pm10:30
大人の背丈の十倍以上はある巨大な本棚が規則正しく立ち並ぶ大図書館の最奥に、夜の闇に支配されていない一角があった。宙に浮かぶ魔力で創られた光球が目に優しい白い光を放っていた。
机の上は複雑な魔術式、計算式、図形がびっしりと書き込まれた紙で埋め尽くされている。隅に置かれた冷めた紅茶には目もくれず、手に持った数十枚の紙を何度も読み返していた。魔術と外の世界の知識に長けていなければ絶対に理解出来ない文字と記号の群れ。普通の人間や妖怪が読んで理解出来るのは全ての紙の右上端に書かれた番号と、左上端に書かれた『M-9GM』の文字だけだろう。
「設計図は完璧ね。動力炉は実際に造ってみないと分からないけれど、後はアリス次第かしら」
誰に言うでもなく呟いた、その時。私は眉根を寄せて顔を上げた。図書館の入り口には誰かが入ってくると微弱な魔力を放出する仕掛けが施してあり、何者が来訪、あるいは侵入したのか事前に察知出来るようになっている。この時間に図書館を訪れるのはレミィと咲夜以外では例の件で時々やってくるアリスの三人しかいないが、魔力が知らせたのは別の人物だった。いつもならば昼にやってきて夜になると図書館の貴重な蔵書を連れて帰っていくのに、こんな夜遅くに何の用があって来たのだろう。
(考えたって仕方がないわ)
用件は本人に直接聞けばいい。私は片手を天に掲げて指先に軽く魔力を込めた。机の上で乱雑に撒き散らかされていた紙が自らの意思を持ったかのように起き上がり、右上端に書かれた番号順に束ねられていく。背後にある本棚から飛んできた四角い鋼鉄の箱が、紙束を中に納めて元の位置に戻る。本棚で一際異彩を放つ黒い鉄箱はハードカバーの書籍に変化するが、変わったのは外見だけでマスタースパークの衝撃と熱量に耐える強度はそのままだ。存在を希薄にする擬似存在消失の術式を施しているので、術者である自分以外が気付く事も、触れる事もまずありえない。術式を編むのが複雑で面倒な分効果は絶大だった。最初に門番に試した時、彼女は誰からも気付かれなくなった。流石に可哀想になって術を解いたが、術が完璧過ぎたのか、その後も効果はわずかながら継続している。名前を呼ばれない程度に。
ふと、鉄箱に入れた書類を魔理沙が見たらどう思うだろうかと考えた。
アリスと共同で進めている計画は魔理沙に知られないようにしていたし、アリスも魔理沙に知られないようにしている。元々は魔理沙を打倒する為に自身が進めていたものだが、今となってはどうでもいい事のはずだった。魔理沙の性格は既に熟知している。知ればむしろ嬉々として手伝いそうだ。なのに、隠す事を後ろめたいと感じているのはアリスと約束したからか、それとも別の理由か。
無音の図書館に風切り音が響く。音は頭上で止み、深夜の来訪者は静かに降りてきた。輝くような金色の髪にはリボンで飾られた黒帽子。自信に満ちた表情も、小柄な体躯も普段と変わらない。ただ、どうしてそんな珍妙な格好をしているのだろうかと、そう思わずにはいられなかった。
「よぉ、パチュリー」
魔理沙は音も無く床に足を着いた。黒帽子のつばを指で挟み、跨っていた箒をくるりと回転させて柄頭を床につける。普段ならば凛々しく感じるのだが、背負っている物が全てを台無しにしていた。荒縄で頑丈に体に縛りつけているのは黒く鈍い、恐らく鉄で出来ているだろう二本の箒。それを背中で斜めに交差させている。分かりやすく言うならX字だ。
「なんなのよ、それは」
胡散臭い物を見る目で魔理沙が背負う鉄箒を見やる。魔女としての勘だろうか、それがろくでもない代物だとなんとなく感じ取っていた。
「ああ、これか」
魔理沙は肩越しに箒を見て、
「気にするな。ただの秘密兵器みたいなもんだ」
意味ありげな笑みを浮かべてそう言った。
魔理沙は箒を背負ったまま隣に腰掛けた。ギシィ、と椅子が重く軋む音が辺りに響く。きっと厄介な物(ブツ)に間違いない箒についての説明は諦めて、ため息混じりに尋ねる。
「それで、こんな夜中になんの用かしら。もう寝ようかと思っていたんだけど」
「寝るにはまだ早過ぎるぜ。夜はこれからなんだからな」
どことなく深い意味があるような無いような、そんな言葉を口にする魔理沙は、机の端に置いたままにしていたカップを口に寄せて傾ける。
「んー、メイド長の淹れた紅茶は格別だな。冷たくても十分美味い」
「リトルが淹れたのよ、それ」
「細かい事は気にするな」
細かい事を気にしないのはあんたでしょ、と心の中で呟く。自称普通の魔法使いに何を言っても無駄だと既に悟っていた。
「で、何しに来たの?さっきも言ったけどもう寝ようかと思っていたんだけど」
再びため息混じりに尋ねてみる。どんな用件かは知らないがさっさと済ませてとっとと眠りたかった。連日連夜酷使していた脳は休ませてくれと訴え続けている。
魔理沙は飲みかけのカップを机に置いて語り始めた。
「ほれ、最近月がおかしくなってるだろ」
「最近じゃない。馬鹿みたいに宴会やってた頃からもうおかしくなり始めてたわ」
七曜の魔女である私にはさほど関係無いが、月の満ち欠けで妖力が大きく左右される妖怪達やレミィのような悪魔には迷惑極まりない現象だった。気付かないのは人間だけだ。
「それがどうかしたのかしら?」
「月を元に戻そうと思ってな。今夜中にケリをつけたいから手伝ってくれ」
それは、意外な言葉だった。そして意味が分からなかった。今回の事件はレミィが妖霧で幻想郷を覆い尽くした時や、冥界の亡霊姫が春を奪った時とは違う。妖怪が困りこそすれ人間が困ることなど何一つとして無い。だから、魔理沙が自分から事件を解決しようとする理由が理解出来なかった。
「どういうつもり?」
私は目を細めて魔理沙を見据えた。
「どういうつもりって、どういうことだ?」
魔理沙はきょとんとした目で見つめ返す。質問の意味が分からないらしい。
「だから、どうして貴女が今回の異変を解決しようとするのよ。関係ないでしょう」
そう、関係ない。アリスに誘われて一緒に月をおかしくしている犯人をこらしめに行くというなら分かる。だが、魔理沙が自分から動く理由がどうしても分からなかった。
「関係はあるぜ。私もお前も十分関係がある」
何を当たり前な事を言ってるんだと、視線と言葉に込められていた。
「どうして関係があるのよ!」
魔理沙の意図が分からなくて自然と声が荒くなる。
「・・・本当に分からないのか?」
魔理沙は目を丸くして不思議そうに私を見つめた。
「ええ、全然分からないわ」
だからきっぱりと言い切った。
はぁっ、と魔理沙が珍しくため息をつく。目を閉じて前髪をかき上げうーんと唸っている。その様子を訝しんで眺めていると、しばらくして口を開いた。
「ほら、明日は月見もあるだろう。なのに肝心の月が欠けたまんまじゃ風情が無いし、酒も団子も不味くなるってもんだ。だから今夜中に何がなんでも月を取り戻したいんだよ」
・・・なるほど、それなら納得出来る。よく宴会の幹事を務める魔理沙にはむしろ当たり前の事か。
「で、一緒に手伝ってくれるのか?」
「貴女が一人で行けばいいじゃない」
返ってくる答えを予想出来ていながら私はそう言った。
「いや、今回の犯人は月をおかしくさせるような奴が相手だろ。流石に私一人じゃ心許ないから協力してくれる奴が欲しい」
それは分かる。もし私が同じ立場だったらレミィか咲夜を連れて行くだろう。ただ、分からないのは・・・
「どうして私なの?」
魔理沙は今夜中に解決したいと言った。なら、わざわざ時間をかけて紅魔館(ここ)まで来なくても同じ魔法の森に住むアリスに頼めばいい。彼女ならきっと嫌がる素振りを見せながらも魔理沙に協力するだろう。不器用で素直じゃない二人。いつも背中を向け合っているけれど、いざとなれば互いの背中を預けられる間柄。だから、私が魔理沙を手伝う必要など最初から無い。
「決まってるだろ」
最初から無いと、そう思っていたのに。
「お前が一番信頼できて頼れるからだ」
真っ直ぐ私の目を見て、はっきりと言い切った。
ドクン、と心臓が跳ねた。
今の言葉は不意打ちだった。
慌てて顔を逸らして横を向く。視界の端には、にやにや笑って私の反応を楽しんでいる魔理沙の表情。
「・・・私、疲れてるのよ」
「一晩ぐらい無理したって大丈夫だぜ」
「根拠は?」
「これだ」
魔理沙は懐から試験管を取り出した。中には粘度の高そうな濃緑色の液体。鉄箒に感じたのと同じ嫌な予感がする。
「最近開発した滋養強壮兼眠気覚ましの魔法薬だ。どうしても協力してくれないならこいつを無理矢理にでも飲ませて連れて行く」
「それ、自分で試した?」
「いんや。というよりまだ一度も試してないから副作用とか全然分からん」
効果の分からない魔法薬は毒薬に等しい。人間だろうと妖怪だろうと危険な毒物に変わりない。
「さぁ、こいつを飲んで無理矢理連れ出されるか素直についてくるか、どっちかを選びな」
「私に拒否権は無いのね」
はぁっ、とため息を吐く。選ぶべき道は一つしかないようだ。
「仕方ないわね。喘息の調子もいいし、付き合ってあげるわ」
「そうか。じゃあついでにこの薬を・・・」
「絶対に嫌よ」
肩をすくめて試験管をしまう魔理沙。
「じゃあ時間も無いし早速出発するぜ」
魔理沙が椅子から立ち上がろうとした瞬間、バキィッ、と破砕音が響いた。
「うおわっ!?」
「魔理沙っ!?」
魔理沙が椅子ごと後ろへ倒れ込んだ。さっきの音でまさかと思い足元を見ると、座っていた椅子の四足、後ろ二つが砕け折れていた。それほど頑丈ではない木製の椅子だが、少女一人の重みに耐えられないほど柔ではない。体重が増えたにしても五倍は重くならない限り椅子の足が折れるなど在り得ない。
「痛てて」
床に後頭部を強打した割には全然痛くなさそうに頭を撫でている。
「大丈夫?」
「ああ」
背中を床につけたまま魔理沙が手を差し出す。私は手を掴んで引き起こそうとしたが、びくともしなかった。掌はこんなに柔らかいのに、まるで石にでもなったかのように。
きっと魔理沙としては体を起こそうとほんの少し力を入れただけだったんだろう。けど、私の手を引っ張る力は態勢を崩すには十分過ぎた。
「きゃっ」
引きずり倒されそうになって反射的に目が閉じる。魔理沙がクッション代わりになって体に痛みはなかった。私は体を起こそうと目を開けて、そのまま動けなくなってしまった。頭の奥の冷静な部分が、レミィが運命を操ったんじゃないかと囁いた。
それはどんな神の悪戯か。
傍から見れば私が魔理沙を押し倒しているように見えるだろう。両手は頭を挟むように、膝は腰をまたぐように床に突いていた。服越しに伝わる柔らかさと温もりが理性を侵食していく。吐息が触れるほどの間近に魔理沙の顔がある。あと数センチ頭を下ろせば唇が触れ合う距離。
顔が熱い。頭が熱い。体が熱い。心が熱い。どんなにひどい風邪を引いた時よりも全身が熱く、頭は朦朧としている。冷静な思考能力は既に喪失していた。瞳は桜色の唇だけを映している。体に篭もった熱を全部吹き込めば楽になれるとぼんやり思った。ゆっくり目を閉じながら顔を近づける。
「パチュリー」
魔理沙の手が頬に添えられる。眠ってしまいそうな心地良い感触。狭まった視界には魔理沙の口しか見えない。触れ合う直前で、唇が動いた。
「早くどいてくれないか」
そこで、目が覚めた。
「!?」
自分でも驚くぐらいに素早く魔理沙から離れ起き上がる。
体中の熱が違う種類に変化していく。火が吹き出そうなほど顔が熱い。魔理沙とまともに顔が合わせられず机の上に視線を向けると、ぽつんと置かれたカップが目に入った。何の逡巡も躊躇いもなく一気に冷めた紅茶を喉に流し込む。行儀が悪いと思う余裕は無かった。だん、と砕き壊さんばかりの勢いでカップを机に叩きつける。
「なぁ、パチュリー」
「なに!?」
上擦った声で振り返る。魔理沙は既に立ち上がり、困ったような顔で私を見ていた。
「その紅茶は私が・・・いや、どうでもいいか」
魔理沙は箒にまたがり宙に浮く。
「私は門で待ってるからゆっくり準備してきてくれ」
図書館の入り口へ飛んで行き、すぐに見えなくなった。
私は糸の切れた人形のように机にへたり込んだ。心臓は全力で熱い血液を全身に流し続けている。熱はなかなか冷めてくれない。
月を歪めている犯人を突き止めに行く。
幻想郷の歴史に残るだろう大事件を解決しに行くというのに、この調子では先が思いやられる。落ち着け、冷静になれと何度も自分に言い聞かせる。頭の熱が急速に冷却されていく。
「・・・・・」
指先で唇を撫でる。さっきの出来事を思い出しそうになって、頭を左右に振った。
冷静になれ、冷静に考えろ。いつもの調子でいればいい。良し。
まずは書斎に戻ってスペルカードの準備。火符、水符、木符、金符、土符、日符を予備を含め二枚ずつ。月がおかしくなって効力が極端に弱くなっているが月符も一枚だけ持って行こう。備えあれば憂い無し。
事件を解決するまでに夜が明けるかもしれない。もしも月を欠けさせているなんらかの術が夜しか行えない類のものならば、太陽が顔を出した時点で終わり。妖気を辿って犯人の元に辿り着けない。・・・アレが使えるかもしれない。だいぶ前に咲夜の時符を私なりに改良したあの符が確か五枚残っていた。アレなら時間は止められないが夜を止められる。
後は大してする事はない。カップを小悪魔(リトル)に片付けさせるぐらいだ。本当ならちゃんと飲んで美味しかったと言ってあげたいけど、状況が状況だったので味は覚えていない。でも魔理沙が美味しいと言っていたからその旨をちゃんと伝えておこう。そう、魔理沙が飲んで・・・
「!?」
知識ならば誰にも負けない自信がある。だから、間接キスという言葉が頭に浮かぶまで時間はかからなかった。
落ち着くにはまだ少し時間が必要だった。
続きが楽しみです。