一陣の風が吹き抜けると、伸び放題になっていた幾つかの枝が音もなく地面に落ちた。
一瞬遅れて、遠くで玉砂利を踏む音が。
双剣を鞘に納めた妖夢は、額から流れる汗を首に巻いていた手拭いで拭くと、青々とした快晴の空を困り顔で見上げた。
季節は夏。半分人間とはいえ暑いものは暑いし、運動すれば汗だってかく。
幻想郷でも他に類を見ない高速の踏み込みの最中は、風も当たって涼しい上、その余波で汗も飛んでくれるのだが……。
逆にそれは、止まった際の暑さをより一層実感させてしまうものになっていた。
無論、妖夢とて何の工夫もしていない訳ではない。
手拭いもそのひとつであり、首から下に汗が流れないように、という点では有効な方法だ。
それに加え、今の彼女は通気性と作業性を兼ね備えた夏服である。
紫から『くうるびず』なる――暑い時期は薄着になろうという、ごく当たり前のことなのだが――外界の習慣が幽々子に伝えられた結果、二人による妖夢の着せ替え大会があったのは、言うまでもない。
……だが、対策をしても暑いものは暑い。
どうやら半霊側も暑さで参ってしまったらしく、その特有の冷たさで涼を取る、という妖夢の目論みは早くも不可能になっていた。
「……ふぅ」
だが、祖父であり師でもある妖忌は、何百とこの夏を越えてきているのだ。
そこにどれだけの創意工夫があるのかは解らない。
もしかしたらそのようなものは存在せず、ただひたすらな忍耐のみがあったのかもしれない。
その方がありえそうだ――という考えに妖夢が行き着くと、やはり己の未熟さを実感してしまう。
「もっと、頑張らないと」
誰にともなく呟くと、あらかじめ用意しておいた竹箒を取り、踵を返す。
斬る際は涼しいのだが、斬った枝をそのままにしておく訳にはいかない。
――それは、一瞬のことだった。
流れる視界の片隅、並んだ木々の向こう側に、陽光を受けて煌めく金色の輝きが見えた。
「え……?」
妖夢は慌てて目をこするも、その輝きは既に見えなかった。
狼藉者だろうか――幽々子の護衛も兼ねる妖夢は、真っ先にその可能性を考えていた。
盆の時期は冥界にいる霊も少なく、普段あまり必要ではない警備は、一層おろそかになりがちだ。
見えたのは一瞬、その金色は……おそらく髪の色。
ならば白黒魔法使いか、あるいは人形遣いか。他にも可能性はあるが……その時はその時。
手にした箒を起き、いつでも抜刀出来るように構え、妖夢はその輝きを追うために地を蹴った。
「――待て!」
鋭い叫びを発し、二百由旬の広さと主が誇る庭を疾駆する。
すぐに先程の金色を視界に捕らえることは出来たものの、声に気付かれたのか、まるで幽霊か何かのように消えてしまった。
ここは冥界・白玉楼。幽霊ならば決して珍しくはないのだが……妖夢はそのまま走り続けた。
お化けに対する恐怖とか、そういったものはしまい込んで。
その金色が消えたと思われる場所までは、数秒もかからなかった。
周囲への警戒を怠らず、気を引き締めて減速する妖夢。浮かんで来る汗は、もはや意識していなかった。
辺りには一切の気配がなく、あるとすれば――幽々子が自慢する白玉楼の桜の中でもひときわ大きな妖怪桜、西行妖の悠々たる姿だった。
誰かがいて、ここで消えたのは偶然とは言い難い。西行妖が目的だったのだろうか?
不意に彼女は、いつもと違う点に気付いた。
それは、微かな香と煙の匂い。
よく見ると、西行妖の根元にひっそりと、線香があげられていた。それもまだ真新しいものだ。
「一体誰が……?」
妖夢には、ますます解らなくなっていた。西行妖は妖怪桜であり、墓ではない。
そもそも木の傍に火気というのも危険である……とはいえ、いつぞやの春先にはこの桜並木で、相当派手に弾幕を展開していたのだが。
「どうしたの妖夢、大声なんか出して」
背後からかけられた声は、張り詰めた雰囲気の妖夢とは対照的に、ふわふわとして緊張感がなかった。
だが、そんな声の主こそ妖夢が仕える主人。白玉楼に住まう亡霊嬢。
「す、すみません幽々子様。何者かがいたのですが、その、見失ってしまいまして」
「あらあら……それってもしかして、その線香をあげていった方かしら?」
慌てて振り返り、頭を下げる妖夢。だが幽々子は、西行妖の根元にある線香を見て、何かを察したらしい。
妖夢が頭を上げると、幽々子は遠くを見るような目で口を開いた。
「毎年この次期になるとね、一本だけ線香があげられているのよ。私も気付いたのは何年か前だけどね。
誰がそうしているのかは、まだ解らないけど――」
言葉を切る幽々子。その表情からは、彼女の心の内は伺い知れない。
「――多分、ここに眠っている娘のためでしょうね」
その言葉で妖夢は思い出す。
幻想郷の春を集めたあの一件。
幽々子の目的は西行妖を満開にさせ、その根元に眠る娘を、反魂の儀式によって蘇らせることだった。
結局はそれも失敗に終わり、娘の正体も解らず仕舞いに終わってしまったのだが……。
「お盆だし、冥界のほとんどの者は現世に戻ってるわよね。お墓にも、線香とかお供え物とかがあるんでしょうね。
――でも、この娘はひとりぼっちでしょ」
「だから、この方を知る誰かが?」
「うん。そうじゃないかな……って」
冥界に存在する者は、そのほとんどが霊体なのだが、ここに眠るのは亡骸。いわば実体である。
ならば西行妖は巨大な墓標とでも言えるのだろう。ならば、ここにいた『誰か』は墓参りをしに来たのだろうか。
「もしそうなら……声を荒げるのは、失礼でしたね」
「そう、ね。お話でも聞ければ、ここで眠っている誰かのことも解るかもしれなかったし」
――静かに風が流れていく。
妖夢はそこでようやく自らの汗に気付き、手拭いで汗を拭いた。
一瞬、幽々子が切なげな表情を浮かべたが、妖夢が汗を拭き終わる頃には、彼女は無邪気に笑っていた。
「妖夢、替えの手拭いを持って来た方がいいわよ。もうぐっしょりじゃない。
――そのついでに、線香を持って来てちょうだい」
「は、はい?」
「私達も、この娘のお墓参りをしましょう」
妖夢が走り去り、幽々子はほんの少しの間だけ一人になる。
従者が戻って来るまでの間、彼女は手を合わせ、その誰かのために祈った。
――顔も知らない誰か。かろうじて解るのは、文献にあった『富士見の娘』ということだけ。
とても遠いようで、ずっと昔からここに眠っている誰かは、幽々子にとっては近しい存在。
何せ、妖夢が庭師を継ぐ前……いや、もっとずっと昔から、この白玉楼にいるのだから。
そんな誰かのために、幽々子は祈る。
せめて心安らかに眠り、幸せな夢を見てほしい――と。
「お帰りなさいませ、紫様」
「ただいまぁ~……やっぱり昼間は暑くて仕方ないわね。日傘を持って行って正解だったわ」
すっかり日も傾いた夕暮れ時、暑さにやられた主を出迎える藍は、丁寧にも濡らした手拭いを用意していた。
普段は昼に寝て、夜に活動する紫のこと。
珍しくも昼夜逆転し、日中に出掛けると言い出した時には、既にこうなるだろうと藍は踏んでいた。
その意図までは聞いていないが、毎年この時期にこうして出掛ける紫を見ていれば、その目的は概ね理解出来る。
「――失礼します」
肌に張りついた金色の髪をかきあげて、汗を拭っていく。顔色も目の色も、いつもの彼女より赤かった。
「暑い、1日でしたね」
「ええ。ええ――本当に、暑い日だったわ」
それだけで、お互いに十分だった。
藍はただ黙して紫の汗を拭き続け、紫はただそれに身を任せるだけ。
しばらくの間、紫の汗は引きそうになかった。
いやゆかり様ではだめだった訳じゃなく