人形を操る糸を見ていたら、急に素麺が食べたくなった秋。
一度そう思ってしまうと、意識というのはなかなか他のことへと向きはしない。
私の脳内を駆けめぐるのは、今や人形四割、素麺六割となってしまった。
疼く胃袋を抑える為に、夏の残りは無いかと家中を捜していたら、流し台の下に上手い具合にあるではないか。
速攻で茹でて、速攻でいただく。
なんてことをやっていたら、一匹の妖精がやってきた。
「人形劇するから、色々と教えて!」
アリス=人形劇という図式に辿り着けた事は評価するが、今は素麺を食べるのに忙しい。私はチルノの申し出をあっさりと却下した。
無言で首を左右に振る。
口を開くと、せっかくの胡麻の風味が飛んでいくのだ。ツユに胡麻を入れないなど、それは素麺に対する侮辱である。
「これを見ても、まだそんな事が言えるかしら?」
などと生意気な事を言いながら、チルノが取り出した一枚の紙切れ。
そのチケットらしき紙の中には、『永遠亭一座 初舞台公演』という文字がダンスしていた。
演目はかぐや姫。なんともストレートな題材である。
なにせ、その当人があそこにはいるわけなのだから。ものまねをしていたら、後から本人が出てくるようなものである。
素麺で例えるなら、ツユが無いから麦茶で代用していたら本物が届いたようなもの。
「どう? これで少しはやる気になったでしょ」
はてさて。これで、どうして私がやる気になれるのか。
兎達がお芝居に興じていようと、この素麺の歯ごたえには敵わない。
それでいて、甘辛いツユを弾くことなく、付け合わせの椎茸や錦糸玉子とも見事にもうち解けているのだ。
咥内で繰り広げられる至福の瞬間。これを打ち壊してまで、チルノに付き合う気は毛頭ない。
「黙ってるってことは、オッケーってことね。じゃあ、早速人形を見せてもらうわよ」
沈黙は了承。尋問の常套句だが、誰だ余計な事をチルノに教えた奴は。
心の中で、ツッコミを入れておく。
チルノは勝手に人形を物色し始めたが、今の私はそれすら邪魔する気になれなかった。
今はそれよりも素麺。
戸惑う上海人形と目があった。ごめん。
人形を操る糸が素麺だったら、きっと人形使いは全員素麺マニアになっていたことだろう。
どこかの偉大なドールマスターが、そんな言葉を残していた。
かつての私はそれを鼻で笑っていたが、ごめんなさい偉大なドールマスター。
その言葉、割と真理かもしれません。
「う~ん、思ったより良さそうなのが無いじゃない」
棚の人形を眺めつつ、厚かましい事をほざくチルノ。
別に人形劇の為に人形を作っているわけではないのだ。それ専用の人形がないのも、当然と言えば当然である。
多くの人形が操り人形であり、熟練の技が無ければ操ることなどできはしない。
それゆえに多くの操り人形には糸が付けられており、多くの人形使いは素麺マニアになるわけで。
ああ、それにしても素麺美味い。
「そうか、自分で動く人形ならあたいが操る必要はない。それだったら、そういう人形を集めてやる方が楽かも」
チルノのターゲットが物言わぬ人形から、上海及び各方面の自立する人形へシフトした頃。ようやく私は素麺の魔力から解き放たれた。
有体に言うと、食べ終えたのだ。
「ちょっと、勝手にウチの人形を持っていこうとしないで」
上海を手に入れようとしていたチルノの首根っこをひっつかまえる。
上海を手に入れるなど字面にすると壮大な話だが、実際はただの人形泥棒に過ぎない。
「えー、ちょっとぐらいいいじゃん」
「駄目よ。大体、私の人形は人形劇用のじゃないの。迂闊にスカートの下から手を突っ込もうものなら、セクシャルハラスメントで閻魔様に突き出すわよ」
閻魔様は恐いのか、チルノは大人しくなった。
難しい言葉を言われて、戸惑っているだけかもしれないが。
「そもそも、なんで人形劇がしたいのよ。兎達が芝居をやってるのはわかるけど、だからってどうして人形劇なのか。私にもわかるよう、原稿用紙五枚以内で答えなさい」
チルノは空っぽのお椀を見て言った。
「あたいも素麺食べたい」
保護者はどこよ。
このまま居着かれても面倒だったので、適当に人形劇用の人形を作って渡すことにした。
手間と言えば手間だけど、勝手に人形を持っていかれるよりはマシだ。
元となる人形は作りかけのが幾つかあったので、作ること自体はそれほど時間が掛からなかったのだけど。
ついでに操り方も教えてくれと言われた。
「じゃあ、まずは人形を用意して」
「はい」
「それは素麺」
まだ余りがあったのか。これで明日もパラダイスだ。
「ひとまず、それは置いてといて。人形を用意しなさい」
「はい」
「それは鍋。どうしても素麺が食べたいのね……」
期待と好奇心に満ちたチルノの瞳。
人形劇はどうした。
「人形使いはすべからく素麺の魔力に取り憑かれる。ひょっとしたらこの子にも人形使いの素質が……あるわけないか」
大方、私があまりに美味しそうに食べるから、自分も食べてみたくなったんでしょう。
だからといって、また茹でるわけにはいかない。
あれは明日の素麺なのだ。明日の分は明日食べるのが一番美味しいに決まっている。
などと思いながらも、私の右手は素麺をしっかりと握りしめていた。
「いつのまに!」
などと驚きつつも、私の左手は鍋に湯を張り、コンロの上に置いていた。
「いつのまに!」
そうして、チルノに人形を操るコツを教えること数十分。
その片手間に素麺を入れたり、水を入れたり、錦糸玉子を作ったり、海苔や胡瓜を用意したりと、いつのまにか素麺を食べる準備は万端に整っていた。
我ながら、恐ろしい。
素麺をザルに盛り、自家製のツユを取り出した。
「これが素麺?」
素麺を食べるのは始めてらしく、チルノは瞳をキラキラさせながら素麺に顔を近づけている。
素麺を食べたことがないなど、人生の三分の二を無駄にしているようなものだ。
他人事とはいえ、これはこれで良かったのかもしれない。
チルノの前にも椀を置き、改めてアリスは素麺を向き合った。
「それじゃ、いただきます」
「いっただきまーす!」
絹の糸より白く、ともすれば天女の羽衣とも見間違えそうな素麺をすくい、香ばしい胡麻と醤油の香りが合わさったツユの中につける。
つけすぎてはいけない。せっかくの素麺がふやけてしまう。
適度につけるぐらいが丁度良い。
そしてやはり、一口目は何の付け合わせも必要ない。純粋に素麺の味を楽しむことこそ、一口目の醍醐味にして作法であった。
私は再び訪れる咥内でのカーニバルに軽く目を潤ませつつも、隣で素麺を啜るチルノに尋ねる。
「美味しい?」
チルノは真顔で答えた。
「いや、あんまり」
私は思う。
コイツに、人形使いになる素質はない。
絶対に!
手作り炒飯とかも急に食べたくなることってありますよね?
……あれ、なんか無性に食べたくなってきた……?
美味いまたは旨いでは?
>セクシャラハラスメント
セクシャルハラスメントでは?アリス自身が間違って言ってるという設定なら良いですが。
>「あたいも素麺食べたい」
ここでこう言ってくるチルノに感動しました。まさにチルノ。八重結界さんのチルノの思考のトレースっぷりが恐ろしいです。もしやチルノ?
でもアリスの思考の方がもっとぶっ飛んでて、もっと凄いです。
バカな話好きだなあ