珍しいノックの音を聞いて、私は呼んでいた本から顔を上げた。
部屋の掃除に駆け回る人形達を一時停止させ、視線を玄関の方へやる。
ノックは一度きりだった。頭の中に浮かべた来訪者リストから、一人の顔に線を引く。
とは言え、この家に訪れる者などそういるわけではない。
人形に応対させてもよかったけれど、私は本に栞を挟んで椅子から立ち上がった。
それを机の上に置きつつ、玄関の前に立つ。
息遣いなど聞こえるはずも無いだろうけど、それにしたって扉の向こうはやけに静かだ。
無駄にやかましい知人としか縁が無い為、来客の顔にまったく見当がつかない。
悪い癖とは思いつつ、身構えてしまう。
ドアノブに手を掛け、軽い力で押し出す。
わずかな木漏れ日を背中に受けて、彼女はそこに立っていた。
「……おぅ」
肩の力が抜けるのを感じた。
予想外といえば、予想外。
そりゃあ、こいつが私の予想通りに動いた試しなど無いけれど。
ノックくらい覚えたって、おかしいと言うほどおかしくはないけれど。
それにしたって、目の前の魔理沙は何処かおかしかった。
「……入れば?」
気軽に話しかけづらい雰囲気に、首の動作だけで部屋の奥を指し示す。
「いや、ここでいいんだ」
予感がする。それが、良いか悪いかは定かでないけれど。
魔理沙は懐から、一冊の本を取り出した。
差し出したその表紙を一瞬見ただけで、私はその内容を脳裏に再生する事が出来た。
私の魔導書。貸した……覚えも無く借りられていた物だった。
多少迷いながらもそれを受け取って、私は帽子で陰になった魔理沙の顔を覗きこんだ。
「……これだけ?」
別に、他に借りられていた物を催促したわけではない。
私自身その詳細は覚えていないのだし。
沈黙に関しては、彼女より私の方がずっと耐性がある。
魔理沙の口が開くのをじっと待つ間も、私は彼女から視線を逸らさなかった。
寡黙な魔理沙は、嫌がおうにも不安を煽る。
やがて彼女は、焦らすような緩慢な動きで帽子を脱いだ。
それを持った手を胸に当てて。胸の鼓動を抑えるかのように。深く息を吐く。
憂鬱が、空気に混じるのを感じた。
「幻想郷を、出ていこうと思う」
あぁ。まったく。
多少の免疫は、身に付いたと自負してはいたけれど。
予想外というのは、予想し得ないからこそなわけで。
私はその場から動く事が出来なかった。
こちらの反応などお構いなしに、魔理沙はまくし立てる。
「外の世界の色々な事を知りたい」
魔理沙の声は弱々しく、普段のような歯切れの良さは微塵にも感じられない。
けれど、自信無さ気な声色とは裏腹に、私を貫くその眼差しは決して揺らがなかった。
「ここに居たら手に入らないものが、外には沢山あるんだ」
まるで、叱られた子供が必死に言い訳をしているよう。
それとも……求愛の告白?
私の中の誰かが、苦笑を浮かべる。けれど唇は乾いたように動かない。
これは別れ話だ。
「わかるだろう?アリス……」
甘えるように撫で付ける、名前を呼ぶ声に、感情が身震いする。
わかるといえば、わかる。わからないといえば、わからない。
蒐集家としての、抑えられない欲求。
人間としての、人間の世界への好奇心。
どうしてそんな悲しい顔をするの?
貴女は私に、どんな答えを求めているの?
とうに落ち着いてしまった理性が、本を持つ手に力を込める。
喉を震わすのに、ほんの少し時間を要した。
「……いつまで外に?」
「わからない。欲しい物が手に入るまで、かな」
「そう……」
私は微笑んだ。魔理沙を突き放すように。
「まぁ、この森もようやく静かになるって事ね」
その夜は、久しぶりの宴会だった。
家に溜まった借り物の山を片付ける為もあって、魔理沙は幻想郷の各所へ挨拶に回ったらしい。
仲間意識の強い人妖たちの誰かが言い出すのは、目に見えていた事だけれど。
送別会など、どうせ名目だけのものだ。
神社の境内に風呂敷を広げて、酒と食べ物を持ち寄る。
集まった輩の中には、私の知らない顔もちらほらとあった。
喜怒哀楽が入り乱れる、いつもの光景。主賓の魔理沙は、皆に囲まれている。
霊夢は、割と素直だった。魔理沙と抱擁し、微笑みながらも目には涙を浮かべて。
励ましの言葉を囁いていた。唇の動きだけで、その内容は窺い知れる。
馬鹿な氷精や妖怪は、外の世界の土産をねだっていた。
初めははぐらかされていたが、結局約束をとりつけたらしい。大喜びで散っていく。
魔理沙の浮かべる苦笑は、楽しさ八割ほどで占められていたと。
騒霊の奏でる演奏に合わせて、兎が踊る。
それを間近で観賞しながら、月のお姫様が腹を抱えて笑っていた。
対照的に、静かに酒を交わす者もいる。
吸血鬼とその従者や、亡霊の姫と庭師。
どちらも片方が一方的に愚痴を聞いている風だったけど、それなりに楽しそうではあった。
他にも、鬼に、閻魔に、神様……魔理沙の交友関係は、相変わらず滅茶苦茶だ。
私はといえば、遠くからそれを見ているだけだった。
分をわきまえず一杯目から飛ばしたせいで、木に寄りかかったまま立ち上がる事が出来ない。
頬に当たる風が心地良かった。
両隣では、酔って泣き疲れたもやし女とヒマワリ女が寝息をたてている。
辺りに散乱した何本もの空瓶は、ここのグループだけで空けたものだった。
一同に集まった少女達。
魔理沙が幻想郷で築いた、いくつもの繋がり。
それを、彼女は捨てるのだと、考えてはいけない。
別れる事を、悲劇にしてはいけない。
でなければ、外の世界に出た彼女は決して誰とも出会えない。
全てを受け入れた上で、魔理沙はここを去る。
彼女がいなくなったとしても、この賑わいは決して失われないだろう。
私は、片手に持った最後のノルマを、一口で飲み干した。
熱い吐息が、夜空に立ち昇る。
靄が、人の形をとって私を見下ろした。
「手に入れればよかったのに」
頭上から響く、嘲笑。心のスキマに、それはほんの少しだけ染みる。
「泣き崩れてみせれば、容易く篭絡するものよ」
霞む視界の奥、赤く顔を火照らせた魔理沙が、私にだけ何かを呟いた気がした。
「いらない」
光も、音も、熱も、何も感じない。宴は、もう少しだけ続くだろう。
「あんな人間、100年ともたないわ」
翌日、朝霧の晴れない境内に寝転がる人妖の中に、魔理沙の姿は無かった。
去りゆく彼女の背中を、見たような気がするけど。それはきっと夢だったろう。
陽の光を受け次々と起き上がる少女達は、皆一様に覇気を失っていた。
全員揃って二日酔いとは、情けない。私も一層頭痛が酷かったけど。
帰路に着き、頭痛薬を飲んでもう一度眠りについた。
次に目が覚めたのは夜。人形にコーヒーを淹れさせた。
強い苦味にまどろみを取り払われて、私は声を出さずに泣いた。
一日くらい、こうやって潰したっていい。
魔法の森は静かになった。というより、静寂こそこの森の正しき姿なのだろうけど。
相変わらず、人間も動物も近寄らない。
私はその分、魔法の研究に没頭する事が出来た。
宴会から数日経った後、香霖堂の店主が森を訪問した。
魔理沙の家の品々を引き取りに来たらしい。聞けば、事前に依頼を受けていたのだという。
私もそれを手伝い、ついでに目ぼしいタイトルを幾つか譲り受けた。
私のチョイスを見て、店主は「似ているな」と評価をつけた。
私は何も言わなかった。
森の外を出歩く事も、あまり無くなった。
研究材料を調達するのに遠出をする時も、すれ違う相手とは軽い挨拶しか交わさない。
見知った顔も、覚えの無い顔も、そのうち同じ括りに含まれるようになった。
私が忘れたのか、相手が成長した為かは定かでない。
家の扉がノックされる事もなくなった。
研究に耽るあまりカレンダーを捲るのを忘れていたせいで、もう日付も定かでない。
ふと、閑散とした部屋を眺めて、蒐集癖が無くなっている事を自覚する。
あれだけ集めていた人形も、研究費用として売り払いその数をだいぶ減らしていた。
埃を被ったまま棚に放置されて、再び使役される時を待っている。
スペルカードは、机の奥の何処かにまだある筈だ。
この家で私のほかに動くのは、最近完成させた等身大の自動人形が一体。
家事全般をそれに任せて、私は一日中魔導書と睨み合っている。
人形に対話機能はない。改良する事も出来るが、どうせ煩わしいだけだ。
時報を喋らせようかとも思ったが、どのみち必要ない。
太陽は何度昇り、何度沈んだだろうか。
眺めているのは、とうの昔に読み尽くした一冊。
表紙を見ただけで、内容を瞬時に再生出来る。
視線を落としたまま、思い出す。
生きているかも知れない者、とうに死んだかも知れない者。
全てが、あの頃のような若々しい少女の顔をしている。
薄くなった自分の前髪を、指先でそっと梳いた。
気まぐれに郵便受けを覗いてみると。
意外にも、中には一通の便箋が入っていた。
埃にまみれた表面の宛名は、掠れて読めない。
封を切ると、中から出てきたのは古びた紙切れと色褪せた写真。
紙切れは所々黄ばんでいて、折りたたまれた面が貼りついて開く事が出来ない。
仕方なく、私は写真の方に目を移した。
そこには三人の人間が立っていた。
金髪の女と、長身の男。
写真の上方ほど色褪せは酷く、二人の表情はわからない。
その間に挟まれて、男女と手を繋ぐ小さな女の子。
顔の見えない二人の代わりにとでも言いたげに、満面の笑みを湛えている。
見た目にも大きさとしても不似合いな、黒い三角帽子を被っていた。
何を手に入れた?
何を失った?
わかるだろう?アリス……
囁く少女もまた、あの頃のまま。
わかるといえば、わかる。
わからないといえば、わからない。
博霊の巫女は、今何代目だろう。
人形を改良してやろう。声帯はどんなものがいいだろう。
紙切れと写真をポケットの中に仕舞う。
使い慣れない杖を操りながら、私は家の中に入った。
細かいことですみません
>一行目の“珍しいノックの音が聞こえた”ってどんな音?
魔理沙なら勢い良く開けると言う前提があるのでは?
と言ってみる。
ただ、体力だけが衰えていってある日突然召されそう。
ノックされる事自体が珍しいというか。
アリスの家を訪問する人って少なそうなので。魔理沙はノックしなさそうだし。他に友達いなさそうだし。
"珍しく聞こえたノックの音に引かれ"の方がよかったかもですね。失礼しました。
それはそうと、シリアス分ご馳走様でした。