漁師の朝は早い、と思われがちだが、実際はそうでない場合も多い。
漁師即ち海の男ならば概ね間違ってはいない。ただしこれが淡水魚を相手にする漁師の場合は違ってくるのだった。
ここ幻想郷で漁場といえば、それは湖か川になる。場所が限られているからには漁師同士の取り決めが必要で、さもなければあっという間に魚がいなくなってしまう。
そんなわけで、ほぼ全ての漁師(といっても数える程度しかいない)は快食快便で目を覚ますだけ覚ましてから、昼前ぐらいにのんびりと漁場に出るのだった。
この際にも一応は注意が必要で、天候次第では取り止めなければならない。漁の成果も大事だが、妖怪に襲われてはひとたまりも無いからだった。
やたらと冷え込んだ日などは氷精辺りが手ぐすねを引いて悪戯する対象を待ち構えており、逆にさんさんと晴れ渡った日などは頭のおかしそうな奴らがぎゃあぎゃあ喚きながら行軍しているかもしれない。
近頃はそれぞれの漁業組合もそれなりに成長し、組合員にはチェックシートを配り、三つ以上チェックマークが付いた日は出かけるなみたいなことになっている。これはあの稗田阿求なども参考にしたという話が組合長辺りからは聞こえていたが、現実には阿求にシートを作成してもらっていた。
そういった諸々を女房と苦笑いしながら愚痴りつつ、チェックシートを確認してから出かけたのは、真畔という漁師だった。
真畔はマグロと読むわけだが、マグロを釣ったことも見たこともない。真鯛と区別が付くかどうかも怪しい。それほど淡水が専門の真畔であった。
小川に沿って里から離れていくと、彼の仕事場である湖が見えてきた。今日は適度に雲が多く、人間にとっては過ごし易く、妖怪にとってはつまらなく思える天候に、恵まれていた。
風も控えめにしか吹いておらず、これなら仕掛け網を引き上げるときにも舟が大して揺れずに済みそうだった。
しかし前述した通り漁場が制限されているために、仕掛けの場所も量もあまり無い。漁師の八割は仕掛けの手入れをして、残りの二割が実際の作業に当たるというローテーションが組まれていた。
なお十割で二十人しかいなかったりするので、マグロ漁などとは壮観さにおいて比ぶべくもなかった。ホタルイカ漁にも、鰯漁にも、鮎漁にすら劣っていそうだった。
獲られるのは蟹の類がほとんどで、水面を跳ねる魚などは人が食うと食中りになりかねなかった。
組合場では今頃、馬鹿話で盛り上がっているだろう。それはもう、手が止まるぐらいに。
それでも真畔はどちらかというと湖の上で網を引いている方が好きだった。
舟の上は逃げ場が無い。いくらチェックシートを律儀に確認していようと、襲われたらどうしようもない。そんな所で網を引いている自分は、世界で一番の胆力の持ち主に思えてくるのだった。
今日の相方は、そんな真畔のささやかな想いを聞かされてげらげら笑った輩だった。まあ、それも仕方がないと真畔は思っている。むしろ仲間に笑ってもらえるぐらいの方が、彼としては良かった。
そういう彼であったが、漁場の湖に着いても相方がいないことには、流石に多少は苛立ちを見せた。
別に一人でも漁はできるが、見張り役を兼ねる者もいないのでは、万が一にも逃げられる相手からも逃げられなくなってしまうかもしれなかった。
こんなに良い天候なのに、舟を目の前にして湖に出られないとは。
唇を窄めて艀を眺めていると、何やら変な物が流れ着いていた。
よくよく見てみれば、それも一つや二つではなかった。
流れ着いていたのは魚で、まあそれ自体は珍しくなかったが、食える魚ばかりだった。
こういうとき神の恵みと捉えるか凶兆と訝しがるかは人それぞれだが、真畔は後者だった。正確には、妖怪の悪戯と考えた。
チェックシートにはこんなの無かったなあなどと呑気に思ったりしたが、これを見て相方は帰ってしまったんだと納得もした。
とりあえず自分も一度帰っておこうと踵を返したとき、足の裏に何かが刺さった。
ちくっとした瞬間に足を引いたために無事で済んだが、足下には手首から中指の先ぐらいまでの長さがある、針が落ちていた。
針灸師が使うような物よりは太く、使い道がいまいちわからなかった。
何にしてもこんな所に落ちているのは危ない。純粋な善意から落とし物を拾おうとしたとき、視界の端を掠める物があった。
咄嗟に首を引っ込め、尻餅を突く。落とし物は二つに増え、新しい物は地面に対して斜めに突き刺さっていた。
驚いている暇も無く、湖の上空から紅白のめでたい衣装を着た少女が降りてきた。
「人の物に勝手に触っちゃ危ないじゃないの」
一々反論するのも馬鹿らしくなる言われようだった。
まあ、彼女が持ち主なら任せてしまおう。会釈だけしてすごすごと帰ろうとしたとき、頭にぴんとくるものがあった。
もしかして、魚をああしたのはこの子じゃないのか。
その疑問をぶつけると、即座にその通りだという返事があった。
「針の使い道を研究してたのよ。とにかくちょっとこれを見てちょうだいよ」
不躾に言って、魚を懐から取り出す。巫女服の腋の隙間から出されたのは置いておくことにして、手渡された魚をよく調べてみることにした。
しかし調べるまでもなく、触った瞬間に違和感を覚えた。あの生魚特有のぬめぬめとした感触の他に、まるで生きているみたいに筋肉が緊張している様子が手の平の中にあった。
「まるでじゃなくて生きているのよ。ほらっ」
言いつつ、ぱんと拍手を一回。すると魚が飛び跳ね、手の平から地面へ、地面から湖へと、びっちびちびちと逃げていった。
「この方法を使えば外の海まで行って、眠らせたまま持ってくることができるわ」
そいつは凄いと言う前に、真畔はマグロと口走っていた。
実は小さい頃から、マグロとやらを見てみたかった。食べてみたかった。マグロだマグロだとからかってきた、自分と同じく本物を見たことも無い連中に「これが本物のマグロだ、俺とは似ても似つかない」と言ってみたかったのである。
「でもそうすると、ここの魚とかは誰も食べなくなっちゃうわね。マグロとかカツオの方が美味しいし」
それはいけない。慎ましい性格の真畔であるから、自分の願望のために仲間の生活を犠牲にするのはいただけなかった。女房と愚痴を言い合うこともできなくなりそうだった。
残念ではあるが、真畔は巫女を説得した。
「それじゃ、どうしようかしら」
冬は食べ物が少なくなる妖怪達のために、川魚を眠らせておくのはどうだろう。その提案に巫女は乗った。
善意だけからくる提案ではなく、そうした方が冬に暴れる妖怪も減るだろうという公算も真畔にはあった。
それについても教えてあげると、巫女はますます乗り気になった。
「冬の間、私ものんびりできるじゃないの! 塩漬け以外の魚も食べられるわ!」
喜びの余り、巫女は別れの挨拶も言わずにどこかに飛んでいった。
残された真畔は、一人で艀に浮いた魚を眺めながら、別に思い付いたことを頭の中で煮詰め始めた。
真畔が里に戻った頃には、陽も傾いていた。そしてすぐ、真畔の首も傾げた。
まだ宵の口にも早いというのに、どうも騒然としている。道々ではうわさ話でもしているのか人が溜まっているし、酒屋の軒先には酒にも手を付けずにこれまたヒソヒソやっている連中が多くいた。
組合に顔を出す前に、喉も渇いたことだし、一杯引っ掛けながら聞き耳を立ててみることにした。
どうやら話題は隣の里の話らしく、そこはここよりも山に近い。そこの川に河童が流れてきたとかいう話だった。
その首の後ろに針が刺さっていたというのを聞いて、真畔は酒を口から噴き出した。
他の連中に怪しまれながらも、勘定を済ませてその場を離れる。
気分がすこぶる悪い。今日にあったことや考えたことは明日になってから組合に報告することにして、家へと向かう。
足早ではあったが、途中では河童について別の話を耳にした。
曰く、どんぶら流れてきたのを見た爺さん婆さん夫婦が、河童の尻を割って出て来た子どもを尻子太郎と名付けた。
曰く、河童を連れ戻しにパシリだかなんだか言う名前の天狗が鬼の様な形相で暴れ回った。
曰く……とにかく気分はどんどん悪くなっていった。真偽のほどは定かではないが、大変なことになっている可能性は十分にあった。
何かあったのかと心配する女房にも構わず、早々に布団に潜り込む。当初は頭の中が混乱していて寝付けなかったが、半時もしない内にすやすやとやり始めた。
夢の中では巫女が針を四方八方に投げて暴れ、尻から生まれた尻子太郎が母親の仇を討って空の賽銭箱を持って帰ってお爺さんお婆さんに叱られるという訳のわからない出来事が次々と起こったが、まあ夢なので気にならなかった。
気になったのは、深夜になってから女房に起こされたことだった。
外で物音がする。ちょっと見てきてくれないかい。
是非もない。真畔はつっかえ棒を外すと武器代わりに握り締め、玄関戸を開けた。
何だ、誰もいないじゃないか。
そう思って足下に目を落とすと、黄金のようなものが月光に照らされてぬらぬらと光っていた。
ぬらぬら。ああ、魚か。
腰を落として手に取ってみれば、ヤマメだった。ヤマメはこんもりと、大体二十匹ぐらいもあった。
あの巫女の仕業だというのは、すぐにわかった。あの湖で手に取った魚と全く同じ状態だったからだ。
真畔が控えめながらも笑い声を出しているのを、女房が気にした。外に出て来た彼女に一通りのことを説明してやりつつ、ヤマメを二人で家の中に入れる。
女房は見るに聞くにヤマメの珍妙な状態に驚いていたが、最後に夫から聞かされた提案に更に驚いた。
それは、一緒に旅に出て、湖でも生きられそうな食える魚を持って来ようというものだった。
博麗神社の賽銭箱に湖の魚が入れられるようになったのは、それから一年後の正月からであった。