麗らかな午後二時。昼食を終えた香霖堂が迎えたのは、烏天狗の遣いっ走りだった。椛は店主の霖之助に軽く会釈をして、店の中に入ってくる。どちらにしても慣れた光景だった。霖之助も「いらっしゃい」と言うだけで、特に何も言葉を発しなかった。そのまま半刻ほど何も起きなかったが、ふと、椛はあるものを見つけた。
「霖之助さん、ちょっと」
そのものから目を逸らさずに、霖之助を手招きする。読んでいた本から目を上げる。椛が見ているそれは、霖之助も良く知るものだった。
「ああ、それか。それは大将棋と言うものだ。非売品だよ」
「非売品なんですか…」
気に入った物を売らない事に定評のある霖之助だった。それを聞いて、肩を落とす椛。さっきまで元気に振られていた尻尾も、今は力なく垂れ下がっているばかりだった。とてつもない哀愁が漂ってくる。香霖堂に於いて椛は良心的ないい客だ。どうしたのかを尋ねなければならないのは常道だろう。
「…ご入用だったかい?」
しかし椛はふるふると頭を振る。耳ごと項垂れている椛を直視し難い霖之助だった。仕方なく勘定台から出て、椛の隣に立ち、将棋盤に手を掛ける。
「まぁ、売ることはできないけど、貸すぐらいなら」
「い、いえ! そんなことは…」
段々と声が小さくなっていく。そんな椛にふと微笑を漏らし、頭を撫でる。そして将棋盤を勘定台まで持っていく。呆気にとられていた椛だが、慌てて霖之助の後を追う。
「あの、霖之助さん」
「どうせ君は意地でも買わないんだろう?」
そう言って、勘定台の下から駒を取り出す。その勘定台の下はどうなってるんだ。並べる駒は概ね、普通の人には見覚えのないものだった。それを淀みなく置いていく。
「まぁ、一局どうだい?」
「へ?」
驚くのも無理は無いだろう。展開が急すぎる。しかし霖之助はマイペースだった。勘定台の反対側に椅子を持ってくると、椛に座るように促す。未だ状況を上手く掴めていない椛は、おずおずとそこに座る。
「いや、そんな顔しなくても。僕はただ将棋を指したいだけだよ」
「…無理がありますよ、霖之助さん」
動揺している間に事を進めようとした霖之助だったが、失敗したらしい。椛は不思議そうな目で霖之助を見た。
「…まあ正直、これをどうしようかは迷ってたんだよ」
「はぁ」
「どうせ僕が持っていても、指す相手がいないしね」
「宝の持ち腐れってやつですね」
「そうそう」
言いながら、椛は歩を一つ動かした。小首を傾げる。これでいいのかと問うているようだった。
「勝ったら譲ってくれるんですか?」
「その方がこれにとっても良い筈だよ」
そう微笑みながら、霖之助も歩を進める。そして、椛に先を促す。
それから半刻。一進一退の攻防が静かに続く。しばらく顎に手を当てて考え込んでいた霖之助が、一つ頷くと駒に手を伸ばす。だが
「…、あ」
途中で将棋盤に引っかかり、豪快な音を立てて勘定台から落下した。突然のことに呆気にとられていた二人だが、霖之助は脱力したようにため息を吐いた。
「やり直しですかね?」
しかし、椛は構わず将棋盤を拾い上げ、迷うことなく将棋盤の上に駒を並べていく。それは霖之助が落とす直前のものとほぼ同じだった。
「…すごいですね」
「いえいえ、この程度」
わずか数十秒でそれを終わらせ一息つく椛と、感嘆の声を漏らす霖之助。椛は少しだけ照れくさそうに頭をかいた。その仕草に僅かに微笑み、霖之助は盤上に手を伸ばす。
「でも、ズルはいけないと思いますよ?」
霖之助の指の下にあったのは、本来よりも一つ進んだ駒があった。そして、そのままずらす。これで余すところなく、落とす前と同じ状況。椛はまた頭を掻く。
「バレてしまいましたか」
尻尾はハタハタと揺れていた。
「王手です」
「…ぬぅ」
それから続けること四刻。遂に勝敗が決した。即ち、椛の勝利。ほぼ全てのコマが霖之助方向に向いているという、なかなかに鬼畜な勝ち方だった。しばらく霖之助は、まだ起死回生はできないかと探していたが、諦めて肩を落とす。それほどまでに完膚なき所業だった。
「悔しいな」
「霖之助さんも強かったですよ?」
苦々しげに呟く霖之助と反対に、ニコニコしながら健闘を称える椛。満足げに尻尾と耳が揺れている。
「しょうがない、この将棋盤は…」
「あ、いえ。もういいんです」
そう言うと、椛は立ち上がる。考えが追いつかずに少し狼狽する霖之助に微笑みかけ、椛は続ける。
「思ったんですけど、こう言うのは一緒にしてくれる人がいてくれてこそです。一人でするのは味気ないんですよ?」
「…そうなのか」
「ええ。だから、一緒に指してくれる人の所に置いておきたいんです」
「駄目でしょうか?」と小首と尻尾を傾ける椛。霖之助に駄目と言えるはずが無かった。「そうか」と呟くと、頷いた。
「その方が、これにとってもいいのかな?」
「きっと」
それから頻繁に、椛は香霖堂を訪れるという。
耳や尾が垂れていると、かまって元気付けてやりたくなるな