「魔理沙」
湖畔のように澄んだ声に振り向くと、綺麗な放物線を描きつつ何かが飛来した。反射的に受け取った右手に、確かな重みが伝わってくる。妙に生々しく、現実的な量感だった。
訝しげに視線を落とし、魔理沙は掌中の物体を確認する。鮮やかな赤色が先ず映り、次いでやや歪な球形が見て取れる。それが何の変哲もないただの林檎だと解り、魔理沙は一層訝しげな顔をした。たった今自分が辞去しようとした図書館の主―――パチュリー・ノーレッジが、自分にそれを投げ渡す理由が全く解らなかったからだ。
「約束して。貴女がどんな形であれその林檎を処分したのなら、貴女が左手に提げているその本を直ぐに返しに来ること。いいわね?」
苔むした神社の狛犬のように所在無く佇んでいた魔理沙に、パチュリーが静かに言葉を継ぐ。最後のほうは同意を得る形だが、実際は約束の押し付けのようなものだ。随分と大雑把な図書カードだなと魔理沙は思ったが、自分が手提げ鞄に放り込んである書籍は元々全て無断拝借である。弾幕代わりの大玉一つで丸く収まるのならば安いものだ。
「あーわかった。処分したら、だな?確かに承ったぜ」
踏み倒す気満々の生返事を返し、魔理沙は改めて手の中の林檎を見た。
林檎は瑞々しく精気に溢れ、まるで赤子の頬のように活溌で健康的な紅を湛えている。同時に、正体もなく齧り付きたなる程の蠱惑的な魅力をも持っていたが、ここで歯を立ててはパチュリーの思う壺である。魔理沙は手提げの中に林檎を入れ、既に本の世界に埋没しているパチュリーに背を向けて図書館を後にした。
魔法の森にある自宅へと戻り、魔理沙は乱雑に散らかった室内を横切りベッドへと体を投げた。そのままごろりと寝転がり、借りてきた本を読むべく手提げの口を開ける。勢いよく転がり出た林檎が、無防備に寝そべっていた魔理沙の鼻面を直撃した。
「がっ・・・!!」
不慮の一撃に悶絶し、魔理沙はその場に蹲った。痺れるような痛みが鼻腔を満たし、一瞬息が出来なくなる。鼻を押さえつつ魔理沙が目を遣ると、当の林檎は白いシーツの上にふてぶてしく鎮座していた。
自業自得と言えばそれまでだが、魔理沙としては不興極まりない。マスタースパークの糧にしてやろうかとも思ったが、重ねて言うようにパチュリーの思う壺である。約束を反故にする事も考えたが、舌の根も乾かぬ内に翻意するのは余りに無様だ。
預かり物の猫に顔面を引っ掛かれたような気分だった。ムキになって報復するのは簡単だが、後に残るのは自己嫌悪と周囲の失笑だけである。どうしたものかと米神に指を当てて思案する魔理沙。そのとき、不意に天啓が舞い降りた。
「そうだな。処分したら、ってことは」
林檎を鷲掴みし、魔理沙は実験室へと赴く。階下にあるこの部屋は寝室を凌ぐ無作法ぶりで、ドアを開けた途端にその衝撃で書籍の小山が幾つか崩れた程だ。まるで賽の河原である。
いつもの事なので魔理沙は特に頓着せず、埃が舞う室内に足を踏み入れた。手近に転がっていたビーカーに林檎を入れ、戸棚からやや大きめの札を取り出す。五芒星の紋様と旧字の呪文が描かれたそれを、魔理沙は蓋を被せるようにビーカーに貼付した。
両手でビーカーを持ち、目を瞑り魔力を送り込む。粘土を捏ね回すようにイメージを形成し、指向性・具体性を細かく編んでいく。
間もなく札が仄かな光を帯び始め、魔理沙の放つ魔力と共鳴を始める。穏やかに潮が満ちていくような、ゆっくりとした時間。光が止み、札に描かれた五芒星が緑色に変わっているのを確認し、魔理沙は満足げな笑みを浮かべた。
「これでよし、と」
対象の空間内にある物を、あらゆる外的な事象から遮断する。それが、魔理沙が施した術である。
空気による腐敗や経年による劣化からも防ぎ得るが、空間の規模が拡大するにつれ効果は薄まる。とはいえ、ビーカーの中という手頃な檻ならば効果は隈なく発揮されるだろう。悪戯が成功したような顔で、魔理沙はビーカーを机に置いた。
「これは処分でなく保存だからな。それも、半永久的な」
魔理沙には寿命があるが、この術に寿命はない。魔力を送り続ければ、永遠にこの姿で放置しておくことも可能である。換言すれば、魔理沙はパチュリーに借りた本を死ぬまで借り続けられるということだ。
ビーカーに閉じ込めた林檎を見てほくそ笑む魔理沙。パチュリーに一杯喰わせてやったという実感が湧き、魔理沙はようやく溜飲が下がる思いだった。今度こそ借りてきた本を読もうと、魔理沙は鼻歌を歌いながら実験室を後にした。
パタンとドアが閉まり、そこには薄暗い静寂だけが残される。
ビーカーの林檎は、相変わらず生気に満ちていた。
一週間後。
魔理沙が見たものは、艶が衰えた林檎だった。借りた本をあらかた読み終え、理論を実践に移すべく赴いた実験室。変わらずにそこに在ったビーカーは、明らかに中身が変容していた。
小脇に抱えた魔道書―――林檎と一緒に持ち帰った物だ―――が、自失の隙に床へと落下する。最初は目の錯覚かと思ったが、鮮烈さが損なわれ円熟味が増した様子は見た目にも明白である。焼印のような茶色の紙魚が、時の経過を如実に印していた。
「・・・どういうことだ、一体?」
魔道書を拾うのも忘れ、魔理沙は札を剥がし林檎を取り出す。指が触れて直ぐに解ったが、表面から微量の魔力が伝わってきた。パチュリーに投げ渡された時点では何も感じなかったので、おそらく時限式かトリガー式の施術だろう。一定期間が経過する、あるいは何らかの発動条件を満たす。無論、可能性として高いのは後者である。
発動の条件は、「何らかの魔法を受けること」といった所だろうか。そして、その効果は対象の魔法を無効化する事。それならば説明がつく。要するに、向こうの方が一枚上手だったということだ。
魔理沙は眩暈がするほど頭にきたが、同時に一つの疑問が湧いてくる。こうなる事を織り込んでいたのなら、何らかの形で林檎が処分されるような魔法を施せばいい筈だ。爆砕するといった物騒なものでも、引き金を引いたのは魔理沙となる。掌で踊らされた身上といえ、パチュリーの手法は画竜点睛を欠いているように魔理沙には思えた。
「・・・まあ、いいか」
詰まるところ、警告のようなものだと魔理沙は考えた。誤魔化すな、猿知恵を巡らすな。そういった無言の警句を、パチュリーはこの赤い果実の向こう側から発しているのだろう。
だが、ここまで虚仮にされた上で箴言を素直に受け取れるほど、魔理沙は殊勝な性格ではない。魔道書を拾い上げ、意地でも返すものかと決意を固める。同時に、林檎をどうするか考えたが、今のところ保冷庫にでも放り込んでおく他になさそうだ。
すっきりしない気分だった。噛み切れないものを無理やり嚥下したような感じだ。魔理沙は頭を振り、何かを振り切るように実験を開始した。
一ヵ月後。
保冷庫に入れておいた林檎は、色を失い見る影もなくなっていた。所々で腐敗が始まり、皮が化膿したようにぶよぶよになっている。その醜状に魔理沙は顔を顰め、保冷庫の蓋を思わず閉じた。
何故、というのが第一の感想だった。終日太陽の下に放置していたかのような変わりようで、保存されていたとはとても思えない。そこまで考え、魔理沙は「あ」と呻きにも似た声で呟いた。
保冷庫といっても原理は単純なもので、適当な木箱に魔力を籠めた氷系の符を貼ってあるだけだ。となると、形態としては最初のビーカーと似たようなものであり、中身が密閉されるか冷やされるかの違いだけである。そして、この林檎は魔法の干渉を受けない。二の轍を踏むとはこの事だ。
三度煮え湯を飲まされ、無言で保冷庫の蓋を開ける魔理沙。手袋を嵌め、異臭を放つ林檎を無感動に掴み、そのままダストボックスに投げ込んだ。
がたん、とダストボックスの蓋が閉じられ、林檎が視界から完全に消滅する。同時に、魔理沙は深い溜め息を付いた。
食べ物を粗末にした罪悪感が胸を刺すが、それよりも大きな―――形容し難い不快感を、魔理沙は味わっていた。それは林檎一つで一ヶ月も振り回してくれたパチュリーに向けたものでも、実働隊として見事に殉じた林檎に向けたものでもない。言うなれば、その両方に向けたものだった。
満月のように存在を輝かせていた林檎は、やがて月が欠けるようにその姿が衰微し、最後にはクモに喰われるかのように爛れ落ちていった。謳歌と落魄を象る一連の過程は全ての生き物に共通するが、そこには外観の美醜も含まれる。年を取る事イコール容姿の衰えというのは短慮が過ぎるが、今回の林檎に関して言えば時の流れは残酷なまでの結果を見せ付けた。意固地になって林檎を食べるなり捨てるなりしなかった魔理沙は、目を逸らすことも出来ずにその現実を直視させられたのだ。
畢竟、パチュリーはこう言っているのだろう。
―――勝手に他人の本を奪っていく。そんな風に、子供みたく振舞える時は、あっという間よ。
諸行無常は自然の摂理であり、ついでに言えば借りた物を返すのは世の摂理だと。そして、その言葉は体現している。体現した結果、ダストボックスの深い闇の中に押し込まれた。まるで、その存在を抹消されるかのように。
魔理沙はもう一度溜め息を付く。疲れた顔で流しに立ち、手を洗うべく手袋を外し始めた。
手袋の表面に、濁った果汁が付着している。どろりとしたそれは手首を伝い、腕の方へと這い寄って行った。
ヴワル魔法図書館に、小柄な影が降り立つ。パチュリーが読んでいた本から顔を上げると、不機嫌そうな顔をした魔理沙がいた。パチュリーが何かを言う前に、魔理沙は手提げ鞄を清楚な丸テーブルに勢い良く叩き付けた。
派手な音と同時に、テーブルに乗っていたティーカップが宙に舞う。ついでにティーポットだのお茶請けのクッキーだのも纏めて飛翔したが、瞬きの間にそれらは何事もなかったかのようにテーブルの上で行儀良く正座していた。
傍らで給仕していた咲夜が、呆れたような顔をする。彼女の能力を見越した上での狼藉だが、そんな事で頼られても咲夜としてはありがた迷惑である。噛み付きそうな顔をしている魔理沙を無視して、パチュリーは鞄の中身を確認した。
「こないだ借りていった本ね。確かに返して貰ったわよ」
「ああ」とだけ返し、魔理沙は帽子を取り椅子に腰掛ける。咲夜が眉を顰めるが、パチュリーが何も言わない以上客人としてもてなすべきだろう。無言のまま、もう一人分の紅茶を用意し始めた。
「・・・返さないと思ってたか?」
魔理沙が問う。その声に挑戦的なものを感じ、パチュリーが僅かに視線を向けた。不敵に笑う魔理沙にも動じず、パチュリーは涼やかに言葉を返す。
「思ってないわ。貴女は、そういう類の人間じゃないもの」
視線を外さずに、言う。魔理沙もまた、パチュリーの方を見たままだ。5秒、10秒と沈黙が流れる。
徐に、魔理沙の前に湯気を立てる紅茶が置かれた。柔らかな芳香が漂うが、魔理沙は目を離さない。
更に20秒が経過し、魔理沙は苦笑してティーカップを手に取った。降参、ということだろう。パチュリーも漸く視線を外し、本の方に向き直った。
「これ以上は、折角の紅茶が冷めちゃうからな」
側に居た咲夜が、険の取れた顔になる。これ以上無作法を重ねるようなら、力ずくで叩き出そうと考えていたからだ。緩やかな雰囲気に身を沈めるように、魔理沙はゆっくりと紅茶を飲んだ。
敵わないな、と魔理沙は思った。
本当のところ、魔理沙は本を返すつもりはなかった。完膚なきまでに愚弄され、こうなった以上絶対に返さんというのが当初の思いであり、心情的には篭城に似たものがあった。
だが、とふと思う。
もしこれで本を返さなければ、あの林檎は何の為に存在したのだろうか、と。
食物としての意義はなく、約束としての意味もない。それを奪ったのは、他ならぬ自分だ。墓標のないカタコンベに蹴落としたのは、間違いなく自分だ。
怖気がする。自分はそこまで傲慢になれるのか。下らない自尊心から一つの個を徹底的に蹂躙し、尚も踏ん反り返っていられるのだろうか。
答えは、否。自分は―――そういった類の人間ではない。
パチュリーへの問いは、魔理沙からの最後の抵抗だ。この問いに「貴女は子供じゃないもの」程度の浅薄さで応えるようなら、土壇場で魔理沙はパチュリーに読み勝ったことになる。心の尻尾を掴まれずに済んだ、ということになるからだ。
もっとも、本を返している時点で勝負あったようなものなのだが。それでもパチュリーは、律儀にトドメを刺していった。一矢を報いることも出来ずに轟沈した格好だが、不思議と魔理沙は悔しくはなかった。
それが今飲んでいる紅茶の効き目なのか、あるいはこの無愛想な魔女に感心しているのか。魔理沙には、分からなかった。
このようなことが出来るのも知識の魔女たる所以ですねw お見事でした。