――それは、彼女の宝物。
下手な字ではあるものの、絵や図を交えて書かれた内容は、彼女に己の道を決めさせるのには十分だった。
それは、ある一人の少女の物語と、そこに登場する魔法の数々。
絵本と魔導書をくっつけたような奇妙な構成のその本は、母からの大切な贈り物。
「……ふふ」
懐かしさで、思わず笑みがこぼれてしまう。この場に彼女の友人がいれば、ここぞとばかりにからかわれてしまうだろう。
それでも、懐かしいものは懐かしいし、宝物には変わりない。
それは、大好きな母の創造の足取りであり、枕元でよく聞かせてもらった昔話。
幼き日の思い出と『究極』と謳われた魔法を秘めた、大切な一冊。
――彼女は気付いていなかった。
世界を創造する物語を記した本に、創造の魔法のみならず、何故強大な破壊の魔法まで記されているのか。
語り手が全てを語るとは限らない。例え人ではなくとも、隠したいことのひとつやふたつ、必ずあるものだ。
その物語を知る者は既に当事者のみであり、彼女らが語らなければ誰も知ることはないだろう。
これはそんな、隠されたお話。
――人間を創った神様は、それからも多くの生命を創り続けました。
ですが、多くなり過ぎたいくつもの生命は、次第に競い争うようになり、豊かな大地は繰り返し戦火に焼かれました。
生命のたくましさが満ちあふれた草原は荒野と化し、不毛の土地へと成り果ててしまいました。
神様はその様子を目にし、酷く心を痛めました。
――神様は確固たる決意を胸に、創造の力を振るいました。
その小さな手に、光が集まります。
そこに吸い込まれていくのは、日が出る直前の空の色。世界を覆う植物の元になった、彼女の髪の毛です。
涙の雨にも負けず、悲しみを運ぶ風にも負けない力強さを持ち、
どんな時でも厳しい自然の中を生き抜くたくましさを備えた植物の原形。
それらをひとつに束ね、神様は一振りの剣を創り出しました。
その輝きは、例え限りある時間でも雷のように煌めく、生命の光です。
光を放つ剣を手に、神様は最初の人間に手を振りました。
「――行ってくるね」
すくすく育ち、今では神様よりもちょっと背が高くなったその人間は、そんな神様に深々と頭を下げて見送りました。
――長い、長い時間が流れました。
神様は多くの強き生命と戦いました。
時には小柄な身体に似合わない剣を振るい、時にはその強大な魔力を行使して、
何千も、何万も、数えきれない戦いを繰り広げて来ました。
神様が放つ光は天を駆ける雷となり、振るわれる剣からは嵐が巻き起こりました。
世界を創る前と比べれば大分小さくなってしまったとはいえ、神様の持つ力は未だに強大です。
その世界で神様に適う者は誰もいませんでした。
相手を打ち倒す度に、神様は泣いていました。
「ひぐっ……みんな……仲良くしなきゃダメでしょっ!」
倒した相手には、もれなく神様のお説教が聞かされます。
小さな身体でボロボロと涙をこぼし、それでも懸命に、魂の底から平和と調和を訴える神様。
彼女はずっとずっと、そうやって地道に世界全体の争いを収めていきました。
それは、賢い方法ではなかったのかもしれません。
こうして自らが創り出した者達と、戦わなくても済む方法はもっとあったのかもしれません。
それでも神様は戦い続けました。不器用な方法かもしれませんが、じっとしていることなど神様には出来なかったのです。
自らが創った世界に争いがなくなる日を目指して、ただひたすらに敵を打ち倒し、説得する日々が続きました。
――長い、長い時間が流れました。
世界から争いは少なくなり、一歩ずつではありましたが、神様が目指した世界の姿に近づいていきました。
戦いの日々を経てぼろぼろになった神様は、荒野をただ一人歩き続けます。
重そうに引きずる剣は少しずつ大地に削られ、彼女の足跡にひとすじの道を刻んでいました。
剣からは生命の光がこぼれ落ち、そこからいくつもの草木が生まれました。
神様が剣を手にしてから、彼女が帰る場所すらも忘れてしまうくらい、長い時間が経っていました。
自らが創った世界で迷子になってしまうほどに、神様は身も心もぼろぼろでした。
――どのくらいの時間そうしていたのか、神様には解りませんでした。
もしかしたら、そう時間はかからなかったのかもしれません。
それともとても長い間、荒野をさまよっていたのかもしれません。
気が付いた時には、目の前に湖がありました。
それは生命の出発点、嬉し涙から生まれた湖です。神様が見間違えるはずはありませんでした。
その湖のほとりに立つのは、もう神様と並んでしまえば歴然とした差を感じさせるほどに成長した娘の姿。
深々と頭を下げる、昔と変わらないその仕草に、神様は胸が熱くなりました。
「お帰りなさいませ――神綺様」
「……あの、私の顔に何か付いてますか?」
「う、ううん。何でもないの。ただ……えっと、今日の晩御飯は何かなーって」
玄関先でまじまじと娘の顔を見ていた神綺は、その問い掛けに慌てて首を振り、咄嗟に創った理由を付け加えた。
その不自然さに気付かないのか、それとも敢えて気付かないふりをしているのかは定かではないが、
メイド姿の娘――夢子は神綺に笑いかけた。
「幻想郷の魔法使いさんからキノコをお裾分けして頂きましたので、串焼きにしてみました。もうみんな待ってますよ」
「そ、そうだったの? ごめんね、もう少し早く帰って来れればよかったんだけど……」
「いいえ。神綺様が頑張っているのは、みんな知っていますから」
神綺の仕事は神の仕事。魔界と呼ばれるこの世界にとって、なくてはならない重要な仕事。
それを理解しているからこそ、彼女の娘たちは待っていたのだろう。今は全員ではないとはいえ、家族一緒の団欒を。
「あ、その前にちゃんと手を洗って来て下さいね」
夢子が付け加えた言葉に、神綺は笑顔を浮かべざるをえなかった。
これではどちらが母か解ったものではない。体格ならば一目瞭然だが。
「ふふ。すぐに行って来るから、みんなと先に待っててね。あ、そうだ……」
「どうかしましたか?」
夢子と別れて洗面所へ向おうとした神綺は、数歩離れた所でくるりと振り返った。
「――ただいま、夢子ちゃん」
最初に創った人間、夢の名を持つ娘との再開を果たした神様は、大いに泣き、ぐっすりと眠りました。
世界が創られたのは、神様が寂しさを嫌ったから。
戦いの最中、神様はずっとひとりぼっちだったから、ここまでぼろぼろになってしまったのでしょう。
娘に見守られ、安心して休んだ神様は、翌日にはすっかり元気になっていました。
翌日、神様は争いを起こさないために、多くの法を決め、娘と一緒に世界に広めることにしました。
度重なる戦に、多くの者は疲れ果てていました。皆の荒んだ心に、神様の教えは水が染み込むように吸い込まれていきます。
それから長い長い時間を経て、世界には争いを防ぐための法が敷かれました。
その最中でも、神様の手にはあの剣が握られていました。
しかしそれは、決して振るわれることはありませんでした。
戦火に焼かれ、荒廃した大地に実りを取り戻させるために、神様は行く先々で剣を削りました。
戦いを収めるための剣は、平和になってしまえば戦いを生むものになるからです。
世界を巡り、全ての大地に元の姿に戻した神様とその娘は、湖のほとりに帰って来ました。
その頃には、神様が持っていた生命の剣は、とても小さくなってしまっていました。
世界中の植物を蘇らせることに使ったことを考えると、まだ残っていることの方が不思議なくらいです。
神様は、それを娘へのプレゼントにしました。
力もほとんど残っていない、元の姿からすれば欠片のような短剣でしたが、娘にとってはそれで十分でした。
神様の力はとても大きすぎて、人の身である娘には、これでもまだちょっと大きいくらいです。
その短剣を授かった娘は、神様に創られてからずっと、多くの妹が出来てからも、神様の家を守っています。
「夢子ちゃん、おかわりあるかな?」
「ええ、お待ちください」
それは、記録に残されなかった歴史。神様が悲しみ、怒り、そして泣いた、戦いの歴史。
――かつて、世界には多くの悲しい争いがありました。
しかし、その争いをも越える災害がその身に降りかかった時、全ての者は争いを止め、手を取り合うことを学びました。
こうして、世界は平和と調和を取り戻しました。
それは物語の終わり。盛り上がりに欠ける結末ではあるが、全ての物語に山場があるわけではない。
久々に全てのページを読み終えたアリスは、満足げに本を閉じた。