遍なく薄紅の毛布がかかりそうだった。
訪れた連中の尻を叩いて宴会の後片付けをさせても、誰も、桜の花びらを片付けてはいかない。
綺麗に選り分けて自分達の出した芥を持ち帰っていった。
花びらを肥やしにする予定もなかったが、私もその片付け方を黙認する。
何故って、ねぇ?
庭に散った桜を片付ける所までが、きっと、花見だから。
そうして――他の花見妖怪共の足が遠のいた頃、それを狙っていたかのように、新顔が一人うちに寝泊りし始めた。
「帰って?」
「おじゃまいたしますわ」
そんな短いやりとりの後で、八雲紫は、神社唯一の布団をその先数日間占領した。
つまみ出してもつまみ出してもいつの間にか居間に入り込んでいて、つい間違って餌をやってしまった猫みたいにそこに座っているので、私はとうとう諦めた。
最初にちゃんと玄関から入ってきたのは、どうせそいつ式の嫌味なのだろう。
彼女が何を企んでいるのか判らないので、気持ちの良いものではない。
縁側に座ってじっとしているそいつの様子を、横目に観察しながら思う。
レミリアのように、退治されたことを根に持っているのではないことは判る。
花見の見頃は過ぎている。
これといって、好かれるような行いをした覚えはない。寧ろ叩き潰したり、叩き出そうとしたことしかない。
私を喰う、私を脅かすといった、妖怪にとって普遍的な理由以外に思い当たるふしがないのだが、寝込みを襲ってくるなどということもしない。
目的が判らなかった。
そこまで考え、馬鹿らしくなってやめた。
追い出せない以上、寝首をかかれたら、その時また返り討ちにする他にない……と諦めたのだ。
「聞かないのですね」
襲来してから四日目のお夕飯。
何も話題がないせいで、当たり前のようにだんまりな食卓で、彼女は冷めかかった鰤の煮付けをつつきながら切り出した。
「何を?」
初日は荒れたなと思い出していたので、私は上の空で返す。
何しろ紫は、家事がまるで出来なかった。お風呂を焚いては湯が熱いと言われ、食事を作る都度に論理的な批評を喰らい、そしてせっせと洗濯しているとそこにくしゃくしゃにしたレースいっぱいの汚れ物を放り込んで傷まないように洗えと指示してきたので、ついに怒り心頭となり十三枚対十三枚のスペルカードルールで決闘を申し込んだのだが、何処から運んできたのか彼女が高笑いしながら数え切れないほどの米俵を提供して来たので、私は振り上げた祓い棒の降ろす先を見失ってありがとうと呟かされた。
ちくしょうなどとは思わない。
そのお米はこの時期だというのに新米のような味がしたので、正直、顔がほころぶ程だった。
「私がここへ泊まっている理由ですよ? もちろん」
微笑んで彼女は言う。
どことなく不可解を覚えて、私は首を傾げる。
「それを訊いた方が良かったの?」
「もちろんだわ。それで、理由なんかないの、と回答してみたかったの」
「意味がわからん。しかも喋っちゃってるし……」
「形式美よ。何故、という問いに、そこに理由はない、と回答する。混沌としていて空疎でしょ? 簡素でいて真理でしょ?」
心なしか、薄い胸を仰け反らせて彼女は言う。
まともに取り合うのはやっぱやめよう、と私は思った。
酷く頭が回るようだが、瞬間にそれだけの語彙を並べられることが軽く異常だ。およそ口語ではない。
されるがままに巻き込まれたら、こっちまで妖怪にされてしまう。私はその場を冷たく黙殺した。
恬淡と夕餉は進む。
紫もそれ以上何も喋らず、私も積極的に沈黙を保とうとしていた。
少しの間、食器の音だけが続いていた。
そこで、しかし、冷奴のためのお醤油を取ろうとした時に、同じようにそれを取ろうとした彼女の手に触れそうになった。
紫は、こちらが驚くほど速く手を引っ込め、
「どうぞ?」
愛想良く微笑んで譲った。私はありがとうとさえ言わず、先に醤油差しを取り上げた。
その後に醤油を使いながら、彼女はぽつりと呟いた。
「赤ちゃん喰い」
「人食いはあんたでしょ」
反射的に言葉を返すと、紫はゆるくかぶりを振った。
「食事を、ひとつ品目ばかりに集中して食べることをそう言うのよ。
あなた、ごはんをみんな食べてからお味噌汁を食べ、それで今、初めておかずに手を伸ばしたでしょ?
満遍なく食べなさいって、小さい時お母さんに習わなかったのかしら」
「ひとつずつ食べることの、何処がいけないのよ?」
「見ている方がなんとなく気持ち悪い。本質的な一般論はそれだけ。
私は別に、どっちでもいいと思うのですけど」
頭を抱える。どっちでもいいと思うのなら、何故こんな小言を垂れるのだろう。
そう尋ねると、彼女はふくろうの様に無表情に首をかしげてこう答えた。
「だって私は、貴女のお母さまじゃないものね」
その時、彼女も手付かずの冷奴にお醤油を使ったのだと、食事を終えてから私は気づいた。
その日、就寝時。
「いつ帰るつもりなの?」
恒例となった台詞を吐いて、私は既に毛布に包まっている紫を踏んづけた。
「まだ帰りませんよ、う、って痛い。そんなにこのせんべいぶとんが恋しいの?」
「恋しいというか寒いから、今日からあんたが畳で寝ろ」
「嫌ですわ。おやすみなさい霊夢」
もぞもぞと潜りこんでいく。纏められてもいない金髪が枕に広がる。
軽く蹴ってやったが、既に反応が無かった。
私は、そろそろ彼女を本気でうざったく感じ始めていた。
眠りについた今ならば、布団ごと庭へ放り出してやっても良かったが、それでは布団が傷む。
一体こいつは普段、何処を住処にしているのだろう。
大結界の境に住んでいるというだけでは、ロケーションを想像出来ない。
妖怪は、人間よりも遥かに好き嫌いがはっきりしていてストレートで、しかも格好が判り易く奇抜だ。
そこから類推すると、私でなくても住処や習性の見当はつく。
動物的な特徴のある奴は自然の中に住むし、向日葵だの本だのガラクタだの、意図的に好きな物に囲まれて暮らそうとする奴も居る。
本人達に客観性が少なく、かつ判り易い、察し易い、ということが、そいつらの共通項なのだ。
けどこの妖怪は、見た目は人間と変わらないタイプ。
しかも、物であれ現象であれ、彼女が一体何を好んでいるのかが一目では判らない。態度にまるで表さない。
明快さとは縁遠い。
かといって普通の着物を着せても、きっと里の人間の中では浮いてしまうだろう。
こいつには居場所があるのか?
何処に居て自然であるのか?
一体、何を愛しているのか?
住処が判らないと感じたのは、そうした考えからの漠然とした連想だった。
他人から見える表面を煩雑に変形させて、実態を判りにくくしてしまっている。
これでは人間じゃないか。
こいつは妙だ、と思っていた。
が、
「へっくしゅ!」
そこで出たくしゃみのせいで、考えていたことはみんな吹き飛んだ。
出てもいないけれど、ちり紙を出してきて軽く鼻をかむ。
ここ数日は正味の話、きっちり障子を閉めて、折った座布団を枕にし、
身体に茣蓙(ござ)をかけて横になっている状況だった。朝方はまだ寒い。
この妖怪を怒る気力が失せているのは確かだが、しかし、風邪をひくのもごめんだった。
少しだけ逡巡したが、結果……不安で、気色悪かったが、別に相手も女の子だと言い聞かせ、今日は紫の入っている布団に共寝することにした。
蚊帳を降ろして明かりをみんな消した。
真っ暗になったので、障子を開けて月の光を採光した。
布団を開けようとすると、掴んで離さない。
苛つきながらその手を引っぺがし、相手の体を反対側へ押し遣りながら、全体の四割分くらいの掛け布団を被った。
「…………」
ああ、
暖かいのが気色悪い。
妖怪に触れている背中に、鳥肌が立っているのが判る。
うちの石鹸の香りの他に、やはり他人の香りが混じっている。
それらが嫌だと感じるのは、相手の身体が穢れているかどうかとか、外見の美醜だのっていう、単純な問題ではない。
妖怪はうちにたびたび来る。
だから、触れたりふざけたりしている内に、そうしたことにはもう慣れてしまっているのだ。
アリスやレミリアと一緒に布団に入ったとして、普通に眠れることだろう。多分。
だがこいつとでは、それが少し難しかった。
考えが読めないからか、能力が推し量れないからか――ともかく生理的に、受け付けない。
正直に言えば少し怖い。
人殺しの親友と一緒に布団へ入ったら、こんな感じではないだろうかとぼんやり思う。
昨日以前に、紫を自分の布団から追い出せなかったのにはそういう理由があった。
やはり出よう、茣蓙で眠ろう、と何度考えたか知れない。
しかし、布団なしで眠る寒さとそれを綱引きさせている内に、暖かさで瞼が重くなってきた。
実はこの妖怪は草鞋を温めておく猿だったのかなどと、眠りかけの頭で馬鹿なことを考えた。
それが機会だとばかりに意識的に目を閉じ、私は数日振りに、やっと布団で眠りにつくことが出来た。
◆
霊夢が寝息をたててから、数時間が経った。
何故かずっと身体の側面が涼しかったので、紫は目を覚まし、きちんと掛け布団を掛け直そうとした。
しかし引っ張っても、布団がついて来ない。
妙に感じて、ゆっくり反対側を振り向くと、目の前に誰かの後頭部があった。
やや湿った黒髪が、白い布に纏められているのが判る。
紫はそのままの姿勢で、目を見開いてその頭に焦点を合わせていた。
おかしい。
独りで寝ていた筈なのに。
そう、あまり覚醒していない脳で考える。
これでは駄目だと思い、意識的に神経を繋ぎ情報を整理してみると、そこは神社の中であることが判った。
そうだ、私は神社へ泊まりに来ているのだ。
では隣で寝ているのは霊夢か。
つまり隣で寝ているのは霊夢だ。
「――……」
全身が総毛だった。
電気ショックを加えられたように一度だけ蠕動(ぜんどう)した。
触れている。
相手の呼吸の為に、こちらが触れた部分が圧迫されるのが判る。
お互いに接地面から熱を奪い合って、絶えず同じ温度になろうとし続けているのが判る。
静かで周期の乱れない寝息が聞こえる。
彼女の香りがする。
離れなければ危険だ、と紫は思う。
しかし蜘蛛の巣にかかった蝶のように、足掻いてもそこから動けない。
普段、糸で巣を張るのは自分で、罠にかかって食べられてしまうのは他人の役目なのに、
何故今は立場が逆なのだろう。
相手の脚も牙も見えないというのに、全て線分で描かれた渦の中に呑み込まれていく錯覚をした。
短く速く、呼吸が乱れていた。
不安障害の患者めいた動悸がする。
身体で生成される熱は、発汗で空気に奪われていく量を上回っていそうだ。
紫の顔には、微笑みが張付いて離れなくなった。
背に手を触れて彼女の心音を確認することを、やめられなくなった。
まばたきを忘れ、ある一点に視点を集中して動かせなくなった。
細いうなじ。月の光に照らされて青白い。
実験は、失敗だ、と結論する。
いや、それも、早合点だろう。
何をもって成功か、失敗か、という所に、何か境界条件を設けた覚えはない。
ただ一週間神社に泊まって、そこに住んでいる少女に触れずに過ごすことが可能か、試してみただけ。
なら、どんな結果が待っていてもそれは成功なのだ。考察をして、結論づけて終り。
統計はとらない。一回きりだ。
一度だけで全てが判る。
まさか、向こうから近寄ってくるとは考えもしなかった。
心理的にこちらを避けたくなるように仕向けていたのに。
あわよくば風邪をひかせてみたかった。
人間の看病の方法を覚える作業も、彼女相手なら面白かったろうに。
疑問を抱いて思考は加速し、伴って頭脳にエネルギーを与える為に鼓動も加速する。
いや――それとも鼓動の速まりに連れて、思考が加速しているのだろうか?
面白い。興味深い。何故かしら?
霊夢に触れているこの状況下、卵が先か鶏が先かということは、紫にとって判らなくなっていた。
しかし、妖怪はそれでも生物だった。
死ぬまでに心臓が拍動する回数は決まっている。
鼓動が速まれば、その分だけ早く死が訪れる。
一度鼓動を刻む都度に、時間の流れを基準とした生命の長さが喪われていく。
他の誰と隣に居ても、紫にとってこれ以上の緊張はない。
なら、彼女の生命を一番たくさん捕食出来るのは、霊夢だった。
実感した時、恍惚感があった。
生き胆を無遠慮に齧られる錯覚。
初恋の相手に陵辱される幻覚。
どちらにも似ている。
時間が、いのちが、精神が食べられていく。
鋭く尖った知性が台無しにされて、何もかも役立たずになる。
相手がどんな顔をして、自分を食べているのかは判らない。
とっくの昔に、視神経は噛み千切られている。
そんなのは不公平だ、と紫は気づく。
私ばかりが奪われている。
私ばかりが与えられている。
それでは、寂しいものだ。
分界のないおなじもの同士が授受をやめてしまったら、
何もかもが片側に偏って気持ちの悪いことになってしまうから――
枕元の自分の帽子から、リボンをほどく。
無防備に眠り続ける霊夢を仰向けにし、その上に自分が覆いかぶさる。
手ぬぐいが外れて、彼女の黒髪がぱらりと枕の上に広がる。
そして慌てずにゆっくりと、紫は、霊夢の白い喉を赤いリボンで締め上げた。
「うっ……か……」
やがて強制的に覚醒させられた霊夢は、眠りかけの半眼のままえずいた。
紫は、緩慢に、少しずつ圧密する力を増すようにリボンを引き続ける。
鼓動の高鳴りで命を短くされるなら、
わたしはあなたの脳を少しころして、あたまをわるくしてあげる。
それならば平等で、
それならば安心だ。
どちらかに養分が偏ったりしない。
同時に等しく喰らいあってもいる。
目を覚ましている霊夢は、僅かな唾液と涙を流して懇願した。
「やめて、苦しい……」
瞬きを忘れた紫の瞳は、爬虫類のようだった。見開かれていて、潤いというものがない。
ただ表情は、捨てられた子犬と戯れる子供のように、無垢に愛らしく微笑んでいる。
「……死んじゃう……から、もうやめ……て……」
構わず、リボンは引かれていく。
とうとう霊夢は、意味のある言葉を口に出来なくなった。
開け放たれた障子の向こうでは、月光に照らされた桜の樹が、花びらを散らせながら二人を見守っている。
あの下に埋められるのかと、霊夢は静かに考えていた。
知性を奪われて死んでいくと、それに伴って心が穏やかになるのだろう。
いつもの自分からは考えられないほど、冷たく色々なことが理解出来た。
何も行動に起こさなくても、何もかもが判る。
リボンを解こうとするこの手もきっとポーズだった。
――もう終り。
――しかし、そこで、首の圧迫が停止した。
驚きはなかった。
酸素の受け入れと、その為の血液循環とが一挙に再開し、それどころではなかった。
横向きになって激しく咳き込む。
その時、霊夢は、頬に暖かいものを感じた。
ぱたり、ぱたり――と落ちてくる。
見上げると、自分に覆いかぶさったままの紫が、壊れた微笑みのまま涙を流していた。
嗚咽を漏らさない。涙以外が石になってしまったかのように、動かない。
何が悲しいのか――何が嬉しいのか。
何故、何故――何故なのだろう?
泣く理由はない筈なのに。
それは二人が、八雲紫に対して思ったこと。
霊夢は驚いて、自分の顔で水滴を受け止めながら紫の顔を見つめていたが、
そのすぐ後、意識の上に急浮上してきた怒りに任せて、彼女の細い身体を向こう側に突き飛ばした。
薄い寝巻き姿の紫は、背中からふすまにぶつかって受身も取らずに倒れた。
身体の強靭な彼女は、その程度のことで傷など負わない。
立ち上がる素振りを見せたが、しかし彼女は床に手をついたまま、それ以上動かなかった。
霊夢はくそ、と悪態をついた。涙と涎を拭きながら、酸欠でぐらぐらする身体を無理矢理立ち上げる。
何のつもりだ――等と問う流暢さも今はない。
「……表出なさい。やりたいんなら今、カタを付けてあげるわ」
本気で殺しにかかるなど、おかしいのは相手の方だ。
なら自分は、命乞いなんかせずとも良かったのに。
プライドとは違う。
急に節度を失ったかのように自分を殺しにかかった紫を、自分勝手過ぎると感じていた。
わきまえた奴だと、思いたかったのに。
だが彼女の憤りとは裏腹に、紫は止まっている。
構わずに霊夢は、隣の部屋から祓い棒とスペルカードを持って来たが、
紫は元の位置で動かないままだった。
「……立ちなさいよ」
言うが、彼女は、また声を上げずに畳へ涙を零している。
傾いた姿勢のまま。整った微笑みのまま。
壊れた人形のようだ。
「……何か言いなさいよ」
平手をくれてやろうかと思う。
だが、泣いている相手にそれは出来ない。
揺り起こして渇を入れようかと思う。
だが、怖くて近寄ることが出来ない。
どうしたらいいのか、全然判らない。
一歩後ずさる。
もう半歩下がる。
霊夢はそこで、踵を返して外へ走り出た。
手負いの動物のように、そこから逃げ出した。
そうすることしかできなかった。
問題をみんな投げ捨てたかった。
里へ下る獣道の途中で、なんなのよ――と呟いた。
◆
短い癖に支離滅裂として長い、霊夢の説明を聞き終えた私は、急いで淹れたお茶を一口啜って、訊いた。
「それでどうして、うちへ来るのよ」
「……なんとなく」
あの霊夢が俯いている。それを拝めただけでも収穫か、と私は思ったが、まだ面倒くささと綱引きしていた。
一時間くらい前だから、午前の二時頃か。
もちろん既に就寝していた私は、控えめなノックに気づいて、寝惚けまなこで戸口へ出てみると、そこに寝巻き姿の霊夢が居たのだった。
八雲紫というと、あの、一番最近神社で宴会をしたときに初めて顔を出していた妖怪だ。
霊夢は判っているのかいないのか知らないが、あれくらい力を隠し持っていそうな奴がうろうろしていることに、少なからず驚いた覚えがある。
貴女、どうやってあれを調伏したの――と訊こうして辞めた。困惑の材料を増やすだけだろう。
霊夢の口数は面白いほど少なかった。
相談するしない以前に、全く気持ちの整理がついていないのだろう。
「まぁ、泊まっていっていいわ。ただ、布団は貸すけど床で眠ってね」
「うん」
いつまで居るかは彼女の決めることだし、積極的に相談に乗る気は正直なかった。
そんな時間はない。
私はクロゼットから、来客用の布団を引っ張り出しながら訊いた。
「どこで寝る?」
「どこでもいいわ」
「じゃあ私の部屋にひいとくから来なさいね?」
「ありがと」
言いながら、ぼうっとしたままソファから動かない。
これは重症かもしれない、と思った。
枕元に人形を置いておいてあげようかと思ったが、あいつには嫌味に見えてしまうかもしれないと考えやめておいた。
汚れないようにマットの上に霊夢の布団を敷き終え、もう一度床に就く。
暫くして、霊夢が部屋に入ってきた。無言で、敷かれた布団に入っていく。
ややあって、彼女が言った。
「アリス、起きてる?」
「起きていないわ」
聞く気ないわよ、の言い換えだったが、霊夢は構わずに喋り続ける。
「……あいつなんで泣いたのかな」
黙殺したかった。これに答えたらどつぼにはまる。
仮に、巧く答えてあげられたとして、この先そういったことで頼られるとしたら、それが面倒だった。
「なんでだと思う?」
あああもう。
やめて欲しい。
「そんなの私に判るわけないわ。霊夢があの妖怪のことを判らないのと同じにね」
やめろって言うのに。
「…………」
ああ――でも、なんだろう。
霊夢困ってるんだな、と思ってしまった。
今更のように、単純に。
落ち込んでいる子に沈黙されると、なんだか困るのだ。
あとは、思った通りのどつぼだった。
「でも、そいつに何か大きな精神ダメージがいったのは、判ったでしょ?」
妖怪は、物理より心理の傷に弱い。
にしても、もう少しマシな語彙が浮かばないものかと自分が嫌になる。
理詰めで接すると、霊夢にはきっと判りづらいのに。
「……多分。けど、私は悪くないと……思う」
自信なさげな言に、向こうに見えもしないのに私は頷く。
「ええ、悪くないわ。いえ、正確には、誰が悪いのかなんて、この状況で判ったら変よ」
「そうかしら?」
「おかしいのよ」
霊夢は、そうなの、と呟いた。
「だから、はっきりと、判らないものは判らないって伝えなくてはいけないわ。
本当は逃げたらいけなかった。怖くても、我慢しなくちゃいけなかった」
「……うん」
「でもまだ大丈夫よ、きっと。
年寄りは、年寄りで、若い子にすね続けてみせるのは、やっぱりいけないことと判っているわ」
「……うん」
「判らないって、言っていいのよ。
ただそれを前面に押し出すと、相手にみんな責任を擦り付ける態度になってしまうから、
加減が、ほんとに難しいのだけどね」
「……うん」
「……。さっきからうんしか言ってないけど。眠い?」
当たり前のことしか言えていない気がしたから、ついそう訊いてしまった。
霊夢は、聞いてるわと、しっかり返してきた。
ならば、他人に言われれば、また気分も変わってくれるだろうと、信じる他になかった。
「相手が怪我したなと思ったら、助けたいと思うのって普通のことでしょ?
わざと看過することの方が、何かおかしいでしょう?」
「うん」
「魂についた傷もそれと同じよ。ただ大怪我なのか、小さい傷なのか、わかりにくいというだけ。
手に負えないことはあるかもしれないけど、応急処置はしてあげられるかもしれない。
早めに怪我人を自分から切り離すメリットは、本当は無いに等しいのよ。
だからまずは、傷見せてって、迂遠に見えるとこから始めるしかないの」
「……そういうもんかしら?」
「そういうものよ」
当たり前でしょ、と怒りたくなったが黙っていた。
少なくともこの分野に関して認識が深いのは、単に、私がその方面を研究しているからに過ぎない。
なまじ……それでも鋭いが、今まで全て勘と運で事件を終息させて来たような子だ。
もしかすると、今回ぶつかった壁はシリアスで、大きかったんだろう。
私は可能な限り配慮して、優しく窘める。
「ともかく、判っているだろうけど、時間を空けるのはあまり良くないわ。
やっぱりあんた、きついかもしれないけど、明日帰ってあげなさいね」
「うん……わかったわ。そうする」
おやすみなさい霊夢、と挨拶し、その後すぐに私は眠りに就くことが出来た。
ありがとうアリス、という小さい声は幻聴だろう。
八雲紫は、霊夢を殺すつもりなんて最初からないのだ。
妖怪は、本当は、人間の首なんて一瞬で潰せる力を持っている。
霊夢は本当にいっぱいいっぱいだったのだろう。
その事実に気づいていないようだったが、私はわざとそれを指摘しなかった。
夢は見なかった。
◆
翌朝。といっても帰り道に時間をかけたので、お昼ごろ。
「ごめんなさい」
神社の玄関を開けると、そこに紫が待っていて、私が戸を開けるなり三つ指突いて謝ってきた。
どうしよう――と一瞬視線を泳がせたが、情けないので辞めた。
「どっちが悪いのか判る前に謝るの、やめましょ? それに私はもう怒ってない」
しゃがんで、そう言いかけてみる。
言いたいことを言う前に謝って解決するのは、何か我慢じみて嫌だと思った。
紫は二秒くらい固まっていたが、
「……そう。そうよね」
そう言って立ち上がった。
居間に戻る途中の廊下で、私は訊いた。
「……痛かった?」
「いいえ。なんにも、霊夢は、痛いことなんかしていないわ」
「そう」
台所の暖簾をくぐる。ともかくお茶を淹れよう。
湯を火にかけて居間に戻り、紫の向かい側に座る。
「だんだん葉っぱになっていくわね」
頬杖をついて、開け放たれた障子の向こうの桜の樹を眺めながら私は言う。
日和ったんじゃない。ただ目について、何処となく寂しいなと思ったから言っただけだ。
紫はそれに答えず、ただ例の何を考えているか判りづらい微笑みを浮かべている。
やがて、気軽そうに私に訊いた。
「本音の一部を言ってもいいかしら?」
一部かよ、と思ったが黙っている。
「好きにしたらいいわ。私は聞くだけ。気に留めるかもしれないし、留めないかもしれない」
「霊夢があんまり、暖かかったから」
なによそれは、と思ったが黙っている。
「なら今度あんたと寝ることになったら、低体温にしておかなくちゃね」
「そうね。私も間違いを起こしたくないので、そうして欲しいですわ」
ならば、私にも悪い所があったのだ。
痛いことはしなかったが、暖かいのがいけなかったのだ。
ややあって私は呟いた。ごめんね、と。
紫は笑って首を振った。
それから、苦しい思いをさせてごめんねと、もうしないわと、彼女は普通の謝り方をした。
許して欲しいとは、決して言わなかった。
台所で、薬缶が甲高い音をたて始めた。
とっくに彼女のことは許していたが、この夜のことを、忘れることはないだろうとぼんやりと考える。
あいつの涙を見たのは、後にも先にもこれっきりで。
散る桜の花びらめいて零れたそれは、魂に付いた傷のように、ずっと疼くに違いないと想った。
もうちょっとボリュームあって、少しだけでもまだ続けばさらによかったのに
なんというか、不思議な文章でした。最初のうちは読みにくさを感じましたが。
ですわ口調だったり、言っていることが意味不明でとことん胡散臭かったり、妖々夢の初対面時の紫様は
確かにこうでした。
紫の思考が、人間臭いような、人間離れしているような。
個人的には最近読んだ紫のSSの中では一番妖怪らしい紫で、一番心臓に来ました。特に理解のしにくさが。
本当に読めて良かったです。
>ふくろうの様に無表情に首をかしげてこう答えた
この表現が心に刺さりました。
>ふつうのゆかれい
いや、あまり普通ではないと思いますが…失礼ですが冗談、ですか?
アリスの気遣いも暖かいですね。
すげえいい。ぐっときました。
……よくわかんねえな(褒め言葉
とっさにこんな感想しか浮かばなかった俺はいい加減駄目人間だと思う。
ゆかれいむ本当によかったです。
ぐいぐい惹きこまれた。
自分の想像する紫像、アリス像に極めて近く楽しめました。
次回作も期待しています。
霊夢より背の低い紫が思い浮かんだ