日差しが強く、蝉の鳴き声がいつもよりも小さめな夏の日、どこに行くのでもなく日傘をさして紫が散歩していた。
ゆるゆると吹く風は暑さを運んで、陽光を遮っていても暑さが和らぐことはない。
そんな中、紫は汗一つ流さず涼しげな表情で歩いている。そのくせ「暑いわね」などと本心から言っているのかわからない心情を漏らす。
紫がそろそろ帰ろうかしらと考えていたとき、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
その声に惹かれるものがあった紫は、声のする方向へと歩いていく。
「……捨てるのならせめて里に近いところに捨てればいいのに。
妖怪の餌にでもなれって思っていたのかしら?」
紫の視線の先に赤ん坊はいる。地蔵がある小さなお堂の中で、ここにいると生きていると精一杯泣いている。
生後一年も経っていないのではと思える大きさだ。
近づいて赤ん坊を抱き上げる。抱いたままその場を去る。
妖怪の餌か衰弱死したかもしれない赤ん坊は妖怪八雲紫に拾われた。
誰もいなくなったその場で蝉たちが騒ぎ出した。まるで赤ん坊が拾われるまで遠慮していたかのように。
「ただいま」
「おかえりなさいませ紫様」
主が帰って来たことを察した藍が玄関で紫を出迎える。
笑みを浮かべていた顔は、紫の腕の中の赤ん坊を見て歪められた。
嫌なものを見たという表情ではない。悲しみに耐えた笑みだ。
「その子が次の博麗の巫女ですか?」
疑問符がついているが確信を持って聞かれた問いだ。
「そうよ」
そしてその問いを認める。
紫が赤ん坊を拾ったのは同情したからではない。
博麗の巫女たる素質を赤ん坊に見出したからだった。赤ん坊になにも感じなければ、里近くにでも移動させたか、そのまま見捨てていただろう。
「名前はれいでいいわね」
名を得て赤ん坊は幻想郷にその存在を確固たるものにした。
藍はその名を聞いてさらになにかが刺激された表情になる。
「押入れに入れてある必要なものを出しておいて」
「わかりました」
藍の変化に気付いているだろう紫はそれに触れることなく用事をいいつける。
赤ん坊に必要なものを出す藍を見て、橙も藍と同じ表情となった。
れいの世話は主に紫がする。
藍と橙はできるだけれいに近寄らないようにしている。
れいを嫌っているわけではないだろう。紫に頼まれれば、紫の用事が終るまで世話するのだから。
れいと接点を減らし仲良くなることを避けているように見える。
だがいつまでもそのままではいられなかった。紫は冬眠をする。その間、紫はれいの世話をできない。当然役割は藍と橙に回ってくる。
そうなればもう情をもたずにはいられない。日々健やかに成長していく姿を見て喜びを見出し、体調を崩せば心配して看病し、自分たちの手に負えなければ医者へと連れて行き、危ないことをすれば叱る。笑った、泣いた、立った、歩いたとれいのすることに、三人は様々な反応を見せる。
れいが来て三年もすれば、最初の隔意などどこへいったのかという態度でれいに接する。れいもそんな三人に懐いていく。
三人にたくさんの愛情を注がれた赤ん坊は家族以外には懐かない、お茶が好きで、勘の鋭く、運のいい、活動的な女の子へと成長していった。
「それっ」
「あはははっれい、そっちにいったよ」
「えいっ」
庭に楽しそうな笑い声が響く。
藍と橙と五歳くらいに成長したれいが、紙風船を使い楽しそうに遊んでいる。
ぽーんぽーんといったりきたりする紙風船を追い、れいの視線は上下左右と忙しい。そんなれいを見て藍と橙は笑いながら紙風船を受けやすいところへと投げてやる。
紫は縁側に座りその様子を微笑ましそうに見ていた。
少し疲れた様子のれいを見て藍と橙は休憩することにした。そのとき紫がれいを呼ぶ。
「れい、こっちにいらっしゃい」
ぽんぽんと隣を叩いて、そこに座るように示す。
れいはそこに座り、紫を見上げる。
「明日から修行を始めます」
紫は微笑をひっこめて真剣な表情でれいの目を見て言う。
れいはよくわかっていないのかきょとんとしている。
「らんおねえちゃん、しゅぎょうってなに?」
「……ん? ああ、修行か。修行というのは習い覚え練習し技術を身につけることだ」
幼いれいにはわからないが、藍と橙は作った笑顔でいる。
「どうしてそれをするのおかあさん?」
「前から言ってたでしょ? れいは博麗の巫女になるって。そのために必要なことなのよ」
「わたしがそれをしないとだめなの?」
「そうねぇ、れいが巫女にならないと幻想郷に住んでる人たちが困ることになるわね」
「おかあさんとおねえちゃんたちもこまる?」
「ええ」
「する! しゅぎょうする!」
縁側から降りて紫の真正面に立ったれいはそう宣言する。
その表情は真剣で、いい加減な気持ちで言ったのではないとわかる。
「優しい子ね、れいは」
「おかあさんたちだいすきだもん!」
家族以外はどうでもいいという宣言にほかならないのだが、この場にそれを気にするものはいない。
藍と橙はそれを気にする余裕も無い。
次の日から修行は始まった。
厳しい修行となったが、れいがやめると言い出すことはなかった。
家族のためという想いもあるが、上手くいくと三人から褒めてもらえた。これが嬉しくもっと褒めてもらいたくて頑張るという繰り返し。
努力のかいがあってれいはどんどん実力をつけていった。元々の才能もあったのだろう、紫の見立てでは歴代の巫女の中で一番の実力をもつという確信に近い予想があった。その予想は外れていなかった。
そしてれいが14歳になり、博麗の巫女に受け継がれてきた霊夢という名を襲名する。14歳という若さで巫女となったのはれいだけだ。これはれいの実力の高さを示している。
そして三人とれいの別れも示していた。
「おかあさん、藍お姉ちゃん、橙お姉ちゃんおやすみなさい」
巫女となる最終課題をクリアして疲れ果てたれいは三人よりも早くに寝た。
れいのいない居間では三人がおせじにも明るいとはいえない雰囲気でいた。
「紫様、もう一日だけ待ってください」
藍が紫に土下座している。隣には橙もいて、同じように土下座していた。
「記憶をいじるなら疲れ果てた今日がいいのだけど。れいの実力も上がって普段の状態だといじっている最中に怪しまれるのよ」
「それでもあの子が巫女となったことを祝ってあげたいのです」
「紫様、私からもお願いします。れいに祝ってあげるって約束したんです。
約束も守ってあげられずに、このままお別れは嫌です!」
「………………わかったわ。こんなに早く「霊夢」となるなんて予想してなかったしね。
いままでの子はもう二三年かかったというのに。
でも明日だけよ」
「「はい」」
次の日、朝から紫と藍は祝いの宴の準備に忙しかった。橙はれいを連れ出していた。
れいのいない間に準備をすませ驚かそうという魂胆だ。
れいの好物を中心にご馳走が作られていく。
紫はいつもどおりだが、藍は美味しいものを食べてもらおうと真剣すぎるというくらい集中して料理を作り上げていく。
家族だけの宴は盛り上がった。祝い事をしんみりとした雰囲気でやってはいけないと盛り上げたのだ、藍と橙が。
祝ってくれる家族に、れいも嬉しそうに宴を楽しんでいた。
初めて飲むお酒も美味しく感じられ、足元がおぼつかないほどに酔ってしまう。
「れい、眠そうね」
「まあだだぁいじょーぶぅ」
「とてもそうは見えないわよ。もう寝なさい。部屋まで連れて行ってあげる」
「だぁっこぉ?」
「ええ、久しぶりにね」
「えへへぇ」
酔いのせいで顔の赤いれいを、紫はひょいっと抱き上げる。
「らんおねえちゃん~ちぇんおねえちゃん~おやぁすみぃ」
二人はやや伏目がちにこくこくと頷きを返す。
そんな二人を酔いのせいで怪しむことができず、れいは紫に抱かれて部屋を出て行った。
二人だけが残った居間では、声無き泣き声がしていた。
「重くなったわね」
「おおきくなったもん~」
「そうね、人間の成長は早いわ」
そっと布団にれいを横たえる。
その横に座り、さらさらとした黒髪をゆっくりと撫でていく。
そして記憶の境目をいじって妖怪と一緒に暮らしていたという記憶を変えていく。
博麗の巫女は中立の立場だ。妖怪にも人間にも肩入れしない存在。その役割に妖怪と暮らしたという思い出は邪魔になる。そう判断した紫はいままで育てた博麗の巫女たちと同じように記憶を変える。それは育てた巫女たちの記憶から、八雲家での思い出を消すということ。
寂しげな表情で紫はれいの髪を撫で続ける。
「十四年間楽しかったわよ」
妖怪から見て十四年という年数は長いとはいえない。ましてや長く生きてきた紫から見れば、あっという間に過ぎていったようなものだろう。
けれどもゼロではない。たしかに共に過ごしたという記憶はある。いろいろな記憶が。
だから紫の瞳から一筋流れた涙はきっと幻ではない。
「んう~おかあさん~、らんおねえちゃん~、ちぇんおねえちゃん~だいすきぃ」
撫でられながら嬉しげにれいは呟いた。寝言なのだろう。
しかし別れをれいなりに察して、どうしても伝えたかった想いなのかもしれない。
どちらかはわからない。確実に言えることは、それを聞いた三人の心に届いたということ。
記憶を変えられ霊夢は博麗神社で一人で暮らすようになる。
八雲家のことは覚えていないし、人に育てられたと思っている。
熱心にしていた修行はしていない。むしろ嫌うようになった。努力しても認めてもらえる人たちがいないという記憶にない記憶に影響をうけたせいなのかもしれない。
八雲一家は霊夢に接触していない。
時は過ぎて、春雪異変と永夜異変の間のとある日。
霊夢は春雪異変で知り合った八雲一家に会うため、マヨヒガに来ていた。
「今日はなんのようだ?
まだ傷は癒えていないから弾幕ごっこの相手をしろというのは無理だぞ」
「用っていう用はないのよ。ただ暇だったからなんとなく足がこっちにむいただけ。
上がっていい?」
「ああ」
許可をもらって家に上がる。初めてくる場所を珍しそうにあちこちと見ている様子に、藍は心にちくりとした痛みを覚えた。
別れた巫女と出会うのはこれが初めてではない。幻想郷という閉鎖された場所にいるのだ、偶然出会うことは何度もあった。その巫女たちが八雲のことを少しでも思い出すことはまったくなかったが。
急に訪れて邪険にされなかったことが縁となり、霊夢は暇なときマヨヒガへとちょくちょく訪れるようになった。
新たな関係を築き、それなりな仲となっていく。
八雲一家はそれに少しだけ寂しさを感じながらも、元気な元家族の訪れを楽しみにしていた。
霊夢が拾われた日と同じように暑い夏の日。
縁側に座り、よく冷えたスイカを四人でしゃくしゃくと食べている。パラリと塩がふられ甘味の増したスイカを美味しそうに霊夢と橙が食べる。その様子を懐かしげに紫と藍が見ている。
食べることに夢中になっている霊夢の口元に、スイカの汁が垂れていることに気づいた藍がハンカチを取り出す。
「ほら、口元に垂れているぞ」
そう言って汁を拭う。食べることをやめてされるがままの霊夢。
藍が橙の口元も拭っている様子を見て、霊夢がぽつりと言う。
「藍ってお姉さんみたい」
それに動揺しつつもなんとか隠すことに成功した藍。
程度の差はあれ動揺したのは紫と橙も同じだ。
「おかしなことを言うな?
だいたいこの場合、お母さんみたいというのが普通ではないか?」
「そうかもしれないけど。
でもお姉さんみたいって思ったのよ」
自分でも不思議なのか首を傾げている。
「ねねっ私は?」
橙が不安と期待と興奮が混ざったものを精一杯抑えて、わざと軽い調子で聞く。もしかしたら再び霊夢の口から姉と呼ばれた自分の名が聞けるかも、そんな想いがあった。
「橙? んー……見た目だと妹だって言ってもいいのに、なんでかお姉さんって感じがする。
どうしてだろ?」
嬉しげな様子の橙を霊夢は不思議そうに見ている。
世の中に完全なものは少ない。人の口に戸は立てられないように、大丈夫と思ってもいつかは漏れ出すものもある。時間が経てば朽ちるものもある。
れいの家族への想いの強さ、力の強さ、八雲一家の気付かぬうちに霊夢に出していた親しみ、それらがあわさったものがゆっくりと時間をかけて、紫の記憶操作を突破できなくとも、滲み出したがゆえの言葉だ。
藍は思い知った。
自分たちのことは忘れても、巫女として存在し生きているのは自分たちの家族だと思うことで、これ以上傷つかぬように自分を偽っていたことに。
元気だからいいじゃないかと思い込むことで、巫女のうちにある忘れられた家族から目を逸らしていたことを。
「(この子は私たちのことをわずかながらも覚えてくれたじゃないか。もしかすると今までの巫女たちも必死に思い出そうとしてくれていたかもしれない。
それなのに私は忘れられて寂しいからと、巫女たちに会いにいくようなこともなく、会っても初めて会ったかのように振舞った。
大馬鹿者だ私は)
……すまない」
すでに死んでしまった家族への謝罪は蝉の鳴き声に消えて、誰かの耳に届くことはなかった。
いつのまにか藍のそばに立って霊夢と橙にばれないよう、そっと頭を撫でた紫にだけは聞こえていたのかもしれない。
激励と叱咤と同意が少しだけ込められた淡い笑みで紫は藍を見ている。その様子から藍は、紫も過去に今の自分と同じ想いをしたのかもとなんとなく思う。だから紫は巫女たちに会いに行くのかとも思う。
八雲一家と霊夢が家族ではない家族。家族に近いなにかとして付き合いだすまであともう少し。
ゆるゆると吹く風は暑さを運んで、陽光を遮っていても暑さが和らぐことはない。
そんな中、紫は汗一つ流さず涼しげな表情で歩いている。そのくせ「暑いわね」などと本心から言っているのかわからない心情を漏らす。
紫がそろそろ帰ろうかしらと考えていたとき、どこからか赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。
その声に惹かれるものがあった紫は、声のする方向へと歩いていく。
「……捨てるのならせめて里に近いところに捨てればいいのに。
妖怪の餌にでもなれって思っていたのかしら?」
紫の視線の先に赤ん坊はいる。地蔵がある小さなお堂の中で、ここにいると生きていると精一杯泣いている。
生後一年も経っていないのではと思える大きさだ。
近づいて赤ん坊を抱き上げる。抱いたままその場を去る。
妖怪の餌か衰弱死したかもしれない赤ん坊は妖怪八雲紫に拾われた。
誰もいなくなったその場で蝉たちが騒ぎ出した。まるで赤ん坊が拾われるまで遠慮していたかのように。
「ただいま」
「おかえりなさいませ紫様」
主が帰って来たことを察した藍が玄関で紫を出迎える。
笑みを浮かべていた顔は、紫の腕の中の赤ん坊を見て歪められた。
嫌なものを見たという表情ではない。悲しみに耐えた笑みだ。
「その子が次の博麗の巫女ですか?」
疑問符がついているが確信を持って聞かれた問いだ。
「そうよ」
そしてその問いを認める。
紫が赤ん坊を拾ったのは同情したからではない。
博麗の巫女たる素質を赤ん坊に見出したからだった。赤ん坊になにも感じなければ、里近くにでも移動させたか、そのまま見捨てていただろう。
「名前はれいでいいわね」
名を得て赤ん坊は幻想郷にその存在を確固たるものにした。
藍はその名を聞いてさらになにかが刺激された表情になる。
「押入れに入れてある必要なものを出しておいて」
「わかりました」
藍の変化に気付いているだろう紫はそれに触れることなく用事をいいつける。
赤ん坊に必要なものを出す藍を見て、橙も藍と同じ表情となった。
れいの世話は主に紫がする。
藍と橙はできるだけれいに近寄らないようにしている。
れいを嫌っているわけではないだろう。紫に頼まれれば、紫の用事が終るまで世話するのだから。
れいと接点を減らし仲良くなることを避けているように見える。
だがいつまでもそのままではいられなかった。紫は冬眠をする。その間、紫はれいの世話をできない。当然役割は藍と橙に回ってくる。
そうなればもう情をもたずにはいられない。日々健やかに成長していく姿を見て喜びを見出し、体調を崩せば心配して看病し、自分たちの手に負えなければ医者へと連れて行き、危ないことをすれば叱る。笑った、泣いた、立った、歩いたとれいのすることに、三人は様々な反応を見せる。
れいが来て三年もすれば、最初の隔意などどこへいったのかという態度でれいに接する。れいもそんな三人に懐いていく。
三人にたくさんの愛情を注がれた赤ん坊は家族以外には懐かない、お茶が好きで、勘の鋭く、運のいい、活動的な女の子へと成長していった。
「それっ」
「あはははっれい、そっちにいったよ」
「えいっ」
庭に楽しそうな笑い声が響く。
藍と橙と五歳くらいに成長したれいが、紙風船を使い楽しそうに遊んでいる。
ぽーんぽーんといったりきたりする紙風船を追い、れいの視線は上下左右と忙しい。そんなれいを見て藍と橙は笑いながら紙風船を受けやすいところへと投げてやる。
紫は縁側に座りその様子を微笑ましそうに見ていた。
少し疲れた様子のれいを見て藍と橙は休憩することにした。そのとき紫がれいを呼ぶ。
「れい、こっちにいらっしゃい」
ぽんぽんと隣を叩いて、そこに座るように示す。
れいはそこに座り、紫を見上げる。
「明日から修行を始めます」
紫は微笑をひっこめて真剣な表情でれいの目を見て言う。
れいはよくわかっていないのかきょとんとしている。
「らんおねえちゃん、しゅぎょうってなに?」
「……ん? ああ、修行か。修行というのは習い覚え練習し技術を身につけることだ」
幼いれいにはわからないが、藍と橙は作った笑顔でいる。
「どうしてそれをするのおかあさん?」
「前から言ってたでしょ? れいは博麗の巫女になるって。そのために必要なことなのよ」
「わたしがそれをしないとだめなの?」
「そうねぇ、れいが巫女にならないと幻想郷に住んでる人たちが困ることになるわね」
「おかあさんとおねえちゃんたちもこまる?」
「ええ」
「する! しゅぎょうする!」
縁側から降りて紫の真正面に立ったれいはそう宣言する。
その表情は真剣で、いい加減な気持ちで言ったのではないとわかる。
「優しい子ね、れいは」
「おかあさんたちだいすきだもん!」
家族以外はどうでもいいという宣言にほかならないのだが、この場にそれを気にするものはいない。
藍と橙はそれを気にする余裕も無い。
次の日から修行は始まった。
厳しい修行となったが、れいがやめると言い出すことはなかった。
家族のためという想いもあるが、上手くいくと三人から褒めてもらえた。これが嬉しくもっと褒めてもらいたくて頑張るという繰り返し。
努力のかいがあってれいはどんどん実力をつけていった。元々の才能もあったのだろう、紫の見立てでは歴代の巫女の中で一番の実力をもつという確信に近い予想があった。その予想は外れていなかった。
そしてれいが14歳になり、博麗の巫女に受け継がれてきた霊夢という名を襲名する。14歳という若さで巫女となったのはれいだけだ。これはれいの実力の高さを示している。
そして三人とれいの別れも示していた。
「おかあさん、藍お姉ちゃん、橙お姉ちゃんおやすみなさい」
巫女となる最終課題をクリアして疲れ果てたれいは三人よりも早くに寝た。
れいのいない居間では三人がおせじにも明るいとはいえない雰囲気でいた。
「紫様、もう一日だけ待ってください」
藍が紫に土下座している。隣には橙もいて、同じように土下座していた。
「記憶をいじるなら疲れ果てた今日がいいのだけど。れいの実力も上がって普段の状態だといじっている最中に怪しまれるのよ」
「それでもあの子が巫女となったことを祝ってあげたいのです」
「紫様、私からもお願いします。れいに祝ってあげるって約束したんです。
約束も守ってあげられずに、このままお別れは嫌です!」
「………………わかったわ。こんなに早く「霊夢」となるなんて予想してなかったしね。
いままでの子はもう二三年かかったというのに。
でも明日だけよ」
「「はい」」
次の日、朝から紫と藍は祝いの宴の準備に忙しかった。橙はれいを連れ出していた。
れいのいない間に準備をすませ驚かそうという魂胆だ。
れいの好物を中心にご馳走が作られていく。
紫はいつもどおりだが、藍は美味しいものを食べてもらおうと真剣すぎるというくらい集中して料理を作り上げていく。
家族だけの宴は盛り上がった。祝い事をしんみりとした雰囲気でやってはいけないと盛り上げたのだ、藍と橙が。
祝ってくれる家族に、れいも嬉しそうに宴を楽しんでいた。
初めて飲むお酒も美味しく感じられ、足元がおぼつかないほどに酔ってしまう。
「れい、眠そうね」
「まあだだぁいじょーぶぅ」
「とてもそうは見えないわよ。もう寝なさい。部屋まで連れて行ってあげる」
「だぁっこぉ?」
「ええ、久しぶりにね」
「えへへぇ」
酔いのせいで顔の赤いれいを、紫はひょいっと抱き上げる。
「らんおねえちゃん~ちぇんおねえちゃん~おやぁすみぃ」
二人はやや伏目がちにこくこくと頷きを返す。
そんな二人を酔いのせいで怪しむことができず、れいは紫に抱かれて部屋を出て行った。
二人だけが残った居間では、声無き泣き声がしていた。
「重くなったわね」
「おおきくなったもん~」
「そうね、人間の成長は早いわ」
そっと布団にれいを横たえる。
その横に座り、さらさらとした黒髪をゆっくりと撫でていく。
そして記憶の境目をいじって妖怪と一緒に暮らしていたという記憶を変えていく。
博麗の巫女は中立の立場だ。妖怪にも人間にも肩入れしない存在。その役割に妖怪と暮らしたという思い出は邪魔になる。そう判断した紫はいままで育てた博麗の巫女たちと同じように記憶を変える。それは育てた巫女たちの記憶から、八雲家での思い出を消すということ。
寂しげな表情で紫はれいの髪を撫で続ける。
「十四年間楽しかったわよ」
妖怪から見て十四年という年数は長いとはいえない。ましてや長く生きてきた紫から見れば、あっという間に過ぎていったようなものだろう。
けれどもゼロではない。たしかに共に過ごしたという記憶はある。いろいろな記憶が。
だから紫の瞳から一筋流れた涙はきっと幻ではない。
「んう~おかあさん~、らんおねえちゃん~、ちぇんおねえちゃん~だいすきぃ」
撫でられながら嬉しげにれいは呟いた。寝言なのだろう。
しかし別れをれいなりに察して、どうしても伝えたかった想いなのかもしれない。
どちらかはわからない。確実に言えることは、それを聞いた三人の心に届いたということ。
記憶を変えられ霊夢は博麗神社で一人で暮らすようになる。
八雲家のことは覚えていないし、人に育てられたと思っている。
熱心にしていた修行はしていない。むしろ嫌うようになった。努力しても認めてもらえる人たちがいないという記憶にない記憶に影響をうけたせいなのかもしれない。
八雲一家は霊夢に接触していない。
時は過ぎて、春雪異変と永夜異変の間のとある日。
霊夢は春雪異変で知り合った八雲一家に会うため、マヨヒガに来ていた。
「今日はなんのようだ?
まだ傷は癒えていないから弾幕ごっこの相手をしろというのは無理だぞ」
「用っていう用はないのよ。ただ暇だったからなんとなく足がこっちにむいただけ。
上がっていい?」
「ああ」
許可をもらって家に上がる。初めてくる場所を珍しそうにあちこちと見ている様子に、藍は心にちくりとした痛みを覚えた。
別れた巫女と出会うのはこれが初めてではない。幻想郷という閉鎖された場所にいるのだ、偶然出会うことは何度もあった。その巫女たちが八雲のことを少しでも思い出すことはまったくなかったが。
急に訪れて邪険にされなかったことが縁となり、霊夢は暇なときマヨヒガへとちょくちょく訪れるようになった。
新たな関係を築き、それなりな仲となっていく。
八雲一家はそれに少しだけ寂しさを感じながらも、元気な元家族の訪れを楽しみにしていた。
霊夢が拾われた日と同じように暑い夏の日。
縁側に座り、よく冷えたスイカを四人でしゃくしゃくと食べている。パラリと塩がふられ甘味の増したスイカを美味しそうに霊夢と橙が食べる。その様子を懐かしげに紫と藍が見ている。
食べることに夢中になっている霊夢の口元に、スイカの汁が垂れていることに気づいた藍がハンカチを取り出す。
「ほら、口元に垂れているぞ」
そう言って汁を拭う。食べることをやめてされるがままの霊夢。
藍が橙の口元も拭っている様子を見て、霊夢がぽつりと言う。
「藍ってお姉さんみたい」
それに動揺しつつもなんとか隠すことに成功した藍。
程度の差はあれ動揺したのは紫と橙も同じだ。
「おかしなことを言うな?
だいたいこの場合、お母さんみたいというのが普通ではないか?」
「そうかもしれないけど。
でもお姉さんみたいって思ったのよ」
自分でも不思議なのか首を傾げている。
「ねねっ私は?」
橙が不安と期待と興奮が混ざったものを精一杯抑えて、わざと軽い調子で聞く。もしかしたら再び霊夢の口から姉と呼ばれた自分の名が聞けるかも、そんな想いがあった。
「橙? んー……見た目だと妹だって言ってもいいのに、なんでかお姉さんって感じがする。
どうしてだろ?」
嬉しげな様子の橙を霊夢は不思議そうに見ている。
世の中に完全なものは少ない。人の口に戸は立てられないように、大丈夫と思ってもいつかは漏れ出すものもある。時間が経てば朽ちるものもある。
れいの家族への想いの強さ、力の強さ、八雲一家の気付かぬうちに霊夢に出していた親しみ、それらがあわさったものがゆっくりと時間をかけて、紫の記憶操作を突破できなくとも、滲み出したがゆえの言葉だ。
藍は思い知った。
自分たちのことは忘れても、巫女として存在し生きているのは自分たちの家族だと思うことで、これ以上傷つかぬように自分を偽っていたことに。
元気だからいいじゃないかと思い込むことで、巫女のうちにある忘れられた家族から目を逸らしていたことを。
「(この子は私たちのことをわずかながらも覚えてくれたじゃないか。もしかすると今までの巫女たちも必死に思い出そうとしてくれていたかもしれない。
それなのに私は忘れられて寂しいからと、巫女たちに会いにいくようなこともなく、会っても初めて会ったかのように振舞った。
大馬鹿者だ私は)
……すまない」
すでに死んでしまった家族への謝罪は蝉の鳴き声に消えて、誰かの耳に届くことはなかった。
いつのまにか藍のそばに立って霊夢と橙にばれないよう、そっと頭を撫でた紫にだけは聞こえていたのかもしれない。
激励と叱咤と同意が少しだけ込められた淡い笑みで紫は藍を見ている。その様子から藍は、紫も過去に今の自分と同じ想いをしたのかもとなんとなく思う。だから紫は巫女たちに会いに行くのかとも思う。
八雲一家と霊夢が家族ではない家族。家族に近いなにかとして付き合いだすまであともう少し。
人妖に中立でなくてはならない霊夢ですが、八雲さん一家とのお付き合いならあっていいですよ!
いい家族でした。
八雲家→霊夢ですねぇ。
私も八雲家と霊夢のSSを書こうかな・・・・・霊夢が八雲家の住人だったりとか?
ネタが被りますが(苦笑