pm10:40
湖の中央の小島に建つ紅き魔の館。
雲間から顔を覗かせた欠けた月が淡い月明かりを降り注いでいる。
月光を浴びて空を舞う二人の少女。幾千幾重の鋭刃が絶える事無く交わされていた。
投げ放たれた刃の大群が切っ先を向けて迫り来る。風を切り裂き我先にと殺到する苦無(くない)は肉を潰し骨を砕き体を八つ裂きにしてもなお余る威力を秘めている。月明かりを反射して煌く刃群は真っ直ぐに、使い手の性格を表すように飛翔する。刃物に限らず人間が手で投げた物体は真っ直ぐ飛ばない。弓矢や銃弾のように『射出』するわけではないからだ。両の手で投げられた数百の鉄塊は物理法則を超越したありえない軌道、ありえない速度で風を裂く。だが、別に不思議な事では無い。自分が投げるナイフも同じように飛んで行くからだ。何も持っていなかった手に手品のように出現した銀の牙を、交差させた腕を水平に薙ぎ払い投げ放つ。右腕を斜めに振り下ろし、勢いを殺さずに半回転して左腕を振るう。舞うように体を動かし腕を振るいナイフを投擲する。苦無とナイフの刃群は一つもぶつかる事無く交差し互いの敵へ疾駆する。金剛石を砕けるのではないかと思うほどの速さで迫る苦無を後ろに下がりながら紙一重で回避する。一方相手は自ら刃の面に突っ込んだ。ナイフの速度は彼女の苦無に劣るが楽に避けられはしない。指を動かすと人形が糸で操られるようにナイフの軌道が変化する。どれ一つとして同じ動き、同じ速さをしない変幻自在の刃群はあらゆる方向から彼女を斬り裂こうと襲い掛かる。針の先を射抜く精密さで急所を狙う銀の雨は一撃でも食らえば致命傷となる。だというのに、彼女の瞳には恐れも迷いも無かった。この程度で止められはしないと、そう語っているように思えた。前後上下左右斜め、およそ考えられるあらゆる方向から突き進むナイフの全てに前進しながら挑む。避けられないものは撫でるように受け流し急所に直撃するものは素手で打ち砕く。並みの人妖なら既に襤褸雑巾と化している操刃を潜り抜けて突き進んでくる。刃に裂かれズタズタになった服、真っ赤に染まった拳、燃えるような紅い長髪をなびかせて向かってくる長身美麗の少女は私が後ろに下がるよりも圧倒的に速かった。接近戦は彼女の独壇場。懐に踏み入られた時点で私の敗北は決定する。牽制で放ったナイフなど避ける必要も無いと言わんばかりに腕で薙ぎ払う。次を投げるより彼女の方が速い。必勝距離まで薄皮一枚という所まで接近して・・・否、接近させて私は呟いた。
「ザ・ワールド」
自身の『力』が世界に広がり全てを支配する確かな手応え。時が止まり自分以外の全てが静止した空間で、『空中で固定』させていた今まで投げたナイフの全てが向きを変え、切っ先が一つ残らず彼女を指す。後方に退きながら投げた大量のナイフが彼女の直前で静止する。こちらに接近しようと最も勢いが乗った時点で時間を停止させたのだ。どれだけ反射神経が優れていようと光速で動けない限り回避は絶対に不可能。前面のナイフに串刺しにされた後、全方位から強襲する千を越える刃に貫かれ剣山のようになるだろう。
「チェックメイトよ」
慈悲も情けも容赦も無く、終わりの言葉を紡ぐ。
「そして時は動き出す」
静止していた空間が本来の流れに戻る。紅い長髪の少女は数多の刃に身を刺し貫かれ物言わぬ肉塊と成り果てる。そうなるはずだった。体の前面に突き刺さったナイフが・・・突き刺さったかに見えたナイフが爆裂するかのような凄まじい白光に弾き返された直後、虹の雨という表現がぴったりの極彩色の妖弾が夜空を満たすほどに解き放たれる。
カウンタースペル。スペルカードに刻んだ術式の強制発動。莫大な『力』がほぼ無時間で符に注ぎ込まれ術式を一気に起動させる。その時の様子が爆弾が爆発したように見える事から食らいボムとも呼ばれている。弾幕ごっこにおいて絶対に避けられない時や致命傷に至る攻撃の場合のみ使用が認められる緊急回避手段。
最初から予測していた。時間停止中に投げたナイフは彼女にカウンタースペルを使わせる為の布石だったのだから。全身を強大な妖気に覆われた彼女は魔理沙の魔砲でもかすり傷すら負わせられない『無敵時間』となっているが、代償として一切の攻撃行動が行えなくなっている。効果が継続する数秒さえ耐え切れば、無敵状態が解除された直後に本命の第二刃群が彼女を細切れにするだろう。
『相手が勝利を確信した時、そいつは既に敗北している』
それは誰の言葉だったか。
自分の勝利を信じて疑わなかった。カウンタースペルを使うことは予測していた。ただ、計算外だったのは・・・
「なっ!?」
七色の妖弾と一緒に、最初から全く速度を緩めず突撃してくるとは思わなかった。弾幕を避けながら咄嗟に放ったナイフは彼女の眉間目掛けて正確に飛んでいったが、全身鎧のように身に纏う濃密な妖気にあっさりと弾かれて肌に傷をつけることすら出来なかった。無敵時間はまだ続いている。きっと、私の懐に飛び込むまで。
舌打ちしながらナイフを投げ捨て服に手を入れた。どうしてこんな簡単な事に気付かなかったのか。スペルカード、カウンタースペルの使用直後に攻撃が出来なくなるのは無敵の防御時間を得る代わりに妖弾を発射したり武器に妖力を込めて投げられなくなるから。だけど、彼女にそんなものは最初から必要無かったのだ。元より肉弾戦を最も得意としているのだから。
「時符、パーフェクト・・・」
スペルカードの術式を発動させようとしたが遅すぎた。人差し指と中指の間に挟まれたまま、秘められた力が解放されずにいる。眼前に突き出された拳を黙って見ていることしか出来なかった。何秒経過しただろう。既に極彩の嵐は止んで、彼女を貫くはずだった千の刃は力を失い地に落ちた。そして、やっと悟った。自分は負けたのだと。
「参ったわ」
不思議と悔しさは無く、素直にそう口にした。まるで負けるのが当たり前であったかのように。
拳を引いて彼女は深く息を吐いた。目の端に涙が浮かんでいる。
「流石に死ぬかと思いましたよ、さっきのは。なんかどんどんハードでエスカレートになってるような気がするんですけど・・・咲夜さん、まさか本気で殺すつもりじゃないですよね?」
「いつも死なない程度に手加減してるわ。まぁ、貴女の場合うっかり手元が狂って脳天を串刺しにしても平気そうだけど」
小動物じみた雰囲気を漂わせて上目遣いに見つめてくる美鈴に静かに告げる。
「そ、そんなことされたらいくら私でも死んじゃいますよっ!?」
「じゃあ本当に死ぬか死なないか試してみる?」
ナイフを手元に出現させると美鈴は条件反射のようにびくっと体を震わせた。
「・・・なんだか全然勝った気がしないですぅ・・・」
「当たり前でしょ。私は本気を出してないもの」
勝った気がしない、か。滝のような涙を流す美鈴を冷ややかに見つめながら胸中で反芻した。
夜の鍛錬を美鈴に持ちかけたのは私だった。腕が鈍らないように軽く相手をして欲しいと頼んだら彼女は二つ返事で引き受けた。最近雑魚ばかり相手にしていたから丁度いいと。
それから毎夜、私達は刃を交わし合った。これまでの戦績は十戦中九勝一敗で、今夜が初の敗北となった。
負けても悔しくもなんとも無く、負けるのが当たり前のように受け入れた。自分は全力を出さず相手は本気。実力で敗れてはいないのだから悔しいと思う必要など無い、が。心の底で何かが引っかかった。この得体の知れない違和感は最初に美鈴に勝った時から感じていた。『勝った気がしなかった』のだ。最初は自分が全力を出していないからそう感じているのだと思っていたが、勝利を重ねる度に違和感は膨らんでいった。腕が鈍らないようにする軽い鍛錬という最初の目的は既に消え失せて、心の中で大きくなる違和感の正体を知ろうと毎夜戦い続けた。だが、答えは見つからない。
「美鈴、手を出しなさい」
「え、どうしてですか」
「つべこべ言わずにさっさとする」
「はいぃッ!」
ナイフをちらつかせると素直に両手を差し出す。私はハンカチを取り出して赤く濡れた手に当てた。白い布地に血が染み込んでいく。
「わっ、わっ」
美鈴が慌てた様子で腕を引こうとする。
「咲夜さん、何してるんですかっ」
「何って、貴女の手を拭いてるだけよ」
「駄目ですよ、ハンカチが汚れちゃいます!」
「そんな事は気にしなくていいの」
手首を軽く握り、指の間まで丁寧に拭いていく。気を込めていたとはいえ私のナイフを素手で受けたのだ。傷にならないはずがない。手の甲をハンカチで撫でると、線状のかさぶたが綺麗に剥がれ落ちる。妖怪としての生命力と気功治療の相乗効果だろう。浅い傷だが人間の私ならこんな短時間では治らない。
「はい、終わったわよ」
「あ、ありがとうございます」
消え入りそうなほど小さい声で呟く美鈴をじっと見つめる。
紅美鈴。人妖。気を使う程度の能力を持つ紅魔館の門番。湖からやってくる外敵を撃退する武術の達人。最近何故か中国と呼ばれ続けている。
自分が彼女について知っている事柄などその程度だ。何年門番をしているのか、その前はどこで何をしていたのか、私は何も知らない。以前に一度訊いてみたが、昔の事は思い出したくないと苦々しく笑った。人に話せないような過去を無理に訊き出すほど無神経ではない。いつになるか分からないが、時期が来ればきっと話してくれるだろう。そう思いながら私達は地上に下りていった。
pm10:50
「犬と猫、どっちが好きだ」
門の傍の壁に背を預けている魔法使いは開口一番そう言った。勿論意味は分からない。分かりたくもないが。
「生憎犬も猫も好きじゃないわ」
「そうか。じゃあ負け咲夜たな。負け犬でも負け猫でもないから負け咲夜だぜ」
先程まで繰り広げていた空中戦を見ていたようだ。心底楽しそうに笑う魔理沙。黙っていれば可憐な美少女に見えるのだが今夜はそうでもない。背中で斜めに交差させた二本の黒い箒を荒縄で体に縛り付けている。どこからどう見ても異様で、どこからどう見ても普通じゃない。
「で、パチュリー様は同行すると言ったのかしら」
魔理沙の言う事をいちいち気にしても仕方が無いから、重要な事だけを訊ねる。
「ああ、勿論だぜ」
答えは予想通りだったが。
パチュリー様が魔理沙をどう想っているか薄々気付いてはいたが、滅多に図書館から出ないあの方が人間の頼みで外に出るなど、赤い霧の一件以前ならば想像も出来なかった。
「・・・お待たせ」
門がわずかに開き、パチュリー様が姿を現す。いつもと変わらぬように見えるが、雰囲気がどことなく柔らかい感じがする。
「おっし、じゃあ行くか」
壁から背を離して魔理沙が歩き出す。と。
「あれぇ?」
後ろから美鈴の素っ頓狂な声が聞こえた。パチュリー様と魔理沙が足を止めて振り向き、私も肩越しに後ろを見やる。三人分の視線をさほど気にせずに美鈴はすたすたと歩いていく。パチュリー様へと。
「パチュリー様、ちょっと失礼」
そう言って美鈴は自分の額に掌を当て、もう片方の手をパチュリー様の額に当てる。
「やっぱり・・・パチュリー様、熱がありますよ。顔もなんだか赤いですし」
「大丈夫よ、このぐらい」
「駄目ですよ、倒れちゃったらどうするんですか。咲夜さんからも何か言ってあげて下さい」
「何かって、本人が大丈夫だって言ってるんだからいいんじゃない?」
「ええっ、そんなあっさり!?」
私が止めると思っていたのか、美鈴は目を丸くしている。
熱があるのは一目で分かっていた。本来ならば外出を止めさせるべきなのだろうが、馬に蹴られて何とやら、という言葉がある。美鈴はそこの所がよく分かっていないようだ。
「そうか、熱があるのか」
魔理沙が悪戯っぽい、絶対に何か良からぬ事を企んでいる笑みを浮かべながらパチュリー様へ歩み寄っていく。
「な、なに?」
不穏な空気を感じてか、パチュリー様は一歩足を引く。
「一緒に連れて行くんだからどのくらいの熱があるか確認しとかないと駄目だろう。こうやって」
魔理沙はパチュリー様を抱き寄せると自分の額とパチュリー様の額を合わせた。
「ちょっ、魔理沙!?」
パチュリー様は逃れようともがいているが、魔理沙が逃げられないように腰の後ろと後頭部に手を回しているのでどうにもできないようだ。
(うわぁ)
以前に風邪で苦しむパチュリー様を看護した事があるが、その時と同じぐらいに顔が真っ赤になっている。熱はきっと四十度を越えているだろう。
「まぁ、このぐらいの熱なら大丈夫だな」
そう言ってパチュリー様を解放する。何が、このぐらいの熱なら大丈夫、だ。パチュリー様がどういう状態か自分が一番分かっているくせに。まぁ、そこが魔理沙らしいのかもしれない。
パチュリー様は肌身離さず持ち歩いている愛書を抱き締めて、背中を向けて逃げるように飛んでいった。
「おーい、パチュリー待ってくれ」
後を追いかけようとして、魔理沙は立ち止まった。
「そうだ、忘れ物」
魔理沙は懐をごそごそ探ると、目当ての品を取り出した。
「ほら、中国。受け取れ」
「え、わっ!?」
投げられた細長い物体を美鈴は慌てて受け取った。
「・・・なんですか、これ?」
手元にある試験管を怪しげに見る美鈴。中身は粘度の高い濃緑色の液体のようだ。
「疲労がきっと回復する魔法の薬だぜ。疲れた時にでも飲んで後で感想をじっくり聞かせてくれ」
そして、魔理沙は箒に跨って夜空へ飛び上がった。
「・・・どうしましょう、これ」
「怪しい物なら捨ててしまいなさい」
「でも魔理沙に後で何か言われそうだし・・・正直嫌な感じはしますけど、一応もらっておきます」
そう言って美鈴は試験管をポケットにしまう。
「咲夜さんはこの後どうするんですか」
「そうね。のんびりお茶でも飲んで、それから眠るつもりよ」
「そうですか」
私は、なんとなく夜空を見上げた。
わずかに欠けた月が淡い月明かりを放っている。
正直不安な要素はあるが、あの二人なら今回の異変を解決出来るだろう。
静かな月明かり。静かな夜。
それが嵐の前の静けさに過ぎないと、門を内側から木っ端微塵に破壊されてから思い知った。
戦闘描写も細密で迫力がありました。