暖かな日差しが差し込む香霖堂。時折吹き込んでくる隙間風はまだ冷たいが、じきにそれも暖かくなることだろう。
だが暖かくなった所で、この店の店主の生活態度は変わらない。常に本を読み、たまに来る客を適当にもてなして、あわよくば高く売りつけたり、逆にお金を払わずに持ってかれる、そんな生活。
まるでそれは柳。どんなに風が吹こうとも、雪が降ろうとも、決して折れずに根を張り続ける。
それでも『嫌い』……いや、そこまでもいかないが『苦手』なものがあった。
「此処は相変わらずねぇ…」
「……」
今、店内を見て回っている女性。八雲紫その人である。
紫がそうしている間も、霖之助はじっと本を読み続けている。彼が掛けた言葉は、彼女が店内に入ってきた時の『いらっしゃいませ』の一言だけ。素気ないにも程がある。
しかしそれも仕方のないことだった。広き幻想郷とて、彼女と対等に話せる人物は少ない。言葉が悪いが、せめて里の人間ぐらい自分が鈍かったらこんな苦労はしないのだろう…と、霖之助は内心ため息を吐いた。
店内にページを捲る音だけが、やけに大きく聞こえる。
もう帰ったのかと思い、ふと顔を上げる。彼女ならば、音を立てずに消えていても不思議ではない。
そうして目に入る、名と同じ紫色の傘。店内でまで傘をさす必要性は果たしてあるのだろうか。……人の趣味にあれこれ言うべきではないと、霖之助は再び本に集中し始めた。
そこに描かれているのは、一つの日常だった。文字という名のフィルターを通して見る、別の世界観を持った日常。それが戦いに塗れていても、悲しみで溢れていても、それがその本の中の日常なのだ。
霖之助が読んでいる本の中では、主人公が無実の罪に問われ、牢獄で神に祈りを捧げている。
果たして彼を救うのは本当に神なのか。たった人一人を救うだけに神が重い腰を上げるのか。物語の途中ではまだ先が見えない。
しかし……と、霖之助はふと思う。
もしかすれば、本を読んでいる自分自身が神なのかもしれない。数多くの人間の中から、たった一人だけをこうして眺めている。
そして、決して手を出すことは出来ない。何故なら自分は読み手なのだから…。
本の外から、本の中へ干渉する術などない。逆もまた然りである。
そう考えると、案外神というものは身近に存在しているのかもしれない。いや、実際に神と弾幕ごっこをしてきたなどと、何時だか霊夢達は言っていたのだが……その神とは、あえて別物と考えることにした。
何気なく本を閉じて周りを見渡す。
いつの間にか、あの特徴的な傘は消え去っていた。だが、霖之助はもしやと思い、口を開く。
「……観察…かい…?」
「あら? 随分鋭くなったわね?」
予想通りというべきか、誰もいないはずの店内から、消えた彼女の声が聞こえた。霖之助は未だ去らない嵐にため息を吐いた。
「別に視線に気がついたとか、そういう事じゃないさ。ただ何となくそう思っただけだよ」
「少し成長したとか、考えないのね」
「これ以上成長する必要性を感じないんだが…」
「面白い冗談だわ」
鈴を転がすような笑い声が店内に響く。霖之助の儚い抵抗は、冗談の一言で一足されてしまった。
やがて一頻り笑い終えると、紫はカウンターからすぐそばの戸棚の陰から姿を表した。明らかに彼女が隠れられる面積ではなかったが、そこは自分の能力を使ったのだろうと、霖之助は勝手に決め付ける。
相変わらず派手な傘をさし、微笑みを携えて霖之助と対面する紫。先に言葉を発したのは、彼女だった。
「面白い事を考えてたわね」
「…人の心を読むのは関心出来ないね」
「いいじゃない、私と貴方の仲なんだから」
「親しき仲にも礼儀あり……というか、僕と君の仲はそこまで深いとは思えないんだが…」
何せ、彼女と最初に出会った目的は、ストーブの燃料を得るためである。寒い冬を越すためでなければ、きっと二人は顔を合わす事もなかっただろう。
だが霖之助の酷な答えも、紫は涼しく受け流した。
「あら? 袖振り合うも多生の縁なら、ちゃんとした取引をした私達は知友ぐらいの縁はあるんじゃないかしら?」
「それは屁理屈というものだよ」
本当にこの性格はよく分からない……と、霖之助は思った。
知的な面があると思いきや、その行動概念はまるで少女のそれだ。気紛れで、知的で、どこまで本気か分からず、底が知れない。
そのままやられっぱなしなのは癪なので、何となく霖之助は反撃してみることにした。
「ちなみに、君は僕の考えをどう思う?」
「それはどんな質問かしら? 事実を教えて欲しいの? それとも私の意見?」
その瞬間、紫の表情から笑みが消えた。殺気とも取れる気配が霖之助を襲う。だが、その声色だけは変わらない。
霖之助は内心冷や汗を流した。ここで答えを間違えれば、次の瞬間には自分の首が飛ぶのが容易に想像出来てしまった。
唇を若干湿らせ、霖之助は口を開いた。
「………事実も知りたいところだが、僕は君の考えを聞ければいい」
「そう、私も貴方を殺さなくて済んで嬉しいわ」
再び満面の笑みに戻る。危機は去った。恐らく彼女が言った言葉は本当だろう。霖之助はほっと一息つきながら、自分の浅はかさを呪った。
そんな様子の霖之助を尻目に、紫は人差し指を自分の唇に持っていき、若干考える素振りを見せた。
「私の考えとしては、沢山の世界が存在している……という感じかしら?」
「何だい? それは」
「んー…そうねぇ……例え話になるけどいいかしら?」
「構わないさ」
すると、紫は霖之助が読んでいた本を手に取り、それを掲げて見せた。
「例えばこの本の世界。バロック様式の建物が並び、通りにはいつでも市場が開かれて人で賑わう……そんな街が描かれているわね」
「その通りだ」
確か主人公はそこで、泥棒の濡れ衣を着せられたはずだ……と、霖之助は続けた。その言葉に、紫は静かに頷く。
「私の意見は、『この街自体が一つの世界』という事よ」
「……待ってくれ、その街の名称は他の本にも書かれていたぞ?」
「そうね、だって有名な街ですもの」
だけど……と、そこで言葉を切る。
「この本の事柄は、他の本には一切書かれていなかったでしょう?」
そう言うと、紫はニッコリと微笑んだ。霖之助は一瞬だけ唖然とし、そして呆れたかのように額を押さえて、椅子の背凭れにどっぷりと倒れこんだ。
「………じゃあ君は、本の数だけ別世界があると……そう言いたいのかい?」
「そうよ? そしてその世界は、貴方の考えている通り、暇潰しに見られている事に気がついていないのよ」
「それはまた…夢のある話だ」
「ええ、まるで夢物語ね」
互いにその意見を一笑する。だが、少なくともその考え方は面白いと、霖之助は感じた。
見られているのに気がつかず、日々喜劇や悲劇や惨劇を送る世界。そしてそれを本と言う媒体を通して見ている者の世界も、実は何かに見られているという奇妙な世界。
まるでマトリョーシカ。合わせ鏡の如く、先が見えない。
不意に紫は、じっと霖之助を見つめながら聞いた。
「ねぇ、森近霖之助さん。貴方の定義する『世界』って何かしら?」
「? どうしたんだい? 急に」
「さぁ? ただ気になっただけよ」
クスリと笑う紫。霖之助は背凭れから身体を起こし、カウンターに肘を乗せて考えてみた。
世界……言ってしまえばそれは一言で済んでしまうが、定義するとなると、途端に大きくなる。
幻想郷全体? いや、結界の外にも世界が広がっている。しかし、そんな行った事もない――行きかけた事はあるが――場所も入れるべきだろうか?
考えれば考えるほど、範囲が広くなる。
だから、霖之助はあえて狭く捉えてみることにした。
「………僕が見えて聞こえて、触れられる……つまり、五感が捉えられる範囲全て……かな…?」
「あら? 意外と狭い世界ね」
「何か問題でも?」
「いいえ、それが貴方の世界なのでしょう?」
そう言って、紫は悪戯っぽく微笑んだ。手に持っていた本をカウンターの上に置く。
「もし今貴方の五感が捉えられるもの全てが幻想だとしても、貴方はそれを『世界』って認めるのね?」
「当然さ。生憎、僕は人間と然程変わらないんでね。それ以外感じ取る方法を知らないのさ」
「それでいいじゃない。自分が感じ取ったものを正直に受け止められるって、素敵な事よ?」
紫はそっと霖之助の頬に触れ、自分の方を向けさせた。霖之助は逆らう理由もないので、なすがままにしている。
「そしてたまに、こうして他の世界同士が触れ合うと、双方何かしらの影響を受けるわ」
「……何が起こるんだい?」
「さぁ? 叩けば痛みとなって他の世界を侵し、撫でれば安堵感となって他の世界に染み渡るわね」
「つまり、触れ合い方次第というわけだね」
「その通り」
そして紫は、霖之助と唇を重ねた。ただ触れるだけの口付け。話とは何の脈絡もないその行動に、霖之助は目を見開く。
しかしそれも、数秒で――霖之助には一分近く感じられた――終わりを迎えた。
唇を離した紫は満足そうに口を開いた。
「どう? 世界は変わったかしら?」
「………さて…ね。どうだろうか?」
「あら? ならもう一度する?」
「丁重に辞退させて頂くよ」
「残念ねぇ…」
霖之助には全く残念そうには聞こえなかった。
話す事はもうないとでも言うように、紫は踵を返すと戸棚の方へと足を向けた。どうやら出口から帰る気はないらしい。
「そうそう、私の世界は変わったわね」
「へぇ…どんな風に変わったかは、あえて聞かないでおくよ」
「賢明な判断ですこと」
その会話を最後に、香霖堂には沈黙が降り立った。
霖之助は小さく嘆息し、おもむろに唇に手を持っていった。
「ふむ……成る程…」
確かに、若干ではあるが、霖之助の世界も変わったのだろう。ほのかに染まった頬が、それを物語っていた。
「そういえば、初めてだったな…」
更に頬が赤く染まる。頭の中で、その瞬間が何度かフラッシュバックする。
霖之助は頭を振り、カウンターの上に置かれた本を手に取った。気を落ち着かせるために、また他の世界を覗くのだろう。
幻想郷に、春は近い。
そしてマ○オの銅像は某ピンクボールのスーパーDXかwww