千年近くこの竹林に住んでいるが、未ださっぱり道を覚えられないのは輝夜のお脳が欠陥品だからなのだろうか。
右を向いても左を向いても前も後ろも青々とした竹ばかりしか見えず、鬱蒼とした笹の葉が太陽すら隠し、方角もいまいちよくわからない。
捜索隊に見つけてもらうまでゆっくり遭難してもいいのだが、お風呂にも入れないしお腹も減るのも嫌である。
「誰かいないかしらねぇ」
とは言っても当初からそれだけしか考えず、なんにも持たずに散歩と洒落込んだのだが。
暇なのである。そりゃあ千年竹林にひきこもりっぱなしでは飽きも来るというものだ。
たまに人間が迷い込んで来たりすると、輝夜は外の様子を聞かせてもらうために滞在させる。その人間が帰りたいと言ったなら、永琳が忘却剤を処方して竹林の外に兎が放り出すという手筈だ。
輝夜にとってそれは、数十年に一度程度の周期で訪れる数少ない娯楽である。
女の勘でそろそろ見つけられるんじゃないかと思い、今宵は散歩に出たというわけだ。
「誰かァーいなァーい?」
大声を出してみた。
特に変化はない。
仕方ないので再び足を踏み出した。
「動くな」
「あら、やっぱりいた」
聞き覚えのない声が後ろからしたので輝夜は振り向こうとしたが、できなかった。
何せ動くなと言うにも関わらず、相手は輝夜の両腕を背中に回して引っ掴み、首を腕全体で締めて身動きできないようにしていたからだ。
こうなっては動くなもへったくれもない。
「貴様の所属は?」
「私はただのお気楽蓬莱人だけど?」
「戯言を聞く時間と余裕を私は持ってない」
首を絞めている側の手にはナイフが握られていた。その冷たい刃で輝夜の頬を軽く叩く。
よく見えないが、相当酷使されたらしくブレードは傷だらけで切れ味は鈍そうだった。ああいうので傷つけられると痛い。
「貴様が月の住人だということはわかっている。言え。貴様の所属は? 目的は?」
「永遠亭に住んでいる姫よ。目的は……そうねぇ。星間留学かしら」
左の側頭部に熱が迸った。
耳を切られたようだ。痛い。ちょっと泣きたい。
「次はない」
「正直に言ったのに~」
「それが正直だと言うなら、もうこうするしかない」
首に熱。
呼吸が出来ない。気管から入りこむのは最早空気ではなく、輝夜自らの血液。
自身の血で窒息死に至る輝夜を放り捨てた相手は、長い耳をしていた。
なんだ、兎じゃないか。
「月からの追っ手……にしては変な奴だったけど。死体の始末が面倒ったらないわ」
「心配しなくても、そんな必要はないわよ~」
再生した輝夜はよっこらしょと起き上がり、たった今自分を殺した妖怪兎に笑顔を向けた。
彼女は真っ赤な瞳を丸くし、手にしていたナイフを取り落とした。
すかさず彼女は輝夜の目を睨む。とたん、妖怪兎の姿が何重にもブレ始めた。
「むぅ」
「……能力を使わされるなんて……! 貴様、何者?」
「だぁかぁーらー! 永遠亭の姫よ。見なさいこの服。血ですっかり汚れたじゃないの。血は落ちにくいんだから。……っていうかもうこうなったら洗っても使えないわね」
「ふ、ふざけないで! いいわ、今度は脊髄ごと断ち切って……」
改めてナイフを拾い直す妖怪兎に輝夜は近付いた。
彼女は一歩退く。悲鳴のような声を出す。
「な、なんで本物の私が!?」
「……移動してないでしょ、アンタ」
視覚的にいくら増えているように見えても、それはブレているだけで実際に妖怪兎は一匹である。
そして彼女が術を発揮した位置から全く動いていなければ、分身の術など全く意味がない。
慌てて妖怪兎は輝夜の死角に回り、首にナイフを突き立てた。
さらに内部へと捻り込み、一気に引き切る。
頚骨に引っかかったブレードは負荷に耐え切れず、半ばで折れた。
グリップだけを手にした妖怪兎は、返り血を浴びたまま荒い呼吸をする。
「こ、ここまでやれば……」
「あーもうあなたまで血だらけにして~」
「いやあああああああああああ!?」
血の海からむっくり起き上がった輝夜に妖怪兎は絶叫し、文字通り脱兎で逃げ出した。
だが周囲をあまり見ないのは良くない。輝夜が注意しようと思った時には、遅かった。
「うべしっ!?」
「ここらへんはタケノコがたくさんあるから、気をつけないとすぐ足を引っ掛けてしまうのよ」
すっ転んだ妖怪兎の元に駆け寄り、思いっきり打った額を見てやろうと上半身を起こそうとした。
彼女は四肢をめちゃくちゃに振り回し、なんとか輝夜の手から逃れようと必死にもがき――
「ん?」
急に、糸が切れたように妖怪兎はぶっ倒れた。どうやら緊張がピークに達し、気絶したらしい。
銀色の髪を撫で、輝夜は思案する。
「……これを担いで、帰れるかしら?」
永琳は以上の経緯を聞くと、布団の上で縮こまる妖怪兎ににこやかな笑みを向けた。
「耳と気管と脊髄の切除、貴方もされてみる?」
「すみませんすみませんすみませんすみません下手に同胞だったのでうろたえていたんですまさか同じ境遇の人だとは思わなくて!」
ようやく落ち着いたので事情を聞かせられたのだが、聞いたとたん妖怪兎の顔は真っ青である。
だが永琳はそんな程度で済ませるつもりなど毛頭ないらしく、さらに微笑を浮かべた。
「貴方の所属と目的は?」
「わわわわわ私は陸軍諜報部に所属していたレイセンというものです! い、今は軍から、その、休暇をいただきまして……」
「無断休暇、つまり、逃亡兵ね」
「……はい」
「それでもわざわざ穢い地上にまで来るなんて」
「……月は現在、地上の民と戦争中で」
にわかには信じ難い話をレイセンという名の兎は切り出した。
永琳は眉をひそめて聞き、輝夜も半信半疑であったが、重要なことは月と地上の関係ではない。
輝夜が身を乗り出そうとすると、永琳はレイセンに注射器を向けた。
「そ、それは?」
「ん、催眠状態にしてとりあえず持っている情報全部引き出そうかと」
「さっき言ったことで私の持ってる月の情報は全部ですよぅっ!」
「貴方が姫を月からの追っ手と思ったように、私たちも貴方を月の追っ手と思ってるのよ。公平にしなきゃ、何事も」
「永琳、私はこの子を月の追っ手と思っていないわ。だから公平にする必要なんかないのよ」
黙って見ておけば確実に殺しそうなので、輝夜は口出しして止める。
永琳は不満そうに輝夜を睨んだ。
「姫、これは千年ぶりくらいの危機的状況ですよ」
「千年ぶりくらいでしょう? 月側もいい加減忘れてるわよ私のことなんか。私も今まで忘れてたわ」
「まあそうかもしれませんが、別に殺したって減るもんじゃあないでしょう」
「減るわよ。私の楽しみが」
「じゃあそういうことなら」
注射器を引っ込める。
レイセンは安堵の息をつく。その頭を輝夜は撫でてやった。
ばばばっ、と畳を引っかきながらレイセンは節足動物のように部屋の隅まで逃げる。目尻に涙がたまっていた。
「……私、嫌われてる?」
「怯えているように見えますが」
「取って喰やしないわよ。ほら、来なさい。髪をお尻の下に敷いてるから傷んでるじゃない。梳いてあげるわ」
櫛を取り出し、レイセンの傍まで寄る。
抵抗したくても出来ず、逃げ場所もない以上彼女は縮こまるばかりだが、有無を言わさず正座させた。
レイセンの髪は長い間ロクな手入れもされていなかったらしく、フケだらけで枝毛もあれば虱もいる。そのうち百足や蜘蛛も出てくるんじゃないかと思えてきた。
「スサノヲの髪を梳いてるみたいだわ」
「は、はぁ……」
「あとでしっかりと永琳特性の薬湯に浸けて洗ってあげる。髪は女の命よ。逃亡生活でいっぱいいっぱいだったのでしょうけど、その程度の余裕は持ちなさい」
「む、無茶を……」
「姫、広い上に部屋数が多すぎて屋敷の中で迷います!」
「十年暮らせば覚えるわよ。そこのイナバ、このコの道案内お願いね」
数日ほどでレイセンの体調はすっかり整い、まともに動けるようになってきた。
そろそろ長時間話をしても良い頃合いかな、と輝夜は考える。今までは体力や精神力の関係で遠慮していたのだ。
永琳がお茶を持ってくる。
「あの兎、やっぱり怪しいわ」
「まだ疑ってるの、永琳」
呆れるというか感心する。
「彼女は月の兎よ。裸に引ん剥いたしX線写真で体内も調べたから通信機は持ってないのはわかったけど、耳がある限り交信は可能」
「何? じゃあ信用のために耳を切り取れって?」
「いえ。これはこれで利用できるもの。月の情勢を察知されずに知ることが出来るから。あの兎が裏切らない限り」
「月のことなんてこの際どうでもいいんだけど」
「じゃあ兎の耳を夕餉に出しますか」
「上手く噛み切れそうにないからいいわ。ゴムっぽい食感がしそう」
軟骨ばっかり食べてもおいしくはないだろう。
永琳はそういうことなら、と立ち上がる。
「では彼女が怪しい交信をしていないか、私が傍で見張ります。ちょうど助手も欲しかったし。地上の兎より月の兎の方が智恵あるし、手頃だわ」
「永琳が納得するならそうしたらいいわ」
お茶を啜る。
と、どたどたと廊下の方から足音が聞こえてきた。
襖が開けられる。
「た、助けてください!」
「しわみみー」
「みみしわー」
レイセンの耳に、小さいイナバが数羽ぶら下がっていた。見覚えのない耳が珍しいらしい。
輝夜は涙目になったレイセンの耳からイナバを払い落としてやる。
「かぷっ」
「きゃぅっ!?」
「……姫、何やってんですか?」
「ゴムっぽい食感かどうか、知りたくて」
レイセンの耳に齧りついたまま、輝夜は答えた。
地上の因幡と馴染むべく、鈴仙と当て字を入れた月の兎はそれから永琳の弟子として永遠亭で働き始めた。
新参の彼女は日々最古参のてゐにからかわれ、永琳にこき使われ、中々に苦労しているようだったが、愚痴は漏らすものの心底嫌がっている様子はない。
それに頼りない性格をしているものの腐っても月の因幡。純粋な実力が高いため、地上の因幡にいびられているわけでもないようである。
要するに、すっかり馴染んだ。
「故郷は恋しくならない?」
「え? あ、いえ、別に……」
ある日、そう話しかけるといつものように鈴仙はしどろもどろに答える。
輝夜に対しては、出会ってからずっとこれである。やはり主という身分が緊張を呼んでしまうものなのか。そりゃあ永琳ほどさっぱりしろとは言わないが、寂しい限りである。
「わ、私は姫を、師匠を、仲間たちを裏切りません。必ず」
寂しくないかと聞いただけなのに、なぜだか鈴仙は真剣な表情で意味不明なことを言い出した。
どうも彼女はズレている。そこが愛らしいので頭を撫でてやると、鈴仙は全身の毛を逆立てて身を引いた。
「あ、いや、これは」
「臆病ね。因幡はもっと陽気なものなのに」
「地上のと月のとは波長が違うんです……」
「波って根源に辿ると発生源のリズムなのよね。貴方が不協和音にならなくて良かったわ。それだけがここに迎え入れてから心配でねぇ」
「御心配には及びません。皆、新入りで余所者の私に良くしてくださっています」
「異なるコミュニティに馴染むのは大変なことだわ。貴方自身よくやってるからの結果よ。誇りなさい」
「あ、ありがとうございます」
敵意はないことを示し、誉めてやることで鈴仙から滲む拒否の雰囲気が少し和らいだ。
輝夜はそこを見計らい、切り出す。
「私もこの地上に降りたばかりの頃は勝手がわからず、苦労したわ」
「姫の困っているところは、少し想像しにくいんですが……」
「ええ。困ったことは一度とてないわ。楽しんでたから」
月の生活に飽き飽きしていた輝夜にとって、見るもの触れるもの何もかもが新鮮であった地上の生活は、不便で不浄であったが満ち足りていた。
今もそれに変わりはない。さすがに少々引きこもり期間が長すぎて、こんな拾い物でもしていないと退屈で死にそうになるが。
その拾い物こと鈴仙は、目を伏せて、問いかけてきた。
「姫こそ、月が恋しくなることは?」
「そうねぇ。あと一万年くらいたったらさすがに変化の一つも起こっているでしょうから、見に行くのも悪くないわ」
「……そんなことはないとは思いますが、一万年という月日は馬鹿にできません。その間に地上の民に、月は侵略されているやもしれません。それでも、行かないとおっしゃるのですか」
「地上の民が月を侵略なんて、事象の地平線が引っくり返っても起きないわよ」
「私も、そう信じたいのですが」
臆病な赤い瞳を、地面に向ける。
輝夜は剥き出しになった銀色の髪を撫でてやった。また逃げられる。
「わ、私は真面目にっ」
「だから可哀想だと思って、心配ないわって撫でてあげたのに。ねえ、たまに貴方が私と自分は波長が合わないって言ってるって聞くんだけど」
「え、あ、だ、誰からそんなこと!?」
「貴方の瞳がそう見たんだからそうなんでしょうよ。だから、貴方が私に同胞だからって一緒に故郷の心配してくれって言われても、そりゃあ無理な話でしょう」
「理に適ってるような、そうでないような……」
「月がどうなろうが知ったこっちゃない。そう私は思ってる。そして貴方もそう思えばいいのにって思ってるわ。けど、まあ、波長が違うから無理なんでしょうね」
地上には無理難題が多い。それを窮屈と思うか、不便と思うか、解く楽しみがあると思うか、それこそ波長次第だ。
その波長すら合わないことを受け入れて馴染めないことを苦に思うか否かも、彼女に言わせれば波長の問題なのだろう。
大概のことは時間が解決してくれることを、輝夜は知っている。若しくは、時間が破壊してしまうことを。
だから気長に、鈴仙と波長が合う日を心待ちにしていた。
いつしか月の民と地上の民の波長が合う日も、来るかもしれないし。
右を向いても左を向いても前も後ろも青々とした竹ばかりしか見えず、鬱蒼とした笹の葉が太陽すら隠し、方角もいまいちよくわからない。
捜索隊に見つけてもらうまでゆっくり遭難してもいいのだが、お風呂にも入れないしお腹も減るのも嫌である。
「誰かいないかしらねぇ」
とは言っても当初からそれだけしか考えず、なんにも持たずに散歩と洒落込んだのだが。
暇なのである。そりゃあ千年竹林にひきこもりっぱなしでは飽きも来るというものだ。
たまに人間が迷い込んで来たりすると、輝夜は外の様子を聞かせてもらうために滞在させる。その人間が帰りたいと言ったなら、永琳が忘却剤を処方して竹林の外に兎が放り出すという手筈だ。
輝夜にとってそれは、数十年に一度程度の周期で訪れる数少ない娯楽である。
女の勘でそろそろ見つけられるんじゃないかと思い、今宵は散歩に出たというわけだ。
「誰かァーいなァーい?」
大声を出してみた。
特に変化はない。
仕方ないので再び足を踏み出した。
「動くな」
「あら、やっぱりいた」
聞き覚えのない声が後ろからしたので輝夜は振り向こうとしたが、できなかった。
何せ動くなと言うにも関わらず、相手は輝夜の両腕を背中に回して引っ掴み、首を腕全体で締めて身動きできないようにしていたからだ。
こうなっては動くなもへったくれもない。
「貴様の所属は?」
「私はただのお気楽蓬莱人だけど?」
「戯言を聞く時間と余裕を私は持ってない」
首を絞めている側の手にはナイフが握られていた。その冷たい刃で輝夜の頬を軽く叩く。
よく見えないが、相当酷使されたらしくブレードは傷だらけで切れ味は鈍そうだった。ああいうので傷つけられると痛い。
「貴様が月の住人だということはわかっている。言え。貴様の所属は? 目的は?」
「永遠亭に住んでいる姫よ。目的は……そうねぇ。星間留学かしら」
左の側頭部に熱が迸った。
耳を切られたようだ。痛い。ちょっと泣きたい。
「次はない」
「正直に言ったのに~」
「それが正直だと言うなら、もうこうするしかない」
首に熱。
呼吸が出来ない。気管から入りこむのは最早空気ではなく、輝夜自らの血液。
自身の血で窒息死に至る輝夜を放り捨てた相手は、長い耳をしていた。
なんだ、兎じゃないか。
「月からの追っ手……にしては変な奴だったけど。死体の始末が面倒ったらないわ」
「心配しなくても、そんな必要はないわよ~」
再生した輝夜はよっこらしょと起き上がり、たった今自分を殺した妖怪兎に笑顔を向けた。
彼女は真っ赤な瞳を丸くし、手にしていたナイフを取り落とした。
すかさず彼女は輝夜の目を睨む。とたん、妖怪兎の姿が何重にもブレ始めた。
「むぅ」
「……能力を使わされるなんて……! 貴様、何者?」
「だぁかぁーらー! 永遠亭の姫よ。見なさいこの服。血ですっかり汚れたじゃないの。血は落ちにくいんだから。……っていうかもうこうなったら洗っても使えないわね」
「ふ、ふざけないで! いいわ、今度は脊髄ごと断ち切って……」
改めてナイフを拾い直す妖怪兎に輝夜は近付いた。
彼女は一歩退く。悲鳴のような声を出す。
「な、なんで本物の私が!?」
「……移動してないでしょ、アンタ」
視覚的にいくら増えているように見えても、それはブレているだけで実際に妖怪兎は一匹である。
そして彼女が術を発揮した位置から全く動いていなければ、分身の術など全く意味がない。
慌てて妖怪兎は輝夜の死角に回り、首にナイフを突き立てた。
さらに内部へと捻り込み、一気に引き切る。
頚骨に引っかかったブレードは負荷に耐え切れず、半ばで折れた。
グリップだけを手にした妖怪兎は、返り血を浴びたまま荒い呼吸をする。
「こ、ここまでやれば……」
「あーもうあなたまで血だらけにして~」
「いやあああああああああああ!?」
血の海からむっくり起き上がった輝夜に妖怪兎は絶叫し、文字通り脱兎で逃げ出した。
だが周囲をあまり見ないのは良くない。輝夜が注意しようと思った時には、遅かった。
「うべしっ!?」
「ここらへんはタケノコがたくさんあるから、気をつけないとすぐ足を引っ掛けてしまうのよ」
すっ転んだ妖怪兎の元に駆け寄り、思いっきり打った額を見てやろうと上半身を起こそうとした。
彼女は四肢をめちゃくちゃに振り回し、なんとか輝夜の手から逃れようと必死にもがき――
「ん?」
急に、糸が切れたように妖怪兎はぶっ倒れた。どうやら緊張がピークに達し、気絶したらしい。
銀色の髪を撫で、輝夜は思案する。
「……これを担いで、帰れるかしら?」
永琳は以上の経緯を聞くと、布団の上で縮こまる妖怪兎ににこやかな笑みを向けた。
「耳と気管と脊髄の切除、貴方もされてみる?」
「すみませんすみませんすみませんすみません下手に同胞だったのでうろたえていたんですまさか同じ境遇の人だとは思わなくて!」
ようやく落ち着いたので事情を聞かせられたのだが、聞いたとたん妖怪兎の顔は真っ青である。
だが永琳はそんな程度で済ませるつもりなど毛頭ないらしく、さらに微笑を浮かべた。
「貴方の所属と目的は?」
「わわわわわ私は陸軍諜報部に所属していたレイセンというものです! い、今は軍から、その、休暇をいただきまして……」
「無断休暇、つまり、逃亡兵ね」
「……はい」
「それでもわざわざ穢い地上にまで来るなんて」
「……月は現在、地上の民と戦争中で」
にわかには信じ難い話をレイセンという名の兎は切り出した。
永琳は眉をひそめて聞き、輝夜も半信半疑であったが、重要なことは月と地上の関係ではない。
輝夜が身を乗り出そうとすると、永琳はレイセンに注射器を向けた。
「そ、それは?」
「ん、催眠状態にしてとりあえず持っている情報全部引き出そうかと」
「さっき言ったことで私の持ってる月の情報は全部ですよぅっ!」
「貴方が姫を月からの追っ手と思ったように、私たちも貴方を月の追っ手と思ってるのよ。公平にしなきゃ、何事も」
「永琳、私はこの子を月の追っ手と思っていないわ。だから公平にする必要なんかないのよ」
黙って見ておけば確実に殺しそうなので、輝夜は口出しして止める。
永琳は不満そうに輝夜を睨んだ。
「姫、これは千年ぶりくらいの危機的状況ですよ」
「千年ぶりくらいでしょう? 月側もいい加減忘れてるわよ私のことなんか。私も今まで忘れてたわ」
「まあそうかもしれませんが、別に殺したって減るもんじゃあないでしょう」
「減るわよ。私の楽しみが」
「じゃあそういうことなら」
注射器を引っ込める。
レイセンは安堵の息をつく。その頭を輝夜は撫でてやった。
ばばばっ、と畳を引っかきながらレイセンは節足動物のように部屋の隅まで逃げる。目尻に涙がたまっていた。
「……私、嫌われてる?」
「怯えているように見えますが」
「取って喰やしないわよ。ほら、来なさい。髪をお尻の下に敷いてるから傷んでるじゃない。梳いてあげるわ」
櫛を取り出し、レイセンの傍まで寄る。
抵抗したくても出来ず、逃げ場所もない以上彼女は縮こまるばかりだが、有無を言わさず正座させた。
レイセンの髪は長い間ロクな手入れもされていなかったらしく、フケだらけで枝毛もあれば虱もいる。そのうち百足や蜘蛛も出てくるんじゃないかと思えてきた。
「スサノヲの髪を梳いてるみたいだわ」
「は、はぁ……」
「あとでしっかりと永琳特性の薬湯に浸けて洗ってあげる。髪は女の命よ。逃亡生活でいっぱいいっぱいだったのでしょうけど、その程度の余裕は持ちなさい」
「む、無茶を……」
「姫、広い上に部屋数が多すぎて屋敷の中で迷います!」
「十年暮らせば覚えるわよ。そこのイナバ、このコの道案内お願いね」
数日ほどでレイセンの体調はすっかり整い、まともに動けるようになってきた。
そろそろ長時間話をしても良い頃合いかな、と輝夜は考える。今までは体力や精神力の関係で遠慮していたのだ。
永琳がお茶を持ってくる。
「あの兎、やっぱり怪しいわ」
「まだ疑ってるの、永琳」
呆れるというか感心する。
「彼女は月の兎よ。裸に引ん剥いたしX線写真で体内も調べたから通信機は持ってないのはわかったけど、耳がある限り交信は可能」
「何? じゃあ信用のために耳を切り取れって?」
「いえ。これはこれで利用できるもの。月の情勢を察知されずに知ることが出来るから。あの兎が裏切らない限り」
「月のことなんてこの際どうでもいいんだけど」
「じゃあ兎の耳を夕餉に出しますか」
「上手く噛み切れそうにないからいいわ。ゴムっぽい食感がしそう」
軟骨ばっかり食べてもおいしくはないだろう。
永琳はそういうことなら、と立ち上がる。
「では彼女が怪しい交信をしていないか、私が傍で見張ります。ちょうど助手も欲しかったし。地上の兎より月の兎の方が智恵あるし、手頃だわ」
「永琳が納得するならそうしたらいいわ」
お茶を啜る。
と、どたどたと廊下の方から足音が聞こえてきた。
襖が開けられる。
「た、助けてください!」
「しわみみー」
「みみしわー」
レイセンの耳に、小さいイナバが数羽ぶら下がっていた。見覚えのない耳が珍しいらしい。
輝夜は涙目になったレイセンの耳からイナバを払い落としてやる。
「かぷっ」
「きゃぅっ!?」
「……姫、何やってんですか?」
「ゴムっぽい食感かどうか、知りたくて」
レイセンの耳に齧りついたまま、輝夜は答えた。
地上の因幡と馴染むべく、鈴仙と当て字を入れた月の兎はそれから永琳の弟子として永遠亭で働き始めた。
新参の彼女は日々最古参のてゐにからかわれ、永琳にこき使われ、中々に苦労しているようだったが、愚痴は漏らすものの心底嫌がっている様子はない。
それに頼りない性格をしているものの腐っても月の因幡。純粋な実力が高いため、地上の因幡にいびられているわけでもないようである。
要するに、すっかり馴染んだ。
「故郷は恋しくならない?」
「え? あ、いえ、別に……」
ある日、そう話しかけるといつものように鈴仙はしどろもどろに答える。
輝夜に対しては、出会ってからずっとこれである。やはり主という身分が緊張を呼んでしまうものなのか。そりゃあ永琳ほどさっぱりしろとは言わないが、寂しい限りである。
「わ、私は姫を、師匠を、仲間たちを裏切りません。必ず」
寂しくないかと聞いただけなのに、なぜだか鈴仙は真剣な表情で意味不明なことを言い出した。
どうも彼女はズレている。そこが愛らしいので頭を撫でてやると、鈴仙は全身の毛を逆立てて身を引いた。
「あ、いや、これは」
「臆病ね。因幡はもっと陽気なものなのに」
「地上のと月のとは波長が違うんです……」
「波って根源に辿ると発生源のリズムなのよね。貴方が不協和音にならなくて良かったわ。それだけがここに迎え入れてから心配でねぇ」
「御心配には及びません。皆、新入りで余所者の私に良くしてくださっています」
「異なるコミュニティに馴染むのは大変なことだわ。貴方自身よくやってるからの結果よ。誇りなさい」
「あ、ありがとうございます」
敵意はないことを示し、誉めてやることで鈴仙から滲む拒否の雰囲気が少し和らいだ。
輝夜はそこを見計らい、切り出す。
「私もこの地上に降りたばかりの頃は勝手がわからず、苦労したわ」
「姫の困っているところは、少し想像しにくいんですが……」
「ええ。困ったことは一度とてないわ。楽しんでたから」
月の生活に飽き飽きしていた輝夜にとって、見るもの触れるもの何もかもが新鮮であった地上の生活は、不便で不浄であったが満ち足りていた。
今もそれに変わりはない。さすがに少々引きこもり期間が長すぎて、こんな拾い物でもしていないと退屈で死にそうになるが。
その拾い物こと鈴仙は、目を伏せて、問いかけてきた。
「姫こそ、月が恋しくなることは?」
「そうねぇ。あと一万年くらいたったらさすがに変化の一つも起こっているでしょうから、見に行くのも悪くないわ」
「……そんなことはないとは思いますが、一万年という月日は馬鹿にできません。その間に地上の民に、月は侵略されているやもしれません。それでも、行かないとおっしゃるのですか」
「地上の民が月を侵略なんて、事象の地平線が引っくり返っても起きないわよ」
「私も、そう信じたいのですが」
臆病な赤い瞳を、地面に向ける。
輝夜は剥き出しになった銀色の髪を撫でてやった。また逃げられる。
「わ、私は真面目にっ」
「だから可哀想だと思って、心配ないわって撫でてあげたのに。ねえ、たまに貴方が私と自分は波長が合わないって言ってるって聞くんだけど」
「え、あ、だ、誰からそんなこと!?」
「貴方の瞳がそう見たんだからそうなんでしょうよ。だから、貴方が私に同胞だからって一緒に故郷の心配してくれって言われても、そりゃあ無理な話でしょう」
「理に適ってるような、そうでないような……」
「月がどうなろうが知ったこっちゃない。そう私は思ってる。そして貴方もそう思えばいいのにって思ってるわ。けど、まあ、波長が違うから無理なんでしょうね」
地上には無理難題が多い。それを窮屈と思うか、不便と思うか、解く楽しみがあると思うか、それこそ波長次第だ。
その波長すら合わないことを受け入れて馴染めないことを苦に思うか否かも、彼女に言わせれば波長の問題なのだろう。
大概のことは時間が解決してくれることを、輝夜は知っている。若しくは、時間が破壊してしまうことを。
だから気長に、鈴仙と波長が合う日を心待ちにしていた。
いつしか月の民と地上の民の波長が合う日も、来るかもしれないし。