失礼します。
ノブを引くと扉はわずかに抵抗して見せ、いかにも面倒そうに開く。エントロピー増大の法則にしたがってドアの隙間からひやりとした空気が吐き出され、咲夜の首筋から鎖骨にかけてを撫で回す。一瞬の快感。カートを押して図書館の中に足を踏み入れると、先刻のつめたい空気が埃の臭いをともなって鈍重にのしかかる。球体の魔法照明が所々前衛オブジェのように釣り下がっているが、靄がかかったみたように頼りなく、ひっそりとした闇がとぐろを巻いている。図書館に棲みつく小悪魔と目が合い、小悪魔はケケと笑ってどこかしらへ飛んでゆく。咲夜は歩を進める。床一面を覆う絨毯は毛先がぱりぱりに乾燥して、踏むたびに砂を噛むような音がする。咲夜は左手で懐中時計をもてあそぶ。カートの車輪がすすり泣いて止まる。金で縁取った陶製のトレイに、ポットとカップ、それにマカロンの盛られたバスケットをひとつ載せて持つ。カートを置き去りにして、螺旋階段に足をかける。どの方角を向こうと、本棚が目に入らぬことはない。横だけでは飽き足らず、縦にもその身を伸ばした本棚、本棚……神も照覧ずバベルの高みから、冥王の闇うごめく地の底……螺旋階段を降りきると、四角く切り取られた空間の真ん中に真白のシルクのクロスがかかった円卓が居座っている。鈴蘭に似た、手元を照らすための照明の他には、あちこちに本が堆く積み上げられるのみ。椅子のひとつに人影を認め、咲夜は本の塔をかき分け砂の感触の絨毯を踏みしめる。
パチュリィ様、お茶をお持ち致しました。
声は木霊することなく、本棚の片隅の闇の奥へと染み入って、消える。本の林の中にその小さな躯を収めているのは、而してこの図書館の主ではなく、咲夜は、ア、と喉を鳴らす。深海のような静寂の片隅にひっそりと、一匹の鼠が寝息を立てている。トレードマークのとんがり帽子は、側の本の塔の天辺に置いてある。マホガニーの椅子に小さなお尻を乗せ、上半身を円卓の白シルクの上に横たえている。右腕に頬を乗せて枕にし、左腕は卓上に開かれた本の上に伸び、掌は赤子がそうするように柔く握られている。蜂蜜色の二の腕が闇にも映える。
マア、なんと云うことかしら。太平楽の鼠もいたものだわ。このおそろしき紅の館に忍び込んでおきながら、尻尾も隠さず堂々としたもの。ここにはとびっきりの猫イラズもあるというのに! 見よ、この安けきかんばせを。悪魔の膝元で悪夢を見ないなんて、どれだけ図々しいのか知れたものか。鼠は鼠らしく、悪魔に見つかる前に尻尾を巻いて逃げればいいものを。ああ、パチュリィ様はこのことはご存知なのかしら。パチュリィ様、寡黙なる知の権化、貴方の知を食い破る不届き者が、恐れを知らぬ無知蒙昧が、抜けた態をさらしておりますわよ。嗚呼、困ったものだわ。
魔理沙の頬に張り付く髪を、咲夜は掌で掬い取る。山吹色というよりは、すきとおった、天の川の星を思わせる金色。寝汗によるものか、湿り気を帯びる。顕わになった頬は熟れはじめた桃のように仄かに紅がさし、朝露に恥らうつぼみの唇がわずかに開き、乳白色の前歯が見える。柔く閉じたまぶたに、睫が薄く涙で潤んでいる。
咲夜は辺りを見廻す。二人の他には、影ひとつ身じろぎしない。魔法照明が瞬きするように点滅する。吐息のたびに、魔理沙の肩が小さく上下する。咲夜は再度、困ったものだわ、と呟く。円卓にトレイを置くと金色のティースプーンがソーサーに当たってチンと鳴る。魔理沙のうなじの髪を掬い上げると、折れて乱れた襟元をただす。首筋の、雛鳥の産毛が咲夜の指先をくすぐる。金色の髪を指で、絡まないよう、月の歩みほどの緩慢な仕草で、やさしく、梳る。胸元からハンカチーフを取り出すと、野苺のようにぷっくりとした唇の端にあてがい、涎の跡を拭い取る。魔理沙はけだるげな息を吐いて口の中で何かしら、言葉にならない言葉を呟く。咲夜はハンカチーフを仕舞うと、幽かに喉を鳴らす。困ったものだわ。
咲夜は、魔理沙のまぶたに接吻する。
ケケ、とどこかから笑い声がする。
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