紅魔館の門番隊というのは激務である。その隊長ともなれば更に。
侵入者に警戒するために人手を絶やすわけには行かないし、最近は黒白の突撃の際に損
耗が出るせいで、なおさら一人当たりの負担が高くなっている。当然、責を一手に担う隊
長ともなれば更に忙しく、休みは殆どない。
「さー、今日も一日頑張るわよ!」
「……あれ? 隊長、今日休みですよね?」
「……え?」
「ほら、シフト表。休みになってますけど」
「…………」
……が、全然ないわけではないのである。
「……どうしよう」
紅魔館の門番隊隊長こと、紅美鈴は悩んでいた。なんのことはない、折角の久方ぶりの
休日なのに、やることがないのである。これが事前に今日が休日だと分かっていれば色々
と計画も立てられたのだろうが、何しろ当人が完全に忘れていたため、これと言って予定
もない。
「かと言って、普段の休憩時間のように過ごすのも……」
寝台に横になり、ふと窓から外を見る。ここ数日のぐずついた空模様が嘘のような快晴
だった。
「……うん、久しぶりに顔を出してみますか」
晴れ渡る空に外へ出る意欲をそそられたのか、美鈴は寝台から起き上がると着替えを始
めた。「彼女」は今日はどうしているのだろう、そんなことを考えながら。
紅魔館では多数のメイドが働いているが、多くの人――人ではないほうが多いと言う異
見はこの際無視させていただく――が集まるところの常として、それなりに体系立てられ
た組織が作り上げられていた。そのメイドたちを束ねるメイド長が、十六夜咲夜である。
弱冠十数歳の人間がメイド長になるまでには紆余曲折があったのだが、今日の話とは関係
ないので割愛させていただく。
さて、いわば紅魔館の運営管理という重責を負う役職にある咲夜だが、そんな彼女にも
休みはある。今日はまさにその休みの日だった。と言うか、今日に合わせた、と言ったほ
うが正しいのだが。
(今日は姉さんも休みのはず。久しぶりに二人で……)
普段のやりとり――すなわち「ダメ門番!」の罵声と共に乱れ飛ぶナイフ――からは
中々に想像し難いが、咲夜はプライベートな場では美鈴のことを「姉さん」と呼び、慕っ
ていた。咲夜が幼い日に紅魔館の主であるレミリアに拾われたのち、彼女の面倒を見たの
が美鈴だという事情を知れば、なるほど、頷ける話ではあるのだが。
ともあれ、お互い忙しい身であるのだが、咲夜はなんとか事情をやりくりして美鈴の休
みに合わせて休みを取り、久しぶりに二人の時間を満喫しよう、とそう考えていた。完璧
で瀟洒たるメイドは己のプラン達成に向けて全力を傾け、なんとか同じ日に休みを取るこ
とに成功したのである。
「ね――美鈴、いる?」
公私の別はつけねばならない。今は私服でいるとしても、場所は紅魔館の中である。
「姉さん」と出掛かった言葉を飲み込み、言い直して呼びかけた。が、しかし。
「……あれ?」
部屋にいる、はずの美鈴から返事はない。
「鍵もかかってる……まさか門の所に?」
てっきり部屋でくつろいでいると思っていたのだが。ともあれ、実は今日も仕事だった
のだろうかと不安に駆られた咲夜は慌てて門の所に向かった。
「隊長なら出かけましたよ?」
門の所に美鈴の姿はなかった。どころか、門番隊から聞かされたのは、美鈴が館にすら
いないという現実であった。
「どどどどど、どこにっ!?」
「おおお、おちついてくださいぃぃ!」
予定が第一歩目で頓挫したという現実にうろたえた咲夜は、思わずその門番隊の子の胸
倉を掴んで振り回していた。
教訓。
誰かを誘う場合は、事前に伝えておくべきである。
「…………むう」
人里に住まう白沢の半獣人こと、上白沢慧音は悩んでいた。ここ暫く台風に始まる連日
の雨の対応に追われ、早手回しで様々な仕事をこなし、ようやく一段落着いた。そこで、
ぽっかりと時間が空いてしまったのである。
子供たちは今日は家の手伝いをする日だし、妹紅は「今度こそ輝夜に勝つ!」と言って、
山篭りに行ってしまった。聞いたとき、どこの山に篭る気だと思ったのだが……本当にど
こに行ったのだろう。まさか神々の棲まう山ではあるまいが。
それはさておき、中途半端に空いた時間を持て余しているのは事実だった。とは言え、
折角の浮いた時間をぼうっと過ごすのも勿体無いこと。書でも読むかと書棚に向かい、
「慧音、いる?」
懐かしい声が聞こえてきたのは、その時だった。
「これはこれは、珍しい客人だな。入ってくるといい」
「ん。それじゃ、お邪魔します」
声と共に戸が開くと、印象的な赤い髪を持った女性が姿を見せた。
「久しぶりね、慧音」
「ああ、久しぶりだな、美鈴」
「しかし珍しいな。ここ十年ほどは、殆ど紅魔館から離れてなかったように記憶してい
るが。何か急用か?」
美鈴にお茶を出しながら、慧音はそう尋ねる。
「あら、友達のところを訪ねるのに理由は要らないでしょ?」
出されたお茶を啜りながら、美鈴はそう答える。
「それはまあ、そうだが。長いこと顔も出さない奴が急に訪ねてくれば、勘ぐりの一つ
も入れたくはなるさ」
「それは失敬。でも本当に、休みだから久しぶりに顔を出してみようと思っただけよ」
中々辛辣なことを言う慧音に、美鈴は苦笑しながら返す。
「休みか。あの屋敷の奉公人にも、そんなものがあったのだな」
「あったのよ。昔はなかったけど、作らせたの」
「確かに。昔に君が里に下りてくるときは、必ず仕事だったな」
苦笑を浮かべながら、慧音は初めて美鈴と会った時を思い出す。
「最初は見知らぬ顔がいるから訪い人かと思えば、妖怪だったのだからな。いや、あれ
は驚いた」
「まあ、『気を使う』のが私の能力だから」
おどけた様子で当時の驚きを表現する慧音に、美鈴もまた苦笑で返す。
妖怪は、須らくそれらしき「気」を纏う。無重力の巫女などは一向に気に介さないだろ
うそれを、慧音は敏感に感じ取るのだ。里の守護者としての責任感がそれをさせる。
だが、その慧音をもってしても、美鈴は「ただの人間」にしか見えなかった。美鈴が己
の能力、即ち「気を使う程度の能力」をもって、妖怪としての「気配」を隠していたから
だ。
「あの頃は幻想郷では新参だったのも事実だけどね。外では色々苦労したから、自然に
隠し方が身に付いちゃったのよ」
世界が忙しなくなれば、妖怪は世界から逐われるようになった。彼女、紅美鈴もまた、
幾度となく妖怪を退治しようとする者たちに追われる内に、人の間で生きる術として己の
正体を隠すことを覚えた。或いは人里離れた所に隠れ住めば、そのような煩わしさからは
ある程度逃れられたのかも知れない。しかし、それでも彼女は、ついに幻想郷に逃れなけ
ればならなくなったその瞬間まで、人と共に在ることを望んだのだ。
「人の願いから生まれ、人を守るために在る妖怪……か。正直、耳を疑ったよ」
「あら非道い。信じてなかったの?」
「いや、そういうワケではないさ。……だがまあ、皮肉なものだな」
「何が?」
「君の今の境遇だよ。人を守るために生まれた者が、人と敵対する吸血鬼の元で、吸血
鬼を守護する門番をやっている。これを皮肉と言わずにどうする?」
「確かにその一事だけ取り出せば、皮肉めいて聞こえるわね」
おどけたように告げる慧音に、美鈴は苦笑で返すしかない。
慧音の言う通り、一切の事情を鑑みずに今の彼女の境遇を見れば、それは皮肉めいたも
のに映るだろう。だが、美鈴自身は全くそのようには思っていなかった。
「これは契約だから」
「契約か」
「そうよ。長きを生きた妖怪が、たった一つのささやかな願いを叶えるために、悪魔と
交わした契約なの」
詠うように告げる美鈴を、慧音は呆れと憧憬がない交ぜになった表情で見つめる。
そう、彼女は確かに紅い悪魔と契約をしていた。たった一人、彼女が手を取って導くべ
き少女との出逢いの為に、その少女の終(つい)の歩みを見届けるために。契約を交わし
た瞬間から少女がその生を終える瞬間までの時間を売り渡したのだ。
他人が聞けば、呆れるか馬鹿にするかもしれない。だが、慧音はこの優しすぎる妖怪の
ことをよく知っていた。喩えこの契約の元、多くの時を人里離れた場所で過ごすことにな
ろうとも。彼女のささやかな願いが叶えられた五十年あまりの時間は、彼女にとっては何
にも換えがたい時間になるだろうことを、慧音はよく知っていた。
「そうか。かの娘ももう一人前になったことだし、そろそろ里に移ってもらえないか、
そう思っていたのだがな」
「契約を違えることはできないわ。それに、あの子もお嬢様の元を離れたがらないで
しょうし。……しかし、一人前、ねぇ」
言外に、レミリアとの契約によってめぐり合った少女、咲夜と離れる気はない、と告げ
る美鈴。それはいい、そんなことは慧音も分かっていた。だが、一人前、という言葉に対
し、美鈴が複雑な笑顔を浮かべたことを、慧音は少々意外に思った。
「巷では『完璧で瀟洒なメイド』などと言われているだろうに」
「私から見ればまだまだよ」
「意外だな、君は身内には甘い人間……もとい、妖怪だと思っていたが」
「うーん、甘いとか厳しいとかってあんまり考えたことないけど。でも、やっぱりあの
子には、まだまだ色々、教えたいことがあるのよね」
「なるほど、世話を焼きたがる姉の心境か」
「そうかもね」
顔を見合わせ、お互いに笑みを浮かべる。そこにあるのは、確かに気の置けない友人同
士の会話だった。
そうして一呼吸置くと、慧音は立ち上がって窓辺に歩いていき、そこから窓の下を覗き
こんだ。
「そういう訳で、君の敬愛する姉上殿はまだまだ君から手が離せないそうだ。振られた
私としては残念なことだがな」
「ななな、なんのことかしらっ!?」
窓の下では、変な格好でへばりついていた咲夜が顔を真っ赤にして、必死に抗弁してい
た。……もっとも、何を否定しているのかは自分でもよく分かっていないのだろうが。
「ふむ、何やら恋人の浮気を心配する彼女……いや、姉に変な虫がつかないか心配する
妹か? そんな感じの人物が軒下にいるような気がしたのだが」
「酷い、咲夜ちゃん。お姉ちゃんのこと信用してくれないのね」
芝居がかった話し方でズバリ核心を突く慧音に合わせ、美鈴が嘘泣きをしてみせる。
「いいい、一体何を言ってるのか、さ、さっぱり分からないわね。わわ、私は、ただ、
門番が休みになな、何をやってるのか、メイド長として、そう! メイド長として、素行
調査をしてただけなんだから!」
「分かった分かった、そういうことにしておこうか」
どう見てもめ一杯お洒落してみましたという服装で素行調査も何もないものだが、明
らかにいっぱいいっぱいな咲夜に、慧音は苦笑しながら追及を打ち切る。隙間妖怪などが
相手ならここから容赦ない追撃が入るのだろうが、そこは自他共に認める幻想郷の数少な
い常識人である慧音のこと、引き際は弁えていた。
「さて、素行調査とかされてるみたいだし、ボロを出す前に帰るとするわ。ほら、いき
ましょうか、咲夜ちゃん」
「え? 行きましょうかって……?」
「一緒にお出かけ。たまにはいいでしょ? そのつもりで追いかけてきたんじゃない
の?」
「えっと、その……あう」
美鈴ににっこり微笑みかけられてそういわれては、咲夜は何も言えなくなってしまう。
慧音も、そんな二人の様子をにこやかに眺めていた。
「まあ、また暇ができたら来るといい。茶飲み話ぐらいは付き合おう」
「そうね。それじゃまた。健勝で」
「まだまだ斃れるつもりはないさ。むしろそちらの方がハードだろうに」
「お生憎様、体の頑丈さには自信があるのよ」
「よく知ってるよ。では、な」
「ええ」
若干うつむき加減で美鈴に引っ張られていく咲夜という、中々に稀な光景を見ながら、
慧音は友人を見送った。
明日からはまた、お互い日常に戻っていく。
慧音は里の子供たちに勉強を教え、智恵者として里人の相談に乗る。
美鈴は門番として黒白に吹き飛ばされ、咲夜に折檻される。
「全く。よく続くな、君も」
日ごろの美鈴の苦労を思い浮かべ、苦笑と共に、そんな言葉を洩らした。だが、あの人
間以上にお人よしな妖怪は、そんな毎日を笑って過ごしてゆくのだろう。たった一つの願
い、「ただ一人の人間の為、その人の生涯の間手を貸す」ことの為に。
「負けていられないな、私も」
そう呟き、空を見上げた。明日は忙しくなるかな、そんなことを考えながら。
侵入者に警戒するために人手を絶やすわけには行かないし、最近は黒白の突撃の際に損
耗が出るせいで、なおさら一人当たりの負担が高くなっている。当然、責を一手に担う隊
長ともなれば更に忙しく、休みは殆どない。
「さー、今日も一日頑張るわよ!」
「……あれ? 隊長、今日休みですよね?」
「……え?」
「ほら、シフト表。休みになってますけど」
「…………」
……が、全然ないわけではないのである。
「……どうしよう」
紅魔館の門番隊隊長こと、紅美鈴は悩んでいた。なんのことはない、折角の久方ぶりの
休日なのに、やることがないのである。これが事前に今日が休日だと分かっていれば色々
と計画も立てられたのだろうが、何しろ当人が完全に忘れていたため、これと言って予定
もない。
「かと言って、普段の休憩時間のように過ごすのも……」
寝台に横になり、ふと窓から外を見る。ここ数日のぐずついた空模様が嘘のような快晴
だった。
「……うん、久しぶりに顔を出してみますか」
晴れ渡る空に外へ出る意欲をそそられたのか、美鈴は寝台から起き上がると着替えを始
めた。「彼女」は今日はどうしているのだろう、そんなことを考えながら。
紅魔館では多数のメイドが働いているが、多くの人――人ではないほうが多いと言う異
見はこの際無視させていただく――が集まるところの常として、それなりに体系立てられ
た組織が作り上げられていた。そのメイドたちを束ねるメイド長が、十六夜咲夜である。
弱冠十数歳の人間がメイド長になるまでには紆余曲折があったのだが、今日の話とは関係
ないので割愛させていただく。
さて、いわば紅魔館の運営管理という重責を負う役職にある咲夜だが、そんな彼女にも
休みはある。今日はまさにその休みの日だった。と言うか、今日に合わせた、と言ったほ
うが正しいのだが。
(今日は姉さんも休みのはず。久しぶりに二人で……)
普段のやりとり――すなわち「ダメ門番!」の罵声と共に乱れ飛ぶナイフ――からは
中々に想像し難いが、咲夜はプライベートな場では美鈴のことを「姉さん」と呼び、慕っ
ていた。咲夜が幼い日に紅魔館の主であるレミリアに拾われたのち、彼女の面倒を見たの
が美鈴だという事情を知れば、なるほど、頷ける話ではあるのだが。
ともあれ、お互い忙しい身であるのだが、咲夜はなんとか事情をやりくりして美鈴の休
みに合わせて休みを取り、久しぶりに二人の時間を満喫しよう、とそう考えていた。完璧
で瀟洒たるメイドは己のプラン達成に向けて全力を傾け、なんとか同じ日に休みを取るこ
とに成功したのである。
「ね――美鈴、いる?」
公私の別はつけねばならない。今は私服でいるとしても、場所は紅魔館の中である。
「姉さん」と出掛かった言葉を飲み込み、言い直して呼びかけた。が、しかし。
「……あれ?」
部屋にいる、はずの美鈴から返事はない。
「鍵もかかってる……まさか門の所に?」
てっきり部屋でくつろいでいると思っていたのだが。ともあれ、実は今日も仕事だった
のだろうかと不安に駆られた咲夜は慌てて門の所に向かった。
「隊長なら出かけましたよ?」
門の所に美鈴の姿はなかった。どころか、門番隊から聞かされたのは、美鈴が館にすら
いないという現実であった。
「どどどどど、どこにっ!?」
「おおお、おちついてくださいぃぃ!」
予定が第一歩目で頓挫したという現実にうろたえた咲夜は、思わずその門番隊の子の胸
倉を掴んで振り回していた。
教訓。
誰かを誘う場合は、事前に伝えておくべきである。
「…………むう」
人里に住まう白沢の半獣人こと、上白沢慧音は悩んでいた。ここ暫く台風に始まる連日
の雨の対応に追われ、早手回しで様々な仕事をこなし、ようやく一段落着いた。そこで、
ぽっかりと時間が空いてしまったのである。
子供たちは今日は家の手伝いをする日だし、妹紅は「今度こそ輝夜に勝つ!」と言って、
山篭りに行ってしまった。聞いたとき、どこの山に篭る気だと思ったのだが……本当にど
こに行ったのだろう。まさか神々の棲まう山ではあるまいが。
それはさておき、中途半端に空いた時間を持て余しているのは事実だった。とは言え、
折角の浮いた時間をぼうっと過ごすのも勿体無いこと。書でも読むかと書棚に向かい、
「慧音、いる?」
懐かしい声が聞こえてきたのは、その時だった。
「これはこれは、珍しい客人だな。入ってくるといい」
「ん。それじゃ、お邪魔します」
声と共に戸が開くと、印象的な赤い髪を持った女性が姿を見せた。
「久しぶりね、慧音」
「ああ、久しぶりだな、美鈴」
「しかし珍しいな。ここ十年ほどは、殆ど紅魔館から離れてなかったように記憶してい
るが。何か急用か?」
美鈴にお茶を出しながら、慧音はそう尋ねる。
「あら、友達のところを訪ねるのに理由は要らないでしょ?」
出されたお茶を啜りながら、美鈴はそう答える。
「それはまあ、そうだが。長いこと顔も出さない奴が急に訪ねてくれば、勘ぐりの一つ
も入れたくはなるさ」
「それは失敬。でも本当に、休みだから久しぶりに顔を出してみようと思っただけよ」
中々辛辣なことを言う慧音に、美鈴は苦笑しながら返す。
「休みか。あの屋敷の奉公人にも、そんなものがあったのだな」
「あったのよ。昔はなかったけど、作らせたの」
「確かに。昔に君が里に下りてくるときは、必ず仕事だったな」
苦笑を浮かべながら、慧音は初めて美鈴と会った時を思い出す。
「最初は見知らぬ顔がいるから訪い人かと思えば、妖怪だったのだからな。いや、あれ
は驚いた」
「まあ、『気を使う』のが私の能力だから」
おどけた様子で当時の驚きを表現する慧音に、美鈴もまた苦笑で返す。
妖怪は、須らくそれらしき「気」を纏う。無重力の巫女などは一向に気に介さないだろ
うそれを、慧音は敏感に感じ取るのだ。里の守護者としての責任感がそれをさせる。
だが、その慧音をもってしても、美鈴は「ただの人間」にしか見えなかった。美鈴が己
の能力、即ち「気を使う程度の能力」をもって、妖怪としての「気配」を隠していたから
だ。
「あの頃は幻想郷では新参だったのも事実だけどね。外では色々苦労したから、自然に
隠し方が身に付いちゃったのよ」
世界が忙しなくなれば、妖怪は世界から逐われるようになった。彼女、紅美鈴もまた、
幾度となく妖怪を退治しようとする者たちに追われる内に、人の間で生きる術として己の
正体を隠すことを覚えた。或いは人里離れた所に隠れ住めば、そのような煩わしさからは
ある程度逃れられたのかも知れない。しかし、それでも彼女は、ついに幻想郷に逃れなけ
ればならなくなったその瞬間まで、人と共に在ることを望んだのだ。
「人の願いから生まれ、人を守るために在る妖怪……か。正直、耳を疑ったよ」
「あら非道い。信じてなかったの?」
「いや、そういうワケではないさ。……だがまあ、皮肉なものだな」
「何が?」
「君の今の境遇だよ。人を守るために生まれた者が、人と敵対する吸血鬼の元で、吸血
鬼を守護する門番をやっている。これを皮肉と言わずにどうする?」
「確かにその一事だけ取り出せば、皮肉めいて聞こえるわね」
おどけたように告げる慧音に、美鈴は苦笑で返すしかない。
慧音の言う通り、一切の事情を鑑みずに今の彼女の境遇を見れば、それは皮肉めいたも
のに映るだろう。だが、美鈴自身は全くそのようには思っていなかった。
「これは契約だから」
「契約か」
「そうよ。長きを生きた妖怪が、たった一つのささやかな願いを叶えるために、悪魔と
交わした契約なの」
詠うように告げる美鈴を、慧音は呆れと憧憬がない交ぜになった表情で見つめる。
そう、彼女は確かに紅い悪魔と契約をしていた。たった一人、彼女が手を取って導くべ
き少女との出逢いの為に、その少女の終(つい)の歩みを見届けるために。契約を交わし
た瞬間から少女がその生を終える瞬間までの時間を売り渡したのだ。
他人が聞けば、呆れるか馬鹿にするかもしれない。だが、慧音はこの優しすぎる妖怪の
ことをよく知っていた。喩えこの契約の元、多くの時を人里離れた場所で過ごすことにな
ろうとも。彼女のささやかな願いが叶えられた五十年あまりの時間は、彼女にとっては何
にも換えがたい時間になるだろうことを、慧音はよく知っていた。
「そうか。かの娘ももう一人前になったことだし、そろそろ里に移ってもらえないか、
そう思っていたのだがな」
「契約を違えることはできないわ。それに、あの子もお嬢様の元を離れたがらないで
しょうし。……しかし、一人前、ねぇ」
言外に、レミリアとの契約によってめぐり合った少女、咲夜と離れる気はない、と告げ
る美鈴。それはいい、そんなことは慧音も分かっていた。だが、一人前、という言葉に対
し、美鈴が複雑な笑顔を浮かべたことを、慧音は少々意外に思った。
「巷では『完璧で瀟洒なメイド』などと言われているだろうに」
「私から見ればまだまだよ」
「意外だな、君は身内には甘い人間……もとい、妖怪だと思っていたが」
「うーん、甘いとか厳しいとかってあんまり考えたことないけど。でも、やっぱりあの
子には、まだまだ色々、教えたいことがあるのよね」
「なるほど、世話を焼きたがる姉の心境か」
「そうかもね」
顔を見合わせ、お互いに笑みを浮かべる。そこにあるのは、確かに気の置けない友人同
士の会話だった。
そうして一呼吸置くと、慧音は立ち上がって窓辺に歩いていき、そこから窓の下を覗き
こんだ。
「そういう訳で、君の敬愛する姉上殿はまだまだ君から手が離せないそうだ。振られた
私としては残念なことだがな」
「ななな、なんのことかしらっ!?」
窓の下では、変な格好でへばりついていた咲夜が顔を真っ赤にして、必死に抗弁してい
た。……もっとも、何を否定しているのかは自分でもよく分かっていないのだろうが。
「ふむ、何やら恋人の浮気を心配する彼女……いや、姉に変な虫がつかないか心配する
妹か? そんな感じの人物が軒下にいるような気がしたのだが」
「酷い、咲夜ちゃん。お姉ちゃんのこと信用してくれないのね」
芝居がかった話し方でズバリ核心を突く慧音に合わせ、美鈴が嘘泣きをしてみせる。
「いいい、一体何を言ってるのか、さ、さっぱり分からないわね。わわ、私は、ただ、
門番が休みになな、何をやってるのか、メイド長として、そう! メイド長として、素行
調査をしてただけなんだから!」
「分かった分かった、そういうことにしておこうか」
どう見てもめ一杯お洒落してみましたという服装で素行調査も何もないものだが、明
らかにいっぱいいっぱいな咲夜に、慧音は苦笑しながら追及を打ち切る。隙間妖怪などが
相手ならここから容赦ない追撃が入るのだろうが、そこは自他共に認める幻想郷の数少な
い常識人である慧音のこと、引き際は弁えていた。
「さて、素行調査とかされてるみたいだし、ボロを出す前に帰るとするわ。ほら、いき
ましょうか、咲夜ちゃん」
「え? 行きましょうかって……?」
「一緒にお出かけ。たまにはいいでしょ? そのつもりで追いかけてきたんじゃない
の?」
「えっと、その……あう」
美鈴ににっこり微笑みかけられてそういわれては、咲夜は何も言えなくなってしまう。
慧音も、そんな二人の様子をにこやかに眺めていた。
「まあ、また暇ができたら来るといい。茶飲み話ぐらいは付き合おう」
「そうね。それじゃまた。健勝で」
「まだまだ斃れるつもりはないさ。むしろそちらの方がハードだろうに」
「お生憎様、体の頑丈さには自信があるのよ」
「よく知ってるよ。では、な」
「ええ」
若干うつむき加減で美鈴に引っ張られていく咲夜という、中々に稀な光景を見ながら、
慧音は友人を見送った。
明日からはまた、お互い日常に戻っていく。
慧音は里の子供たちに勉強を教え、智恵者として里人の相談に乗る。
美鈴は門番として黒白に吹き飛ばされ、咲夜に折檻される。
「全く。よく続くな、君も」
日ごろの美鈴の苦労を思い浮かべ、苦笑と共に、そんな言葉を洩らした。だが、あの人
間以上にお人よしな妖怪は、そんな毎日を笑って過ごしてゆくのだろう。たった一つの願
い、「ただ一人の人間の為、その人の生涯の間手を貸す」ことの為に。
「負けていられないな、私も」
そう呟き、空を見上げた。明日は忙しくなるかな、そんなことを考えながら。
強いなあお姉ちゃん
>めい一杯
目一杯(め・いっぱい)です。確かに強調して「めい・いっぱい」と発音するときもありますが。
>体の頑丈さには自身がある
自信です。
いずれ別れが来るのか
いつの日にか人里には半妖の先生に加えて妖怪のお姉さんがいるのが当たり前に違いない
その日が来るのがちょっぴり寂しいな