※この作品は東方創想話の現最新作品集(作品集その53)の「寒禽、宿に入る」のセルフパロです。
未読の方はお手数ですが、先にそちらを読まれますようお願い申し上げます。
庄屋の娘というのは、中々に幸福な環境に生まれたものらしい。
周りを取り巻く全ての人に祝福され、箱入り娘として育てられる。
生まれながらにして生涯の安泰が約束されているのだ。
老婆の娘――名を、慧音と言うらしい――は、そんな環境下に生を受けた。
家筋に加え、愛くるしくも端正な顔立ち、頭脳も明晰とくれば好評を博さぬ訳もない。
幼い頃より神童と崇められた少女は、年頃になる頃には、最早村の偶像的存在となっていた。
彼女の人生は、順風満帆を絵に描いたようであった。
それは、慧音が十五になった、満月の夜の事だった。
不運と言えば不運だったか。滅多に幻想郷に来ないはずの排気量が軽自動車を優に超えるバイクが、里に現れたのだ。
そのバイクはパフォーマンスとして香霖堂に迎えられ、霖之助は形式通りに手入れをした。
単なる形だけのモーターショー。ただそれだけ……の、はずだった。
もちろんそのバイクにしても、幻想郷を蹂躙しに来た訳ではない。
ただ、慧音は偶然にもそのバイクに出会ってしまっただけ。
そしてそのバイクは、気紛れにエンジンを掛けただけ。
しかし、その気紛れは長きに渡って慧音を苛む事となる。
己が誕生日に興奮して、盗んだバイクで走り出したくなった彼女を誰が咎められよう。誰か咎めてあげて。
事実、尾崎症となった彼女を里の者は責めなかった。
極々一部の者を除いては。
「――婆さまがな、お前は尾崎姓を名乗れ、と」
「尾崎って、誰……あ、歌手じゃなかったかしら。随分な扱いね」
「家柄を汚しとぅなかったんじゃろ。普通でないんなら、暴走族も極道もありゃあせん」
老婆は薬缶に水を汲むと、鍋と入替えて火にかけた。
真鍮製のそれは、囲炉裏の火を大きく、また小さく、凹凸の多い表面に色濃く映し出していた。
「慧音は、家のもんの態度が変わったんは、自分が制限速度をオーバーしたからじゃと思い込んでな。
道交法を守っとれば、婆さまも何れ認めてくれるじゃろうと。以来、慧音は時速30kmで走るようになってな。
……馬鹿な子ぉよ。二輪の楽しみも幸せも、なぁんも知らん。馬鹿な子ぉよ……」
照りつける日差しに目眩がする日もあっただろう。
凍てつく寒さにその身が震える日もあっただろう。
それでも彼女は、自らの生き方を変えようとはしなかったのだ。
いつか、家族の元へ帰る日を夢見て。
「……あんたは何故ここにいるの? ここがその実家って訳じゃないんでしょ? 何故娘と暮らさないの?」
「儂もな、あの子と同じなんよ」
そう言って、老婆は未だ着込んでいた防寒具を外した。
体を覆うそれが、静かに床に崩れ落ちる。
老婆の体には、小さいながらもしっかりと、皮ジャンが有った。
「長い時間を一人で送るんは可哀相な思ぉてな、バイクを見つけて儂もエンジンをかけてもろうたんよ。
けど、儂が尾崎症になったいうて知ったら、また自分を責めるじゃろ。
儂に出来るんは、里が見えるここで、走るだけじゃ」
キーが差し込まれたままなのか、土間付近のバイクがドドドドと鳴っていた。
エンジン音は幾分収まったようだが、その音は馬力を感じさせるには十分だ。
老婆は、手元にあった薪を火にくべた。
「――じゃけどな、もうそれも叶わん」
「どうして」
「遅かったんよ。バイクを見つけるのに時間を食いすぎてしもうた。
確かに尾崎症は楽しいんじゃけど、為ったんがこんな老いぼれてからじゃからの。
もう何年やるか……」
腕を擦りながら呟く老婆は事実老衰しており、これからの数十年を走るのはどう控えめに見ても不可能であった。
俯く老婆は、囲炉裏の火に揺れるその影こそ大きく壁に写るものの、体躯は実際よりも幾らか小さく見えた。
「……すまんのぉ、娘さんや。こんな話、聞いても困るわな。
若い人に聞いてもろて……誰かにバイクを頼みたかったんじゃろか。
それがどんなにか酷い話じゃて分かっとるのになぁ」
「いいわ、私があんたの代わりに使ってあげる」
老婆は瞬間、聞き間違えであったのかと思った。
あまりに素っ気なく言われたので、聞き間違いだと思ったのだ。
だが少女の視線をその身に受け、それが聞き間違いなどではなかったと悟るまでに、そう時間はかからなかった。
「む、娘さんや、構わん、構わんのよ。あのバイクはもう……」
「若いのが年寄りに遠慮なんてするもんじゃないわ」
少女の外見をしたそれは、目を大きく見開いた老婆を一蹴しつつ立ち上がった。
天井にまで届こうかという巨躯が、僅かにポーズを作る。
老婆が見上げた彼女は、少女の姿をしていながらも、幾星霜の月日を重ねた典雅な筋肉を備えていた。
事ここに至って、老婆は遂に今まで自分が話していた相手が少女でなかった事を知る。
「美味い粕汁の礼だ、その子は私が見守ってあげる。
……なに、私なら幾ら速くても付き合えるわ」
彼女はそう言うと、老婆を尻目にバイクに乗って行ってしまった。
急ぎ後を追って玄関口へ出た老婆は、彼女が何故雪の中で凍えなかったのかを理解した。
ハンドルを両手で無造作に握り、アメリカンスタイルでバイクを乗りこなす彼女の背中に、老婆は確かに筋肉製の鬼の顔を見たのだ。
彼女は無論人ではないし、きっと妖怪ともまた違うのだろう。
だが何であろうと、彼女はバイクと共に走ってくれると言うのだ。それはどれほど有難い事だろう。
老婆は静かに合掌し、あれ、慧音の話はどうすんの? と思うのであった。
(了)
未読の方はお手数ですが、先にそちらを読まれますようお願い申し上げます。
庄屋の娘というのは、中々に幸福な環境に生まれたものらしい。
周りを取り巻く全ての人に祝福され、箱入り娘として育てられる。
生まれながらにして生涯の安泰が約束されているのだ。
老婆の娘――名を、慧音と言うらしい――は、そんな環境下に生を受けた。
家筋に加え、愛くるしくも端正な顔立ち、頭脳も明晰とくれば好評を博さぬ訳もない。
幼い頃より神童と崇められた少女は、年頃になる頃には、最早村の偶像的存在となっていた。
彼女の人生は、順風満帆を絵に描いたようであった。
それは、慧音が十五になった、満月の夜の事だった。
不運と言えば不運だったか。滅多に幻想郷に来ないはずの排気量が軽自動車を優に超えるバイクが、里に現れたのだ。
そのバイクはパフォーマンスとして香霖堂に迎えられ、霖之助は形式通りに手入れをした。
単なる形だけのモーターショー。ただそれだけ……の、はずだった。
もちろんそのバイクにしても、幻想郷を蹂躙しに来た訳ではない。
ただ、慧音は偶然にもそのバイクに出会ってしまっただけ。
そしてそのバイクは、気紛れにエンジンを掛けただけ。
しかし、その気紛れは長きに渡って慧音を苛む事となる。
己が誕生日に興奮して、盗んだバイクで走り出したくなった彼女を誰が咎められよう。誰か咎めてあげて。
事実、尾崎症となった彼女を里の者は責めなかった。
極々一部の者を除いては。
「――婆さまがな、お前は尾崎姓を名乗れ、と」
「尾崎って、誰……あ、歌手じゃなかったかしら。随分な扱いね」
「家柄を汚しとぅなかったんじゃろ。普通でないんなら、暴走族も極道もありゃあせん」
老婆は薬缶に水を汲むと、鍋と入替えて火にかけた。
真鍮製のそれは、囲炉裏の火を大きく、また小さく、凹凸の多い表面に色濃く映し出していた。
「慧音は、家のもんの態度が変わったんは、自分が制限速度をオーバーしたからじゃと思い込んでな。
道交法を守っとれば、婆さまも何れ認めてくれるじゃろうと。以来、慧音は時速30kmで走るようになってな。
……馬鹿な子ぉよ。二輪の楽しみも幸せも、なぁんも知らん。馬鹿な子ぉよ……」
照りつける日差しに目眩がする日もあっただろう。
凍てつく寒さにその身が震える日もあっただろう。
それでも彼女は、自らの生き方を変えようとはしなかったのだ。
いつか、家族の元へ帰る日を夢見て。
「……あんたは何故ここにいるの? ここがその実家って訳じゃないんでしょ? 何故娘と暮らさないの?」
「儂もな、あの子と同じなんよ」
そう言って、老婆は未だ着込んでいた防寒具を外した。
体を覆うそれが、静かに床に崩れ落ちる。
老婆の体には、小さいながらもしっかりと、皮ジャンが有った。
「長い時間を一人で送るんは可哀相な思ぉてな、バイクを見つけて儂もエンジンをかけてもろうたんよ。
けど、儂が尾崎症になったいうて知ったら、また自分を責めるじゃろ。
儂に出来るんは、里が見えるここで、走るだけじゃ」
キーが差し込まれたままなのか、土間付近のバイクがドドドドと鳴っていた。
エンジン音は幾分収まったようだが、その音は馬力を感じさせるには十分だ。
老婆は、手元にあった薪を火にくべた。
「――じゃけどな、もうそれも叶わん」
「どうして」
「遅かったんよ。バイクを見つけるのに時間を食いすぎてしもうた。
確かに尾崎症は楽しいんじゃけど、為ったんがこんな老いぼれてからじゃからの。
もう何年やるか……」
腕を擦りながら呟く老婆は事実老衰しており、これからの数十年を走るのはどう控えめに見ても不可能であった。
俯く老婆は、囲炉裏の火に揺れるその影こそ大きく壁に写るものの、体躯は実際よりも幾らか小さく見えた。
「……すまんのぉ、娘さんや。こんな話、聞いても困るわな。
若い人に聞いてもろて……誰かにバイクを頼みたかったんじゃろか。
それがどんなにか酷い話じゃて分かっとるのになぁ」
「いいわ、私があんたの代わりに使ってあげる」
老婆は瞬間、聞き間違えであったのかと思った。
あまりに素っ気なく言われたので、聞き間違いだと思ったのだ。
だが少女の視線をその身に受け、それが聞き間違いなどではなかったと悟るまでに、そう時間はかからなかった。
「む、娘さんや、構わん、構わんのよ。あのバイクはもう……」
「若いのが年寄りに遠慮なんてするもんじゃないわ」
少女の外見をしたそれは、目を大きく見開いた老婆を一蹴しつつ立ち上がった。
天井にまで届こうかという巨躯が、僅かにポーズを作る。
老婆が見上げた彼女は、少女の姿をしていながらも、幾星霜の月日を重ねた典雅な筋肉を備えていた。
事ここに至って、老婆は遂に今まで自分が話していた相手が少女でなかった事を知る。
「美味い粕汁の礼だ、その子は私が見守ってあげる。
……なに、私なら幾ら速くても付き合えるわ」
彼女はそう言うと、老婆を尻目にバイクに乗って行ってしまった。
急ぎ後を追って玄関口へ出た老婆は、彼女が何故雪の中で凍えなかったのかを理解した。
ハンドルを両手で無造作に握り、アメリカンスタイルでバイクを乗りこなす彼女の背中に、老婆は確かに筋肉製の鬼の顔を見たのだ。
彼女は無論人ではないし、きっと妖怪ともまた違うのだろう。
だが何であろうと、彼女はバイクと共に走ってくれると言うのだ。それはどれほど有難い事だろう。
老婆は静かに合掌し、あれ、慧音の話はどうすんの? と思うのであった。
(了)