私は、死を望んだのだ。
果てる事のない根源への飽くなき探究心。それは私の生きる意義であり、全ての行動の基盤であり、いつしか存在のための代償となっていた。
世界を手に入れようとしたわけではない。
未知なるものを恐れていたわけでもない。
私の求めたものは、この世界。――――この連綿と続く構築と崩壊を繰り返す、不完全な世界。不完全故に移り変わり続け得る。自らの内に否定を内包し、そしてそれを肯定する世界。――――この在り方の芯に在るもの。それを、私の確信するその【なにか】を知ることなのだ。
風に吹かれる雲、水の流れる様。彼らがいかなる働きによって私たちにあのような姿を見せるのか。風を雲を水を木々をこの世に生きるものたちを。それらを解明すればするほど、私は謂れのない不安に圧迫されていく。
奇跡のような成り立ちで満たされたこの星に、奇跡のように生ける我々は、まるで何かの盤面に置かれた駒のように。
私たちが神によって祝福された存在だというのなら、奇跡は用意されたものだというのなら、知を得るごとに募る不安の正体は一体なんだというのか。
私たちは決して出ることの出来ない水槽のなかから、世界を眺めているだけなのではないか。この世の何者に干渉することも、その真理を悟ることも、全ては叶わぬ夢なのか。
自らの内を深く深く沈み、その一方で大いなる天空へ意識を上昇させる。ふたつの行為はある一点で見事に反転し、その同質の小さな核は、おぼろげながら私の鼻先をゆらゆらとかすめていくのだ。しかしそれは深遠に挑むほんの瞬きの間に、幻とともに何処かへ去りゆく。私はまたもとの自己に還らざるを得ない。
何かを掴めると思ったその瞬間に、私は私という枷に引き戻されてしまう。幾度繰り返せば、あの幽かな光をこの手に掴むことが出来るのだろうか。
あまりに永い時を苦悩した私は、いつしか狂気に近づいていたのだろう。
描いた結論は稚拙なものだ。
私を形作るこの体。この肉が、髪が、爪が、脳髄が、私が世界と同化することを阻んでいるに違いないと。
そう、私は死を選んだのだ。
いつの間にくぐったのだったか、背後には重厚な扉が半端に開かれたまま軋みをあげている。私はそっとそれを閉じると、改めて室内を物色した。
埃の匂いのする暗いこの場所は、なぜだか懐かしささえ思い起こされた。聞こえる物音もなく、部屋中に点在する七色の灯りがただぼう、と揺らめいている様が、この場所の非現実感をいっそう増幅させている。
暗闇に陽炎のごとく浮かび上がるものは、整然と並べられた直方体のモノリス。彼らは太古の人々が行った儀式の跡を思わせる呪術的な配置をもって、私をこの空間の中央に導いた。
その床には神秘を書きとめた秘匿の図形が描かれ、やはりあのモノリスは意味を持って列を成していたのだと厳かな確信を抱かせる。やわらかな光を頼りに改めてそれらを見ると、暗闇に吸い込まれそうなほどに高く聳える直方体には、信じられないことに一分の隙間もなく重厚な書物が並べられていた。
初めて見る光景だ。しかしなぜだろう、この空虚に囚われた胸の隙間を埋め尽くすような心の昂ぶりを感じるのは。視線はなぜか目の前に立ち並ぶある一冊の書物に釘付けされ、奇妙な恍惚感に支配された体は、指先さえ動かすこともままならない。
私は、私を取り囲む無言の叡智に気圧されて、高まる気持ちとは裏腹にその一冊を手に取ることすら出来ないでいた。
「探し物は見つかったかしら」
唐突に掛けられた言葉に意識の集中は移行される。本棚から視線をずらした光の届かない暗闇のなかに、何か白いものが浮かび上がっていた。
するすると近づいてくるそれは徐々に人の形をとり、やがて私の前に姿を現した。
目の前に現われたものは、現実味のないこの場所にはなるほど相応しい、病的に青白い顔をした透明な少女であった。
彼女の姿はまるでこの場所そのものであるように闇に融け、存在の境界であるところの輪郭さえ捉えることができない。彼女とこの空間を見分けるものといえば、闇に呑まれながらも仄かに光を放つ、白いローブの揺らめく様だけだった。
声も姿も、年端もゆかぬ少女のものであるに間違いないのだが、存在からはえもいわれぬ重厚さを感じさせられる。表情がまるで読めないのは周囲の暗さによるものではない。暗闇に浮かぶ双眸は光を持たず、そのふたつの球体こそがこの空間を生み出している源なのではないかという思いを私に抱かせた。
声もなく見つめる私の前で、彼女はつ、と左手を掲げた。するとその掌からは赤、緑、青、金色、……瞬時に識別不能なほどの光の洪水が、生き物のようにあとからあとから生まれ出てくるのだ。光の群れは意思を持つかのように私たちの頭上を廻る。やがて渦を巻きながら白色に収束し、見惚れるような球体となって世界を照らしあげた。
眩しさに視界は眩み、闇に呑まれていたとき以上に、光の氾濫によって視覚は妨げられる。それでも徐々に光量は穏やかなものになり、私はようやくこの場所の全容を見渡すことが出来るようになった。
ここは……嗚呼。この場所こそ、私の還るべき場所。
先ほどのモノリスなどものの数にも入らない。この部屋には壁というものが存在せず、ただどこまでも聳え立つ本棚が、さらに部屋中に迷路のように配置された本棚を取り囲んでいる。どこまでも居並ぶ本たちの間に、私がくぐったと思しき扉が唐突に現われるのだ。壁そのものさえ書物の保管に使用されているのだろう。
合わせ鏡の中に迷い込んだのかと錯覚するほどの光景。そして、この夢幻の空間をいっそう際立たせる白い少女の存在。
彼女は私がこの場所に打ちのめされている間も、生気のない姿で私の前に佇んでいた。
あなたは、一体何者なのか? ここは、何のための場所なのか?
私の疑問を感じ取ってか、彼女は静かに言葉を紡いだ。
「私は知識の魔女、この空間とともに在る者。そしてここは神秘の図書館、失われゆく叡智の集積所」
清廉な面に薄く笑みを浮かべ、白い魔女は言の葉を散らす。
「求める者よ、あなたは何を欲してここに辿り着いた?」
私の……求めていたものは……。
知識は片端から取り込んできた。およそ必要ないものなどあるとは思えなかった。人々の噂話だとか、生き物が多く生まれる時間であるとか、ひとりのパン屋が死ぬまでに焼くパンの数だとか。この世で起こる全ては私の信じるなにかを基点に、気付かないうちに緻密に絡み合い、干渉しあい、入れ子状態の軌跡は統率された美しい幾何学模様を描くのだ。
私が信じるその中心は姿も形もない。存在という概念さえ適用されない。世界の意思、宇宙の真理、本能の奥底に息づくもの。我々はすでに気付いてはいたのだ。呼び名は違えど、自分たちの与り知らぬ手の届かない超越者とでもいうべきなにかを。
存在の有無など問題にはならない。概念というにはあまりにはっきりしている。それを人は、神と呼んでいたのかもしれない。
私は神を追い求めていたというのだろうか。
ならばなぜこの場所に辿り付いた。一冊たりとも手に取れてはいないが、部屋中を囲繞する書物たちは、存在するだけで未知なる昂揚を私に与えてくれる。彼らのうち何れかに、永く追い求めたものへの手がかりが記されているというのか?
――あの本、
はじめて目にしたときから、あれは他のどの書よりも私を惹きつけて止まない。一体何を躊躇っていたのだろう。私を捉えて放さない神秘の欠片が目の前にあるのだ。この場所、この時こそが、命を賭してまで求めた真理への鍵に相違ないではないか。
私の視線は再びあの書物に縛り付けられる。白い魔女が幽かに目を細めた。
体が思うように動かない。少しでも早く辿り付くため、書架へ腕を伸ばそうとする。その途端、錯覚だろうか背表紙に記された文字が金色に輝きだした。
文字に指を這わせる。一文字ごとに私と書物は一体となる。私が求めるが故ばかりではない。彼自体が、私という智を求めている。
呼んでいる
これは この本は
背に触れていただけのはずが、いつのまにか私は書に記された文字のひとつひとつに指を滑らせていた。いや、違う。私が触れる度に、白紙の書に新たな文字が浮かび上がるのだ。
書物を読むということは、それを著した者の思考を辿るということ。しかし思考は文字という媒体を経て少なからず形を変える。文字では全てを伝えることは出来ない。人はそれを克服しようと言葉を増やし続け、かえって真理を見失ってしまった。細分化を繰り返し、文字と意味を限定的に関連付ければ付けるほど、両者は違う物にすり替わっていく。
だがどうだ! この私という意思がそのまま文字に姿を変えることが出来るならば、記された単語は言葉以上のものとなり、書を開いた何者かの体内に砂漠の水のごとく吸い込まれていくことだろう。
今、私は歓喜に打ち震えている。
私が求めた事、願ったこと。肉体の枷を捨て、魂の自我が薄れ行こうとも、信じ渇望した事。叡智の先で手綱を握る大いなるものを感じること。そのものとひとつになること。
……神の御許に召されること。
彼と私の発するひかりは互いを求めて侵食しあい、やがて夢幻の波に呑みこまれていった。
「この本はあなたの依代。新しい体となるでしょう」
移ろいでゆく自我のなか、私は魔女の手にいた。
感情を見せることの無かった彼女の顔はひどく穏やかなものに変わり、その手は慈しみをもって優しく私に触れる。
「来訪者、いいえ、同士よ。深淵を求め、知識を糧とし生きるものよ。ようこそ我らが聖域へ」
魔女の声が子守唄のように私の上に降り注ぐ。
エコーのごとく響くそれは、徐々に揺らぎを増し、私という自我を緩やかに溶かしてゆく。
「さあ、ここで私たちと共に、果て無き真理を追い続けましょう」
ああ、これで、私の願いは果たされる……
「いつか、辿りつけるその日まで」
「終わりか?」
神秘の余韻を蹴散らすように、間の抜けた声がする。その主は魔女がやってきた更に奥の本棚のかげからひょっこり顔を覗かせていた。
好奇心と感心と疑問がないまぜになった、複雑なわりに判りやすい表情を浮かべつつ魔女のもとに歩み寄る。魔女が真っ白のローブに身を包んだ神秘的な装いであるのに対し、こちらの少女は御伽噺から抜け出した魔女のような黒い姿をしていた。
「……あなたにしては大人しく待っていたわね」
「ん? 邪魔して欲しかったのか。そうだな、押すな押すなは押してくれって意味だったぜ」
そういって黒い少女はけたけたと笑う。白い魔女はうんざりした表情で少女を眺めていた。
「こんな事言ってますけどね、最初から興味津々だったんですよ」
声とともに新たな人影が姿を現す。今度の少女は先の二人とは決定的に異なる容姿の持ち主だった。あどけない表情の後ろ、頭部と背に二対の黒羽根を揺らめかせ、肩を竦めて笑う様は、多くの先人の夢中に現われたという悪魔の姿を思わせる。
「邪魔なんて思いもよらない感じで、食い入るように見入ってましたからね」
その言葉に黒い服の少女は笑みを消し、魔女に向き直った。
「実際のとこ、何だったんだ今のは。降霊術かなにかか?」
「私にもよく解らないわ」
「おいおい」
「なんとなく解るのは、彼らはここに来るだけあって、外の世界では忘れられる運命にあるものだってことね」
「彼らって、アレはやっぱりもと人間とかそういうのなのか? 本なんかになったら、成仏とは程遠い気がするんだが」
「生物だったとは限らないわ。伝承が意思を持ったものかもしれないし、データの集積物がそのままやってくることだって有り得るもの」
「まぁ、魂がこんなとこでふらふらしてたら、そこの悪魔にあっという間に掠め取られそうだしな」
「あら、そんな早朝のカブトムシ採りみたいなこと、考えたこともありませんでした」
「ということは魂なんか滅多に来ないってことよ屹度」
「ていうか、お前じゃ魂云々なんて扱えそうに見えないしな」
「そうね所詮小悪魔だものね」
「うわぁ。ひどいですね、これでも……ですから…………なんて…………
「…………それじゃ………………に退治………………
「勝手に……………………
……………………
………………
…………
……
…
・
果てる事のない根源への飽くなき探究心。それは私の生きる意義であり、全ての行動の基盤であり、いつしか存在のための代償となっていた。
世界を手に入れようとしたわけではない。
未知なるものを恐れていたわけでもない。
私の求めたものは、この世界。――――この連綿と続く構築と崩壊を繰り返す、不完全な世界。不完全故に移り変わり続け得る。自らの内に否定を内包し、そしてそれを肯定する世界。――――この在り方の芯に在るもの。それを、私の確信するその【なにか】を知ることなのだ。
風に吹かれる雲、水の流れる様。彼らがいかなる働きによって私たちにあのような姿を見せるのか。風を雲を水を木々をこの世に生きるものたちを。それらを解明すればするほど、私は謂れのない不安に圧迫されていく。
奇跡のような成り立ちで満たされたこの星に、奇跡のように生ける我々は、まるで何かの盤面に置かれた駒のように。
私たちが神によって祝福された存在だというのなら、奇跡は用意されたものだというのなら、知を得るごとに募る不安の正体は一体なんだというのか。
私たちは決して出ることの出来ない水槽のなかから、世界を眺めているだけなのではないか。この世の何者に干渉することも、その真理を悟ることも、全ては叶わぬ夢なのか。
自らの内を深く深く沈み、その一方で大いなる天空へ意識を上昇させる。ふたつの行為はある一点で見事に反転し、その同質の小さな核は、おぼろげながら私の鼻先をゆらゆらとかすめていくのだ。しかしそれは深遠に挑むほんの瞬きの間に、幻とともに何処かへ去りゆく。私はまたもとの自己に還らざるを得ない。
何かを掴めると思ったその瞬間に、私は私という枷に引き戻されてしまう。幾度繰り返せば、あの幽かな光をこの手に掴むことが出来るのだろうか。
あまりに永い時を苦悩した私は、いつしか狂気に近づいていたのだろう。
描いた結論は稚拙なものだ。
私を形作るこの体。この肉が、髪が、爪が、脳髄が、私が世界と同化することを阻んでいるに違いないと。
そう、私は死を選んだのだ。
いつの間にくぐったのだったか、背後には重厚な扉が半端に開かれたまま軋みをあげている。私はそっとそれを閉じると、改めて室内を物色した。
埃の匂いのする暗いこの場所は、なぜだか懐かしささえ思い起こされた。聞こえる物音もなく、部屋中に点在する七色の灯りがただぼう、と揺らめいている様が、この場所の非現実感をいっそう増幅させている。
暗闇に陽炎のごとく浮かび上がるものは、整然と並べられた直方体のモノリス。彼らは太古の人々が行った儀式の跡を思わせる呪術的な配置をもって、私をこの空間の中央に導いた。
その床には神秘を書きとめた秘匿の図形が描かれ、やはりあのモノリスは意味を持って列を成していたのだと厳かな確信を抱かせる。やわらかな光を頼りに改めてそれらを見ると、暗闇に吸い込まれそうなほどに高く聳える直方体には、信じられないことに一分の隙間もなく重厚な書物が並べられていた。
初めて見る光景だ。しかしなぜだろう、この空虚に囚われた胸の隙間を埋め尽くすような心の昂ぶりを感じるのは。視線はなぜか目の前に立ち並ぶある一冊の書物に釘付けされ、奇妙な恍惚感に支配された体は、指先さえ動かすこともままならない。
私は、私を取り囲む無言の叡智に気圧されて、高まる気持ちとは裏腹にその一冊を手に取ることすら出来ないでいた。
「探し物は見つかったかしら」
唐突に掛けられた言葉に意識の集中は移行される。本棚から視線をずらした光の届かない暗闇のなかに、何か白いものが浮かび上がっていた。
するすると近づいてくるそれは徐々に人の形をとり、やがて私の前に姿を現した。
目の前に現われたものは、現実味のないこの場所にはなるほど相応しい、病的に青白い顔をした透明な少女であった。
彼女の姿はまるでこの場所そのものであるように闇に融け、存在の境界であるところの輪郭さえ捉えることができない。彼女とこの空間を見分けるものといえば、闇に呑まれながらも仄かに光を放つ、白いローブの揺らめく様だけだった。
声も姿も、年端もゆかぬ少女のものであるに間違いないのだが、存在からはえもいわれぬ重厚さを感じさせられる。表情がまるで読めないのは周囲の暗さによるものではない。暗闇に浮かぶ双眸は光を持たず、そのふたつの球体こそがこの空間を生み出している源なのではないかという思いを私に抱かせた。
声もなく見つめる私の前で、彼女はつ、と左手を掲げた。するとその掌からは赤、緑、青、金色、……瞬時に識別不能なほどの光の洪水が、生き物のようにあとからあとから生まれ出てくるのだ。光の群れは意思を持つかのように私たちの頭上を廻る。やがて渦を巻きながら白色に収束し、見惚れるような球体となって世界を照らしあげた。
眩しさに視界は眩み、闇に呑まれていたとき以上に、光の氾濫によって視覚は妨げられる。それでも徐々に光量は穏やかなものになり、私はようやくこの場所の全容を見渡すことが出来るようになった。
ここは……嗚呼。この場所こそ、私の還るべき場所。
先ほどのモノリスなどものの数にも入らない。この部屋には壁というものが存在せず、ただどこまでも聳え立つ本棚が、さらに部屋中に迷路のように配置された本棚を取り囲んでいる。どこまでも居並ぶ本たちの間に、私がくぐったと思しき扉が唐突に現われるのだ。壁そのものさえ書物の保管に使用されているのだろう。
合わせ鏡の中に迷い込んだのかと錯覚するほどの光景。そして、この夢幻の空間をいっそう際立たせる白い少女の存在。
彼女は私がこの場所に打ちのめされている間も、生気のない姿で私の前に佇んでいた。
あなたは、一体何者なのか? ここは、何のための場所なのか?
私の疑問を感じ取ってか、彼女は静かに言葉を紡いだ。
「私は知識の魔女、この空間とともに在る者。そしてここは神秘の図書館、失われゆく叡智の集積所」
清廉な面に薄く笑みを浮かべ、白い魔女は言の葉を散らす。
「求める者よ、あなたは何を欲してここに辿り着いた?」
私の……求めていたものは……。
知識は片端から取り込んできた。およそ必要ないものなどあるとは思えなかった。人々の噂話だとか、生き物が多く生まれる時間であるとか、ひとりのパン屋が死ぬまでに焼くパンの数だとか。この世で起こる全ては私の信じるなにかを基点に、気付かないうちに緻密に絡み合い、干渉しあい、入れ子状態の軌跡は統率された美しい幾何学模様を描くのだ。
私が信じるその中心は姿も形もない。存在という概念さえ適用されない。世界の意思、宇宙の真理、本能の奥底に息づくもの。我々はすでに気付いてはいたのだ。呼び名は違えど、自分たちの与り知らぬ手の届かない超越者とでもいうべきなにかを。
存在の有無など問題にはならない。概念というにはあまりにはっきりしている。それを人は、神と呼んでいたのかもしれない。
私は神を追い求めていたというのだろうか。
ならばなぜこの場所に辿り付いた。一冊たりとも手に取れてはいないが、部屋中を囲繞する書物たちは、存在するだけで未知なる昂揚を私に与えてくれる。彼らのうち何れかに、永く追い求めたものへの手がかりが記されているというのか?
――あの本、
はじめて目にしたときから、あれは他のどの書よりも私を惹きつけて止まない。一体何を躊躇っていたのだろう。私を捉えて放さない神秘の欠片が目の前にあるのだ。この場所、この時こそが、命を賭してまで求めた真理への鍵に相違ないではないか。
私の視線は再びあの書物に縛り付けられる。白い魔女が幽かに目を細めた。
体が思うように動かない。少しでも早く辿り付くため、書架へ腕を伸ばそうとする。その途端、錯覚だろうか背表紙に記された文字が金色に輝きだした。
文字に指を這わせる。一文字ごとに私と書物は一体となる。私が求めるが故ばかりではない。彼自体が、私という智を求めている。
呼んでいる
これは この本は
背に触れていただけのはずが、いつのまにか私は書に記された文字のひとつひとつに指を滑らせていた。いや、違う。私が触れる度に、白紙の書に新たな文字が浮かび上がるのだ。
書物を読むということは、それを著した者の思考を辿るということ。しかし思考は文字という媒体を経て少なからず形を変える。文字では全てを伝えることは出来ない。人はそれを克服しようと言葉を増やし続け、かえって真理を見失ってしまった。細分化を繰り返し、文字と意味を限定的に関連付ければ付けるほど、両者は違う物にすり替わっていく。
だがどうだ! この私という意思がそのまま文字に姿を変えることが出来るならば、記された単語は言葉以上のものとなり、書を開いた何者かの体内に砂漠の水のごとく吸い込まれていくことだろう。
今、私は歓喜に打ち震えている。
私が求めた事、願ったこと。肉体の枷を捨て、魂の自我が薄れ行こうとも、信じ渇望した事。叡智の先で手綱を握る大いなるものを感じること。そのものとひとつになること。
……神の御許に召されること。
彼と私の発するひかりは互いを求めて侵食しあい、やがて夢幻の波に呑みこまれていった。
「この本はあなたの依代。新しい体となるでしょう」
移ろいでゆく自我のなか、私は魔女の手にいた。
感情を見せることの無かった彼女の顔はひどく穏やかなものに変わり、その手は慈しみをもって優しく私に触れる。
「来訪者、いいえ、同士よ。深淵を求め、知識を糧とし生きるものよ。ようこそ我らが聖域へ」
魔女の声が子守唄のように私の上に降り注ぐ。
エコーのごとく響くそれは、徐々に揺らぎを増し、私という自我を緩やかに溶かしてゆく。
「さあ、ここで私たちと共に、果て無き真理を追い続けましょう」
ああ、これで、私の願いは果たされる……
「いつか、辿りつけるその日まで」
「終わりか?」
神秘の余韻を蹴散らすように、間の抜けた声がする。その主は魔女がやってきた更に奥の本棚のかげからひょっこり顔を覗かせていた。
好奇心と感心と疑問がないまぜになった、複雑なわりに判りやすい表情を浮かべつつ魔女のもとに歩み寄る。魔女が真っ白のローブに身を包んだ神秘的な装いであるのに対し、こちらの少女は御伽噺から抜け出した魔女のような黒い姿をしていた。
「……あなたにしては大人しく待っていたわね」
「ん? 邪魔して欲しかったのか。そうだな、押すな押すなは押してくれって意味だったぜ」
そういって黒い少女はけたけたと笑う。白い魔女はうんざりした表情で少女を眺めていた。
「こんな事言ってますけどね、最初から興味津々だったんですよ」
声とともに新たな人影が姿を現す。今度の少女は先の二人とは決定的に異なる容姿の持ち主だった。あどけない表情の後ろ、頭部と背に二対の黒羽根を揺らめかせ、肩を竦めて笑う様は、多くの先人の夢中に現われたという悪魔の姿を思わせる。
「邪魔なんて思いもよらない感じで、食い入るように見入ってましたからね」
その言葉に黒い服の少女は笑みを消し、魔女に向き直った。
「実際のとこ、何だったんだ今のは。降霊術かなにかか?」
「私にもよく解らないわ」
「おいおい」
「なんとなく解るのは、彼らはここに来るだけあって、外の世界では忘れられる運命にあるものだってことね」
「彼らって、アレはやっぱりもと人間とかそういうのなのか? 本なんかになったら、成仏とは程遠い気がするんだが」
「生物だったとは限らないわ。伝承が意思を持ったものかもしれないし、データの集積物がそのままやってくることだって有り得るもの」
「まぁ、魂がこんなとこでふらふらしてたら、そこの悪魔にあっという間に掠め取られそうだしな」
「あら、そんな早朝のカブトムシ採りみたいなこと、考えたこともありませんでした」
「ということは魂なんか滅多に来ないってことよ屹度」
「ていうか、お前じゃ魂云々なんて扱えそうに見えないしな」
「そうね所詮小悪魔だものね」
「うわぁ。ひどいですね、これでも……ですから…………なんて…………
「…………それじゃ………………に退治………………
「勝手に……………………
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………………
…………
……
…
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さすれば永久に彼ら(探求者)をいだけるから