聞いてください聞いてください。私の師匠って凄い人なんです。
かの月ですら天才って言われるぐらい博学で、頭の回転も速くて、いつでも冷静沈着で、
気配りもできるし、美人でスタイルもよくって優しくて、私や姫やてゐがする悪さや失敗のせいで
たまに困った顔をしていても、それで本当に困ってた事なんてないぐらいなんです。
何よりも。戦いから、同胞からすら逃げ出した罪深いこの私を赦してくれる、懐の広いお方なのです。
でもそれは、とおーいとおーい大昔、私に出会うよりずっと前、姫と出会った少し後、まだ二人が月にいた頃に
師匠自身が犯した赦されざる罪があるからだと、姫から聞かされた昔話で知りました。
師匠にも、姫にも、私には想像もつかないような辛くおぞましい過去があったのです。
そんな話を聞いてからしばらく経ったある日の晩。トイレに行こうとむっくり起き出し、永遠に広い永遠亭の廊下を
てくてくとぼとぼすーいすいっと歩いていた時の事です。
ふと通りがかった師匠の寝室の前で、私の長い耳が不穏な物音を捉えました。物音? 違った。
それは声でした。寝息とは程遠く、寝言にしたって尋常ではない、まさに呻き声でした。
ここは師匠の寝室。中にいるのは寝ている師匠だけ。となれば呻いているのは師匠ということです。
大慌てで襖を開け放てば、聡明な私の推理どおり、寝床の中で師匠が悶えていたのです。
毒も効かず病にもならない蓬莱の大天才がこの有様とはこれは一大事、私は師匠の肩を強く揺さぶり、
大声で名前を呼びました。そんな私の適切にして余りある応急処置の甲斐があって、程なくして師匠は
意識を取り戻し、まぁ正確には寝ていたところを起こされただけですけれども、私の前で力なくうなだれたのです。
「ど、どうしたんですかっ師匠! 一体何があったんですかっ!?」
「何でもないわ。ちょっと悪い夢を見ただけ」
「そんなワケないでしょう! 尋常じゃないうなされ方だったし、今も脂汗びっしょりじゃないですか!」
「本当よ、本当にちょっと夢見が悪かっただけ。心配させて御免なさい。もう大丈夫」
師匠はそう言って私をなだめますが、その瞬間ですら苦虫を噛み潰して舌の上で転がしているような顔をしています。
私はもう気が気ではありませんでしたが、そこで師匠が無理に見せてくれた笑顔が私を若干冷静にしてくれました。
「でも、そんな青い顔で大丈夫って言われても……ひとまず、冷たいお水を持ってきますね」
「ええ。有難う」
私がコップに氷水を汲んで戻ってくると、師匠の方も幾分か落ち着きを取り戻していました。
コップの水をぐいと飲み、一息ついた師匠の顔にはもうさっきの脂汗はありません。実に瀟洒です。
「それにしても、師匠がうなされるなんて、どんな酷い夢だったんですか」
「どんなも何も、私がうなされるぐらい酷い夢よ。聞きたいの?」
「う、怖いなぁ。でも、夢って他人に話すと分散するって言いますし、それで師匠が楽になるなら」
「有難う。鈴仙は優しい子ね」
「そんな。師匠に比べればまだまだです」
「ふふ、おだてても何も出ないわよ」
「いえ、出ますよ。例えば今さっき見た夢の話とか」
夢が分散するというのは私も姫からの聞きかじりだったのですが、それで師匠の見る悪夢が取り除けるのなら。
私は、師匠の見た夢の話が聞きたいと心から願いました。師匠はそんな私の我侭を察してくれたようです。
「……昔のことをね、思い出していたの。私が罪を犯した日、蓬莱の薬を作り、そして飲んだ日の夢。
蓬莱の薬ってね、ゆるーい水飴状なの。一さじ舐めるだけで生老病死が消えて無くなる禁断の薬。
姫のために作って姫のために飲んだこと、例えどんな罪でも恥じた事はないわ。ただ今までで一度だけ、
後にも先にも薬を飲んだその瞬間だけね、禁忌の薬を作り出したことを後悔したのは。……姫も同じだったはず」
「『まさかこんなにニガいなんて思わなかった!』ってね。あぁもう、思い出しただけでまだ口の中が苦い気がするわ!」
そう言って師匠は枕元にあった胡蝶夢丸キャンディーを一つ包み紙から剥き、口に放り込んでガリガリ噛み砕きました。
それから歯を磨きなおしに洗面所に行ったので、私は我慢してたのを思い出してトイレに行ってから寝ました。