妖怪の山を、一人の少女が登っていた。
幻想郷に聳え立つこの山の住人たちは、基本的に余所者に対しては容赦がない。最近現れた外界の神でさえ、連日宴の数を重ねて漸く周囲の信仰と親交を得るようになった程なのだ。それくらいの頻度でこの山の住人たち――妖怪と接しなければ、普通なら警告に次ぐ警告の末撃ち落とされ喰われてしまってもおかしくない。
しかし、少女はまるでその辺の山を登るのと同じように一歩一歩を確実に踏みしめていた。
河童や天狗など古の妖怪を道中で何度も見かけたが、目と目が合えば皆一様に気さくに挨拶をしてくる。
山の住人でもなく、ましてや弾幕能力も飛行能力も持たないたった一人の人間の少女に対して、だ。
そして少女はそれら全てに笑顔で応える。並んで歩きながら会話を試みる陽気な者もいて、世間話やら互いの情報交換やらに花が咲けば登山の疲れも吹き飛んでしまう。
そして彼女は目的地に到着した。
妖怪の山を頂から麓まで穿つ九天の滝を近くに眺める集落、天狗の里。そのほぼ中ほどに建つこじんまりとした家の前で彼女は足を止めた。この家を伺う事は、この家の者だけでなく里全体に事前に伝えている。迂闊に外出しようものなら、他の天狗たちは力ずくでもそれを阻止しにかかるだろう。
完全なる確信の元、彼女は家の扉をノックした。
「ごめん下さい射命丸さん、稗田です」
ふぅと一息ついた後、よく通るかわいらしい声で彼女――稗田阿求は名乗りを挙げた。
幻想郷の秩序、博麗。
星屑の幻想と恋色の魔砲、霧雨。
瀟洒なる紅の従僕、十六夜。
人間だけでなく妖怪の間でも名の知れ渡った人間となるとその数は限られてくるのだが、彼女…稗田の家系もまた妖怪の間ではその名をよく知られており、また一目を置かれており、友好的に接してくる者が多い。
それが、彼女が編纂する幻想郷縁起に因る物だという事を彼女は知っている。一部の妖怪のリクエストに応じて彼らの紹介を少々誇大化してみたところ、多くの妖怪にウケたらしい。人間に自分という存在を知らしめる絶好の媒体だと、彼らはそう解釈したのだ。
だが、同時に本代の幻想郷縁起は主な読者層である人間の間でも相当な反響を呼んでいた。ただ『幻想郷にはこんなに恐ろしい奴がいるのか』というよりも『この人物の事をもっと知りたい』、ほぼ全てがそれに尽きるのだが。
「あ、ようこそいらっしゃいましたー」
ややあって、爽やかな風と共に少女が阿求の前に現れた。
天狗の中で最速、ひいては全妖怪の中でも一、二を争う俊足を誇る鴉天狗の一員にしてブン屋、射命丸文。
アポイントメントを取っていた為か、見慣れた服でしっかり決めている。清潔感があり、動きやすい軽装で、それでいて可憐な少女らしさを失っていない。ブン屋として理想的ともいえる格好だ。
いつ見てもきれいな人だな、などと思いつつ、阿求は文に招かれるがままに玄関をくぐっていった。
* * * * *
「はあ、私生活ですか」
「一部の読者から要望がありまして。これも幻想郷縁起編纂の一環だとご理解をいただきたいのです」
こじんまりとした家とはいえ、一人暮らしをするには少々手広い。
その家の広間で卓を挟んで相対し、阿求は出されたお茶をすすりつつ早速本題を切り出した。
人妖を問わず、幻想郷縁起に掲載されてから人気と知名度を得始めたという者は多い。それがたとえ人喰いの類でも、『でも可愛いからいいじゃん』『それが逆に魅力』など阿求の予想に反する評価がそこらで聞こえたりもするのだ。
そして今回、特に反響が大きかったのが文だった。
紹介文に添えた挿絵に惹かれたという意見が多かったのでどういう事かと挿絵を見直してみると、なるほど確かに男性の目から見れば興味を持たずにはいられないであろう構図だったのだ。もちろん純粋な意味で『鴉天狗・射命丸文の事をもっと知りたい』という意見もあったのだが、残念ながらそれらはマイノリティ。しかしその辺りの詳細は伝えず、阿求は文の返事を急がず待つ。
「当たり障りのない部分でしたら構いませんが…自分が何度も取材されるというのは妙な気分ですね」
「それをあなたに知っていただきたいというのもあります。一部の方から、あなたの取材スタイルについて偶に…本当に偶にですが苦情を聞きますので」
「う…ま、まあ、できる限り協力させていただきます……」
にこやかな笑顔で釘を刺す阿求には、流石の文も苦笑を返すのが精一杯。ひきつった顔で首を縦に振る。
「…と、ところで、そろそろお昼ですね」
「あ、もうそんな時間」
壁に掛けられた時計の針は長針が鉛直に近づきつつあった。
文に言われてやっと気づいたが、朝早くに里を出てからずっと山を登り通して来た阿求のお腹はそろそろ限界点。
腹が減っては何とやら、という奴だ。
「天狗の食生活など載せたら、その『一部の読者』さん達は喜ぶんじゃないですか?」
「名案…ですけど、御馳走になっちゃっていいんですか?」
「ええ。やっぱり食事はみんなで楽しく、ですよ」
「それではご紹介できる範囲で…あと、御馳走になります♪」
文の提案に阿求は迷わず首を縦に振り、台所に向かう後姿を期待を込めて見送った。
阿一の代より人外の類の生活ぶりは幻想郷縁起を通じて徐々に明かされて来てはいたが、それでも不明な点は多く残っている。文より提起された『天狗の食生活』もその中の一つだった。
天狗とて妖怪の内の一つである以上、人喰いのサガが全くないとは言い切れない。しかしここは妖怪の山、不用意に踏み入ろうとする人間などはまずおらず、仮に踏み入って来た者は一部の例外を除けば喰われる前にまず追い返されてしまう。つまり人喰いは結果的に起こり得ないというわけだ。
天狗の食生活で昔から知られている事と言えば、とにかく酒豪であるという事のみ。文もそうなのかというと、あの可憐な姿からは想像しにくいのだが天狗ならばそうなのだろう。そしてそれ以外…何をどのようにしてどれくらい食べるのかはこれから明かされる筈。
懐からメモと鉛筆を出し、阿求は台所に立つ文の姿を想像しては一人ほくそ笑んでいた。
「お待たせしました~」
「いえいえ、お構いなく~……って、もう!?」
時計の針は未だに12の近くを指している。
それなのにどうだろう、文の両手には湯気を上げる盆が二つ。
…いや、二つだけはない。
文を見上げていた阿求の視界の下端に見慣れぬ色が入って来たので首ごと下を向くと、卓には湯気を上げるいくつもの盆と椀が並べられていた。見た目も量も圧倒的な存在感を放つ料理は、二人で食べるにしてもかなり量が多い。阿求が声を上げるのも無理からぬ事だった。
「取材用って事で、ちょっと気合い入れちゃいました」
「気合い入れたって…本当に一分かそこらしか待ってない筈ですよ私!なのにそれなりに立派な料理の数々!ていうか射命丸さん、実は時間を消し飛ばす程度の能力を持っているとか!?」
「鴉天狗ですから。これくらいは普通ですよ」
照れるなあ、とばかりに頬を掻く仕草が実にかわいらしいが、それにいちいち見惚れている場合ではない。この速さは完全に阿求の理解を超えていた。外の世界にはものの数分で完成してしまう料理があるそうだが、味気ない物が大半で丹精込めて作られた手料理には遠く及ばないのだという。
だがこれは違う。誰がどう見ても今この場で作られた手料理、しかもこの家には自分たち以外の気配を感じないので文が一人で作り上げたという事になるのだ。
「普通なんですかこの速さで…時間を消し飛ばしてないならあれですか?『あらかじめ下ごしらえを済ませた物をここでは使いますー』みたいな」
「そんな事しませんよ。鴉天狗はスピードが命、そして料理は愛情。私の言いたい事、分かりますよね?」
「何となく分かるけど分かりたくないです」
「食材に対して真摯な愛情を持って接すれば、どんな食材も私たちの速さについて来てくれるッ……ああっ、素晴らしい!スピード・イズ・マイ・ライフ!いやむしろマイ・ワイフ?」
「…スピードだけ愛しているように聞こえるんですけど」
「その辺も鴉天狗ですから!」
ぶりっ子する文に対してはうすら寒い視線で見つめるしかない。
以前取材をした時はこんな感じではなかったはずなのに…天狗の貫録の欠片もない今の姿も書いてしまっていいのだろうか…と軽く引きつつ、料理に箸をつける。
さくり。
焼き魚の皮はカリカリ、中の身はホクホク。
身の表面には油が泡立っており、白い湯気が所々に小さな渦を描きながら噴き上がる。その魚はまさに焼き立てで、焼き網から引き揚げられたばかりの物だという事をこれ以上ないくらい端的に示していた。
「でも、あなただけ速くても食材に火は通ってくれませんが…こんな風に」
「その辺も全て愛情で何とかしてます。どうです?この火の通り具合」
「(河童の技術力の成せる技…?)……でも、火力以外の所で時間のかかる料理だってありますが、その場合は?」
「私の愛情だけで何とかならない部分は食べる方に何とかしていただきます」
「?…その辺をもう少し詳しくお願いします」
言葉の意図を掴めず、箸に取った物を口に運ぶ事も忘れて問いかける。
作ってくれた人と料理そのものに謝意を持って食べろという事なのだろうかと考えながら。
「例えば料理に火が十分通ってなかったら、『この生魚は焼き魚なんだ』とか百篇くらい念じてから食べて下さい」
「駄目じゃないですか!料理への愛情は最終的に相手任せ!?」
「『人参がやけに固いのは生だからじゃなくてこれこそ大地の力なんだ』とか」
「いやいやいやいや!ていうか少しでも火は通しておきましょうよ?」
「…え、でもスピード……」
「スピード以前の問題!」
回答は阿求の予想の斜め上…いや、斜め下。
そんな斜め下の回答を自信たっぷりに言ってのけるあたりで『人間の尺度で妖怪を考えてはいけないんだ』と阿求は痛感させられ、単に鴉天狗だからなのか妙にスピードに固執する文をバッサリ切り捨てる。
「……ま、まあ、時間がかかる物は流石に前もって下ごしらえだけでもするか、そもそも作りませんね」
「はあ…とりあえず、冷めてしまわないうちに御馳走になりますね」
「はい、ゆっくりお召し上がり下さい」
スピードクイーンである筈の文が『ゆっくり』なんて言葉を使った事に奇妙な違和感とかすかな破顔を覚え、ともかく食事にありつける事を実感した阿求は再び箸を手に取った。
折角幻想郷縁起の記事に使うのだから、じっくり味わってその味を余す所なく表現できるように…一粒一粒がしっかり立った白米、見るからに美味しそうな艶を放つ煮物、卓の中で鮮やかな緑が映える漬物。文の手料理はもう今すぐどこかに嫁いでも全く恥ずかしくないであろう程の出来栄えで、本当に本人がこの場で作ったのかという疑念すら阿求の中で浮かんで来ない程だった。
「では、いただきm」
「…と、 言 い た い と こ ろ だ が 」
文の瞳がキュピーンとばかりに妖しく光る。
その輝きに阿求の注意が向いた次の瞬間、眼下の豪勢な料理は今度はきれいさっぱり無くなっていた。
時間を消し飛ばしたり止めたりして一人で全て食べたとか、そんなチャチな事では決してない。
それよりもっと単純である意味恐ろしい事の片鱗を阿求は直感的に理解していた。
出された料理は一口もつけられる事なく超スピードで全て下げられてしまった、と。
「あ、ちょ、まだ何も食べてませんよ!?」
「食事時間終了です」
「早ッ!あれだけの物を作っておいて三分ほどで全て食べろと!?」
「私ならもうお腹いっぱいですが?」
ふぅと大きく息を吐く文の腹回りが以前会った時よりほんの少しだけ大きくなっている事を阿求は見逃さなかった。
どうやったのかは知らないがあの時間で自分の分だけはたらふく食べたのか、と驚き歯噛みしつつ。
涼しい顔でお茶をすする余裕がまた憎らしい。食べ物の恨みなだけに憎さも一塩、だが阿礼乙女たるもの常に乙女、心で何を思っても顔には速さへの驚き以外ほとんど出してこない。
「あなたも速ッ!喋りながらいつどうやって食べたか全然見えなかったし!」
「これも鴉天狗にとっては至極普通ですよ?時は金なりとも言いますし」
「うー……と、とりあえず分かりました…『鴉天狗は何をするにも非常識なほど速い』と……ぐぅ」
図らずも筆圧が強くなるのを止められない。
恨み辛みをメモ帳に叩きつけるように一文だけ書き記し、阿求はゆっくりメモ帳を閉じた。
* * * * *
「…と、これくらいなら我々鴉天狗の速さが伝わりますかね」
「……ん?」
「いくらなんでも数分で料理を作ったり完食したりなんてできませんよ」
「…ああ」
「それでも少しは食べさせていただきましたが」
バチコンとウインクする文。それを見て阿求は、これが『速さ』の演出である事を漸く理解した。
阿求の求聞持の能力を持ってすれば、一度見た事は決して忘れない。忘れないという事は、それ以降は何をするにしても本人の意志に拘らずその記憶を意識せずにはいられないという事だ。ましてや求聞史紀の為の取材中に得た記憶を、それの編纂中に果たして意識せずにいられるだろうか…刷り込みの現象を鴉天狗である文が逆に利用してきたのだ。
なるほどこれなら『非常識なほど速い』という一文を盛り込んだとしても説得力があろうというものだ。
「スピードが命と言っても、食事はこれで割と普通なんですよ。私はちゃんと三十回噛んで食べてますし」
「ああ、そうなんですか。それを聞いたらなんだか安心しました」
「二秒で」
「二秒かよ!」
刹那の間も置かずにツッコミを入れてしまうのもまあ無理からぬ話で。
あれでも、速すぎて何をどうしたのかすらも解らないのでは!?
お腹の中に小石を入れて、30回高速回転とか想像してしまった。
メシも早い、寝るのも早いとなると風呂も早いのかー。
普通に焼いたほうが早いよあやや。
タイトル関係ねぇと思ったらあとがきww
「こ・づ・く・り・しましょ♪アッー!」
どこまで行ってもスピードクイーン、文が可愛くも素敵でした。
面白かったです!