妹紅は、鏡の前で身だしなみを整えていた。
櫛を手に取り、髪をとく。
少々乱れていた髪が、段々と綺麗にまとまっていく。
いつぞやに、誰かから貰った口紅に手を伸ばし、蓋を空けて中身をしげしげと眺める。
貰ってから一度も使ってないそれを今更使うのは躊躇われたのか、蓋を閉めて同じところに戻した。
妹紅の身を包むのはいつもの衣装。
しかし、彼女の銀色の髪にはまだリボンは結ばれていない。
傍に置いていた布に目線を移すと、少しだけ間をおいて手を伸ばす。
それは妹紅の銀髪とは対照的なほどに、鮮やかな紅色のリボンであった。
そのリボンを、自分の髪にしっかりと結んでいく。
いつものリボンと同じ場所に、ひとつひとつ。
「……よし!」
鏡に映る自分を見て、思わず頬が緩む。
そこにいたのは、いつものリボンがただ赤くなっただけの妹紅。
その変化は、そう劇的なものではない。
しかし、そのわずかな変化こそが重要な意味を持っている。
そこに現れるのは、小さな乙女心。
想いを伝えたくない心と、伝えたい心の葛藤。
それにより生まれた変化であった。
身だしなみを終えた妹紅は、その場でくるりと回ってみる。
その動きにあわせ、リボンはたいそう可愛らしく揺れた。
まだ準備が終わっただけなのに、なんだか心が弾んでくる。
知らず知らずのうちに、口の端が上がっている。
その弾みに自分で気づくと、赤面して動きを止めた。
「……行くか!」
誰が見ているわけでもないのに誤魔化すようにひとりごつと、家を出た。
『飛び出した』と表現してもいいかもしれない。
足は、自然と速く動き、目的地へ妹紅を進めていった。
春の青空に浮かぶ太陽が、妹紅を照らす。
その春の陽気に浮かされているのが、自分でも良く分かった。
その心の弾みはそれが原因なんだ、と自分に言い訳する。
しかし、本当のところはどうなのか、自分でも心のどこかで理解していた。
目指すは永遠亭の近くの、竹の切られて広場となっている空間。
そこは彼女たちの決闘場であり、そして逢瀬の場所でもあった。
尤も、最近は後者の役割が大きいようなのだが。
妹紅はひとり、竹林の道なき道を迷わずまっすぐに歩いていく。
照れで体が火照ってしまった妹紅には、今の春の陽気は少々暑すぎるぐらいであった。
方角の分かりにくい竹林には、誰も住まない。
妹紅と、永遠亭の住人を除いては。
だから、いつもはここで誰かに会うことはない。
しかし今日は違った。
それは全くの偶然であった。
「おお、妹紅。そんな可愛らしいリボンをつけてどうしたんだ?」
そこで出会ったのは、妹紅の友人、上白沢慧音であった。
彼女の姿に驚き、妹紅は足を止める。
慧音が永遠亭に行くこと自体はそれほど不思議なことではないのだけれど。
考えてみれば、一度も妹紅が永遠亭に行く時間と被ったことはなかった。
「おっと、私なんかより先に輝夜に言ってほしいよな、この言葉」
驚きに妹紅が硬直している間に、大袈裟に口を手で押さえて言う。
「そ、そんなわけないだろ!」
その言葉に硬直がとかれた妹紅は、すぐさま反論する。
しかしそう言う妹紅の顔は赤い。
その表情が、慧音の言葉を完全に肯定していた。
にもかかわらず、妹紅はさらに反論を続ける。
「私だって、曲がりなりにも女なんだ。お洒落して何が悪い!」
「いや、悪いとは言っていない。むしろ、喜ばしいことじゃないか」
「何がだ!大体、私が輝夜に惚れるっていうのがありえないんだ!」
顔を真っ赤にしたまま妹紅は叫ぶように弁解する。
「それにあいつは、目玉焼きにもコロッケにも醤油をかけるし、玉子焼きは甘いのが好きなんだ!
私はソース派でだし巻き派だ!食べ物の好みすら合わないじゃないか!」
「……お前、そんなことまで知ってるのか」
慧音の一言に、妹紅は硬直する。
自ら墓穴を掘ってしまったことに、ようやく気がついた。
大体、妹紅の父親がどうのこうのという話はどうなったんだ、と慧音は思ったが、
あえてそこに突っ込むのはやめておいた。
「ああ、私の知らない間に娘はどんどん恋人との仲を深めていくんだな……」
「だから違うって!あと慧音の娘でもない!」
「全く、素直じゃない奴め」
慧音は意地悪な笑みを浮かべたまま、このこの、と妹紅を肘で突付く。
うぐぐ、と唸りながらも妹紅は口を噤んでいた。
「おっと、あんまりベタベタすると輝夜に怒られるな」
慧音は、はっとしたように動きを止め、肘を引っ込める。
「だから!そういうのじゃないって言ってるだろ!」
「はいはい……おっと、そろそろ永遠亭だな」
そういうと慧音は、地面を蹴って空へと浮かび上がる。
「私は永琳に用事があるから、先に永遠亭に行ってくることにするよ。
二人の時間を邪魔したくないからな」
何度言わせるんだ、などという言葉を告げる間もなく、慧音は飛び去ってしまった。
妹紅はすでに追求をあきらめ、ただ目的地へと足を進めるだけであった。
★★★
ふと振り返ると、ちょうど妹紅が輝夜の元に到着したころであった。
輝夜は妹紅に向けて何か言っている。
妹紅はそれに赤面し、先ほどの会話のときと同じように弁解しているようであった。
――あら、可愛いリボンじゃない。どうしたの?
――な、なんだよ、なんでもないよ。
――もしかして、私のため?
――そんなわけ、ないだろ!
――あら残念。つれないわねぇ。
距離が遠く、声は聞こえないが、概ねこんなことを言っているのだと思われる。
慧音はその様子を見て、微笑みを浮かべる。
慧音は踵を返し、再び永遠亭へと向けて飛び立っていった。
春風が、やさしく慧音の頬を撫でる。
ふと見上げると、リリーホワイトが空を舞っていた。
手を振ってみると、向こうも笑顔で振り返してきた。
そして飛び去っていく。
「あの春告精、二人の邪魔をしないといいんだがな」
――リリーが、二人に春を伝えようとする。
――邪魔された妹紅が、リリーを追い払う。
――それを輝夜にからかわれて、必死に弁解する。
そんな様子が、慧音には容易に想像できた。
しばらくして、二人のいる方角で火柱が上がる。
どうやら慧音の予想通りになったようだ。
相変わらずだな、と慧音は笑った。
しかし少しづつ妹紅は変わっている。
それはいつもの赤と白のリボンが、あの真っ赤な可愛いリボンになったぐらいの、小さな変化でしかないけれど。
慧音は変わらない。
どこまで二人が変わろうと、二人を応援し、祝福するのみだ。
永遠亭に着いたら、真っ先に永琳にこのことを報告してやろう。
そうほくそえんで、慧音はなおも空を飛び続けた。
私の中であなたの王道が確立されつつありますよ。